輪廻拒絶8
イノシシは怒り狂っていた。
口からはどばどばと涎が溢れ、空腹に喘いでいるのが分かる。元々血走っていた瞳は今や破裂しそうなほど充血し、一層の狂気を感じさせるだろう。全身から陽炎めいた『揺らぎ』が噴き出しているように見えるが、筋肉からの放熱だろうか? 一体どれだけ全身に力を込めているんだとツッコミを入れたい。
などと加奈子は自分を追い駆けてくる獣に対し思ったが、それを隣を走る田沼に伝える事はしない。伝えたところで田沼も分かっているだろうし……何より今自分の口は、悲鳴を上げるので精いっぱいだった。
「ひいいいいいいぃぃっ!?」
「クソっ! 何処に逃げりゃ良いんだ……!」
何度も背後を振り返りながら、加奈子と田沼は工場の一階廊下を走る。イノシシは加奈子達の後を猛然と追い駆けてきた。
やはり速くなり過ぎたスピードを制御しきれていないようで、加奈子達が角を曲がれば、イノシシは曲がりきれず壁に激突していた。さしものイノシシも壁に衝突すると一旦足が止まり、加奈子達はその間に次の角を曲がり……この繰り返しで、なんとか逃げ延びている。
とはいえこんなのは実力や知略によるものではなく、地の利を偶然活かせただけである。運が尽きれば、何もかもが破綻してしまう。
それこそ長い直線通路が現れるという『不運』だけで、簡単におじゃんとなってしまう程度の命運だ。
「げぇっ!? おおおおっちゃん!? これどうしよう!? どうしたら良い!?」
「っ……! 加奈子、タイミングを見て突き飛ばすから身体から力を抜いとけ! それと俺と歩みを合わせろ!」
「えっ? えっ?」
いきなり告げられた指示に、加奈子は戸惑いを見せる。突き飛ばすって何処に? 合わせるって何?
しかし田沼が答えてくれる事はなかった。時間があれば教えてくれたかも知れないが、その時間がなかったのだから。
「ここだっ!」
「きゃっ!?」
宣言通り田沼は加奈子を突き飛ばし、混乱により結果的に身体から力を抜いていた加奈子は勢いよく飛んでしまう。
飛ばされた加奈子の身体が向かう先は、扉が開きっぱなしになっていた部屋だった。転がり込むように部屋へと入った加奈子は、痛みに蹲りたくなる衝動を感じつつも立ち上がり、辺りを見渡す。
その目に映り込んだのは、酷く雑にしまわれた備品の数々。
そして高さ・幅共に五メートルはありそうな巨大タンク、それが部屋の中央で二つ縦に積まれている光景だった。
「これは……もしかして、廃液保管庫?」
加奈子はぽつりと自身の考えを呟く。地図に書かれていた部屋の一つだ。
部屋の中は、つんとした薬品臭さで満ちている。この工場が閉鎖されたのは二年前なのだが、未だ薬臭さがあるという事は、もしかすると薬液をちゃんと廃棄していないという事なのだろうか? あまり工業に詳しい訳ではないが、薬液を廃棄するにもお金が掛かるのは加奈子にも想像が付く。お金を使いたくなくて、ここに放置したのかも知れない。
周りを見れば廃液保管庫にも拘わらず、曲がりくねったパイプやら人の背丈ほどもある鏡やら、薬品とは全然関係ないものまでしまわれていた。部屋の奥には恐らくタンクを搬入する際使われたと思われる大きな扉があったものの、積み上げられた段ボールに埋もれている有り様。どうやらかなり杜撰な管理体制だったようだ。そんなんだから倒産するんじゃないかなぁ……などと思う加奈子だったが、すぐ我に返る。
こんなところで暢気に考え込んでいる場合ではない。早く身を隠さないと……
しかし加奈子の考えは、既に悠長なものである。
廃液保管庫には、もうイノシシが入り込んできたのだから。
「ひっ!? あ、う……」
「ブシュルルルルル……」
イノシシの姿を見て、怯える加奈子。獲物を前にしたイノシシは荒々しい吐息を漏らす。ゆっくりと開いた口からだらだらと涎を滴らせ、真っ赤な瞳で加奈子をじっと見つめた。
イノシシの速さは圧倒的だ。田沼のような経験豊富で、イノシシの動きが分かる猟師以外には、その俊足を捉える事は難しい。加奈子もまた例外ではなく、真っ正面から向かい合っていてもイノシシの突撃を躱せる自信などない。
「ブギアゴオオオオオオッ!」
挙句イノシシが走り出した瞬間、加奈子の身体は驚きと恐怖で固まってしまう。
逃げられない。
