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彼女は生き物に好かれやすい  作者: 彼岸花
第十四章 輪廻拒絶

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輪廻拒絶7

 町外れの丘の上に、とある化学工場がある。

 高度経済成長期を迎えた数十年前に建てられたもので、バブル崩壊後もなんやかんや稼働していた……が、二年ほど前についに倒産。本来ならちゃんと取り壊すべきそれは、詳しい事情は不明だが、未だこの地に残り続けている。今ではチンピラやホームレスの溜まり場となり、地元の治安悪化に貢献していた。

 加奈子は今、その廃工場に向かっている。

 浩一達の家から走る事約三十分。趣味で色々なアウトドア体験をし、鍛え上げられた足腰は、練習をサボり気味な運動部員程度なら追い抜くパワーがある。加奈子は疲れを覚えながらも必死に走り続け……小高い丘を登り、廃工場の前に辿り着く。

 廃工場の敷地への入口には金網のフェンスがあり、扉のようになっている部分は立ち入りを禁止するため南京錠による施錠がされていた。金網を掴んで揺すってみたが南京錠は外れず、扉も開かない。

 しかしこのフェンスは有刺鉄線でもなく、網と言っても手足を射し込めるぐらいには穴が大きなものである。加奈子は一度自分の背後を振り返り……それから慣れた手付きでフェンスに手足を掛け、ひょいひょいと登り、軽々と乗り越えて敷地内に着地した。

 耳を澄ませてみれば、なんの音も聞こえない。チンピラやホームレスだけでなく、虫の音すらも。彼等も獰猛なイノシシの話を聞いて逃げたのか、はたまた夜になると酷く冷えるこんな場所には居たくなかったのか。

「ま、その方が好都合だけどねー」

 加奈子は能天気に独りごちながら、敷地の奥へと進む。それから、さてどちらに進もうかと考え

「加奈子! おいっ!」

 込もうとしたところ、ふと聞き慣れた男性の呼び声が聞こえた。

 振り向けば、加奈子ほどではないがフェンスを軽々と乗り越えようとする男――――田沼の姿があった。加奈子は目を見開き、慌ただしく田沼に駆け寄る。

「えっ!? おっちゃん来ちゃったの!?」

「来ちゃったも何も、お前が一人で勝手に走り出すからだ! 一体何処に行くつもりだったんだ!?」

「んっと、人気のないところだけど……」

「……成程、確かにあのイノシシは人食いだから、人がいない場所の方が安全かも知れん。だがな、一人で行動したり、車も使わずに逃げるのは危な過ぎるだろ」

「……うん、ごめんなさい」

 加奈子が素直に謝ると、田沼は面食らったように目を丸くした。普段らしからぬ態度に余程動揺したのか、逃げるように目を背ける。

「あ、いや、まぁ、人気のないところに逃げ込むというのは悪い案じゃないかもな」

 それからぶつぶつと加奈子の行動をフォローするような言葉を呟き、

 途中で、その声は止まった。

 加奈子から視線を逸らした田沼は、見てしまったのだ。加奈子が廃工場に侵入する前、振り返った時に見たのと同じものを。

 丘の下に広がる夜の町並み……その町並みを煌々と照らすおぞましい赤い輝きが、段々と伸びている。

 そして光は、加奈子達が立つこの廃工場に近付いてきていた。

「おいおいおい……何回俺達のところに来るんだ、運が悪いにも程があるぞ……!」

 赤い光――――イノシシが暴れ回った結果生じたであろう火災を目の当たりにし、田沼は苛立った悪態を吐く。田沼が言うように、これが偶然ならあまりに不運だ。

 しかし必然だったなら?

「ううん。おっちゃん、多分そうじゃない」

「……何?」

「多分、アイツは私を狙ってる」

「そんな馬鹿な。何を、根拠、に……」

 加奈子が述べた意見に、田沼は言葉を詰まらせる。

 確かに根拠などない。

 しかし一日の間に『四度』も自分の居る方へと向かっているとなれば、そう考えるのが妥当だと加奈子は思った。事実廃工場のある方……人気のない場所に来てみたが、イノシシは進路を変えてこちらに来ている。餌を求めているのなら、人の多い住宅地へと進む筈だ。

 別段、自分の所為で人々が、なんて殊勝な考えを加奈子は抱かない。加奈子と出会う前からイノシシは人を食っていたのだから、加奈子と出会わなくても人を襲い、猟師に撃たれ、手の付けられない怪物と化しただろう。

