86話
フェイリンは意外と脚が速かった。ドレスの裾をもつれさせることもなく、城内を疾走する。
アウレのチョコレートを2人で食べてからは更に速くなった。
凄まじいスピードで城の中を走り、時には窓から屋根伝いに別の窓へと入り、部屋の中を走り抜け……兵士や革命軍と遭遇してしまった時は、俺が対応した。
つまり、オレンジ爆弾を顔面に炸裂させたり、紫穂のお札(凄まじい冷気が噴き出て、辺りに霧が立ち込めるという代物だった)で目くらましをしたり、バールのようなもの・オブザデッドで殴り倒したり、と。
……そうして、城内がすっかり喧騒に包まれて、怒号に悲鳴が混じり始めた頃。俺達はフェイリンの部屋へと戻ってきた。
「部屋に隠しておいたのよ」
フェイリンは部屋の箪笥へと近づいて、その中を探る。
カチリ、と音がして、何か仕掛けが動いたらしい気配が続くと、フェイリンは箪笥の中から美しい装飾の箱を取り出した。
箱は美しいが、とても古びている。さぞかし年月を重ねたものなのだろう、と思われた。
「お母様の形見なの。……お母様は村の巫女でね、とても綺麗な人だったわ。だからパパに城へ連れてこられてしまったのだけれど……その時にこれを村からこっそり持ってきたのよ。そして亡くなる前に、私に下さったの」
フェイリンは箱を机に置くと、目を閉じて深く呼吸した。
「……お母様は、これを私の為に使いなさい、って仰ったわ。民の為でもなく、当然、パパの為でもなく、ね。……もしかしたらお母様はこうなることも全部、分かってらっしゃったのかもね」
そして目を開くと、フェイリンは唇を笑みの形にした。
自棄的な笑顔ではない。
「悪しきホン王家の一員としてこの時代と一緒に死んでやるつもりでいたけれど、それはもうヤメよ。私は神話に残るくらいずっと、悪の王女としてこの世界共通の敵になるわ。……それで。それでも。……いいのよね、お母様?」
フェイリンが箱の蓋に手をかける。
カチリ、と、留め金が外れ、蓋が開くと……。
絹張の箱の内側には、確かに、何かが入っていた形跡があった。
しかし、そこには何も無かったのである。
フェイリンの表情が、凍り付いた。
「……嘘」
この箱が空っぽなのは、フェイリンの想定とは違ったらしい。
「なんで……なんで、無いの!?」
フェイリンは半狂乱になって箪笥の中を探すが、やはり見つからないらしい。
「フェイリン、ここには何が入っていたんだ?」
「龍の鱗よ!神たる龍の、助けを呼ぶための……!」
……龍の鱗。
そういうものを、イェンジュさんが、持っていた、よな?
「フェイリン、落ち着いてくれ。龍の鱗の所在なら心当たりがある」
俺が声を掛けると、フェイリンは箪笥を探っていた顔を上げた。迷子の子供のような表情だ。
「……本当?」
「ああ。だが、今すぐに取りに行くことはできない。とりあえず今は、脱出を第一に考えよう」
俺が言うと、フェイリンは多少、落ち着いたらしい。
頷いて、息を吸って、吐いて……それから顔を顰めた。
「でも、どうすればいいのかしら。龍を呼んで、背に乗せてもらって脱出するはずだったのに。そうすれば悪の王女は神の使いの背に乗ってどこかへ消えた、って、神話になりそうじゃない」
……革命軍によるものであろう喧騒は、もうすぐそこにまで迫ってきそうだ。
国王はもう死んだのだろうか。だとしたら、王族の生き残りであるフェイリンを探しに誰かが来るのも、時間の問題か。
ジェットパック他、空を飛ぶ道具は無い。
ここから地上へロープを伝ったりして降りたとしても、その先で絶対に革命軍の誰かに見つかるだろう。そこから逃げるのは難しい。
……なら。
俺はフェイリンの部屋のドアを開けた。
俺はとても困っている。他に解決する手段が無い。
だから、助けてくれ、と。そう、心の中で念じながら。
「……シンタロウ?」
「駄目だった……」
だが現実は非情である。アラネウムへのドアは開かなかった。
フェイリンの部屋のドアを開けた先には、廊下があるばかりである。
念のため、フェイリンにも開けてもらったが、やはり駄目だった。
何度か繰り返したが、駄目だった。
……何故だ。
アラネウムへのドアは、困っている人の前に開く。
