4話
「……!」
何か声が聞こえたような気がすると、俺の体が揺さぶられる。
それと同時に、遠のいていた感覚が戻ってきた。
倒れているらしい俺の体の下からは湿った冷たさ。そして、俺の右手からはやわらかい温かさ。
「眞太郎!起きて、眞太郎!」
耳にはペタルの声が聞こえる。もっと遠くからは鳥の鳴き声と思しきさえずりも。
「眞太郎!」
目を開けば、必死に俺を揺さぶるペタルの、銀紫色の瞳と目が合った。
「よかった、眞太郎……大丈夫?痛む所は無い?」
俺の手がぎゅ、と強く握られ、ついでにペタルの目が泣き出しそうに歪められたのを見て、慌てて身を起こす。
若干、頭が痛んだが、精々その程度だった。つまり、概ね健康。
「大丈夫っぽいな。……ところで、ここは?」
体を起こして改めて分かったが、俺の周りにあったのはコンクリートの建物群ではなかった。
木。
木。木。草。鳥っぽい生き物。木。木。草。木。
……大体そんなかんじの風景は、どう見ても、さっきまで居た場所ではない。
「うん。ここは『ピュライ』。私の故郷の世界だよ。つまり……眞太郎にとっての『異世界』だね」
ペタルの言葉を肯定するように、木の陰から角のある馬が顔を覗かせた。
それから、角の生えた馬がペタルにすり寄ってきたのをペタルが適当にあしらって森に帰す一連の様子を眺めながら、俺は人生初の『異世界』を肌で感じていた。
しめっぽい森の土はなんてことない、ごく普通の手触りだったし、柔らかい草の感触もなんらおかしい所は無い。空気も、ひんやりと澄み渡ってはいたものの、さして俺の世界……『ディアモニス』と変わりがあるようには思わない。
「他に逃げる方法を思いつかなくて、世界渡りしてきちゃったんだけれど、眞太郎、本当に大丈夫?どこか具合の悪い所は無い?」
「特には。……何か不具合が起きたりするものなの?」
何か起きるのがデフォルトとかだったら嫌だぞ。
一応、黒スーツの集団に襲われた時の怪我は全快しているが、さらにまた怪我したりするのはもう御免だ。
「うん、世界渡り酔いする人もいるし、世界によっては『肌に合わない』こともあるから。でも眞太郎は治癒の魔法を使った感触で大丈夫そうだと思ったから、とりあえず合いそうなピュライに来てみたんだ。どう?あんまり『ディアモニス』との違いを感じないんじゃないかな」
「ああ、うん。ただちょっと空気が綺麗かな、くらいに思ってた」
なるほど、体質で合う合わないがある、という程度か。
それなら問題なさそうだ。さっきから特になんともない。
「そう。なら大丈夫そうだね。……ちょっと嬉しいな。ピュライは私の故郷だから。ごめんね、急に行き先を決めちゃって」
「いや、助かったよ」
安全性の是非については、とくに文句は無い。
どう考えても、あのままあそこで白フードたちに襲われるよりは、ここに……異世界に来てしまった方が安全だろうし。
「で、これからどうする?」
「とりあえず、もう一回世界渡りできるようになるまで、少し時間を潰してから帰ろう。その頃にはあいつら、多分居なくなってると思うから」
ペタル曰く、『世界渡り』……つまり、異世界へ移動する魔法は、連続使用ができないらしい。
必要な『魔力』が道具に充填されるまでに時間がかかり、その時間は滞在している世界ごとに異なるんだとか。
この『ピュライ』は魔力充填がかなり速い世界らしい。よって、そんなに待たされることも無いだろう、とのこと。
「このブローチがね、『世界渡り』の魔法の触媒なんだ」
そしてペタルが見せてくれたのは、ペタルが襟のリボンに着けているブローチだった。
親指くらいの楕円の石の周りをぐるっと銀が囲んで装飾している、アンティークなかんじのブローチだ。
ただし、透き通った濃紺の石の中には銀色の光の粒が瞬いており、時々、石の端から端へと光の粒が隆盛のように流れていく。
まるで宇宙を切り取ってきたような石だった。
「ブローチの中に大きな星が7つ円状に灯ったら、もう一回『世界渡り』ができるようになるんだ。今は……3つ、かな」
ブローチをそう意識して見ると、確かに、3つの星がひときわ明るく灯っていた。もうあと4つ星があれば、綺麗な円になるだろう。
「……ということで、星があと4つ灯るまで……2時間くらいかな。時間を潰さなきゃね」
「場所は移動しなくても平気か?」
「うん。探知はできないから。私達がピュライに来たことは分かっても、ピュライのどこにいるかは分からないはずだよ。……それから、下手に動かない方が安全だと思う。敵はあいつらだけじゃないから」
ああ、そういえば最初に襲い掛かってきた黒スーツの連中は『ピュライ』の人間なんだったっけ。
魔法の世界なんだから、まあ、ペタルの他にも世界を移動してくる奴がいてもおかしくないか。
「……あと、私も個人的に、ちょっと」
と思っていたら、ペタルが浮かない顔でそんなことを零したので、少しばかり驚く。
「……何かしたのか?」
少し、不審げな聞き方になってしまっただろうか。
ペタルは顔を上げて、両手を目の前で振りながら、慌てて言葉を継ぎ足した。
「ううん、違うよ。犯罪を犯したとか、そういう悪い事をして追われてる訳じゃない……んだけど……」
が、ペタルの言葉は尻すぼみになってしまい、眼前で振られていた両手も、膝の上に置かれてしまう。
「……うん、ちょっと」
……これ以上聞き出すのも気が引ける。