 むしろ自分が狙われているからこそ、こうして人気のない場所まで誘導出来たというものだ。そしてこの人気のない場所で、イノシシから逃げ続けて時間を稼ぐ(・・・・・)。助けに来てくれると言っていたミリオンが此処に到着する、『何時か』まで。

 それが何時になるかは分からないが、上手くいけばイノシシによる犠牲者はもう出ない。みんなの『楽しい』を守れる。

 なら、身体を張るだけの価値があるだろう……加奈子はそう考えており、そして思惑通りに事が進んでいた。

「いや、だとしたらこんなところでじっとしていたら危ない。早く逃げるんだ! 少しでも遠くに……」

「逃げない。ここで迎え撃つ」

「迎え撃つ!? 何を言ってる!?」

「友達に、あのイノシシをやっつけられる子がいるの! あの子が来るまでの時間稼ぎ!」

「はぁ!? 警察でも敵わないような奴を、どうやって倒すんだ!」

「知らない! でも絶対大丈夫!」

 加奈子は力強く、そう答える。あまりにも傍若無人な返答に、田沼は後退りした。

 それから田沼は頭を掻き毟り、小さくないため息を漏らす。

「……本当に、あのイノシシを倒せる奴なのか?」

「うん。めっちゃ強いよ。おっちゃん、初めて見たらきっと腰を抜かすよ?」

「……………」

 加奈子が冗談交じりに伝えると、田沼はしばし黙り込んでしまう。しかしその顔付きに、加奈子の言い分を疑っている様子は微塵もない。

 田沼は知っている。加奈子は平気で嘘を吐くが、それはあくまで人を楽しませるためのものだと。楽しくならない嘘は吐かない性格である事を。

 小田加奈子という少女は、真剣な顔で嘘を吐けるような人間ではないのである。

「……分かった。お前の言い分、信じてやる」

「えっ!? 本当に信じてくれるの!?」

「ああ。それに本当に俺達を追っているのなら、お前を無理に引っ張ったところで意味なんかないだろう。下手に追い駆けっこをするより、こういう廃工場に隠れた方がやり過ごせるかも知れん」

「おっちゃん……」

「とはいえお前一人に全部を任せるなど、そんな事大人として出来ないからな。俺もお前の手伝いをしてやる。良いな?」

「うぐ……それは……」

 加奈子は言葉を濁らせる。出来れば田沼を危険に晒したくない。大切な釣り仲間で、頼れるおじさんであり、一人の友人でもある彼には、安全な場所に居てほしいのだから。

 しかし田沼の真摯な眼差しに、こちらの『願い』を受け入れてくれる気配は微塵もない。

 今度は加奈子が折れる番だった。

「ううぅー……分かったよ。あくまで時間稼ぎだからね?」

「それはこっちの台詞だ。さて、あのイノシシはあとどれぐらいで此処に……」

 加奈子が受け入れると、田沼は心なしかうきうきした様子を見せながら、再び丘の下に拡がる町並みに目を向ける。

 途端、彼はその目を大きく見開いた。

 何かに驚くような素振り。気になった加奈子は、田沼に声を掛けてみる。

「おっちゃん、どうしたの?」

「……イノシシの奴、こっちとは全然違う方に移動してないか?」

「へ?」

 訊いたら、田沼から想定外の質問が。

 加奈子も田沼と同じく、もう一度丘の下に広がる町並みに目を向ける。今も町は燃え盛り、煌々と赤く輝いていた。

 そして恐らくはイノシシが居るであろう光の先頭部分は、先程まで自分達が居る工場を目指していたのに、今ではすっかり反対方向に向かっている。と思ったら方向転換し、かと思えば別方向に……頻繁に進路を変更して、何処に向かうか全く分からない。

 これ、やっぱり適当に動いてるだけなんじゃない?

「……あるぇー?」

「あるぇー? じゃねぇよ馬鹿! 俺達の事なんて全く関係ないじゃねぇか!」

「いいいいやほらもしかしたら遠過ぎて分かってないかもだし! あ、ほら! またこっち来てるから!」

「近くにパトカーのサイレンみたいな明かりが見えるぞ。警察や猟友会のお陰で、人気のない場所に誘導されてるだけじゃねぇかなぁ……」

 項垂れ、ため息を吐く田沼。

 加奈子もまた、引き攣った笑みを返すのが精いっぱいであった。

 ……………

 ………

 …

 パトカーが、目の前で宙を舞う。

 ぐるんぐるんと回転し、大地に墜落した瞬間、燃料のガソリンに引火したのだろうか。パトカーは爆発し、車体前方部分が粉微塵に吹き飛んだ。中の運転手がどうなったかは……楽観的な加奈子でも流石に諦めるしかない。