哀れ、加奈子はイノシシの体当たりを真っ正面から受けてしまう……と、イノシシは思っていたかも知れない。
加奈子は全くそんな事は思わなかった。
何故ならイノシシがずっと見ていたのは――――加奈子の姿が映り込んだ鏡の方だったのだから。車さえも突き飛ばす怪力を受け、鏡は呆気なく粉砕。殆ど手応えがない事にイノシシは驚いたかも知れないが、進化し過ぎた身体は急には止まれない。
イノシシは鏡の後ろにあった、床に置かれている方のタンクに頭から激突。倒壊こそしなかったものの、金属製の装甲は今にも潰れそうなぐらい歪み、ひび割れ、中から液体が溢れ出る。
「ブギィッ!?」
その液体を浴び、イノシシは苦悶の声を漏らした。
じゅうっ、と焼けるような音が聞こえた事から、強酸性か強アルカリ性の廃液らしい。とんでもない危険物を残しおって……という工場責任者への憤りが込み上がり、それと同じぐらい感謝の気持ちを加奈子は抱く。
彼等の残した廃液のお陰で、イノシシがそれなりのダメージを受けてくれた。今なら逃げ出せる。
加奈子はのたうち回るイノシシの後ろを素早く通過。部屋の外へと脱した。廊下に出ると田沼が待っており、彼も無事な様子である。
「今のうちに外へと逃げるぞ」
「うんっ」
田沼の言葉に従い、加奈子は走り出す。
今のうちに逃げればなんとか……
「ゴガオオゴオオオオオオオオオッ!」
そんな希望を打ち砕くように、イノシシが廃液保管庫から跳び出してきた。性質の悪い事に、入口の壁ごと粉砕して。
もしかして、また強くなってる?
青ざめる加奈子に答えるかのように、イノシシは加奈子達を正面に見据えない。加奈子達の進路を予測するように、加奈子達の進む先二メートルほどの地点を見ている。例えそこが廊下の曲がり角の先であるとしても。
「おっちゃん! 待って!」
廊下を曲がり終えた、直後、加奈子は田沼の手を引っ張る。突然の加奈子の行動、田沼は憤りと困惑を内在させた顔を加奈子の方へと振り向かせ、
そのまま走っていれば丁度居たであろう位置を、イノシシは襲撃した……建物の壁をぶち抜くという方法を使って。
「……おい、嘘だろ。そんな滅茶苦茶……」
「おっちゃん! こっち!」
呆けたように固まる田沼の手を掴み、加奈子は彼に呼び掛ける。我に返った田沼は、今度は加奈子に引かれる形で走り出した。
曲がり角すら最早イノシシを引き離すには不十分。
ならばと加奈子はすぐ近くにあった、階段を使う事を選んだ。田沼と共に全速力で駆け上り、二階へと上がる。最初に二階へと上がるために使ったのと、その後降りるために使ったのとは別の階段だ。壁をぶち抜いたイノシシも階段に足を掛けるや、雄叫びと共に追ってきた。
食堂で見た地図が正しければ、この階段は建物の外側……つまり屋外と隣接している。もし此処でイノシシが突撃を仕掛け、それを自分達が避けたなら、イノシシは壁をぶち破って外まで飛んでいくのではないか? 勿論こんな程度で死にはしないだろうが、時間は大きく稼げる筈だ。
淡い期待を抱く加奈子だったが、残念ながらイノシシは理知的だった。階段に備え付けられている窓から外が見えたのか、はたまた壁をぶち抜いた先が予想出来なかったからか。丁寧な駆け足で、一段一段上がってくる。
加奈子と田沼は一足先に二階の廊下に辿り着き、少しでもイノシシと距離を取ろうとする。イノシシは二階に辿り着くとぶるりと身を震わせ、
「ゴガアアアアアアアアアオオオオオオオオオオオオオオオアオオッ!」
かつてない、大咆哮を上げた。
咆哮はまるで衝撃波のように辺りに広がり、様々なものを浮かび上がらせる。埃、紙切れ、鉄くず、コンクリート片……
そして田沼よりずっと華奢で身軽な、加奈子の身体さえも。
「ふぇ? うええっ!? 私飛んでむぐっ!?」
「か、加奈子ぉっ!?」
思いっきり飛ばされた加奈子は、田沼から引き離されてしまった。どうにか受け身を取って衝撃を受け流すが、それでも手足や背中に痛みが走る。怪我になるのは回避したが、少しばかり動きが鈍ってしまう。
もしも遠くに吹き飛ばされなかったら、そして受け身を取った拍子に身体の向きが反転……今まで走ってきた背後を振り向く形になっていなかったら。
自分目掛けて走るモンスターの攻撃を、果たして躱せただろうか?
