105話
「消えた?」
「ええ。きっとね。私が入ったら、元々この体にあったものは無くなったもの」
理解できない。
元々この体にあったもの?それがアレーネさんだって?なら、『入ったら』って、一体何が?
俺を見て、アレーネさんだったものが声を上げて笑う。
「要は、この体を入れ物にして、私が中に入っただけの話」
「脳を移植した、ってことか……?」
俺の脳裏には、トラペザリアでオルガさんがオーバーホールしたときの光景が浮かぶ。
つまり、脳を取り外している光景だ。
だが、目の前にいる誰かは、笑って首を横に振った。
「そんなに粗野なやり方じゃないわ。私の中に昔からあった、もっと綺麗なやり方よ」
まるで意味が分からない。だが、要はアレーネさんの体を乗っ取った、ということだろう。きっと、魔法的な力で。
なら、どうやったら、アレーネさんを取り戻せる?魔法を解くのか?それはどうやって?
……考えれば考えるほど、絶望的だった。
「少し、お話ししましょうか」
目の前の誰かが、そう言って宙に腰掛けた。恐らく、床から椅子へと、『秩序』を変えたのだろう。
生憎、俺の目に『秩序』は見えないので、俺は1人、立ったままで話を聞く。
「眞太郎君はこの塔をなんだと思う?」
尋ねられて、なんと答えるべきか迷う。
だが、元より俺の返答などどうでもよかったらしい。特に気にする様子もなく、逆に上機嫌にすら見える様子で、目の前の誰かは喋り続けた。
「この塔は、『秩序』でできているように見えるでしょう?でもそれは、半分不正解ね。この塔は……『秩序』を集束させ、操る機構よ」
スフィク氏は、この塔のことを『兵器だ』と言っていた。
つまり、素直に考えるならば、『秩序』を集束させて操るということは、武力になりうる、ということだろう。
「この塔は、『秩序』を集めて、『秩序』を操る。そうして塔を高くする。逆に、塔の周りは『秩序』を失って、『無秩序』になる。眞太郎君も見たでしょう?この塔の外を。上も下も、右も左もない『無秩序』の世界を」
「つまり、この塔は、周囲を『無秩序』へと変えて破壊する兵器、か」
「まあ、『秩序』を得ようとしたら、『秩序』があった世界にとっては兵器になってしまうかしら。『秩序』は大きなエネルギーよ。操れるのならば、どんなことだってできる。別に武力にしかならない訳じゃないのよ。正に、繁栄へと繋がるの」
……ふと、何かが引っかかった。
だが、何が引っかかったのか、よく分からない。思い出そうとする間にも、話は続いていく。
「『翼ある者達』はよくやってくれたわ。私が塔と共に在る為に、私達がこれからの繁栄と共に在り続ける為に、朽ちず衰えない完璧な体、私に相応しい体を用意してくれた」
うっとりと、目の前の誰かは自分自身……いや、アレーネさんの体を抱き、上機嫌にその場で一回転した。
「ただ」
しかし、突如としてその表情は鋭く冷たいものに変わった。
突然の落差にぞっとする。
「……ただ、『門』が、よりによってアリスエリアの子らの手によって破壊されたことは、許し難かったけれど」
視線が、階下に向けられる。
在りもしない床の下では、小さく、ペタルとスフィク氏の姿が見える。
スフィク氏は、ペタルを守ってくれているらしかった。
だが、ペタルもまた、相変わらずらしい。表情こそ見えないが、糸に巻かれて、血の上に横たわる姿が痛々しい。
「ねえ、眞太郎君」
……だが、2人の心配をしている余裕は、無さそうだ。
「……たしかあなたも、『門』を破壊する為に頑張っていたわよね?」
紛い物の優しさすら、欠片たりとも感じられない。
怒りか、憎しみか、はたまた狂気か。
そういった歪んだ笑みが、俺に真っ直ぐ向けられていた。
「さあ、お話は終わりにしましょう、眞太郎君」
目の前の誰かが、何も無い宙に模様を描く。
すると、宙が歪み、何も無いはずの空間から、長い杖のような物が現れる。
「どうせ、また私の邪魔をしに来たんでしょう?」
杖の先に、何らかの魔法が集まり始める。
咄嗟にバニエラの長銃で撃つが、光線は弾かれて消えてしまった。
「でも、させないわ。やっと、手に入れたのだもの。私に相応しい体も、『秩序』も!」
