98話
すぐにでも出発したかったが、その前に武装を整える必要がある。準備もせずに戦地に入ってまともに戦えるわけじゃない。(オルガさん以外は。)
俺達は10分間でそれぞれに支度をすることにした。
俺の支度は限られている。
いつも通り、トラペザリアのコートを着て、ジェットパックを背負う。バニエラの長銃を担ぐ。
アウレのお菓子とピュライの魔道具数点がポケットに入っていることを確認する。
そして、グラフィオの鞄に、転送装置と思しき、例の黒い箱の片割れを入れておく。
……恐らく、この箱のもう片方は、アレーネさんが持っているのだ。何かに使えるかもしれない。
「シンタロー、準備できたー?」
「ああ、今行く」
ドアの外から聞こえる泉の声に答えながら、最後に、糸巻き2つを持って部屋を出る。
……俺がソラリウムでアレーネさんから貰った、アラネウムの会員証となる糸巻きと、アレーネさんが『あげる』とだけ書き残して俺に送ってきた、マスターの糸巻き。
未だ、使うに慣れない魔道具を取り出しやすい位置にしまいながら、俺は中庭へと向かった。
そうして中庭に全員が揃った。
夜明けの気配がする空の下、ペタルが全員の顔を見回した。
「じゃあ、いくよ」
小さく微笑んで、ペタルは1つ呼吸を整え……すっかり聞き馴染んだ呪文を唱える。
「アノイクイポルタトコスモス、トオノマサス『ピュライ』!」
浮遊感も、もう慣れたものだ。
世界を移動する感覚も、今や珍しいものじゃない。
もう何度目になるのか分からない『世界渡り』も、しかし、今回は少しばかり、意味合いが違うように感じた。
ピュライの空気は、いつも通りだった。
これから滅ぶかもしれないなんて、全く思えない程に。
「うわー、すごいおっきい家……」
そして、目の前にそびえる屋敷。『アリスエリア家の屋敷』である。
「ここがアリスエリアの屋敷。……私の実家だよ」
この『ペタルの実家』には、一度、花火を仕掛けたことがあった。ピュライの『翼ある者の為の第一協会』を潰したことが、もう大分昔のことのように感じる。
「ここの地下に……あるんだよね、お兄様」
「ああ。……急ぐぞ。屋敷の老人共に見つかると厄介だ」
スフィク氏はそう答えて、屋敷の正門から堂々と中に入っていった。
実家に帰ってきただけなのだから、本来なら、別におかしなことなど無いはずなのだが……ペタルはどこか緊張しているようだった。ペタルの方は境遇や今までの状況を考えれば無理も無い。
『実家』であるはずの場所で居心地悪そうにしている少女の姿を見ると、どうにも、やるせない気持ちになる。
「……眞太郎?」
「いや、なんでもない」
俺の視線に気づいたらしいペタルが、俺を見て不思議そうな顔をする。
俺は曖昧に笑って誤魔化す。下手な同情なんて、ペタルにはいらないだろう。
静まり返った屋敷の中を、ひたすら歩く。
「……なー、ペタルちゃーん。お家が広すぎるってのは、不便なんじゃーない?」
「うん、まあ……あんまり便利じゃない、かな……?」
リディアさんの言葉に気が抜けるが、確かに、その通りか。
「すっごく、広いんだね……ぼく、こんなところに住んだら道に迷いそう」
「……え?ここ、家、です……か?ダンジョンじゃない、です……か……?」
家としては、余りにも広すぎる。
こんなに広くてどうするんだ。何に使うんだ。室内で散歩をする為なのか。俺には皆目見当もつかない。
「物を隠すなら、広い方が向いている」
そんな俺達に、スフィク氏が振り返らずにそう言った。
「アリスエリアは運命を見る一族だ。当然、見た運命によっては『隠さなくてはいけないもの』も生まれてくる。血塗られた歴史も、隠された幸運の欠片も、全てがこの屋敷の中で眠っている」
そこでスフィク氏は振り返り、皮肉気な笑みを浮かべた。
「いわば、この屋敷は墓所だ」
墓所。
……静まり返った屋敷の中の空気は、確かに、墓場に雰囲気が近いかもしれない。
静かで、厳かで、重いものを抱えた場所。この場所で、ペタルは育ったのか。
「そうだね。生きてる人よりも、死んだ人達の為のお屋敷、だよね」
そう言ってペタルは苦笑いし、それから、ふと、表情を変えた。
「……生きてる人の為のお屋敷になるといいな」
祈るようにそう呟くと、それきりペタルは喋らなかった。
延々と、静まり返った屋敷の中を進み、時々、人の気配を避けて遠回りをし、そして時々、物陰に隠れながら俺達は進んだ。
そして、階段を幾つ降りた頃か。
「着いたぞ」
スフィク氏が示す先には、鍵が掛けられた鉄柵があった。
そして、その向こうに見えるのは、門。
「『世界の狭間』へと繋がる門だ」
スフィク氏が鍵を差し込み、回す。
すると、魔法仕掛けらしい鉄柵は、勝手に重い音を立てながら動いて、道を開いた。