「うぬぐぅっ!?」
ぶわりと全身から汗が噴き出し、全神経が警報を発令。全ての細胞が脈動するような感覚と共に、加奈子はその場から跳び退く!
イノシシは加奈子の居た場所を通過し、そのコースの傍を通っていた田沼を突き飛ばした。直撃ではない。直撃ではないが、余波だけで彼の身体は木の葉のように舞い、壁に叩き付けられる。身体が反射的に跳ぶ中、全神経を研ぎ澄ましていた加奈子にはその光景が見えてしまう。
加奈子は見知らぬ部屋に文字通り転がり込む。身軽に立ち上がり、今すぐにでも走り出せる体勢に移行する様は、アクション映画の主人公のよう。既に身体は痛みを感じていない。
痛みなどよりずっと恐ろしい、怪物の瞳が廊下側からこちらを見ているのだから。
「ひ、ひぅっ!?」
悲鳴を漏らしながら、加奈子は部屋の奥へと逃げてしまう。入口にはイノシシが居るのだから、奥へと逃げるしかない。
しかしイノシシは追ってくる。
加奈子は部屋の奥へ奥へと進む。積み上げられた雑貨の数々が、此処が備品倉庫だと物語った。段ボールが山積みとなり、部屋は多くの死角が出来ていたため、イノシシの視線を切るのは容易。更に隠れ場所は豊富にある。何処かに身を隠せばやり過ごせるのでは……そんな考えが脳裏を過ぎるも、加奈子はすぐに無駄だと悟った。
田沼は言っていた。イノシシは犬並の嗅覚を持っていると。以前見たテレビでもそんな風に言っていたので、きっと間違いない。物陰に隠れたところで、イノシシは簡単に見付けてくるだろう。そして見付けられたなら、隠れ場所は逃げる事の出来ない監獄と化す。
どうしたら良い? どうすれば良い?
