6話
……気が付くと、どこか見覚えのある路地裏にぶっ倒れていた。
腹が重くてぬくい、と思ったら、ぶっ倒れた俺に折り重なるようにしてペタルもぶっ倒れていた。
ペタルをあまり動かさないようにしながら動いてペタルの下から脱出すると、辺りを見回した。
どうやら、俺の家の近所の路地裏らしい。
「……戻ってこれた」
色々とよく分からないが、とりあえず俺は、元の世界に戻ってこられたらしかった。
ペタルを揺さぶったり、頬を軽く叩いたり、つまんで伸ばしたり(もっちりふんわりとして柔らかかった)してみたのだが、ペタルは起きる様子が無い。
仕方が無いので、ペタルを背負ってアラネウムまで戻ることにした。
……が、案の定、辛かった。
ペタルは小柄だしとても軽い方なので、人1人背負っていると思えば楽なのだが、如何せん荷物や何かとは違い、人間だ。
当然、あちこちにぶつけたり振り回したりするわけにはいかない。
そして、アラネウムまでの道程はいわずもがな、道とも言えないような道だ。
いくら小柄で軽くても、人間を背負って進むのは少しばかり無理がある。
……だが、なんとかかんとか、押したり引いたり引っ張ったり持ち上げたり引きずったりしながら、俺は再び、アラネウムの前に戻ってくることができたのだった。
「眞太郎君っ」
アラネウムに入るや否や、アレーネさんが血相を変えてやってきた。
「ああ……怪我は、なさそう、ね」
そして俺とペタルの様子を見て、長くため息を吐くと手近な椅子に座りこんだ。
「あなた達が『世界渡り』したのは分かったけれど……ペタルも無茶するわね。いけない子」
俺がペタルを手近なソファに下ろすと、アレーネさんはペタルの頬を触り、様子をみた。
「……あら?変ね……てっきり、魔力切れで寝ちゃったのだと思ったのだけれど」
「あ、ペタルは『ピュライ』で……その、なんかお兄さんと会っちゃって」
どう説明したものか、と考えながら話のとっかかりを口にすると、アレーネさんは真剣な顔をした。
「お兄さん?」
「ペタルがそう呼んでいました。お兄様、って」
アレーネさんはしばらく、その場で目を閉じて何かを考え込んでいたが……立ち上がって、優しい笑みを浮かべた。
「ペタルを助けてくれて、ありがとう、眞太郎君。お疲れ様。お話はゆっくり聞かせてもらうけれど、その前にご飯にしましょう?お腹、空いたでしょう?」
言われて初めて、空腹を感じた。
言われなければ気づかなかったかもしれないが……空腹に気づいてやっと、安堵で満たされるような思いでもあった。
それから少ししたらオルガさんが戻ってきて、一緒に夕飯、ということになった。
「シンタロー、大丈夫だったか?」
「大丈夫です。オルガさんは」
……一応、聞いてみたが、聞くまでも無いような気もする。
「ああ、見ての通り!まったくの無傷さ!あのあとすぐにシンタローを追いかけたんだが、会えずじまいだったな。あ、アラネウム近くに居た連中はまとめて倒しておいたから安心していいぞ」
至って元気そうなオルガさんは快活に笑いながら、夕飯であるキノコのパスタをものすごい量食べていた。
こんなに食べて大丈夫なんだろうか。
「……で、ペタルはどうなんだ、アレーネ」
一方、ペタルは未だに目を覚まさなかった。
相変わらず、ソファの上で眠ったまま動かない。
「魔法的な要因もあるから、もうしばらくは掛かりそうだけれど、後遺症は無いと思っていいわ。……眞太郎君、確かにペタルは相手を『お兄様』と呼んでいたのね?」
「はい。……そんなに仲が良さそうにも見えませんでしたが」
アレーネさんの言葉に肯定を返すと、アレーネさんは1つ頷いて、ペタルの柔らかな銀髪を撫でながら話してくれた。
「ペタルのお兄さんがペタルを気絶させたなら、後遺症が残るような気絶のさせ方はしないはずよ。ペタルの実家は、ペタルを欲しがっているから」
……ペタルの兄であるという人とペタルとの会話の中で、そんなかんじの話もあった気がする。
詳しくは分からないが、断片的に推察することは十分に可能だった。
「……とにかく、ペタルは大丈夫よ。朝になれば起きるでしょう。ペタルについて知りたいなら、あとはペタルから聞いて頂戴ね。……さあ、冷めないうちに食べて」
だが、これ以上を知ろうと思うなら、ペタルに直接聞くのが筋だろう。
……何が何でも聞きたい、とは思わないし、ペタルが話したくないなら別にそれでいいが、気になりはする。
それから……それとは別に、俺はペタルに聞かなければならないことが1つある。
何故、俺はあの時、ペタルのブローチを使ったとはいえ、『魔法を使えたのか』。
アレーネさんの作る食事は全体的に味付けが薄めだったが、食べ慣れるとそれが却って美味いように感じてくる、という不思議な食事だった。
