107話
そこには、森の香りも、霧で湿った土の香りも無く、不思議な魔法の道具も謎の古代遺跡も無く、ただ『ピュライ』があった。
世界であって、世界ではない。言うなれば、世界の『意思』が、ここにあった。
意思が、『ピュライ』が叫ぶ。
『限りない繁栄を!』『唯一の権力を!』『それらを叶える最大の力を!』
いっそ清々しいくらいに、ただそれだけだった。
繁栄を望むのに、繁栄とは何かを問う意思は無い。
権力を望むのに、その権力を何に使うのかは意思に無い。
力を欲しながら、その力で望むものは空虚な繁栄と権力だけだ。
これが『ピュライ』の意思であり、今までペタル達、アリスエリア家の人々を縛ってきた『ピュライの声』なのだろう。
「これがピュライの中に潜んでいたもの。これから全ての世界にとって脅威となり得るものよ」
『ピュライ』の声に混じって、聞き覚えのある声が聞こえる。
振り返れば、そこにはアレーネさんがいた。
「アレーネさん」
「この意思は、とても脆いわ。内側から突き崩せば、簡単に壊れてしまうでしょう」
声を掛けるが、アレーネさんは俺の声を無視して続けた。
「元々、死んでいたようなものだもの。今はただ、死体が動いているようなものなのかもしれないわね。……でも、この意思を失った時、ピュライという世界がどうなるのかは分からないわ」
そして、ようやく俺の方を見る。
「眞太郎君。あなたは『ピュライ』を滅ぼすべきだと思う?」
……考える。
このまま、ピュライの意思である『ピュライ』を滅ぼした場合。
この塔が悪用されることはなく、他の世界が脅かされることもない。
しかし当然だが、ピュライがどうなるのかは分からない。果たして、意思を失った世界が、そのまま残り続けられるのか。
かといって、このまま『ピュライ』を見過ごした時、他の世界は間違いなく脅かされる。
それに……何よりも、俺達にとって大切なことが、達成できない。
「俺は『ピュライ』を滅ぼすべきだと思います」
アレーネさんは若干目を細めつつ、黙って続きを促した。
「ピュライは、『ピュライ』の声によって操られてきました。より『ピュライ』が望む方へと動くように。……でも、きっともう、必要無いと思うんです。ピュライの事は、『ピュライ』じゃなくて、ピュライに住んでいる人達が決めればいい。空虚な繁栄や権力を求める意思に従うんじゃなくて、その人達の意思で」
壊れた機械か何かのように、『ピュライ』の声は聞こえ続けている。
『もっと繁栄を!』『もっと権力を!』『もっと力を!』。
それらが本当に、ピュライにとって良い事なのか、判断することは難しいだろう。
でも、俺には枷にしか聞こえない。『ピュライ』が、ピュライを縛っているように思える。
「『ピュライ』の声が無くなった時、ピュライは正しく動くのかしら」
勿論、アレーネさんの言う事は尤もだ。
導く声を失った時、ピュライの在り方は大きく変わるだろう。
そして、在り方が変わった世界が、滅亡へと向かう事だって、十分に考えられる。
……でも、俺は思うのだ。
「正しくなくても、いいんじゃ、ないでしょうか。選ばされた正解よりも、選んだ間違いの方が、人間にとっては価値があると……俺は、そう思います」
そしてきっと、ペタルもそう思っている。
誰よりも『運命』を見て、『ピュライ』の声を聞き続けたペタルが、世界の意思ではなく、人間の意思をもってして生きたいと、望んでいる。
例えその先に滅びがあったとしても、それが、人間の在り方だと。
「それに、そうしないとアレーネさん、戻って来られないんですよね?」
俺がそう付け加えると、アレーネさんは目を瞠った後、ふ、と笑って、呆れたような、慈しむような表情を浮かべた。
「ごめんなさいね、眞太郎君。……私は『ピュライ』が消えたとしても、戻る気はないわ」
「私は不老不死の人工生命。それはもう、きっと知っているわね」
「はい」
アレーネさんの表情は、いつも通りだ。
穏やかな秋の夕暮れのような、冬の陽だまりのような。静かで寂しくてあたたかい。
「私はここへ、死にに来たのよ」
「想像がつくんじゃないかしら。……不老不死は、『死なない』ものじゃなくて、『死ねない』ものよ」
永遠に生きるという事は、普通、できない。だから俺は、それを空想の出来事として知っているだけだが……永遠に生きることが苦しみになる、というような想像はつく。