 出来れば冥福を祈りたいところだが、されどそんな余裕がない事を加奈子は知っている。

 パトカーを突き飛ばした張本人――――人食いイノシシが、廃工場の敷地内に入ってきたのだから。

「ほ、ほら、私の作戦通り、此処にやってきたでしょ!」

「警察の人の努力を無視するんじゃない。とりあえず手だけでも合わせておけ」

「はい……」

 目を開いたまま手を合わせ、田沼の言う通りにした。

 加奈子と田沼は今、廃工場の二階部分のとある部屋 ― 恐らくは事務室として使われていたのであろう ― に身を潜めている。窓からこっそり外の様子を窺い、イノシシの動向を確かめていた。人家から離れたこの廃工場周辺に街灯はなく、本来はとても暗いのだが、パトカーから噴き出す炎が辺りを照らす。敷地内に入り込んだイノシシの動きは、とてもよく見えた。

 イノシシは燃え盛るパトカーに近付こうとする……が、熱いのが嫌なのか、本能的に恐怖しているのか、中々傍まで寄れない。何度か挑戦していたが、途中で引き返す。

「ブギアゴオオオオオオオオオッ!」

 ついには苛立ちに塗れた咆哮を上げ、悔しさを露わにする。大気を震わせるほどの絶叫は工場の窓を揺らす、否、砕くほどの威力を有す。ミシミシと建物全体が軋み、今にも崩れ落ちそうだ。

 イノシシの叫びは、加奈子達が避難所を脱出する直前と比べ、明らかに強くなっていた。警察や猟師達の奮闘により、また死んだ(・・・)のだろう。最早その叫びはイノシシらしさすら欠け、モンスターの雄叫びのようである。

 こんな『怪獣』から逃げ続ける事など出来るのか?

「(さぁて、どうすりゃ良いのかなぁ。これ)」

 加奈子には、良い案など浮かばなかった。とはいえ完全な無策という訳でもない。

 ミリオンは言っていた。頑張れば人間一人でもあのイノシシを倒せるかもと。ミリオンはイノシシを直に見た訳ではない……と言いたいが、彼女はインフルエンザウイルスであり、小さな個体の集まりだ。分散し、町全体を見渡せる。イノシシの事を聞き、少しは調べに来ている筈だ。そして予想と違っていたなら、きっと電話かメッセージで教えてくれる、筈。ヒントをあげる、と言った時の口振りも自信満々だったので、それなりの根拠がある……筈。

 筈、ばかりで少々不安になるが、ともあれ人間でも不死身のイノシシを完全に倒せるのだと加奈子は考える。きっと、なんとかする手立てがあるに違いない。

 勿論イノシシがこの場をすたこらさっさと立ち去る場合、石の一つでもぶつけてこちらの存在を主張するような真似は怖くて出来ないが……

「ありゃあ、気付いてんな」

 田沼が言うように、イノシシは恐らく自分達の存在を察知していると加奈子は感じた。

 何しろパトカーをひっくり返してからずっと、執念深く廃工場の敷地内の臭いを嗅いでいるのだから。

「うわぁ……めっちゃ臭い嗅いでる……」

「イノシシの嗅覚は、犬に匹敵すると言われている。そして犬は、訓練を受ければ犯人追跡のような真似が可能だ。イノシシも土に残った臭いから、俺達……というより人間の痕跡を辿るのは可能だろう」

「……それ、もしかしたら工場に入ってくるだけじゃなくて、二階まで来るかもって事?」

「かも知れないな」

 淡々と答える田沼だったが、加奈子は背筋が一気に冷たくなるのを感じた。工場の二階部分は、基本的には此処のような事務室的な部屋ばかりとなっている。逃げ場がなく、もしこんな場所で見付かったらその時点でアウトだ。

「移動するぞ。もう少し開けた場所の方が良い」

「う、うん」

 田沼の意見に、加奈子は反対せずに従う。

 部屋から加奈子達が出た、のとほぼ同時に、バギンッ! と金属が砕け散るような音が一階部分から聞こえた。イノシシがついに工場内に侵入してきたのだと、加奈子はすぐに察した。

