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神様幻想曲

作者: 如月一月

夢と挫折と祈りのお話

――夢を見ていた。


白い雪が降っている。いや、厳密には雪ではない。雪のような、なにかでしかない。それがしとしとと降り積もる。その中に、私はいる。降り積もるそれに埋もれながら。溺れそうになりながら。けれど、私の身体は動かない。

そんな夢を、見ていた。



新学期から新しくはじめたバイト先の『ブルー・マウンテン』というジャズ・クラブ。大学の講義がないから、といれた平日の昼間のシフトだったが、受付に向かえば既に入口の外には列が出来ていた。

「今日はやけに多いですね。なにかあるんですか?」

「ん? ああ、お前は初めてか」

当たり前のように対応している先輩に問いかけてみれば、そんな返事が返ってきた。

「今日のピアニストが目当ての客だよ。日本人だが、どうも、少し前にヨーロッパだと有名だったらしい。それを、店長が月に何回か呼んでるんだ」

そんな理由があったのか。しかし、どんな人なのだろうか。

ここでは、どちらかというと年配の演奏者が多い。いや、音楽家なんてそんなもの、といえばそうなのかもしれないが。少し前に有名だった、というなら多分にもれず、それなりに歳をとった人が来るのだろう、そう思っていたのだが。

「ああ、来たね。待っていたよ」

「はい、よろしくお願いします」

裏に戻って、別の仕事に移ろうとした、その時だった。店長と、若い女性の声が聞こえたのは。

落ち着いた感じの、質素な衣装を着た女性。ひとつに纏めた髪が、どうにも綺麗で、穏やかに聞こえた声が、なんともよくて。目線があい、にこりと微笑みを浮かべた顔が美しくて。

つまるところ、俺はひとめぼれした。


菱木凛、というのがその人の名前だった。


フランスの地域圏立音楽院、という所に留学し、卒業したらしい。卒業後はフランスの楽団に入り、ヨーロッパを中心に活動したらしく、出自と経歴の関係もあって、あちらでは一時期の間、ちょっとした有名人だったらしい。そして日本でも話題になり始めた頃に、彼女はその楽団を辞め、帰国した。

そして、そのまま音楽の世界で、彼女が話題にあがることは殆どなくなった。

かつての有名人というのは本当らしく、少し音楽関係の雑誌のバックナンバーで調べてみたら、すぐにこれだけのことが分かった。

「よく、そんな人が出てくれましたね」

次の出演の時に、店長に聞いてみたら、たまたま駅近くの喫茶店で見かけたのだという。もしやと思い声をかけたら、本人で、そのまま勢いに任せて、だめもとで出演を依頼したら、快諾してくれたのだという。

「運がよかったのさ。それにしても、君、音楽に興味あったのかい? それならそう言ってくれればよかったのに」

「……ええ、まあ」

ひとめぼれで、とは言えず、曖昧な笑みを浮かべながら答える。……ひょっとして、ストーカーと思われないだろうか? そんな不安を抱えながら、曖昧な表情を続けていると、店長は「そうだ」と声をあげた。

「なら、福原君。来週の土曜、夜は暇かな?」

ええ、まあ。そんな答えを返すと、店長はひとつ頷き、なにかのメモを書いて渡してきたのだった。

「彼女が別の店で演奏するらしくてね。優待予約をしてくれたんだが、生憎、急な法事が入って行けなくなったんだ。だから、興味があるなら、行ってみるといい」

そんな言葉に、俺はすぐさま返事を返していた。


土曜、夜。午後十時。電車で約一時間かけて、店長が渡してくれたメモに書かれた店にたどり着く。そこは地下のライブホールだった。意識を高めて、店に入る。

「菱木さんの優待予約で……」

「ああ、分かりました。でしたら、入場料は無料になります。ですが、ワンドリンク制ですので、ソフトドリンクかアルコールを注文していただきます」

あ、やっぱりと思いながら先に注文してしまう。入場料無料とはいえ、結局金は取るんだよなあと思いながら。

中に入ると、客の数はまばらだった。うちの店に来ていた客のほうがはるかに多かった。けれどやはり。客の数を考えたら外国人の数が目立った。

そんなことを思いながら、注文したドリンクに口をつけた瞬間だった。それまであった照明が一気に消える。

グランドピアノが一台置かれただけのステージ。そこに菱木さんが現れた。一言だけ客に挨拶をすると、椅子に座る。

そこからは、細かいことは覚えていない。圧倒されていた、気がする。たった二十分あまりの、彼女の演奏を聴きながら、そときにどんなことを考えていたのか。自分の感覚も信用できない、そんな気分だけが残った。ただ、ひとつのことだけは分かった。