……今までなら、田沼がここで助けてくれた。あっちに逃げろとか、伏せろだとか、宥めてくれたりだとか……
その田沼は今、此処には居ない。
イノシシの体当たりの直撃を受けた訳ではない。倒れたところを狙われ、内臓を吸い出されてもいない。イノシシはすぐに加奈子を追ってきた ― 干からびた老人より、若い女子高生の方が栄養満点とでも思ったのだろうか ― ので、田沼は直接的な攻撃は受けていない筈だ。だからきっと、彼は生きている。
しかしイノシシの突進の余波を受け、彼は壁に叩き付けられていた。失神状態に陥っていてもおかしくない。気絶しているのに、どうやって助けてもらえるというのか。
自分だけでなんとかするしかない。
「(なんとか、なんとかしないと……何か、良いものは……!)」
山積みにされた雑貨の数々に目を通し、使えるものがないかを探す。しかしどれも本当に些末な……ボールペンだとか、油性ペンだとか、紙だとか、布だとか……雑貨しかない。日常生活ですらそうたくさんは使わないものばかり。この非常時に、どうすれば役立つというのか。
ずしん、ずしんと、イノシシの足音がする。
もう時間がない。加奈子は困惑する頭をフル回転させ、この場を切り抜ける策を考えようとする。しかし焦りが脳を浸食し、不安が理性を蝕む。策を思い描くどころか、思考の纏まりがなくなっていく。
だから、思い付いたものは……
「……フシュルルルル……」
それから十数秒と経った頃。イノシシが、鼻を鳴らしながら加奈子の居る部屋へとついに足を踏み入れる。彼は臭いを嗅ぎつつも、まずは目視で確認しようとしてか、辺りをキョロキョロと見渡した。
すると一つの、布を掛けられた『塊』を見付ける。
なんとも怪しい物体を、イノシシはじっと見つめる。物体の高さは、丁度人がしゃがんだぐらいあるだろうか。とはいえその物体は微動だにせず、やがてイノシシは興味を失ったのか物体から目を逸らした
途端、ごそごそと擦れるような音が鳴る。
――――何かを覆いかくしている、布の中から。
「……ブシュルルルルル……シュルウゥゥゥ……」
音を聞き取り、イノシシは笑みを浮かべた。或いは単に空腹により溢れ出した涎を吐き出すためか。半開きになった口から、だらだらと透明な粘液を零した。
イノシシはゆっくりと布が覆う物体の方へと振り返り、のそのそと歩く。その歩みは段々と速く、加速していき、
ついに我慢出来なかったのだろう。
「ブゴオオオオオオオオオオオオンッ!」
イノシシは工場全体が震えるほどの大咆哮を上げるや、弾丸の如くスピードで駆ける! 人間など瞬きするのが精いっぱいの刹那でイノシシは布に自慢の牙を突き刺した!
――――その瞬間、イノシシは理解した筈だ。
布が覆い隠していたものが、ただの空段ボール箱であった事を。勿論ミュータントでない彼には、その段ボールの中に入っていたスマートフォン ― マナーモードで目覚ましアプリが起動していた ― が先の音を鳴らしたとは気付くまい。されど己が謀られた事は察したようで、一瞬の戸惑いの後、憤怒で顔を歪める。
尤も、怒りをぶつける相手は自分を騙したものではなく、目の前の壁だ。止まろうと思えば多少は落とせたであろうスピードを、イノシシはむしろ加速させたまま突っ込む。コンクリートで出来た壁は簡単に砕け散り、イノシシの身体は壁の向こう側へと跳び出す。そこで彼は軽やかに身を反転させた。
が、前へと踏み出せない。
理由は至極簡単……イノシシの足下に、床はないのだから。
「……!? ブゴッ!?」
慌てて自分が先程まで居た部屋の床に、蹄のある前足でしがみつく。それから必死になって、跳び出す前の部屋に戻ろうとしていた。
そんな彼の行いを一部始終見ていた少女……加奈子は、このタイミングで物陰から出てイノシシと向き合う。イノシシは加奈子の仕業と理解したのか醜く吠え、対する加奈子は子供のような笑みを浮かべた。
加奈子の作戦通り、イノシシは壁を突き破ってくれた。お陰で彼は今、備品倉庫の隣……一階へと続く『空洞』へと出ている。よじ登る事に失敗すれば真っ逆さま、彼は二階から一階へと落ちるのだ。
