35話
「おお、おかえ……うおっ!?ど、どうした!?」
帰るなり、オルガさんが驚いた。
恐らく、泉の様子を見ての事だろう。
「うん……とね、えーと」
泉は相変わらず元気の無い顔をしていたが、女性3人から逃げきれたことに安心したのか、さっきのような切羽詰まった顔ではない。それでも十分、普段の泉からは考えられないほどの元気のなさなのだが。
「えーと、説明……は、ごめん、また今度。ご飯には戻ってくるから……」
泉はそう言ってへにゃり、と元気の無い笑顔を浮かべると、とぼとぼ、泉の部屋へと入っていってしまった。
ちなみに、泉の部屋は1階の片隅に置いてある古い戸棚である。
戸棚の横に取り付けられた、泉専用の出入り口が開いて、閉じる。
そして辺りには沈黙が満ちた。
……。
「ど、どうしたんだ一体……」
オルガさんも慄いているが、俺達だって慄いている。まだ泉と出会って1月ちょっとであるイゼルですら慄いているのだ。
「な、なんだろう……」
「今はそっとしておいてあげた方がいいかもね。泉にも色々、あるのだろうし……」
気になることはたくさんあるが……今は泉の元気のなさが気がかりだ。そっとしておいてほしい時だってあるだろうし、泉は今、まさにその状態に見える。……今はこのままにしておこう。
それから数時間して夕食の時間になると、泉もやって来て一緒に食事を摂った。
夕食は上に半熟の目玉焼きが乗っているハンバーグ。ソースはキノコ入りのデミグラスソースだ。
それに加えて、トマトとアボカドとゆで卵のサラダとオニオングラタンスープ。
これらは全て、泉の好物である。
「食後にお土産のケーキ、頂きましょうね」
アレーネさんが泉を元気づけようとした結果、このようなメニューになったらしい。
「うん!おいしそー!」
泉は食卓の上を見て瞳を輝かせると、笑顔を浮かべた。
「……えへへ、みんな、ありがとね」
空元気なのかもしれないが、空元気を出す余裕は出てきた、ということなのだろう。
「さあ、食べましょう」
「うん!いっただっきまーす!」
泉は元気に挨拶すると、早速、ハンバーグにナイフを入れ始めた。
そして泉自身ほどもあるサイズのハンバーグを頬張り始めた。
……この光景にもそろそろ慣れてきた。
質量保存の法則など、妖精のファンタジー力の前では無力なのだ。
食後に『フライングケーキ』……その名の通り、宙に浮かぶ奇妙なケーキを切り分けて全員で食べた。
が。
「食べにくいな……美味いんだが、食べにくいな……!あっくそ、飛んでいった!」
このケーキは宙に浮かぶ。
常に5cm程度浮かんでいる。
皿の上に取り分けられたケーキは取り分けられた形のまま、皿の上5cmに浮かんでいた。
ちなみに、フォークで切り分けようとすれば若干沈み込む。下手に力を加えると、ケーキは皿から弾き飛ばされて飛んでいってしまう。尤も、飛んでいってしまっても宙に浮いたままであるので、食べられなくなることは無いのだが。
オルガさんは力の入れ加減が上手くないらしく、しょっちゅう皿の上からケーキを飛ばしては追いかけている。
「このケーキは半重力物質でできているのですか?」
「何ですかニーナさん、半重力物質って……」
ちなみに、ニーナさんはアンドロイドだが、食事を摂る。
食事をエネルギーに変換することもできる、というだけで、食事を摂る必要は無いらしいのだが、アレーネさんの命令によって食卓を共にしている。
ニーナさん自身は……恐らく、お菓子などの甘い物が好きなのだろう。浮かぶケーキをつつくニーナさんは、僅かに表情が綻んでいる。
「すごい……!このケーキ、すごいね!ぼく、これ大好き!」
一方、イゼルはイゼルで、空飛ぶケーキを楽しんでいた。
イゼルも甘いものは好きなようなのだが……それ以上に、『逃げるケーキ』がお気に召したらしい。
ケーキが飛んでいくや否や、体のばねを使って瞬間的に加速。床を蹴って宙を飛び、ケーキに空中で追いついて……噛みつく。
成程、狼なだけのことはある。得物を捕まえて食う事にこう……本能的な快感?……があるらしい。
肉食獣の本能と甘い物を食べる幸福に金の瞳を煌めかせながら、イゼルはケーキを追いかけて楽しんでいた。
行儀が悪いと言えば悪いのだが、それを咎める人はここには居ない。