本人が話したがらないなら無理に聞くことでも無いか。
「じゃあ、あと2時間、何する?」
話題を変えると、ペタルはまだ少し硬い笑顔を向けてきた。
「私、眞太郎の話、聞きたいな。まだ『ディアモニス』歴はそんなに長くないから、『ディアモニス』の事、知りたいんだ」
異世界に来て自分の世界の話をする、というのも妙な気がするが、ペタルが期待したような顔で俺を見ている以上、付き合うべきかな、と思う。
「分かった。何を聞きたい?」
「うーん……一番興味があるのは、学校のことなんだよね。『ディアモニス』では全員が学校に通うんでしょう?」
「国によるけどな。でもアラネウムがある国……日本では、一応全員が学校に行くことになってるよ」
それから、簡単に日本の教育制度について話した。
義務教育の存在や、高校、大学の話をざっと。
大体どんなことをする、とか、そういうこともざざっと。
特に面白い話でもないような気もしたが、ペタルは興味深そうに真剣に聞いていた。
「……そっか、眞太郎の居る場所では、人はなるものが決まってないんだね」
そして、一通り話し終えた後、ペタルはそう言って、ほう、とため息を吐いた。
「あー……まあ、決まっていないと言えば決まっていない人が多いか。『1つに決められていない』というだけで、なれないものはあるし、それに自分で気づくのがまた大変だったりするんだけど」
俺自身はまだ、就職のことはもうしばらく考えなくてもいい身分だが、なんとなく複雑な気分になりながらそう返すと、ペタルは首を傾げた。
「そういうものなの?うーん……生まれた時からなるものが決まってる訳じゃないって、すごく面白そうだけれど……」
首を傾げながら、ペタルの表情はどこか憧憬に輝いていた。
……成程。
「ピュライでは、人は生まれた時からなるものが決まってるのか」
聞いてみると、ペタルは1つ頷いた。
「そう。生まれた時から、運命が決まってるんだ」
そう言って、ペタルは少し「しまった」というような顔をした。
多分、こっちのほうの話題には触れたくないんだろうに、こっちの方へ話題を持ってきてしまうあたり、ペタルは案外おっちょこちょいなところがあるらしい。
「俺は決まってた方が楽な気がするけど。俺は生まれた時からなるものが決まってる、なんて状態になった事が無いから今一つ分からんが……まあ、無い物ねだり、というか、隣の芝生は青く見える、かな」
なので俺が少々おどけて言えば、ペタルは案外神妙な顔で頷いた。
「『無い物ねだり』。『隣の芝生は青く見える』。……うん。すごく分かるよ。すごくおいしいロニャのタルトを食べていても、隣の人が食べてるポルーリムースの方が美味しそうに見えるもん。眞太郎が言ってるのって、そういうことだよね?自分が持ってないものが良いものに見える。持ってないから良いものに見える……そうだよね、眞太郎?」
ああ、『無い物ねだり』や『隣の芝生は青く見える』に該当する言葉がピュライには無いのかもしれないな。
……例えが女の子らしいが、大体正解だろう。
「合ってる。俺が言いたかったのは大体そういうかんじ。……もしかして、ピュライには『無い物ねだり』も『隣の芝生は青く見える』も、無いのか?」
「うん。あると言えばあるんだけど、かなりニュアンスが違うかな……」
……まあ、生まれた時からなるものが決まっている世界なら、『無い物ねだり』は下手したら犯罪だったりするのかもしれない。
「大体は『世界渡り』する時にその世界に合うようになるから困らないけれど、一応、私は翻訳の魔法も重ねて使ってるんだ。勿論、どっちも穴はあるし、さっきみたいにニュアンスが違う言葉が出て来たりした時にちょっと戸惑うけれどね。……だから、オルガさんとか、時々話がかみ合わないことがあるんだ。オルガさんは良い人だから、そういうことがあっても気にしないでくれるけれど」
ペタルは少し苦笑いを浮かべた。
オルガさんに関しては……ペタルの責よりは、オルガさん自身の問題もある気がするな。
そういえばオルガさん、俺のことを『眞太郎』ではなく『シンタロー』と呼んでいる気がする。カタカナっぽいというか、なんというか。
「うーん……もう少しかかるかな」
ペタルがブローチを覗き込むと、まだ星は6つまでしか灯っていなかった。
「あと1つ灯るまで、もう少し待たなきゃ、だね」
ペタルがそう言って、草の上に座り直す。
……その時だった。
不意に、背後の繁みが鳴ったかと思うと……黒い影が飛び出してきた。
「うわっ」
「きゃっ」
黒い影は俺達の方へ飛びかかってきたが、俺とペタルはそれぞれうまい具合に避けることができた。
「な、なんだあれ」
立ち上がって身構えて、もう一度よく黒い影を見てみると……黒い影は相変わらず、黒い影だった。薄っぺらく、実体が無いように見える。
「気を付けて、眞太郎!これ……使い魔だよ、暗殺用の!」
ペタルが表情を険しくして身構えると、黒い影もまた身構えるように動き、影本体と同じように黒く薄っぺらい大鎌を取り出した。
「……大丈夫。任せて。この程度、なんてことはないよ!」
だが、ペタルは力強く笑みを浮かべると、スカートの中から(スカートの中から!)肘から手首くらいまでの杖を取り出して構えた。
「眞太郎は後ろに居て!……いくよ!」
……そしてペタルと黒い影は、お互いにお互いに向かって、脚を踏み出した。