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彼女は生き物に好かれやすい  作者: 彼岸花
第十四章 輪廻拒絶

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輪廻拒絶5

「ブギアアアアアアアアアアアッ!」

 夜の町に、おぞましい雄叫びが響き渡る。

 そいつは頭や胴体からどぼどぼと血を噴き、明らかな致命傷を負っていた。されど赤い瞳はギラギラと輝き、膨れ上がった身体付きは今まで以上の活力を見せる。大地を踏み締める足は微動だにせず、己の力強さを見せ付けるかのよう。

 確かに、奴は生きている。

 全身に何発も銃弾を喰らった筈のイノシシが生きているのを、加奈子達は目の当たりにした。

「……んにゃろう、まだ生きてやがったか」

「気を付けろ。あっちは市街地に近い。外したら人に当たる危険がある」

「ふん、初心者じゃねぇんだ。そんなへまはしねぇよ」

 猟師の一人は猟銃を構え、イノシシに狙いを付けた。

 市街地での猟銃発砲。本来警察官はこれを止めねばならないのだろう。しかし二人の警察官は、猟師の行動を黙認する。

 死んだと思ったイノシシが、自分の足で平然と立っている……この異常な状況に、常識的な判断を挟む余地などないのだ。

「フゴ、ブゴッ、ブゴ……」

 イノシシは鼻息を荒くしながら、ゆっくりと加奈子達の方に歩み寄る。歩みはしっかりしており、弱っている気配もない。何時の間にか頭の失血は止まっていて、ひょっとして今まで戦っていたのとは別のイノシシが現れたのではないかと思えるほどの健全ぶりだ。

 全員が息を飲む中、イノシシは淡々と歩み寄る。三十メートル、二十五メートル……二十メートルまでやってきて、猟師はついに動いた。

 パアンッ! という強烈な破裂音。漫画やゲームで何度も聞いた典型的銃声と共に、鉛玉が放たれた。無論ただの人間である加奈子には銃弾なんて見えない。破裂音が聞こえたという事は銃が撃たれたのだと、連想ゲーム的に察するのが精々。しかしこの連想ゲームは確かなもので、間違いなく銃は撃たれた。

 そしてバスンッ、と布団を叩くような音がした事から、イノシシに命中した事も容易に察せられる。

 では、そのイノシシから血の一滴すら流れ出ないのは、どういう事か?

「……は? っ!?」

 撃った猟師は、慌てて弾を込め直す。もう一人の猟師も猟銃を構え、警察官達もホルスターにしまっていた拳銃を取り出した。

 そして一斉に、迷いなくイノシシに鉛弾を撃ち込む。

 イノシシの背後にあるのが市街地である事などお構いなし。非常に危険な行為だが、されど加奈子は彼等の行動が間違っているとは思えない。例えなんの罪もない『犠牲』が出ようとも、今ここでこのイノシシを倒さないと不味い……そんな本能の予感が、頭の中で渦巻くがために。

 しかし人間達の努力を、イノシシは文字通り無視する。歩みは止まるどころか遅くもならない。いや、むしろ段々と加速していて……

「っ! 不味い! 逃げろ!」

 田沼が発した警告を切っ掛けに、人間達は一斉に、散り散りになりながら逃げる! 加奈子も田沼と共に全力疾走でイノシシから離れようとした。

 逃げなかったのは、猟師一名だけである。

「何してるんだ! 早く逃げろ!」

「馬鹿野郎! こんな化け物畜生に背中なんて見せられるか! 目にもの見せてやる!」

 田沼が説得するも、猟師は構わず銃に弾を込める。その間もイノシシは猟師に接近。いよいよ数メートルほどの距離まで詰め寄った。

 そのタイミングで、猟師の方も弾丸の装填を終えた。慣れた手付きで素早く猟銃を構え、イノシシの頭に狙いを付ける。

「吹っ飛べ!」

 そして意気込んだ雄叫びと共に引き金を引き、猟銃から閃光が放たれた!