デザートのチョコレートケーキまでしっかり食べてしまってから、俺はアレーネさんに案内されて、しばらくの間俺の部屋になる場所に向かった。
「ここよ。部屋にある物は自由に使って頂戴ね。トイレとお風呂は1階の突きあたりよ」
部屋は、アラネウムの裏に併設された住居部分の2階だった。
部屋の中は全体的にダークブラウンを基調としていた。家具は大体全て、しっとりとした艶のある木製の家具で統一されている。
アラネウムの喫茶店兼バー部分もそうだったが、落ち着いて古びた雰囲気のある洒落た部屋だ。
そんなに広い部屋ではないが、ワンルームアパート暮らしだった俺からすれば不自由だとも思わない。
そして、部屋のドアの傍に、俺の荷物……通学鞄とキャリーケースが置いてあった。オルガさんが運んでくれたらしい。
「……今回のペタルの事もだけれど、眞太郎君には迷惑をかけてしまっているわね……だから、という訳じゃないけれど、生活の面倒は見させてもらうわ。欲しいものがあったらなんでも言って頂戴」
「ありがとうございます。しばらくお世話になります」
微笑むアレーネさんにお礼を言うと、アレーネさんは微笑んで、「ごゆっくり。おやすみなさい」と去っていった。
……さて。
他所の部屋だから落ち着かないかと思いきや、案外、部屋の空気はしっくりきた。
ベッドの上に腰を下ろすと、一気に疲れが出てくる。
……そういえば、今日1日だけでえらく色々なことがあった。
こんなに濃い1日は今日限りにしたいが……。
なんとなく、そうならないような気もしていた。
気づいたら朝になっていた。
いつの間にか、しっかりベッドの中に潜っていたらしく、布団も毛布もしっかり被った状態で目が覚めた。
レースのカーテン越しに漏れる光が、朝と言うにはやや遅い時間である事を告げている。
ベッドサイドに置いておいた腕時計を見ると、1限どころか2限にも遅刻する時刻だった。今日は授業が無いのは救いだったな。
いつまでも寝ている訳にもいかないので、ベッドから出て体を解して身支度を整えて、アラネウムの店舗部分に向かう事にした。
多分、アレーネさんが喫茶店に居るだろう。
「あ、おはよう、眞太郎」
だが、部屋を出たところで、アレーネさんより先にペタルに会った。
「ご飯持ってきたんだけど、食べる?」
ペタルの手には、フレンチトーストと飲み物を乗せた盆があった。
こんがりと焦げ目のついた卵色、その上にとろりと艶めいて掛かる蜂蜜、そして何よりそれらから発される甘い香りに食欲が湧く。
「食べる。ありがとう」
盆を受け取ると、ペタルは口元に笑みを浮かべて……すぐに、その表情を硬いものに変え、深々と頭を下げた。
「その、眞太郎。昨日は本当にごめんなさい」
とりあえず、部屋の中に入ってもらって、俺はフレンチトーストを食いつつ、ペタルはティーポットから紅茶を注いで飲みつつ(とは言っても、ペタルは自分のカップに全く口をつけていなかったが)、話すことにした。
「眞太郎の事守るなんて大見得切って、結局この様だもん。恥ずかしいよ。……だから、これからはオルガさんか泉ちゃんに眞太郎の護衛を頼むことになると思う」
「泉ちゃん?」
「うん。アラネウムのメンバーの1人だよ。多分、一番『護衛』に向いてる子だから、安心してね」
成程、アラネウムにはペタルとアレーネさんとオルガさん以外にもメンバーが居るのか。まあ、3人だけ、という事は無いだろうとは思っていたけれど。
……護衛を変える、という点については、ペタル自身がそうしたいのだろうし、ここで「そんなこと無いよ」などと言われたくも無いだろうと思ったので、流すことにした。
「それで、ペタルは大丈夫か?体の調子は?」
「うん。私は全然平気だよ。眞太郎は?」
「筋肉痛以外はすこぶる元気だ」
ただし、筋肉痛は酷い。
……全力疾走ばかりしていた気がするし、その後、ペタルを担いでアラネウムまで戻ったりしたし、まあ、インドア派がいきなりそんな運動をしてタダで済む方がおかしいから、これは仕方ない。
「そっか……大きな怪我が無かったなら、よかった」
……まあ、そのインドア派が昨日1日あれだけの目に遭っても筋肉痛だけで済んでいるのだから、それは奇跡的だと言ってもいいだろう。
「……聞かないんだね、眞太郎」
「ああ、聞きたい事はあった」
なんとなく気まずげにしているペタルに対して、俺は例の質問を思い出した。
だが、ペタルは何か違う事を想像したらしく、口元を引き結んでいる。
……兄弟について聞くつもりは無い。聞きたいのは……。
「なあ、魔法って、誰にでも使えるものなのか?」
「……へ?」
もしかしたら俺に芽生えてしまったのかもしれない力について、だ。