 二階の廊下には、転落防止のためか簡素な柵がある。逆に言うと柵しかない訳だが、そのため一階の様子を窺い見る事が可能だった。無論一階から見上げれば二階廊下を通る人影も見えてしまうが、今の加奈子にはイノシシが何をしているか分からない方が不安だ。

 出来るだけ身を屈めながら、加奈子は柵の隙間から一階を覗き込む。

 予想通り、一階にはイノシシが侵入していた。イノシシが居るのはエントランスホール……要するに受付部分であり、少し開けた場所である。

「ギイアゴオオオオオオオオオッ!」

 イノシシは叫びを上げ、怒り狂ったように辺りに頭突きをかましている。コンクリート製の壁が豆腐のように崩れ、建物全体が小さく揺れた。

 正直、二階に逃げ込んだのは失敗だったかも知れないと加奈子は思い始める。イノシシが上がってきた時に逃げ場がないのもそうだが、イノシシが暴れ回って建物が崩れた時、逃げるのに時間が掛かってしまうからだ。

「おい、あまり覗き込むな。気付かれたら不味い」

「う、うん」

 さっさと逃げるに限る。促されるまま、加奈子は柵から離れ、田沼の後を追おうとした。

 その最中に、カツンッ、と音が鳴る。

 ぞわりと、加奈子は全身が震えた。恐らくは田沼も。加奈子が音のした方を見れば、ポケットから落ちたであろうスマホが廊下に転がっていた。

 息を潜め、周囲の物音に意識を集中する。一階部分から聞こえてくるのは……未だイノシシの雄叫びと、壁に頭を打ち付ける音だけ。どうやら餌探しに夢中なようだ。安堵し、二度とこんな失態はしまいと心に誓いながら加奈子はスマホに手を伸ばした

 直後、スマホがムームーと音を立てるように震動した。

 マナーモードのバイブレーションだった。コンクリート製の床ととても相性が良いようで、中々に良い大きさの音を奏でる。加奈子はそっとスマホを手に取り、ポチッと通話ボタンを押した。

「……はい、もしもし」

【あ、加奈子? 今暇してる? いやー、実はさ今日バイトですっごいムカムカする事があって】

「晴ちゃん、ちょっと今は無理。また後でね」

【へ?】

 電話越しの友達(晴海)に一言告げ、加奈子はスマホの電源を落とす。

 晴海は全く悪くない。悪かったのは『間』だけである。或いは電源を切り忘れていた自分自身の責任か。

 なので恨むだとか憎むだとか、そういった感情は加奈子の中にはない。ないので、スマホを放り投げたりする事もなく、丁寧に制服のポケットにしまっておく。

 それから恐る恐る、柵の隙間からすっかり(・・・・)静かになった(・・・・・・)一階部分を覗き込む。

 二階部分を見上げていたイノシシと、思いっきり目が合ってしまった。

「(で、ですよねぇ~)」

 引き攣った笑みを浮かべながら、何事もなかったかのように身を引っ込めてみる。相手は死体だ。もしかしたら目なんてろくに見えていないかも知れないし、見えたところで餌だとは分からないかも知れない

「ゴアゴオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 などという加奈子の甘い考えは、咆哮と共に打ち砕かれた。

 瞬間、加奈子はその場から飛び立つようにダッシュ! 身を隠す事を止め、急いで離れようとする。

 この決断は正しかった。

 何故なら一階に居たイノシシが、柵をぶち破るほどのスピードで二階まで跳躍してきたのだから!

「ギア! ゴアアア!」

「ひいっ!?」

「加奈子! こっちだ!」

 先程まで自分の居た場所で暴れるイノシシの姿に震えるも、田沼の声で加奈子はギリギリ自我を保つ。田沼の後を追い、加奈子は廊下の奥へと進んだ。

 イノシシは体重を支えられなかったのか、柵から転がり落ちる。とはいえ二階から落ちた程度で再起不能に陥ってくれるなら苦労はない。イノシシは再度一階から二階へとジャンプ。柵を破壊し、今度は悠々と二階まで上ってきた。

 そして加奈子達が逃げる方目掛けてダッシュ。

 一瞬にして車など比にもならない速さまで加速したイノシシは、されどその寸前に加奈子達が曲がり角を曲がったため、自分だけが壁に突っ込む! 後ろを振り向いた加奈子の目に、壁に頭が突き刺さった、最早一種のギャグのような姿を晒したイノシシが見えた。

 出来ればあと数時間ほどそのままでいてほしいところだが、突き刺さったのは頭まで。四本足で踏ん張れば、簡単に引っこ抜けてしまう。犬が身体に付いた水を飛ばす時のような動きで、イノシシは頭に付いた埃やコンクリート片を振り払った。どうやらダメージは殆どないらしい。