「えへへ、やっぱり美味しいなー」
そして泉もまた、ケーキを頬張りながら幸福そうな顔をしている。
泉も少しは元気が出てきたようだった。
食事を終えた後、しばらく部屋で大学の課題のレポート作成に勤しんだ。
アラネウムのメンバーであっても、俺は大学生である。暇な文系大学生であっても、課題はある。課題をこなさなければ単位は出ない。よって、こうして異世界へ行く傍ら、課題に追われているのだった。
……なんというか、ギャップが凄いな、とは、自分でも思う。
異世界で魔法を使って、或いは化け物と戦って、更に或いはロボットから逃げて。そして、その次の日の昼間には、大学の講義室に座って講義を聞くのだ。
この生活のギャップというか、温度差というか、とにかくそういうもののせいで、いささか日常生活がおろそかになっている節もある。特に、戦闘があった日は精神が高ぶって中々眠れないこともしばしばあり、そうなると翌日の講義中に居眠りしてしまう確率が格段に上がる。
なんとかしなきゃな、とも思うのだが、一度『こちら』に足を踏み入れてしまった今、元あった日常へは戻れそうにない。刺激過多な生活は、例えるならば麻薬だ。恐らく俺は、何か大きなきっかけでも無い限り、アラネウムから抜け出すことはできないだろう。
……これが幸せな事か不幸せな事かは分からない。多分、あと十年くらいして、やっと答えが見つかるのだろう。
だが、少なくとも今は楽しい。楽しいと思っている。
だから、このままでいようと思うのだ。つまり、アラネウムのメンバーとしての生活と、大学生としての生活の両立、という。そのための苦労は……まあ、承知の上だし、なんとか頑張れると、思う。
「……何文字になったかな」
さて、そろそろレポートの規定文字数に達しただろうか。ノートPCの画面上、文章作成ソフトウェアのウィンドウ左下を見る。
「……2500……」
尚、今回のレポートは、4000文字が下限と設定されている。
……頑張ろう。
結局、レポート作成は日付を跨いでからようやく終了した。
「……疲れた」
目が重く、肩がこわばり、腰と背中が固まっている感覚。デスクワークの感覚はどうにも、単純な疲労以上の疲労である気がする。
明日の早朝にしようか、とも思ったが、折角なので寝る前に風呂を借りることにした。
風呂に入って温まれば、この目と肩はもう少しマシになるだろう。
アラネウムの風呂は居住空間の1階にある。ただし、その風呂場は一般家庭よりずっと広い。本来は複数人で入ることを想定して作られているものらしい。時折、泉がペタルやイゼルと連れ立って風呂へ向かう姿を見る。あまり皆と一緒に入りたがらないようだが、オルガさんの姿を一緒に見ることもある。
……当然のようだが、ニーナさんは風呂には入らない。アンドロイドなのだから、まあ、納得できる。
一応、防水はしてあるらしいのだが……必要が無い、との事だ。こちらも食事と同様に、いつかアレーネさんに入れられそうな気もするが。
……しかし、それらは『彼女ら』の話である。
幸か不幸か、俺はアラネウムで唯一の男だ。
よって、広い浴槽を誰かとシェアする訳でもなく、1人でのんびり風呂を堪能するだけなのだった。
が。
脱衣所で服を脱いで、脱いだ服は洗濯乾燥機の中に放り込み、スイッチを押す。
そして風呂場のドアに手を掛けたところで……何故か、中から微かに……何かの音が聞こえた気がした。
……だが、風呂場に明りは点いていない。洗濯乾燥機の中も、空っぽだった。
つまり、まあ、気のせいだろう。気のせいだろうと思った。
ガチャリ、と音を立てながら風呂場のドアを開ける。
すると。
「あれ、アレーネさん?今日はお客さん来なかっ……た……の……?」
大理石の浴槽の上、湯気の立つ水面に、ぽしゃん、と音を立てながら、服を着たままの泉が浮かんできた。
……目が、合う。
「……あれっ?し、シンタロー……お、お風呂、まだだったの……?」
……。
「ごめんちょっと出直してくる」
「え、あ、わ、わわわわわわわわ!?わわわごめん!ごめんなさい!ごめんなさああああい!きゃああああああっ!」
俺は脱衣所へ戻って開けたばかりのドアを閉め、泉は浴槽の中へ、とぷん、と沈んだ。
……。
服を着たまま、電気も点けずに、風呂に、居ないでくれ!
