14話
咄嗟に地面を蹴って横飛びに避けると、さっきまで俺の頭があった場所を鋭い牙が通り過ぎていった。
「な、なんだこいつは……」
空振りした牙をものともせずに地面に着地したその生き物は、犬のような姿をしているが……ただの犬ではない。
鋭く大きすぎる牙も、異様なほどに長い爪も、明らかにただの犬ではない。
体躯は大型犬ぐらいだろうか。黒い毛並みの中で金属のような輝きを放つ爪と牙、そして赤い瞳。どう考えても、ただの犬ではない。
「泉、何だこいつは」
「ええー、知らないよー、こんなのー!なにこれー!予想外なのがきたー!」
どうやら、この犬型の化け物は泉にとっても『予想外』だったらしい。
「一応やってみるから、シンタロー、耳塞いで!」
だが、泉は鞄のポケットからひょっこり出てくると、例の技を使い始めた。
……耳を塞いでいるから何が起きているかは分からないが、恐らくは……泉の世界のあの謎言語を口にしているんだろう。
泉の名前を表すというあの謎の音の羅列を聞いた時、頭がぼんやりしたことは記憶に新しい。
耳を塞いだ俺の目の前で、ぶわり、と薄桃色の波が広がる。
前回、ピュライからの刺客を全員まとめて錯乱させたり眠らせたりした薄桃色の波が、犬型の化け物に迫り……。
バウ、と化け物が吠えた。
その瞬間、突如として襲い掛かってきたのは凄まじい衝撃だった。
目に見えない力で吹き飛ばされて、薄桃の波は散り散りになって消えてしまう。
更に、衝撃は薄桃の波を掻き消すにとどまらず、俺達に襲い掛かった。
「っ、わ、わ、し、シンタロー……!」
風とも圧力ともつかない『何か』がもろに体にぶち当たり、吹き飛ばされる。
俺はまだ、吹き飛ばされて倒れる程度で済んだが……泉はそういうわけにもいかない。
身長15センチの小人は吹き飛ばされて、どこかへ飛んでいってしまった。「シンタロー……」と、俺を呼ぶ声が遠ざかっていって、がさり、と葉が鳴る音で途切れた。
「い、泉!?」
おそらく、どこかの木に引っかかってしまったのだろうが、如何せん、周りには木が多い。
俺自身も吹き飛ばされていたものだから、泉がどっちに吹き飛ばされたかもよく分からない。
辺りを見回した程度では泉を見つけられそうになかった。
……代わりに、あまり嬉しくないものを見つけてしまう。
「やる気、なんだな?」
犬型の化け物は俺から5m程の場所で、身を低くして唸り声をあげている。
どう見ても臨戦態勢だ。
……護衛の泉は吹き飛ばされてしまった。怪我が無ければいいが、今はそれを確かめる余裕すらないだろう。
とにかく、目の前のこの、犬型の化け物をどうにかしないことには。
疑似コイルガンを握る右手に力を込める。
「……人間じゃなくて良かったかも、な」
手は若干強張ったが、相手は人間じゃない。犬型の化け物だ。
初めての実戦が対人戦だったら、きっと、もっと大きな覚悟が必要だっただろう。
だが、幸いな事に、相手は犬型。獣だ。
これなら、少し気合を入れさえすれば、十分に……躊躇なく撃てる。
疑似コイルガンに装填した鉄釘が一気に加速して、筒から射出される。
俺が思っていたのと概ね同じような軌跡を描いて鉄釘は飛び、犬型の化け物の脚に向かった。
だが、化け物はすぐに身を翻して鉄釘を避ける。跳弾によるラッキーも望めない程の距離を一気に跳躍して、俺から距離をとった。
「……当てる気があっても当たらないもんだな」
左手に隠し持った鉄釘をすぐに装填し直して、二発目を撃つ。今度は避けられることを考えて、三発目をすぐ装填できるように左手を添えて。
二発目、三発目を撃って、避けられて、四発目と五発目も避けられたところで、今度は化け物が吠えた。
「またかっ!」
さっき同様に、目に見えない力が襲い掛かってくる。
予測はできたのですぐ身構えたが、身構えた程度でどうこうなるものでもなかった。
さっきより強く吹き飛ばされて、アスファルトの上を転がる。
できた抵抗は精々、倒れる時に鉄釘を手に刺すようなヘマをしないことぐらいだ。
アスファルトに叩きつけられた体は痛んだが、なんとか体勢を立て直すべく体を起こしたが……その時、辺りが暗くなった。太陽の光が遮られて。
……俺の頭上では、太陽を背にした犬型の化け物が咢を開いて跳躍してきているところだった。
死ぬような危機的状況下では世界がスローモーションになる、というのは本当なのだな、と思った。
牙の並んだ口が見え、その牙が俺に迫ってくる。
化け物の赤い目がぎらり、と陽光に光る。
それらの一挙一動が仔細に伝わり、俺の中で把握されていく。
……ただ、『走馬燈』ではなかった。
過去を思い出しはしなかったし、何より……『見るだけ』にはとどまらなかったのだから。
化け物の息遣いが感じられる程に近づいた時、俺の右手の中で音もなく、鉄釘が発射された。
「キャウンッ」
化け物の下顎に深く突き刺さった鉄釘は、化け物に口を閉じさせるに十分な痛みを与えたらしい。
俺の頭を食いちぎることなく地面に倒れてのたうつ化け物に、二発、三発、と鉄釘を打ち込む。