 数メートルという、銃としては至近距離での射撃。加えて射手は熟練のハンターである。弾丸は見事イノシシの眉間に撃ち込まれ、血肉が飛び散った。

 ほんの小さな、という修飾語が必要であるが。

「え、は……?」

 思惑通り弾丸を脳天に喰らわせた猟師は、呆けたような声を漏らすばかり。歩み寄るイノシシを前にして逃げようともしない……逃げきれるものでもない。

 イノシシは悠々と猟師に近付き、高々と前足を上げ――――猟師の腹目掛けて下ろす。

 極めて単純な動作で放たれた一撃は、十メートルは離れた加奈子達にまで微かながらに届く揺れを生じさせた。足が振り下ろされた猟師がどうなったかは、想像するまでもない。

 また一人、イノシシの犠牲となった。その事へのショックは勿論ある、が、それ以上に加奈子の心を浸食する疑問がある。

 あのイノシシは、なんだ?

 猟師達は間違いなく、イノシシに猟銃の弾を喰らわせていた。警察官達だって銃弾をお見舞いしている。銃というのは恐ろしい武器だ。警察官が持っているちっぽけな拳銃ですら、人間の命を簡単に奪える。拳銃よりずっと大きな猟銃の威力は、その更に上だ。

 しかしあのイノシシは全身に弾を撃ち込まれた筈なのに、立ち上がった。

「なんで、あの距離のライフルを喰らってピンピンしてるんだ!? さっきまで血を噴いていたのに……!」

 そして今に至っては田沼が独りごちたように、大きなダメージにすらなっていない。明らかに倒れる前よりも防御力が向上しているのだ。

 ……ふと加奈子は、お気に入りの漫画で「瀕死状態から復活するとパワーが劇的に上がる」という設定の種族がいた事を思い出す。あの設定はかなり好きだった。主人公がピンチから逆転する理由付けになっていたし、どんどん強くなる主人公というのはそれだけで魅力的だった。 

 だけどそんな種族が目の前に現れたなら?

 漫画のような(・・・・・・)出鱈目が(・・・・)自分達を襲う(・・・・・・)……割となんでも楽しめる加奈子でも、この状況を素直に楽しむほどお気楽ではなかった。

 人間達が唖然とする中、イノシシは仕留めた猟師を貪り始める。骨が砕け、肉が引き千切られる音が鳴り始めた……加奈子と田沼にとっては最早聞き慣れたその音も、警察官やもう一人の猟師にとっては初めてのもの。彼等は胃の中身を吐きながら銃を構えたが、しかし相手は猟銃すら通用しない化け物だ。今の武装でどうこう出来る相手ではない。

 誰もが言葉を失い立ち尽くす中、ふとイノシシが顔を上げた。全員が身体を強張らせ恐怖に震える。

 ところがイノシシの視線は、加奈子達の方を向いていない。

 市街地の方をじっと見ているのだ。町に行くつもりか? そう思ったのも束の間、町の方から聞き慣れた音が響く。

 パトカーと救急車のサイレンだ。町の方を見れば、赤く輝く光が見える。

「っ! こ、こちら宇和島! イノシシに襲われている! 救援を求む!」

 それが少し前に自分が要請した警察と救急車だと気付いた警察官は、無線機に向けて叫んでいた。

「ピゴオオオオオオオオオオッ!」

 その言葉に反応するかのように、イノシシは咆哮を上げ、鳴り響くサイレンの方目掛け突進を始める!

 一気に加速したその走力は、これもまた先の比ではない。田んぼの土を抉り飛ばし、暴走車すら生温く思えるスピードでかっ飛んでいく。田沼と自動車で逃げた時は時速八十キロ以上の速さで追い駆けてきたが、今はその倍近い速さで駆けているのではないか。肉眼での測定なので勿論正確性はないが、しかし加奈子はそのように確信した。

 突撃したイノシシはあっという間にパトカー達の下であろう、赤い光の側まで接近。続いて赤い輝きが、車がしてはいけない動きで揺らめく。パンパンと軽い破裂音が響き、そこで起きている惨事を物語った。

「……皆さんはあっちに逃げてください! 早く!」

 通信機を持っていない警察官が加奈子達に逃げるよう促してくる。加奈子と田沼、それから生き残った猟師の一人は一瞬の躊躇いの後、言われるがまま逃げた。そして警察官達は互いの顔を見合うと、一人が加奈子達のしんがりを務め、もう一人はパトカーの光がある方へと向かう。