無論、二階から落ちた程度では、猟銃すら跳ね返すイノシシにろくなダメージを与えられないだろう。身体能力から考えて、一階から二階へと跳び登るのもまた余裕な筈である。
しかし落ちる訳にはいくまい。
何故ならイノシシが落ちかけている場所は――――彼が体当たりをかました事で中身を零した、大量の廃液が満ちているのだ。
廃液保管庫の上、備品倉庫の隣に『空間』があった理由……それは廃液保管庫が一階から二階までの高さがあったからだ。イノシシが壊したタンクは一つだが、そのタンクの上にはもう一つのタンクが置かれていた。イノシシが落下し、脆くなったタンクにぶつかれば、上に積まれていたタンクもいよいよ落ちるだろう。そしてその中身……イノシシの身体を焼いた、劇物を全身に浴びさせるのだ。
大量の薬液を浴びたとなれば、身体の大半を失うに違いない。肉をも溶かす強酸だか強アルカリの液体だ。銃殺と異なり、再生する肉すら残さない事もあり得るという。このイノシシはとんでもないモンスターであるが、よもや死霊が取り憑いて云々といったオカルト存在でもあるまい。骨肉を全て溶かし尽くせば、如何に不死でも『死ぬ』筈である。
イノシシもそれを察したのか、必死になって備品倉庫側の床にしがみつく。とはいえイノシシの足は蹄だ。『崖』の切っ先にしがみつくには、あまりに向いていない作りである。
放置していてもそのうち落ちると思う。けれどもこのモンスターは、死をも克服した魔物だ。何か、とんでもない方法でよじ登る可能性がある。落とせるなら落とした方が良い。
「おっ。丁度良いものはっけーん」
何か良いものはないかと探した加奈子の目に、大型の機械が目に入る。どのような用途で使う機械かはさっぱり分からないが、そんな事は大した問題ではない。大事なのはその大きさと重さだ。
両手で持てば、加奈子の力でも十分遠くに投げ付けられるだろう。この機械をイノシシの頭目掛け投げ付ければ、怯んだ拍子に落ちるかも知れない。遠距離から攻撃するので、イノシシに吸い込まれる心配もない筈。
加奈子は早速機械を両手で抱え、イノシシの頭にぶつけてやろうと、高々と機械の塊を掲げた。
その体勢で、ぴたりと動きを止めてしまう。
何故ならイノシシは、今まで必死にしがみつこうとしていた腕を高く持ち上げ、
「ブギィッ!」
力強い掛け声と共に、床に自らの蹄を打ち付けたから。
その打撃は凄まじく、コンクリート製の床と激突したイノシシの蹄は、粉々に砕けた……が、それだけでは終わらない。
あろう事か、イノシシの前足はコンクリートの床に突き刺さったのだ。即ち足場を固定したのである。
これでは、イノシシは廃液保管庫に落ちてはくれない。それどころかしっかりと地面を捉えた事で、少しずつその身体を備品倉庫側へと移動させてるではないか。
「げぇっ!? なんつーしぶとさ……!」
イノシシが復帰すると分かり、加奈子は動揺を隠せない。
このままでは折角のチャンスが水の泡だ。なんとか突き落としたいが、今更頭に機械をぶつけたところで平然としているだろう。
しかし為す術なしという訳でもない。見たところ床に打ち込んだとはいえ、足はあまり深く突き刺さっていない。接近し、より強力な一撃をお見舞いすれば落っこちる筈だ。
とはいえこの獰猛な人食いイノシシに接近するのは恐怖でしかない。内臓を一瞬で吸い取るほどの肺活量があるのだ。迂闊に近寄れば吸い込まれ、餌食となるかも知れないと考えるのは、決して警戒し過ぎではないだろう。
無論接近し叩き落とさねば、このイノシシは這い上がってくる。死体の癖にやたら賢いこの怪物に同じ手が通用するとは思えない。このチャンスを逃せば、本当に、いよいよ以てお終いだ。
近付かなければならない。だけどその勇気が持てない。時間がない。逸る感情ばかりが胸の中に溢れ返り、加奈子は息を荒くしながらイノシシと向き合い――――
決断するよりも前に、加奈子の横を何かが通った。
「うおおおおおおおおおおおおおっ!」
そしてその何かが田沼である事を、加奈子は彼の上げた咆哮によって知る。
田沼は、両手で鉄パイプを握り締めていた。まるで槍のようにパイプを突き出し、突撃する姿はさながら中世の騎士……否、石器時代の狩人の如く勇ましい。