「おっちゃん! 速く速く速くぅ!」

「せ、急かすな! こっちはとうに全力疾走してんだよ!」

 加奈子は田沼の背中を押し、少しでもイノシシから逃げようとする。

 幸運だったのは、二階の道がとても狭い事、そして廊下の片側が柵で仕切られ、その下が一階エントランスにつながっていた事だろう。大柄なイノシシが全力疾走するには、人二人が横並びになるだけで塞がる道は狭過ぎる。勿論車すら簡単にひっくり返すこのイノシシのパワーならば、コンクリートの壁を粉砕する程度訳ないだろうが……同時に、柵を粉砕するのはもっと簡単だ。つまり壁にぶつかった際の反動や、勢い余ってよろめくなどして柵に寄り掛かる形になれば、呆気なく一階に転落する。一階から落ちても死なない事は先程実証されたばかりだが、加奈子達を取り逃がす可能性は高くなるのだ。

 死体でありながらそうしたところにも頭が回るようで、イノシシはスピードを落として廊下を駆ける。お陰で加奈子達はなんとか逃げ続ける事が出来ていたが、しかし直線での速さはそれでもイノシシの方が上。このままでは追い着かれてしまう。

 何か、作戦を練らなければ……

「っ、加奈子! 行き止まりになる! 階段を下りろ!」

「ふぇ? あ、うんっ! 分かった!」

 考え込もうとした加奈子だったが、田沼の声が思考を現世に呼び戻す。田沼の後を追い、加奈子達は廊下を駆け下りた。

 加奈子達を追うイノシシは階段の前で一度立ち止まるや、猛然と駆ける。人間のような、転倒を恐れる走り方ではない。正しく暴走車が如くスピードで一気に駆け下りながら、大きな口をばっくりと開いて

「伏せろ!」

「ぎゃぶっ!?」

 その直前に、田沼が加奈子の頭を力いっぱい下へと押し付け、しゃがみ込ませた。

 結果、勢い余ったイノシシは加奈子達の頭上を跳び越えるように通過。

 一階エントランスにイノシシは墜落し、その後ボールのように転がった。どれほどのスピードが出ていたのか、床のコンクリートが抉れ、四肢とぶつかった柱の一部が粉砕される。直撃を受けたなら、今頃加奈子は苦しまずにあの世だったろう。

 さしものイノシシも、自分自身の力で転倒したとなると簡単には止まれないらしい。延々と転がり、ついには壁に激突。

 建物自体が老朽化していたのか、或いはイノシシのパワーの大きさからか。イノシシが激突した壁が崩れ落ち、生き埋めにしてしまう。

 これで身動きを封じる事が出来た……と考えるのは楽観が過ぎる。

「こっちだ!」

 田沼の呼び掛けに応じ、加奈子は彼と共にこの場を離れる。

 数秒後、物陰まで移動出来た加奈子達の耳に、爆音と、怒り狂った獣の雄叫びが届くのだった。

 ……………

 ………

 …

「……どうやら、こちらを完全に見失ったようだな」

 廃工場の食堂の奥、もう使われていないキッチンに身を潜みながら、田沼は小さく独りごちた。

 食堂の外からは、今もイノシシの咆哮と破壊音が聞こえる。

 しかしその音は割と遠くから聞こえるもので、少なくともこちらの居場所に気付いているようなものではない――――加奈子も田沼と同意見であり、一息吐いた。

 そうして落ち着いた頭で、今の自分が置かれている状況を考える。

 食堂内を照らす月明かりを取り込んでいる窓は高い位置にあり、梯子なしでそこから外へと出る事は不可能。キッチンの奥にある外へと通じる扉 ― 恐らく食材の搬入口だろう ― は鍵が壊れているのか、開ける事は出来ない。田沼と二人掛かりでなら扉を破壊する事は可能かも知れないが、それをしたら大きな音を鳴らし、間違いなくイノシシに気付かれる。

 残す脱出経路は食堂に入るため通った『道』だけ。しかし食堂の出入口は一階廊下につながっており、そこは今もイノシシが徘徊している。つまり食堂を通ろうとすれば、イノシシの巡回コースを横切る訳だ。これは自殺行為であろう。

