95話
その夜、俺は必死になって糸巻きの謎を解こうとしていた。
……決して順調ではないが、一応、解明は進んではいる。
アラネウムのメンバーに渡されている、あの透明な糸を巻き付けた平たい糸巻き。あれに繋がる糸を手繰り寄せられるようにはなった。
始めは俺が持っている糸巻きへアクセスできるようになった。
続いて、ペタル、オルガさん、泉……と、アクセスできる糸巻きは増えていく。
結局、イゼルもニーナさんもリディアさんも紫穂も、糸巻きを持っているメンバーなら誰でも、どこに居るのかが分かるようになった。
こうしてアラネウムのメンバーの位置が不思議な感覚で分かるようになった、のだが……やはりと言うべきか、アレーネさんに繋がる糸はどこにも無かった。
……元々アレーネさんが糸を持っていなかったのか、それとも、糸を切り離してしまったのかは分からない。
だがこれではっきりしたのは、『アレーネさんは俺達に助けを求めていない』ということ。
この糸巻きを俺に渡した意図の中に、アレーネさん自身に関わることは入っていないであろう、ということだ。
「……ああ、くそ」
見れば、時計の針はもう12時を回っている。
時間が無い。もし……もし、だが、アレーネさんが……そう、例えば、『死ぬつもり』なのだとしたら、もう、時間が無い。もしかしたら、もう既に……間に合わないのかもしれない。
そういう、焦燥感だけはあるのだ。
だが、結果が焦燥感に追いつかない。
試行錯誤が空回りしているような気がして仕方がない。
……考えたくないのに、悪い想像ばかりが頭をよぎる。そうして集中力は失われて、疲労ばかりが溜まって……。
こんこん、こん、と、ごくごく控えめなノックの音が響いた。
ノックの音が響いたきり、とくに声が掛からないのは、俺が眠っている可能性を考慮してのことだろう。
……ということは、きっとペタルだろう。
泉やリディアさんなら、遠慮なく入ってくるだろう。オルガさんならもっとノックの音が大きい。イゼルは小声で声を掛けてくるだろうし、紫穂はそもそも夜分に人の部屋に来ないだろう。ニーナさんは……多分、謎の技術でドア越しにでも俺の状態を把握してくるだろうから、俺が起きていると分かればそういう対応をするはずだ。
「はい」
ドアを開けると、案の定、ペタルがそこに居た。
「こんな時間にごめんね、眞太郎。寝てた?」
「いや……」
なんとなく、机の上の糸巻きに目をやると、ペタルもそちらに視線をやって、俺が何をしていたかを知ったらしい。
「うん……そうだろうと思って、お茶、淹れてきたんだ。少し休憩にしない?」
ペタルはそう言って、手に持った盆を少し持ち上げてみせつつ、少し無理をしたような笑顔を浮かべた。
「ありがとう。助かるよ」
ペタルを部屋の中に招き入れると、ペタルは机の上に盆を置いて、お茶をカップに注いでくれた。
「はい。ハーブティーにしてみたんだ。……こんな夜に飲むべきじゃないのかもしれないけれど、頭がすっきりして、集中力が高まるような配合にしてみたんだ」
促されてカップの中身を口に含むと、爽やかな香りと微かな清涼感が広がった。
それと同時に、頭に掛かった靄が晴れて、気分も落ち着いてくる。
「……安眠のお茶と、迷ったんだけれど」
「いや、こっちがいい。ありがとう」
カップの中身を干すと、大分集中力が戻ってきた。これでまた、糸巻きの使い方を試せるだろう。早速、作業に戻ろうか。
「……あの、眞太郎」
だが、ペタルはそう言ってから黙り……一呼吸してから、続きを口にした。
「私、運命を見ても、いいのかな」
俺と向かい合う位置に座って、カップを手で包みながら、話し始めた。
「眞太郎目の前で、もし、蝶が蜘蛛の巣に引っかかっていたとしたら、どうする?」
唐突な質問に若干面食らいつつも、そういえば昼間、ペタルがスフィク氏にそんな話をしていたな、と、思い出す。
どういう意味かは分からないが、『未来を見る』ことに関する問題なのだろう。
……蝶が、蜘蛛の巣に引っかかっていたら。
「蜘蛛の巣を切る……かな」
そう答えると、ペタルは少し笑って頷いた。
「うん。それも一つの答えなんだと思う。……でも、私はそれができないんだ」
「できない?」
ペタルは小さく頷いて、少しばかり無理をしたような笑みを浮かべる。
「蝶を助けるっていうことは、蜘蛛を殺すことになりかねないから。……蝶という食べ物が無ければ蜘蛛は生きられないし、巣がなくなれば、蜘蛛はまた命を削って巣を張らなきゃいけない」
ペタルの言葉に、ふと、アレーネさんが言っていたことを思い出す。
具体的には、『アラネウムの原則』だ。
……アラネウムは、異世界で活動する時に、その異世界に俺達が及ぼす影響を考えなければならない。
俺達が誰かを助けることで苦しむ誰かが居るかもしれない。俺達が何かを動かせば、それによって思わぬ影響が起こるかもしれないのだ。
俺達がしていることは、『世界渡りの悪用』と紙一重。
……アレーネさんが言っていたことと、ペタルの『蝶と蜘蛛』の話は、よく似ている。
「運命を見るっていうことは、蜘蛛の巣に引っかかっている蝶に出会う事と似てる、かもしれない」
「運命が見える、って、ね……別に、たった1つの道筋が見える訳じゃないんだ。運命はいくつにも枝分かれしてて、どう動いたらどういう未来にたどり着くのかが、それぞれ違う。……アリスエリア家の仕事は、そういうたくさんの運命を見て、その中から『ピュライが選んだ運命』を見極めること」
「『ピュライが選ぶ』?」
世界が選ぶ、ということ、だろうか?