俺は、彼女の演奏のファンになった、ということだ。


菱木さんのステージが終わり、客が入れ替わっていく。若い高校生のような客が次々に入ってくる中を避けながら、店を出ようとした、その時だった。

「あ、お客様。よろしいですか?」

「……はい?」

受付に声をかけられ、立ち止まる。

「菱木さんが、呼んでいます。会われるなら控え室まで案内しますが、どういたしますか?」

先程の演奏の衝撃を引きずったまま、俺は夢見心地で「行きます」と返事していた。


「はじめまして、菱木凛です。福原さんですね?」

「あ、はい。福原公也です。……どうして、名前を」

知っているのか、と聞こうとしたら、菱木さんの静かな笑い声が聞こえた。

「ああ、すまないね。青山さんから聞きました。『自分の代わりに、興味のあるらしいバイトが行くから』と」

店長がそんなことを。いや、俺がここに来る経緯を考えると当然かもしれないけど。

「さて、今回呼んだのは理由があって」

「な、なんでしょう?」

思わず身構える。憧れの人との初対面の場で、何を言われるのか、全く見当をつけられなかった。菱木さんは「まあ、楽にして」と苦笑いを浮かべながら、前置きをしてくれたが、そんな風には、とてもじゃないけどいかなかった。

「……今日の演奏、君はどう思ったかな」

「え? いや、その……」

頭の中から湯気が出そうだった。そりゃそうだ、この人は音楽家なんだから、質問するなら音楽関係に決まっている。それなのに、その発想が全くなかった自分の頭が恥ずかしい。

「俺、音楽はなにもしりませんよ?」

思わず自己弁護の言葉が出る。敬語も崩れていた。

「知っています。だから、聞いてみたいと思ったのです。……音楽に興味を持ったばかりの人が、どう思ったのかを」

目を合わせられる。緊張で口の中がカラカラに乾いた。苦い口内で、どうにか舌を動かして、声に出した。

「びっくりしました。バイト先だと、大体受付かキッチンだったんで、ちゃんと聞いたのは初めてだったんです。なんていうか、衝撃的でした。……すいません、正直、あんまり覚えてないです」

必死に言葉を出す。それだけのことがひどくつらい。自分の語彙があまりにも貧弱で悔しくなる。それでも、それでも、自分が思ったことだけは、すべて言おうと思って、投げたい気分を抑え込んで、もう一度、口を開く。

「……でも、なんていうか、こう、祈りみたいに思えました」

ああ、そうだ。確かに俺はそう思ったのだ。鍵盤の音が、メロディのすべてが、菱木さんの――

「――っ!? すいません! 意味分かんないですよね!」

頭を下げる。今度は別の理由で火を噴きそうだった。いったいなにを言っているのだ、俺は。

どうにか言い換えようとして、しどろもどろになる。そんな状況に、穏やかな声が耳に入ってきた。

「……ふふ。君は、おもしろい子だね」

笑い顔の菱木さんを見て、どうしてそうなったのかは分からなかったけど、それはどうでもよくなった。


その後、バイト先に菱木さんが出演するたびに、会話をするようになった。少しでも彼女との話題が欲しくて、音楽関係の本を読んでみたり、ついには下宿先近くのピアノ教室に通うようになった。友達と遊ぶ時間も金も一気に減ったが、菱木さんと話すことのほうが重要だった。

成程、恋は盲目とはよく言ったものだ、と自分のどこか冷静な部分が告げてくる。

まあ、なにか趣味のひとつぐらいあったほうが、就活に役立ったりするというし。そんな自己弁護を続けながら、いつしか

菱木さんと出会って、半年近くになっていた。



――また、この夢を見る。

白い何かが、空高くから降ってくる。空、という表現が正しいのかは分からない。けれど灰色に染まった空間は、私には空としか思えなかった。その中に、私はいる。

もう、立ち上がることの出来なくなった私がいる。降り積もるそれに倒され、息をすることしか出来なくなった私が。

地はそれに埋め尽くされ、私もそう遠くないうちに、埋もれてしまいそうだ。

そんな夢を見た。



その日は、たまたま古本屋によっていた。その中で、なんとなく音楽雑誌のあるコーナーを見ていた。……菱木さんと知り合ってから、そういうことが増えていた。

「……福原君?」

「あ、菱木さん」

ばったりと菱木さんと出会った。

「奇遇だね。なにか、探しに来たのかい?」

「いや、そういう、訳じゃないですが」

こ、困った。菱木さんが写っている雑誌があれば、なんて本当のことは言えない。

どうにか切り抜けようと考えていると、菱木さんは少しだけ考える素振りをみせ、「この後、少しだけ時間あるかな」と言い、俺は無条件で、頷いていた。

 