 つまるところ今の加奈子達は、キッチンの中に閉じ込められているようなものだった。逃げ出す道がない、袋小路に身を隠すというのは精神的に中々辛いものがある。

 尤も、元よりこの廃工場にイノシシを誘き寄せ、逃げ続けるという作戦だ。外に出られないのはある意味どうでも良い事。何も出来ないのはちょっと悔しいと思う加奈子だが、時間稼ぎになればそれで良い。ミリオンが来てくれる時間まで耐えれば、それはそれでこちらの『勝ち』だ。

「……すまない」

 なのでこの状況に対し不満は特にないのだが、ふと田沼が謝ってきた。加奈子がその声に反応して顔を覗いてみれば、何故だか神妙な面持ちをしている。

「? どしたのおっちゃん。そんな顔して」

「釣りの後、言っただろ。俺は元猟師だって。昔ならクマだって狩れたのに、今の俺はイノシシ一匹倒せないどころか、子供一人守れないでいる。守ってやるって啖呵を切りながら、この様か……」

「おっちゃん……」

 悲痛な想いを吐き出し、田沼は俯く。加奈子はそんな田沼に声を掛けようとして、しかし止めた。

 ……あんな怪獣染みた奴に勝てる猟師なんて世界中の何処にもいないでしょ、とか思ったので、別に田沼の気持ちを理解した訳ではないが。というより半分呆れている。全盛期の田沼は、田沼の中でどんな超人として描かれているのだろうか?

 大体、田沼は勘違いしている。もう十分過ぎるほど、守ってくれているのに。

「もう、おっちゃんったら背負い過ぎだよ。あと、もうたくさん守ってくれてるじゃん。初めてイノシシと遭った時からずっと。さっきだって、階段で頭を押さえてくれなかったらお陀仏だったし」

「……いや、しかし……」

「しかしもかかしも、おかしもだがしもなーい! 私は助けられたって思ってるんだから、それで良いのだ! だからおっちゃん、ありがとう!」

 にっこりと満面の笑みを浮かべながら、加奈子は田沼を激励し、感謝の言葉を伝える。

 その言葉に、田沼が何を思ったのかは分からない。分からないが、少しだけ目を潤ませ、彼はそっぽを向いた。そういや歳を取って涙腺が緩くなったとか言ってたなぁ、夏にやってる戦争映画で最近よく泣くとかなんとか……などという話を思い出し、おちょくりたい衝動に駆られる加奈子だったが、流石に今ぎゃーぎゃー騒ぐのは不味いので口を閉ざしておく。

 しかしながら加奈子は基本欲望にストレートな人間である。田沼を眺めていると、この衝動を我慢出来なくなりそうだ。とりあえず目線だけは逸らしておこうと、加奈子はそっぽを向いた。

 そうして別方向に向けた視線に、ふと映るものがある。

 キッチン内に張られた、紙のようなものだった。やたら大きくて、しかし献立表にしては直線的な紋様が数多く見える気がする。暗くてよく見えず、正体が気になった。

「……おっちゃん、あの紙、なんだと思う?」

「ん? ……すまない、暗くてよく見えないな」

「じゃあ、取ってくる」

 田沼が引き留める言葉を発する前に、加奈子は素早く紙の下へと走り寄る。イノシシが近くに居ない事を祈りつつ、ピン留めしている紙を引っ剥がすようにして回収。田沼が待つ物陰へと戻った。

 手元まで持ってきた訳だが、やはり紙に書いてあるものは暗くてよく見えない。が、献立表ではないだろうし、キッチン内での注意事項でもないだろう。そうした内容を記すのに、紙全体に描かれた無数の四角形が必要とは思えないからだ。

「……おっちゃん、ちょっと一瞬スマホの電源を入れるよ」

「ああ、そうしてくれ」

 田沼の了承を得た上で、加奈子はスマホの電源を入れる。素早くカメラモードを起動し、ライトを点灯させた。

 明かりを向ければ、紙の正体は一瞬で明らかとなった。

 地図である。

「……この工場の地図、かな?」

「恐らくそうだろう。大方此処で作った弁当や定食を、社長室とか、会議室に配膳するためのに使ったんじゃないか? 使う機会は少なそうだがな」

「あー、成程。そういう使い方もあるのか」

 仕事が忙しい時は、現場に弁当を送り届ける訳か……などと納得しつつ、加奈子は地図を眺める。

 工場だけに、この建物が中々複雑な作りをしている事が地図から分かる。一階部分には廃液管理室だの廃材保管庫だのの言葉が数多く書かれていた。二階にあるのは備品倉庫や薬品保管庫、休憩室などの文字。一階は主に製造関連の場所で、二階は社長室や会議室などの事務的な部屋という具合に分かれている。