杖が地面……いや、『秩序』に突かれる。
途端、杖の先から光が走り、『秩序』の上に模様を成していった。
「あなた、邪魔なのよ」
『秩序』が形を変えて、襲い掛かってくる。
俺の足下の床は消え、それどころか上も下も右も左も無くなり、1人、『無秩序』の中に放り出される。
そして、そこに『秩序』が襲い掛かってくる。
防げない、ということは分かった。
トラペザリアのコートも、防御の役には立たないだろう。
ならば、逃げるか。
……一番確実に回避できるのは、『世界渡り』だろう。
一応、手袋には『世界渡り』をコピーしてある。だから、今、『世界渡り』してこの場から離脱することは可能だ。
だが、それはできない。
俺はここで、『秩序』を操る何者かを止めなければならない。
そうしないと……俺を先へ行かせるために、塔の中に残った皆が、無事ではすまない。
そして何よりも、世界が。
……この塔が『秩序』を集めることによって、『秩序』を失い、崩壊させられるかもしれない世界を救うためにも、俺は、逃げられない。
俺は目の前のこいつを止める。
アレーネさんの体を乗っ取った何者かを倒して、この塔が異世界を侵略することを、止める。
俺はテレポートの魔道具を発動させて、アレーネさんの体を乗っ取った誰かの元へテレポートした。
「……あら、何を」
アレーネさんそっくりで、でもどこか違う表情をほんの20cmの距離に見る。
そして俺は、手を伸ばす。
目の前の誰かの頭を両手で掴んで、手袋を発動させた。
どうせ相手は、『魔法的な力によって』、『アレーネさんの体を乗っ取った』のだ。
何らかの魔法が使われたことは確かだろうし、現在もその魔法の効力が持続している可能性もある。
ならば、手袋を使って魔法を吸収してしまえば、アレーネさんを乗っ取る魔法をリセットできるかもしれない。
ただ……この手袋が吸収・再発動できる魔法は、ピュライのものに限られる。
よって、これが上手くいくとは思っていなかった。元より、当てる気の無い賭けだった。だが、動かないよりはマシだろう、とも思ったのだ。
相手を動揺させて、その隙をついて、次の策を練って対応すればいい、と。
だが、予想に反して、左手の手袋の文様が光った。
発動した手袋は、確かに魔法を吸収した事を伝える。
『秩序』が奪われ、またしても動けなくなりそうだったので、先読みでさっさと離脱した。
「……残念だけれど。そんなことしても、アレーネは戻ってこないわよ」
だが、確かに何らかの『魔法を吸収した』のに、アレーネさんは戻ってこない。
……いや、最初から、駄目で元々だった。この程度で凹んでたまるか。
そしてまた襲い掛かってくる『秩序』から、テレポートで逃げ続ける。
尤も、そう長くはもたないだろう。バッテリーパックだって有限だ。
このままテレポートで逃げ続けた先にあるものは、バッテリーパック切れ、つまり魔力切れであり、即ち、俺の死だ。
……だから、逃げ切ろうなんて思っていない。少し、時間を稼ぎたいだけだ。
どう足掻けばいいのかすら分からないこの状況で、何か、打開策になるかもしれないな策の欠片だけでも、思いつければいい。
今、俺が持っているものは何だ。
トラペザリアのコート、バニエラの長銃、アウレのお菓子、グラフィオの鞄、ピュライのテレポートの魔道具と、手袋。それから、箱。そして、アレーネさんの糸巻き。
俺が勝つためにやるべき事は何だ。
アレーネさんを取り戻すこと。アレーネさんの体を奪った何者かを倒すこと。
……どちらが、先だろうか。
アレーネさんが戻ってくれば、目の前の誰かを倒せるのか?或いは、逆だろうか。目の前の誰かを倒して初めて、アレーネさんを取り戻すきっかけを得られるのか?
分からないが、とりあえず、片っ端から試してみることはできる。
何故なら、中身がどうであれ、目の前の人物は『不老不死』だ。
アレーネさんには悪いが、ありとあらゆる手段を試しても取り返しがつくだろう。
だが、逆に言えば、何をやっても無駄だ、とも思える。少なくとも、肉体に対しては。
……ならば、精神か?中身に対しての攻撃か?
では。
『今、アレーネさんの体を乗っ取っているものは、誰だ?』
俺は、この謎を解く必要があるだろう。