きっと、俺の想像なんて、生ぬるいのだろうけれど。
「私は死ぬためにここに来たの。この塔ごと、『秩序』の崩壊に飲み込まれれば、いくら不老不死でも消えられるでしょう。『不老不死』という『秩序』が一緒に崩壊するものね。……むしろ、不老不死にはそれくらいしか、救われる方法が無いの」
アレーネさんの言葉に、俺は簡単に納得できた。
そうか、アレーネさんは死ぬつもりだったのか。
『死すら覚悟していた』のではなく、『死ぬことが目的だった』。
だから、俺に糸巻きを送った。『貸す』のではなく、『あげる』として。
「だから、『ピュライ』を滅ぼしたとしても、私は一緒には行けないわ。『ピュライ』が滅べば、この塔は制御を失って崩壊するでしょう。私はそれに巻き込まれる。きっとこれが、最初で最後のチャンスになるわ。この機を逃すつもりはないの」
止めるつもりだったのだ。
アレーネさんの意思を踏みにじってでも、俺は、アレーネさんを連れて帰るつもりだった。
だが、不老不死が死ねる唯一の機会を、奪っていいのか。
俺達の、精々が100年程度のために、アレーネさんに永遠を押しつけていいのか。
俺の葛藤を知ってか知らずか、アレーネさんは俺の頭に手を置いた。
「今までありがとう、眞太郎君。楽しかったわ」
そしてそのまま、『ピュライ』の声のする方へ、歩いていく。
『繁栄を!権力を!力を!もっと、もっと、もっと!』
喚くような声を前に、アレーネさんはしなやかに脚を縮め、勢いよく突き伸ばし、振り抜いて……靴のヒールの裏に仕込まれた刃物で、『ピュライ』を破壊した。
『繁栄、権力、力、力、力……!』
空しく響く声はやがて途切れ、それきり聞こえなくなった。
『ピュライ』は滅んだのだ。これからピュライは、『ピュライ』の手を離れて動いていくだろう。
「……さあ、行きなさい、眞太郎君。いつまでも人の内側の世界に居るものじゃないわ」
アレーネさんが、優しく俺の背中を押す。
「そして、生きなさい。永遠じゃない時を。できるだけ、幸せに」
塔が制御を失ったからだろうか。地面が揺れ、震えて、溶けていくような錯覚を覚えた。
もう、時間がないのだろう。
……俺は、アレーネさんに向き直る。
「アレーネさん」
アレーネさんは黙って寂しく微笑んで、俺を見ている。
違う。俺が見たいのはそんな顔じゃない。
「俺、まだアラネウムのバーで、酒、飲んでないんです」
気づいたら、目の前にオルガさん達が居た。
「気がついたか、シンタロー!」
「とりあえずアレーネさん、体だけでも連れて逃げよー!ここ、今にも崩れちゃいそうだよー!」
『ピュライ』を失った塔は、揺れて震えて、今にも崩壊しそうな様子だった。
すぐに逃げた方がいいのだろう。そして、そのためには俺が『世界渡り』するしかない。
でも、俺はそうしない。
「……オルガさん。泉。イゼル。紫穂。フェイリン。スフィクさん。……俺のわがままに、付き合ってもらえませんか」
俺はまだ、逃げるわけにはいかない。やるべきことがある。そしてそのために、皆も危険に晒すことになる。それは承知の上だ。
「ああ、アレーネのことか。まだ何かあるんだな?」
「もー……しょーがないなー、シンタローはー!よく分かんないけどいいよー!」
「うん、ぼく、一緒にいるよ!何をお手伝いすればいい?」
「……時間稼ぎなら、任せてください、です」
「まあ、いいけど。何かあったらお前が責任をとってくれるのよね、シンタロウ?」
「急げ。早くしろ」
……そして、きっと皆、危険に晒されることを承知してくれるだろう、とも、また。
仲間達に見守られる中、バラバラになっていく『秩序』の中を進む。
時に泳ぎ、時に飛び、時には落ちることで、『上へ』進む。
物理法則も崩壊していく中で、必死に足掻いて、塔の頂点を目指す。
……アレーネさんは、死にたいらしい。
それを止めようとは、思わない。『不老不死』にとって非常に貴重な『死』の機会を奪うなんて、できない。
だが、『今じゃなくてもいい』はずだ。
……要は、塔が今、崩壊するのでなければいい。そうすればアレーネさんは、今死ななくてもいいはずだ。
この塔が崩壊しなければいい。再び、制御されればいい。ならば簡単な事だ。
幸いにして俺は、ありとあらゆる魔道具を使う適正があるらしいから。




