90話
「嘘っ!」
当然、そんな景色を見て、落ち着いていられるわけがない。
全員が唖然とし、或いは衝撃を受け、水晶玉の中に映る、アレーネさんの死体……全裸で血だまりに倒れて動かないアレーネさんの姿を見る。
青ざめた肌も、白い床に広がった血だまりも、切り刻まれてバラバラになった手足も……全てが、『死』を、確かに伝えていた。
「……嘘、だよ、ね……?やだ、やだよ、私、そんな、アレーネさんが……」
「や……やだ、やだよ、ぼく、こんなの……」
「落ち着け、落ち着くんだ、泉。イゼル。大丈夫だ、何かの間違いだ。アレーネが死ぬわけない。なあ、そうだろう?……そうだよ、な?」
カタカタと震えながら見開いた目に涙を湛える泉も、石になったように固まったきりのイゼルも、2人の肩を抱いて落ち着かせようとしているオルガさんも……落ち着いていない。落ち着いていられるわけがない。こんな、こんなものを見て。
「い、いやいやいやいや!これ、ドッキリ!きっとそう!ドッキリに決まってるって!だってアレーネちゃん、アレーネちゃん、が、まさか、こんな……な?無いって。こんなの、無いって!」
「……死の、気配、が、する、です……アレーネさんは……」
リディアさんは誰に言うでもなく明るい言葉を発し続け、紫穂は続きを言うことなく、黙って目を見開いたまま震えている。
そして、俺は。
「これ、『誰の』視界、なんだ……?」
『アレーネさんの視界に映るアレーネさんの死体』に、驚いていた。
「……あ、ああ、そう、か……。この景色がアレーネの視界だっていうなら、このアレーネの死体は偽物、ってこと、なの、か……」
力が抜けたのか、オルガさんがその場に座り込む。
「な、なー、フェイリンちゃん。この視界って、アレーネちゃんので合ってる?オッケー?」
「そ、それは分からないわよ。もしかしたら、アレーネさんによく似た誰かの視界なのかもしれないし、それは分からないわ」
だがあくまでまだ、『アレーネさんが死んだわけではない』という証明には至らない。
この水晶玉が、アレーネさんを殺した(考えたくないが)誰かの視界ならば、何ら問題なく理屈が通ってしまう。
しかし……しかし、俺は、この水晶玉はアレーネさんの視界を間借りしているものだと、信じたい。
どういう事になっているのかさっぱり分からないが、アレーネさんが、アレーネさんの偽物を殺した、とか、とにかく、そういう理由で、この水晶玉にはアレーネさんの死体が映っているのだと信じたい。
「……フェイリン様」
「え、ええ、何?」
ふと、ニーナさんが水晶玉を見つめながら、フェイリンに声を掛けた。
「こちらの画像を鮮明化できませんか?できれば、この血だまりの画像をより鮮明に。……もしかしたら、マスター・アレーネの姿が血だまりに映っている様子を確認できるかもしれません」
「ち、血だまりを?……ま、まあ、やってみてあげるわ」
フェイリンが何事か集中すると、水晶玉に映った景色は拡大されていく。
その景色を、ニーナさんが瞬き1つせず、表情1使えずに凝視する。
そんな時間が数分、続いただろうか。
ふと、ニーナさんの周りの空気が緩んだ。
「解析が終了しました。処理した画像をお見せしたいのですが、眞太郎様、スマートフォンをお借りしてもよろしいでしょうか?」
「え、ああ、どうぞ」
ニーナさんに俺のスマートフォンを手渡すと、ニーナさんは手首からコードのようなものを引っ張り出して、俺のスマートフォンに何やら接続し始めた。
「……ニーナちゃんてほんと訳分からん高性能よね」
「お褒めに与り光栄です、リディア様。……では。こちらが解析前の画像です」
ニーナさんが言うや否や、スマートフォンに血だまりのアップ写真が表示された。
紅い。ひたすら紅いのだが、反射する光の中に、シルエットが見える、気がする。
「そしてこの画像他、時系列ごとの複数の画像から、画像の空間内の光源の位置を三次元的に解析し、血だまりに映る反射光からシルエットの形を解析しました。解析したものがこちらです」
続いてスマートフォンには、シルエットが映し出される。
シルエットは確かに、女性の腰から下のようにも見えるが。
「この足下に当たる部分ですが、この突起はマスター・アレーネの靴の形状と一致します」
「えっ、アレーネさん、そんなに不思議な靴、履いてたっけー……?」
「マスター・アレーネは靴のヒールと接地部の間に軽量金属の刃物を仕込んでいらっしゃいますが」
「えっなんだそれっ、私も知らないぞそんなこと!?」
「その形状とこのシルエットが一致するほか、スカートの裾にあたる部分の遮光率が、マスター・アレーネが戦闘時に身に着けるドレスの布素材の遮光率と概ね一致します」
「ちょっと待ってなんでニーナさんそんなこと知ってるの?」
「更にスカートから透けるシルエットですが」
「……透けてる……?」
「はい、イゼル様。5.5%程度。……その中に見える脚の形状が、やはりマスター・アレーネのものと概ね一致します」
「……アレーネさんの脚、の、形状……です、か……?」
「太さと長さの一致の他、膨らみの形状や、脚が立体であることにより生まれる反射光の揺らぎが一致しております。……以上から、この視界の人物或いは、この視界の人物のすぐ近くにマスター・アレーネかマスター・アレーネを意図的に模倣した何者かが存在していると断定してよろしいかと」