ギ、と錆びついたような重い音が響く中、俺達は門へと近づいていく。
門は異様な雰囲気を放っていた。
静かで、重くて……墓場よりもずっと濃く、死の気配がする。
「これが何のためにある物か分かるか?」
「『どの世界でもない場所』へ行くための門じゃないのー?」
スフィク氏は泉の言葉を鼻で笑って、門の柱を軽く叩いた。
カツン、と、予想外に軽い音が響くが、それと同時に、より、空気が重くなったように感じた。
「『世界渡り』の技術は、初代アリスエリアが作ったものだという。それが古代の魔道具となって、アリスエリア家に伝わっていた。……だが、アレはあくまでも副産物だ。アリスエリアが最も欲していたのは『運命の掃きだめ』だった」
スフィク氏は何かを呟きながら、もう一度、門の柱を叩いた。
……再び、カツン、と軽い音が響く。スフィク氏は舌打ちして振り返った。
「ペタル、開け。……これは私を当主だと認める気が無いらしい」
ペタルは黙って進み出て、門の前に立つ。
「パラカロアノイクテ、トオノマサス『ピュライ』」
すると、門の中に『無』が広がった。
そうとしか形容できない。
何かがある気配と、『死の気配』。『虚無の気配』。重くて静かな空気が、室内を鎮圧する。
「……本当に、お墓、みたい……」
「そうとも」
震えるイゼルの言葉に、スフィク氏は嗤った。
「運命を見る一族には敵も多かった。……この世界をよりよく保つために我らアリスエリアが必要ならば、この世界で最も優先すべきはアリスエリア。運命に……アリスエリアに抗おうとした者達は、消されてこの門の向こうへ放り捨てられたのだ。何しろ、『世界の狭間』など、誰の目にも留まらない。……掃き溜めの中身がどうなっているかなど、掃き溜めの所有者すら、知らぬのだからな」
そう聞いてしまうと、この先へ進むのが躊躇われる。
だが、俺の手の中の糸巻きの糸は、この門の向こうへと続いている。
弱く、しかし確かに、糸は繋がっているのだ。
「行こう」
だから俺達は足を踏み出す。
門の向こう、『世界の狭間』へ。
そこは何も無い場所だった。
暗いのか明るいのかも、よく分からない。
「げー、上も下もわからーん」
「へ、変なところ……」
「誰もダウンしないのが救いだねー」
とにかく、何も無いのだ。
上も下も無い。先も後も無い。光も無い。影も無い。
ただ、唯一、確実にあるのは、静寂。
「静かだな。……ここにアレーネが居るのか?」
「……熱源反応は確認できませんが、この環境では観測できなくても仕方ありませんね」
ニーナさんも、何も分からないらしい。
「……進むぞ。もたもたしている暇があるのか?」
何も分からないが、仕方ない。
スフィク氏に促されて、俺達は……。
「……進んでるのかなー、これ」
「歩いても、歩いてる気がしない、です……」
「周りの風景が全く変わらない上に、上も下も何も無いからなあ……」
……早速、詰みかけだった。
周りには何も無い。
空も無ければ地面も無い。
歩くにも、蹴る地面が無いのだ。歩けているのか、進めているのかすら、よく分からない。
せめて何か、目印があれば。或いは、掴めるものとか、踏めるものとかがあれば、移動できるかもしれないが。
……例えば、『糸を手繰る』とか。
「ねーねー、シンタロー、こういう話、ディアモニスにあったよねー?蜘蛛の糸、だっけ?」
「ああ、芥川龍之介の。よく覚えてるな……」
「ディアモニスの大学の授業、面白かったもん!」
「い、泉、あんまりはしゃぐな……糸が切れそうだ!お前は軽いからいいだろうが、私はサイボーグなんだぞ!?今、糸を掴んでも糸が切れていないことが奇跡的なんだぞ!?」
「蜘蛛の糸は正しい行いをしてる人が掴んでるなら切れないんだよー」
「オルガ様、この糸は物理的な要素と非物理的な要素、そして魔術的な要素が組み合わさって構成されたものです。物理的に切れることは無いかと」
……俺達は、糸を手繰って進んでいた。
泉の言う通り、芥川龍之介のアレのような状態である。いや、どっちが上かも分からない上に、行き先が極楽浄土だとも思えないが……。
「うん、目印があるって、いいね。……人は目印があれば、何も無いようなところでだって、進んでいけるんだ」
「まー、アレーネちゃんの目印だもんね」
だが、この糸を垂らしているのは釈迦ではない。
俺達のリーダーである、アレーネさんが……恐らく、意図せずして垂らしたものだ。
ならば、多少、行儀が悪かろうが、切れることは無いだろう。俺達が手を離さない限り。
「……何か、見えてきた、です」
そして俺達が進む先、糸の繋がる先に……ようやく、『無』以外の何かが、見えてきたのだった。