喉、脚、目玉。
ここを手負いにしておけば有利になるだろう、と思われる個所を狙って(狙ったところすべてに命中した訳でもなかったが)鉄釘を撃った。
案外こういう時に俺は冷静なんだな、とどこか他人事のように思いながら、ひたすら鉄釘を装填しては撃っていた。
「し、んたろーっ!っぷは!シンタロー!シンタローってば!」
気づいたら、空と泉が見えた。
……どうやら倒れていたらしい。
「あー、よかったー!いきなり倒れたのが見えたから……よかったー!よかったー!」
泉の服は所々が破け、小さな体には細かい傷がたくさんついており、泉の頭の両脇で揺れているはずのツインテールは片方がほどけて背に流れていた。
……如何にも、吹き飛ばされました、といった風情、だ。
「ごめんね、シンタロー、ふっ飛ばされてそこの木に引っかかっちゃって……うえーん、ごめんね、ごめんね……」
泉は俺の指に縋りつくようにしながら、めそめそ泣き出してしまった。多分、安堵とか申し訳なさとかが混ざったのだろう。
「ところで、さっきの犬、は……」
そして泉の無事と同時に確認しなくてはいけない、敵の情報。
倒れた俺の横に鉄釘が散乱しているだけで、犬の死体のようなものはどこにもない。
「ああ、さっきの、消えちゃったよー。多分、魔法の生き物だったんだと思う」
「……そう、か……」
散乱した鉄釘は、恐らくさっきの化け物に刺さっていたものなのだろう。
……ざっと見ただけで、50本近くありそうだ。
50本近く。
つまり、俺が撃てる弾数の限度いっぱい、ということだ。
「……魔力切れで俺はぶっ倒れた?」
「だと思うなー……ううう、あと、私がシンタローに使った歌の効果もあったかも……」
……聞けば、泉は俺が化け物に頭を食いちぎられそうになった時、咄嗟に俺をある種の『錯乱状態』にしたらしい。
効果は単純。『極度の集中』。
つまり、あの時世界がスローモーションに見えたのは泉の技によるものであったらしい。
……てっきり、死が迫った時のあるあるなのかと思ったのだが。種や仕掛けがあったとは。
案外冷静だな、なんて思っていたが、その冷静さにも種や仕掛けがあった訳だ。自分のことながらなんとも馬鹿らしい。
「でも集中が解けたらその分精神に負担が掛かるから、シンタローが倒れちゃったの、それかもしれない……」
「いや、助かったよ。ありがとう。多分、泉が俺に技を掛けてくれてなかったら死んでた」
いかにも『極度の集中』の副作用らしく、頭の内側が激しく脈を打つように鈍く痛むし、ぼんやりとどこか霞がかった思考しかできないし、体が運動直後のように火照って、いやに冷たい汗をかいていたが……副作用程度がどうだというのだ。あの時、世界がスローモーションになっていなかったら、正確に化け物の顎を撃ち抜くことができていたかどうか。
「……俺の射撃の腕は泉のドーピング込みでアレだったわけか……」
思い出すとぞっとする。
今後の事を考えると、泉のドーピング無しでもあのくらいの冷静さで鉄釘を撃てるようになりたいものだ。
……だが、事が済んだ今だから言えるが、練習、チュートリアルとしては、丁度良かったのだろう。
人間では無くて、犬だった。俺の手で生き物に致命傷を与えた瞬間の記憶はややぼんやり程度にしか残っていない。そして俺が殺した生き物の死体は都合よく消えていた。
……『慣れる』には丁度良かったと思う。
そして、実際に犬型の化け物に鉄釘を命中させた時の記憶こそややぼんやりとしているが、生き物を撃つと決めた覚悟自体ははっきり覚えている。
少なくとも最初の数発、当たらなかったが鉄釘を撃ったあの時は、100%俺自身の意思で鉄釘を撃っていたのだから。
平和な世界の人間がいきなり命の危険に晒された割には良くできた方なのではないか、と思う。
「難しいな」
「ん?」
申し訳なさげなままの泉が俺に聞き返してきたが、なんでもない、と笑って誤魔化しておいた。
「あれ、ところでシンタロー、学校は?」
……泉に言われて改めて時計を見る。
「……遅刻だな」
見事に授業が始まる時間から30分が経過していた。
「え、ど、どうするの?」
今から学校に向かうと、45分の遅刻になる。
そして、俺の大学では45分以上の遅刻は遅刻と認められず、欠席扱いになる。
……だが。
「泉、協力してくれるか?」
「シンタロー、とってきたよ!」
机の下から小さな小さな囁きが聞こえ、俺の手に紙切れが触れた。
ハンドシグナルで泉にお礼を言って、紙切れを掴む。
この紙切れは出席表だ。学籍番号と氏名を書いて授業の終わりに提出することで、授業の出席の証明になる。
今日のこの授業では、授業開始45分を過ぎた時点で出席表は教授のファイルの中へ片付けられる、というシステムで遅刻者の出席を弾いていた。
……そして今、泉はその体の小ささを駆使して、教授のファイルの中から出席表を1枚くすねてきてくれたのだった。
泉が満足げに俺の鞄の中に入っていったのを横目で眺めつつ……このファンタジックな生活も悪くはないような気がし始めていた。