或いはその通りか。
田沼は恐れを知らぬ戦士のように、イノシシの鼻先に鉄パイプを突き立てる! イノシシは突然の攻撃に驚いたのか、目を白黒させながら短い悲鳴を漏らす。
されどイノシシとてケダモノだ。致命傷へと至らない打撃に何時までも怯みはしない。一瞬の戸惑いはすぐに消え失せ、おどろおどろしい叫びを上げながら田沼を押し返し、這い上がろうとしてくる。
田沼は少しずつ、その身を押し返された。相手は正真正銘のモンスターなのだ。純粋な身体能力ではとても勝ち目などない。
だが、田沼は踏み留まる。
「ぐ、ぎ、ぎぎぎ……!」
「ブギ……!? グギ、ギッ、ゴ、ゴオオオオッ……!」
歯を食い縛る音、獣の唸り、張り詰める気迫……全てが拮抗していた。ただ一人の人間が、進化を続けたモンスターとのつばぜり合いを繰り広げている。
田沼は六十代の、言わば老いた男である。デスクワークに励んでいた同世代と比べれば若々しい肉体を保っているが、二十~三十の大柄な若者と殴り合えばあっさり負けるだろう。時々腰が痛い時もあるし、疲れやすくもなったと加奈子に愚痴った事もある。
対するイノシシは目にも留まらぬ速さで駆け、コンクリートの壁をぶち抜くほどの
力がある。しかも自分達と出会ってからぶっ続けで走り続けるほどの体力を有す。怪我は瞬時に癒え、例え死んでもすぐに蘇生する。
どう考えても田沼 の肉体が挑める相手ではないだろう。例え今のイノシシがどれだけ不利な体勢であろうと、パワー・スピード・スタミナの全てを上回るのだ。知恵を用いようとも、何もかもが圧倒的な存在の前では小細工に過ぎない。
勝てるとすれば、気持ちのみ。
……されど感情は、人間が進化によって会得したもの。
人間はどんな生き物よりも感情の強さを知っている。感情が己に力を与えてくれる事を理解している。昂ぶった想いを受け取った全身の筋肉がリミッターを解き、人間本来の『野生』を取り戻す。
人間が弱いというのは、人間側の驕りである。
科学の発達により人間の身体能力は衰えたと、数十億年の進化で会得した肉体よりも知恵の方が上だと思い込んでいる……実際には、人間の身体は強い。その気になれば自然界で十分生きていけるほどに。
そして猟師は、その自然界と何度も触れ合ってきた人間だ。
「……お前さん、本当に強いな。人間が何百人も束になっても勝てなくて、こんな卑怯な条件でやって、まだ互角なんだからよ」
「ギ、ゴ、ゴゴ、オオオオオ……!」
「本当は、こんな風に討ち取るのは本意じゃねぇが……だけど、これ以上、人を食わせる訳にはいかねぇ……猟師ってのは、そういう動物を、退治すんのも、役割だからな……!」
「ゴガオッ! ブギッ! ビギィッ!」
イノシシが吠えた。プライドなどなく、野生の本能を剥き出しにしながら、よじ登ろうとしている。
しかし前へと踏み出したのは、田沼の方。
「ブギッ! ゴッ、ゴオッ! ブギギギィィ……!」
イノシシは自身の身に起きた事を否定するかの如く、必死な叫びを上げた。四肢をばたつかせ、鼻息を荒くする。しかしイノシシが這い上がる事は叶わず、少しずつ、その身は大きく傾く。
そして、
「これは私怨で申し訳ないが、ついでに一言言わせてくれ……猟師を、あまり嘗めんじゃねぇぞバケモンがぁっ!」
田沼の渾身の力が、イノシシを押し退けた。
イノシシは踏ん張ろうとしたが、床に突き刺した足が抜ける。身体は飛ぶように床の切っ先から離れ、四肢をばたつかせながら落ちていく。
そしてその巨躯が向かう先は、己が体当たりを喰らわせ、拉げてしまったタンク。
自身の身体による一撃を再び喰らわせてしまい――――二つ積まれたタンクは、ついにバランスを失う。下に置かれたタンクの凹みに従い、上に積まれたタンクはイノシシ目掛け落ちる。
「ブ、ブギイイイイイイイイッ!?」
イノシシの救いを求めるような悲鳴が、工場内に響く。
生憎、此処に彼を助けてくれる者はいない。助けられる者もいない。
故に彼は巨大なタンクの下敷きとなり、
大量の廃液の雪崩に、巻き込まれる事となるのだった。
逸般人はおっちゃんの方でした。
次回は6/22(土)投稿予定です。