尋ね返すと、ペタルは頷いて肯定した。
「うん……具体的な事はうまく伝えられないけれど、『この運命を選ぶことでピュライにとってよりよい運命が開ける』っていう感覚があって……私達は、それを『世界が選んだ運命』って呼んでるんだ」
世界にとってよりよい運命、か。
……それ自体も漠然としているように思うが。
「勿論、何が良いことで何が悪いことなのかなんて、決められないと思う。けれど、私達、アリスエリアの血族は確かに、確固たる基準をもってして、今まで人々の運命を選んで、決めてきた。誰も疑問なんて持たなかったし、基準を疑いもしなかったし……運命の為に死ぬ人も、『仕方ないね』って、終わらせてた」
先程のペタルの言葉を借りるならば、『世界』という蝶が『個人』という蜘蛛の巣に引っかかる度に、蜘蛛の巣を壊していた、とでも言えるのだろう。
それがピュライの在り方なのだろうし、それの是非を問うつもりはない。
ない、が……。
「……ある人の運命を見たらね。幼馴染の女性と結婚して、子供は3人生まれて、幸せな家庭を築いて……最期は、皆に見守られて安らかに死ぬ、っていう運命があったんだ。あったかくて、幸せそうな未来だった」
ペタルの表情は柔らかく、さぞ、その人の運命が幸せであたたかなものだったのだろう、と思われた。
だが、急に、ペタルの表情は色を失う。
「……でも、私は別の運命を選んだ。その人が結婚する前に、誰も居ない森の中で魔物に殺される運命を選んだ。その人は死体も食べられちゃって、骨の一かけらも帰って来なかった」
俺は何も言えなかった。
結局のところ、正しさなんて、簡単には決められない。
蝶が生き延びる未来は、蜘蛛にとっては死の未来なのかもしれない。
それを敢えて選ぶ、という事は……なんと惨いことだろう。
「私は世界の為に不運を辿る人を増やし続けられる程強くなかったし、私の力を使って私にとって都合の運命を選べる程強くもなかった。私は世界にも人にもなれない」
ペタルはきっと、色々な運命を見過ぎたのだろう。
だから、『世界』の視点と、その中で犠牲になる無数の『個人』の視点を同時に持ってしまっている。
ピュライをより良くするためだけに動くこともできず、かといって、全員を幸福にすることもできない。
相反し合う無数の視点が1人の中にあって、それ故にペタルは苦しんだ。……だからペタルは運命を見ることをやめたのだ。
それを弱さだとは、言えないだろう。
「ねえ、眞太郎。今回も、そうなるかもしれない」
ペタルの言葉は、酷く重い。
「誰かが不幸にならないと、誰かが幸せになれない。誰も不幸じゃない世界は、誰も幸せじゃない世界でしかない。世界は……少なくとも、ピュライはそうやってできてる。その不幸を掴む誰かは、アレーネさんかもしれないし、私かもしれないし……眞太郎かもしれない。それでも……いい?」
だが……この重さは、目の前の少女が今まで1人で抱えてきた重さだ。
この重さを見て見ぬふりするには……ペタルを、知りすぎている。
「その時はその時で、一緒に考えよう。それでも駄目なら、胸くらい貸すよ。それくらいしかできないけれど」
ペタルは俯いて、しかし、しっかりと1つ、頷いた。
それからペタルは集中し始める。
銀紫の瞳の奥に、無数の色、無数の文字、無数の光が流れていくのが微かに見えた。
凄まじい速度で流れていくそれは、生まれては消えていく数々の運命なのだろう。
ペタルはその間、微動だにせず、人形になってしまったかのようにじっとしている。
……なんとなく、運命を見るということは、人間らしさを失うということと同義のような気がした。
そして、だからこそペタルはピュライから逃げてきたのだ、とも。
随分経ったような、或いは、ほんの数秒だったような、奇妙な時間が流れて、ふと、銀紫の瞳の奥が静かになった。
「……眞太郎」
「うん」
そしてペタルは、静かに、言った。
「アレーネさんの部屋を探そう。ヒントがあるみたいだから」