菱木さんとやって来たのは、さっきの古本屋近くの喫茶店だった。なにやら、コーヒーの種類がたくさん書かれている。品種なんて分からなかったから、菱木さんと同じものを注文した。……いよいよ、ストーカー扱いされてしまいそうだ。

菱木さんは、コーヒーが来ても手を付けず、なにか窓の外をぼうっと見ていた。

「……あの、菱木さん」

「ん? どうしたのかな」

沈黙に耐え切れず、思わず声をかけてしまう。反応が返ってきたのはよかったけれど、その後に言葉が続かない。

「えっと。菱木さんて、今、ピアノの先生をしているんですよね? どうして、ウチの店とかで演奏をやっているんですか」

聞いてから、思わず失礼なことを言った、と思った。

でも、前から疑問だったのだ。前に聞いた話だとバイトと大して変わらない収入ぐらいしか、ないらしい。それならば、他の場所なら、もっと違う収入が得られたのではないかと思ったのだ。

そうしてそれは、あまりにも理不尽ではないか、とも。

「……教えてあげられるから、かな」

菱木さんの答えは、なにか象徴的だった。

「私の代わりに、夢を叶えられる人。私には出来なかったことも、他の人なら答えられる、そう信じて」

菱木さんの夢。この人はそれを叶えられなかったのか。

「でも、菱木さんって有名な人なんですよね?」

調べた限りでは、そうだったはずだ。少なくとも、ヨーロッパでは、「天才少女ピアニスト」という扱いを受けていた、有名人だったはずだ。

「著名な一発屋、としてだけどね」

「そんな。今だって、雑誌に取り上げられているって……」

さっきの古本屋で買った、月刊誌。少しだけ幼く見える菱木さんが表紙を飾っていた、それを思い出す。

「ええ。でもね、落ち目のアイドルとか、そういうものと同じ扱い。もう、音楽を見てもらえない」

そう言って彼女は笑った。

「でも、これで良かったと思うよ。凡人にしては、名前も売れたから。そう思う」

穏やかな声だった。優しい表情だった。

「ジャズ・クラブでは、お客さんのすぐ近くで、そこにいるお客さんのためにピアノを叩ける。もう、どこかの誰かの、姿形の見えない世間の評判を気にしなくてすむ」

穏やかな声なのに。優しい表情なのに。

「そう思うのは、嘘じゃないんだよ。本当に」


――どうして、彼女が、泣き叫ぶように思えたのだろう。


菱木さんが楽団を辞めたのは、体調が原因だった。

元々体の弱かった彼女には、楽団に所属しての活動は負担が大きく、その激務に耐えきれなかったのだという。

「学費も生活費も楽器の維持も、結構な額だったよ。家族にも周りにも、迷惑をかけまくった。そこまでして、大失敗だ。笑ってくれるかい?」

普段の菱木さんからは考えられないような自虐的な口調。つい、反論したくなる。

「……それでも、なにか、得たられたものがあったんじゃないですか?」

得たもの、と菱木さんが繰り返す。

「……そうだね。あちらでは喫茶店のバイトをしていたよ。地方にある町で、アジア人の学生が穏当に学費を稼げそうな場所なんて、カフェか、バーぐらいだったからね。知っているかい? 最初、青山さんと知り合ったのはその伝手でなんだ。『キッチンを担当できるフランス帰りの子がいる』ってね」

いけない、と思った。

「青春時代をつぶして、それだけは得られたかな。高が知れているでしょう?」

これ以上は、そんな事を聞きたくないと思った。

そんな表情を、口調を、いつまで続けてほしくなかった。


「一瞬だけ、本当に一瞬だけ頂点を見たよ」

「……だけどね、そこは、本当なら出発点にしなくてはいけない所だった。けれど、私には、そこが終点だった」

「だから、どうやればもっとあの場所にいつづけられたか今も考える」

「知っているかい? 『Music』の語源」


世の中には、成功者と失敗者がいて。

菱木さんは、失敗者のほうだった。

それだけの話だった。

それだけの話なのに。

――どうして俺は、怒りを覚えたのだろう。


「でも、あれをただの幻覚だったと忘れたくはないから、もう一度、昇るためにあがこうとする」

「たとえ落ちぶれた一発屋と笑われようともね」

「……そんなものが、私の『祈り』という訳なんだ」


俺は今も『ブルー・マウンテン』へバイトで通い、菱木さんと時々言葉を交わし、大学の過程を進めていく。そして、いつも鞄の中にしまい込んだそれをいつ渡そうか、と悩み続けている。


いつか、菱木さんがいなくなってしまう前に、結論は出るだろうか。


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