……ニーナさんの言葉に、全員が、ぽかん、とするしかない。
「……ニーナちゃーん」
「いかがなさいましたか、リディア様」
「ほんと、ニーナちゃんて……訳分からん高性能よね……」
「お褒めに与り光栄です」
ニーナさんはどことなく、本当に微々たるレベルでの変化だが……誇らしげな顔であった。
さて。
ニーナさんのハイスペックぶりが分かったところで、俺達は第二の疑問にぶち当たってしまった。
「……つまり、このアレーネの死体は本当はアレーネじゃない、ってことか?」
「可能性としてはそうなんじゃない?私は確かに、呪術を正しく使ったわ。あなた達が正しくアレーネさんをイメージしたのなら、当然、アレーネさんか、それに近い性質を持った誰かの視界を借りた事になるもの」
まあ、そうか。
フェイリンの呪術の条件を考えると、『アレーネさんに性格や性質が非常に似ている人』の視界を間違って借りてしまう事はあり得るが、例えば、『アレーネさんの姿をしているだけの人形』のような存在の視界を間違って借りることは無さそうだ。
「うーん、死んでる方のアレーネさんが偽物って可能性が高い、ってことー?」
「まー、それでいーんでない?そのほうが私達の精神衛生上もよさげだし……」
「だが……だとしたら死んでるアレーネは一体何なんだ?何故、アレーネが2人も居る?」
「さあ……」
だが、それならそれで、やはり疑問は疑問である。
なぜ、アレーネさんが2人も居るのか。
「……多分、アレーネさんが私達に行き先を言わずに出ていったのって、こういう事をするから、だったんじゃないかな、って」
ふと、ペタルがそんなことを言う。
「あー……確かに。私達が一緒に居たらアレーネさん、自分の偽物をやっつけるの、大変そうだもんねー」
「マスター・アレーネ自身には問題が無くとも、私達がマスター・アレーネの偽物を本物と誤認することは十分ありえますね」
アレーネさんは何故、店を空けたのか。その理由が、水晶玉に映っている景色の為だったのなら、納得できる。
……アレーネさんは、自分と同じ姿をした何者かを俺達に殺させたくなかったんじゃないだろうか。
或いは、もっと別の理由があるのかもしれないが……。
「え、えっと、つまりアレーネさんは、無事……なんだよね?」
「まあ、多分……」
無事、なのかは微妙なところだ。
アレーネさんがアレーネさんの偽物と戦って、怪我をしていないとも限らないし。
「けど、どうせ私達が助けに行ける訳でもないもんねー……」
「知ってる場所ならまだしも、ね……建物の中みたいだし、割り出すのは難しそうだよね」
だが、どうせ俺達には待つことしかできそうにない。
あとはこまめにフェイリンの呪術でアレーネさんの居場所を見つつ、もし助けに行けそうなタイミングがあればその時考える、という程度、か。
「……でも、アレーネさんが無事みたいで、よかった、です……」
……状況が変わった訳ではない。
だが、俺達の心境は、大きく変わった。
少なくとも、待つという覚悟をもう一度持つことができたのだから。
そうしてその日はそのまま流れ解散して部屋に戻って布団に倒れ込み……翌朝からはまた、アラネウムの運営が始まった。
「いらっしゃいませ!」
……そして早速、フェイリンがウェイトレスとして仕事をしている。
本人に、「王女だったのに働くことに抵抗は無いのか」というような事を聞いてみたところ、「もう王女じゃないんだから働くのは当たり前でしょう?それに、ここで働くのもそんなに悪くないわ」と、あっさりした答えが返ってきた。
……フェイリンの価値観は案外、庶民的なところがある。
フェイリンの母親は村の出身だったらしいから、そういう教育をされていたのだろう。
……ということは、やはり、フェイリンの母親はホン王朝が当代で滅ぶことを予見していたのかもしれないな。
「はー、そろそろ休憩が欲しいー……」
「泉ちゃん、休憩していいよ。今はお客さんも少ないから」
そうして午後を回った頃、流石に昨日までの疲れが出ているらしく、泉がへばった。
「え、いいのー?……じゃあお言葉に甘える!」
泉は途端に元気になって、アラネウムの奥の方へと引っ込んでいった。
だが、泉はすぐ、戻ってきた。
「ねえ、シンタロー。あの黒い箱知らない?」
「ああ、ピュライの古代遺跡で拾ってきた奴か?」
どうやら泉は、休憩時間中に例の黒い箱の謎を解き明かそうとしていたらしい。本人も暇つぶし、駄目で元々のつもりなのだろうが。
「あれなら暇つぶしに借りて、俺の部屋に置きっぱなしにしてる。取ってくるよ」
「うん、よろしくー!えへへ、今日こそは謎を解いてやるんだからねー!」
わくわくとしている泉を待たせるのも可哀相だし、喫茶を空け続けるのも申し訳ないので、小走りに俺の部屋へと向かう。
……そして部屋に入ってすぐ、見覚えがあるが見慣れていない光景が広がった。
そういえば、『安眠グッズ』が大量に設置されたままだったな……。
自分の部屋ながら異様な光景に何とも言えない気分になりながら、机の上を見る。
ここに俺は、例の黒い箱を2つ、置いておいたのだ。
……だが。
「……1つ、無い……?」
そこにあった黒い箱は、『1つ』だけだった。
そして、その箱を開けた時、中に見慣れない1通の封筒が入っていたのだ。