つまり、困っている人の前のドアが、アラネウムへと通じてしまう、ということらしい、のだが。
……アラネウムのメンバーは使えない、ということは無いだろう。実際にペタル達は以前、使った事があるらしい。それはコジーナに来てすぐ、確認していたから間違いない。
だが、その後だ。
その後……リディアさんの腕輪があるから、ドアは使えない、と。
そんなことを、言っていなかったか。
……まさか、と思いつつ、俺は手袋に記憶させた『世界渡り』を発動させてみる。
駄目だった。
念のため、手袋の記憶をテレポートの魔道具で書き換えてからもう一度ドアを開けてみるが、やはり駄目だ。
……なら。
まだ、俺は詰んでいない、ということだろうか。
まだ、この窮地を脱する方法は、残されている、と。
ポケットを探れば、それはすぐに手に触れた。
絶対に使うつもりは無かったし、できれば使いたくないが。
覚悟を決めるしかないか。
「フェイリン。龍……じゃないが、それっぽいものならすぐ、用意できる」
俺は小さな瓶1つと、バニエラのバッテリーパックをありったけ取り出した。それから、今まで持っていた装備を全て鞄の中にしまう。
「し、シンタロウ?この鞄、明らかに変よね!?」
「ああ、幾らでも物が入る鞄なんだ。少し、預かっててほしい」
しげしげ、と物珍し気に鞄を眺めるフェイリンは少し放っておいて、俺はバッテリーパックを連結していく。
ありったけのバッテリーパックを『超安全ベルト~絶対転落しません~』になんとかとりつけたら準備完了だ。
それから、瓶……の中に入っている、深紅の粒を眺める。
ドラゴンタブレットだ。
……俺が使えるかどうか、とてつもなく不安な、ドラゴンタブレット、だ。
これについては、ざっとペタルから説明を受けた事があった。
ドラゴンに変身できる、ということ。
その時、装備品の類は考慮してもらえない、ということ。
魔力が切れると、暴走する、ということ。
そして、副作用で死ぬことすらある、ということだ。
……正直なところ、俺に使える代物ではない気がする。主に、魔力が切れると暴走する、そして副作用で死ぬ、というあたりで。
だが、バニエラのバッテリーパックがきちんと使えるならば、とりあえず、フェイリンを背に乗せて安全な場所まで飛ぶことはできるだろうし、そうでなくても、とりあえず、城の下まで運ぶことはできるだろう。
……変身できない、ということは無いはずだ。ありとあらゆる魔道具を使える俺なのだから。
「シンタロウ?どうしたの?……あら?その宝石は何?」
「ああ、これは……」
少し迷ったが、フェイリンには正しく、ドラゴンタブレットについて説明しておく事にした。
つまり、ドラゴンに変身できるが、魔力が無いと制御できない上、死ぬ可能性もある、と。
「だから、フェイリンにはこの鞄と、こっちのベルトを持っていてほしい。俺がドラゴンになったら、そのベルトを俺にひっかけるなりしてくれ。そうすれば多分、魔力不足にはならずに済むはずだから。……それから、俺がもし、途中で脱落したら、アラネウムのメンバーとなんとか連絡を取って……いや、その前にドアを」
「分かったわ」
俺が説明している途中で、フェイリンは大きく頷いた。
そして、俊敏な動きで俺の手からドラゴンタブレットを奪い取る。
「おい、フェイリン」
「大丈夫よ」
焦ったが、フェイリンは……自信ありげな、高慢そうな顔で笑った。
「変身の呪術なら、少し心得があるの。使えると思うわ。それに……私、失敗する気がしないもの」
俺が止める暇も無く、フェイリンはドラゴンタブレットを口に放り込んだ。
突風が吹き荒ぶ。
露台と部屋を区切る薄絹がバタバタと激しくなびき、びゅう、と、強く風鳴りが響く。
風が止んだ時そこに居たのは、ドラゴンではなかった。
漆黒の鱗と炎のような鬣と黄金色の瞳を持つ、龍、であった。
龍は黄金色の瞳で俺を睥睨したかと思うと、ふと、笑ったように見えた。
呆気に取られていると、突如、俺は龍の足で掴まれた。
「うわ」
咄嗟に鞄とバッテリーパックのベルトを掴むとほぼ同時に、俺の体が宙に浮く。
そのまま俺は龍に掴まれて、露台の外……城の外の空へと、飛びたったのだった。