「(……あれ?)」

 そうした地図を眺めているうちに、加奈子はふと気付いた。ある部屋の大きさが奇妙な事に。

 図面の寸法は、恐らく一階と二階でそう違いはない……つまり図面を重ねた時、一階と二階の部屋が重なり合う筈である。

 ところが一ヶ所、何故か二階のどの部屋とも重ならない一階の部屋がある。そこに書かれている名前は廃液保管庫。二階では備品倉庫と資料室の間に挟まれた空間になっているため、恐らくは意図的に、廃液保管庫の上には部屋が作られていないのだろう。だとするとこの場所は……

 何が役に立つのか分からないので、加奈子は頭の中にこの情報をインプットしておく。

 その直後、不意に工場全壊がビリビリと揺れ始めた。

「……何?」

「イノシシが暴れているんじゃないか?」

 揺れへの疑問を呟くと、田沼は自分の考えを伝えてくる。確かに、それ以外の理由はないだろう。加奈子もそこに疑念は抱かない。

 しかし違和感がある。

 今までも振動はあった。だがそれは暴れる度に伝わってくる、不定期で激しい揺れである。対して今建物や自分達の身に伝わる震動は、途切れなく、緩やかなものだ。

 田沼も後から加奈子と同じ違和感を覚えたのか、警戒心を露わにした表情を浮かべる。加奈子は思わず息を飲み、田沼の傍に寄り添った。

 揺れは段々強くなっている。すると、徐々にだが奇妙な音も聞こえるようになってきた。最初は地鳴りかと思ったそれは、野性味溢れる咆哮であり、ケダモノの唸り声であった。

 即ち、イノシシの叫び。

 イノシシが何か、大きな声を出している――――その事実に気付いた時には、全てが手遅れだった。いや、気付いたところで何が出来るというのか。

 工場そのものが声によって揺さぶられ、柱や屋根が崩れようとしているのを、どうやって止められる?

「ま、不味い!? 建物が崩れる! あの化け物、獲物が見付からないからって建物ごとぶっ壊すつもりか!?」

「えっ、え? く、崩れるの!?」

「分からん! だが逃げた方が良い!」

 田沼に手を引かれ、加奈子は立ち上がる。田沼が先陣を切り、イノシシの姿が食堂にはない事を確かめてからキッチンを出て、廊下にもいない事を確かめてから食堂を出た。

 イノシシの叫びは未だ止まらず、建物の揺れが収まる気配はない。工場内の窓ガラスが割れ、柱は軋み、天井からパイプが落ちてくる。田沼の予想が現実になろうとしているのを、加奈子は受け入れざるを得ない。急いで逃げないと、ぺっちゃんこだ。

 田沼に手を引かれ、廊下を進み……ついに加奈子達は工場の出入口がある廊下の曲がり角まで来た。此処を曲がれば出口は目の前。ようやく目的地に辿り着いた、のだが――――そこで二人とも足を止める。

「……まぁ、そりゃあ、そうするよなぁ」

「そりゃあ、そうするでしょ。私でもやるもん、これは」

 田沼が独りごちた言葉に、加奈子は同意を示す。

 イノシシが居た。よりにもよって、工場と外界をつなぐ唯一の出入口の前に。

 当たり前だ。この揺れが獲物を炙り出すための行為であるなら、獲物の逃げ道を塞がねばならない。絶対に此処に来る、という場所を塞ぐ事で、獲物が自らの口の中に跳び込むようにする……ちょっと賢ければ、誰でも出来る狩りの仕方だ。脳みその腐りきった死体がそれをやるとは、あまり思いたくなかったが。

 逃げるチャンスがないか、加奈子は廊下の角からイノシシの様子を窺い見る。

 イノシシのしている事は、正確には雄叫びではなかった。建物に身体を密着させ、震動させている。その震動が咆哮染みた重低音を奏で、壁から伝わった揺れが建物全体に拡がっているようだ。お陰で田沼と小声での会話が出来る程度には、近付いても騒音は酷くない。尤も、このぐらいしか嬉しさはなかったが。

 採るべき策の方針は二つ。

 一つは、工場の別の出入口から脱出する事。しかしながら廃工場内の出入口は軒並み施錠されている。しかも外側から、南京錠を用いて、だ。加奈子が侵入に使った入口 ― つまり今イノシシが塞いでいる場所である ― は、ドアが経年劣化によりボロボロで、二人掛かりで壊せたから使えた通路なのだ。他の出入口も二人掛かりで破壊出来るとは思うが、大きな音を立てればイノシシは勘付くだろう。