「……ごめんねシンタロー」
「いや、なんか、こちらこそ……」
そして数分後、俺達は一緒に湯船に入っていた。泉は当然のように服を着たままだし、俺はタオルを巻いているが。
何故そうなった、と言われれば、両者の混乱の末に、としか言いようがない。
「しかし、どうしてまた、こんな時間に服を着たまま風呂に?」
そして、俺の混乱の原因となった泉はというと、また別の理由で気まずげになった。
「あー……えっとね」
湯船の中に泉は沈むと、またぽしゃり、と出てきた。
その手には、不思議なものが握られていた。
「……バイオリン?」
「うん。これの練習してた」
恐らく、泉が家から持ってきたものなのだろう。
だが、そのバイオリンは……泉の体躯に合わせたサイズである以上に、不思議な点があった。
「それ、ガラス……じゃないよな」
そのバイオリンは、良く見る飴色の木製ではない。
全体がガラスのように透き通っていて、絶えずその表面の色を変えている。青から紫へ。そして桃色。一瞬オレンジが混ざり、緑に色が近づき、また水色、青へ。
「えっとね、これは……んー、水、かな」
触ってもいいよ、と泉が言うので、指先でバイオリンをつつかせてもらう。
触れると、しっとりとつややかに硬い、奇妙な感触に触れた。氷、と言うには冷たすぎず、硬すぎない。奇妙な感覚だった。
「楽器を湯船に浸けて大丈夫なのか?」
「うん。だってこれ、水の中で弾くための楽器だもん」
言われて思い出す。そういえば、泉は『泉の妖精』なのだったか。
……恐らく、元気が無い原因と関係があるのだろうが。
「アウレの広場で買い物中、ビオラとチェロとコントラバスのアンサンブルあったでしょ?あれ、私のお姉ちゃんたちの演奏だったんだ。多分」
しばらく湯船に浸かっていたら、泉から話し始めた。
「それから、『世界渡り』で帰る直前に会ったのもお姉ちゃんたち。みんな、楽器のケース持ってたでしょ」
そんなところまで覚えていないが……恐らく、そうだったのだろう。
「私も泉の妖精だもん、バイオリンの練習して、早く一人前になって、お姉ちゃんたちと一緒に演奏しなきゃいけないんだけど……」
泉は顔を伏せると、そのままぷくぷく、と湯船に頭まで沈んでしまった。
……ぷくぷく、と、水面に浮かぶ泡と一緒に、微かに、泉の声が聞こえる。
「まだアラネウムに居たいんだもん」
ふぁん、と、少しだけ鳴らされた弦の音は、とても美しいものだったが……寂しげな音だった。
「……なあ、泉」
しばらく考えたが、やはり、言う事にした。
「俺が大学生だってことは知ってるよな」
湯船に沈んだままの泉からの返事は無いが、俺は続けた。
「この時間に風呂になったのも、大学の課題をやってたからで……まあ、正直、眠い。アラネウムに来て、異世界に行って、色々やるようになってから、大学の方が辛くなってきた」
泉もなんとなく分かるだろう。今はもう護衛してもらっていないが、一時期はずっと一緒に大学へ行っていたのだから。
「俺はディアモニスの人間だから、大学はきちんと卒業しようと思ってる。けど、アラネウムの方をやめるつもりも無いんだ。泉は……そういうことは、できないのか?」
返事は無い。だが、なんとなく、確信はあった。アウレのあの、のびのびとした空気の中で、一日中拘束されて演奏していなくてはならない、なんていうこと、あるはずない、と。
「どっちか片方だけなんて、勿体ないと思わないか?両方欲張ったって、いいんじゃないか?そのための手伝いだったら、いくらでもする。協力するよ。アラネウムの他の皆だって協力してくれる。だから……」
……そこで、ふと、気になった。
泉の返事が、あまりにも無さすぎる。
「……泉?」
急に不安になってきて、泉が沈んだ辺りを見る。
すると……ぷかり。
「……の、のぼせたー……」
くってり。
泉はそんな擬音語が相応しい様子で、水面に浮きあがった。
「あ、あいるびー・ばーっく……」
「い、泉ー!沈むな!泉ー!」
……風呂場は声が良く響く。
俺の声は風呂場の外にまで聞こえ……その結果、俺と泉を心配したペタルとイゼルとオルガさんが風呂場に突入してきて、あらぬ誤解をされてまた騒ぎになったのだが……。
……その間、俺の手の上でバイオリンを抱えたままくってりしていた泉は、どこか幸せそうな笑顔を浮かべていた。
あらぬ誤解を解き、泉を泉の布団に寝かせて、俺もなんとか布団に入って眠り……翌日。
「シンタローっ!」
朝、俺の布団の上に泉がダイブしてきた。
泉の声と、小さな衝撃、そしてぽすん、という音に目を開くと、布団の上で泉が俺を見ていた。
「シンタロー!協力してほしいことがあるんだけど、いーい?ね、お願い!」
泉はいつもの、溢れんばかりの笑顔を浮かべていた。