 そうしたら追い駆けっこの始まりだが、生憎加奈子は自動車以上のスピードと競争して勝てるほどの身体能力はない。工場という入り組んだ建物内だから今の今まで無事だったのであり、開けた場所に出たらお終いだ。だからといって無理矢理開ける必要がない、鍵の掛かっていない扉を探そうにも、あるのかどうか分からないし、そんな悠長をしている暇はないと思われる。

 だとするともう一つの策しかないのだが、これを選ぶ訳にはいかない。

 誰かが囮となってイノシシを惹き付け、その隙にもう一人が逃げ出すなんて、加奈子には出来ない。やりたくない。

「……良し、俺が奴の気を引き寄せる。その隙にお前は逃げろ」

 なのに田沼は平然と、自らが囮になる旨を提案してきた。

 加奈子の答えは決まっている。そんな提案、お断りだ。

「やだ」

「ワガママ言うんじゃない。それとも他に案があるのか?」

「ないけど、でもこれから考えるもんっ」

「そんな時間ないだろ。今にも建物が崩れそうなんだ……これしかない」

 加奈子は否定の意思を小声で示すが、田沼もまたその意思を変えようとしない。説得しようとする加奈子だったが、しかし田沼の言い分も正しい。それに反論しようとすると感情が昂ぶり、大声を出してしまいそうになる。

 理性と感情がせめぎ合い、加奈子の気持ちをぐちゃぐちゃに掻き乱す。納得出来ないのに、納得するしかない。それが嫌で、嫌で、堪らなく嫌で――――

「ふんっ!」

「ぬっ!?」

 加奈子は衝動に従い、田沼に膝かっくんをお見舞いした。不意打ちを喰らい、田沼は声こそ必死に抑えたものの、身体の方は大きく傾く。

 その傾いた身体を支えるために、田沼は偶々近くにあった扉部分に手を付いた。

 瞬間、バキンッ、と金具のへし折れる音がする。

 続いて扉が、ドアノブを握ってもいないのに開いた……否、扉全体が奥に向かって倒れる。ここで素早くドアノブを握れば倒れるのを防げただろうが、扉として想定外な動きに加奈子も惚ける事しか出来ない。

 どぐしゃあっ! という効果音でも付けるべきだろうか。扉は加奈子達の置かれている状況などお構いなしな、とても大きな音を工場内に響かせた。

 そして扉の音と共に、工場の揺れはぴたりと治まる。ケダモノの叫びも聞こえてこない。建物倒壊の危機は去ったようだ。

 その事に安堵出来るほど、加奈子も田沼も阿呆ではないが。

「……何か言う事はあるか?」

「私は悪くねぇ。おっちゃんが頑固なのがいけないんじゃん」

「はははっ、こやつめ」

 適当な会話を交わし、加奈子と田沼は同時にため息を吐く。

 暢気に話している場合ではない。

「……逃げるぞおおおおおおっ!?」

「言われなくてもおおおおおっ!?」

 今度は自分達が工場を揺らしかねないほどの大声で叫びながら、加奈子達は同時に走り出して

「ブギアゴアアオオオオオオオッ!」

 彼女達の居た場所に、イノシシが突っ込んできた!

 イノシシと接触した柱や壁は、豆腐で出来ていたのではないかと思わせるほどあっさりと砕け散る。無論本当に豆腐で出来ている筈もない。人体があの体当たりを受けたなら、コンクリートで出来た壁と同じように砕け散るだろう。掠っただけで腕の一本ぐらいは持っていかれそうだ。

 そんな破壊力の塊が、自分の背後十数メートルの位置に居て、生きている心地なんてする訳がない。心臓はバクバクと太鼓の如く音を鳴らし、全身の毛穴がぞわぞわと開いて冷や汗を垂れ流す。目は潤み、今にも大粒の涙がこぼれ落ちそうだ。

 だが、加奈子は笑っていた。

 そうだ、これで良い。誰かが犠牲になるやり方なんて、そんなのは楽しくない(・・・・・)。どれだけ困難でも、どれだけ絶望的でも……その先にあるのが最高のハッピーエンドなら、目指すしかない。

 それが小田加奈子という少女の、生き様なのだから。

一般人と怪物の真っ向勝負。

加奈子が逸般人となるかどうかが見所です(ぇ)


次回は明日投稿予定です。


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