 一瞬加奈子は足を止め、後ろを振り返りそうになる。

「加奈子、見るな。今は走れ」

 しかし田沼に言われ、振り向こうとした顔を止められた。こくりと頷いた加奈子は、遅くなっていた足を動かしてまた走り出す。

 必死に、がむしゃらに。

 前だけを見続けるようにしながら……




 長々としたメッセージが、スマホに何通も送られてきている。 

 普段なら、最初の数単語で興味を持てなければ面倒臭くて読むのを後回しにし、そのまますっかり忘れてしまうだろう。小田加奈子とはそのような、極めて大雑把でいい加減な人間なのである。

 しかし今日は、来ていたメッセージ全てに目を通した。何度も読み直し、しっかり返信もしている。

 危うく死ぬところだった経験の直後に来た、友達や家族からの文章を粗末にするほど、加奈子は薄情ではないのだから。

「……よいしょっとー、これで最後。はぁー、疲れたぁ」

「なんだ、メール打つぐらいで疲れたのか。最近の娘っ子は指すら貧弱みたいだな」

 ぐったりしていると、田沼からおちょくるような言葉が掛けられる。加奈子はへらへらと笑いながら、むくりと背筋を伸ばした。

「だってさー、普段なら『り』とか『そマ』で済ませるやつに、ちゃんと返していたんだもん。というかメールじゃないし」

「……り、ってなんだ?」

「了解の意味。長いじゃん、わざわざ了解なんて打つの。『り』で通じるんだし」

「長いって……」

 若者言葉にショックを受ける田沼の姿が面白く、加奈子はくすくすと笑いを零す。田沼は肩を竦め、考える事を放棄したようだ。

 そうして話が終わり、無言の時間が流れると、途端に加奈子は心細い気持ちが込み上がる。そわそわしながら、加奈子は辺りを見渡した。

 加奈子達が居るのは地元の公民館。その内部にある、体育館のような大きなホール内だ。今の時刻は既に夜九時を回り、本来なら閉館している時間帯だが……加奈子も田沼も、追い出される事はない。

 何故なら今、この場には加奈子達以外にも大勢の人々――――近隣住民が避難しているのだから。

 警察官達が話していた噂話曰く、田んぼにてイノシシと遭遇した警官隊は『壊滅』したらしい。

 その警官隊とは恐らく、通報により加奈子達の下へとやってきたあのパトカー達の事だろう。壊滅とは即ち敗北したという事であり、あの恐ろしいイノシシは未だ野放しという事だ。自動車をひっくり返すほどのパワーがあるイノシシなのだから、家の扉や窓をぶち破るぐらい訳ない事は容易に想像出来る。そのため建物内ですら安全とはいえず、イノシシが現れた田んぼ近隣の住民の自主避難が行われたという訳だ。

 加奈子達は逃げ回っていたところを巡回していた警察に保護され、此処に連れてこられた。本当なら加奈子は家族と共に居たかったが、幸か不幸か避難所から自宅までは遠く、送迎に使える車なんて今はない。歩いて行くなど自殺行為なので、我慢するしかなかった。スマホで連絡は取れたので、家族も多少は安心してくれているだろうが。加奈子が足に負った傷も応急処置 ― 消毒と包帯を巻く程度だが ― は済んでおり、病院には明日出向けば多分問題ないと医療関係者(とある町医者)からお墨付きをもらっている。

 ……こうして自分が助かった裏で、無数の骸が積み上がっていると思うと、酷く苦しい気持ちになる。

「おーい! 田沼さん!」

 そんな感情を抱き気持ちが沈んでいたとそろ、ふと大きな声が聞こえてきたので、加奈子はびっくりしてしまった。

 反射的に声がした方に振り返ると、そこには猟銃を持った老猟師一人と、同じく猟銃を持った三十代ぐらいの猟師が二人居た。老猟師は加奈子の隣に居た田沼の名を呼び、田沼が笑顔を浮かべた事から、田沼の知り合いらしいと分かる。

「おお、土方(ひじかた)さん。久しぶりです……あなたも駆り出されたのですか?」

「ええ、その通りで。あ、こちらは息子達です」

「浩一です」

「正夫と言います」

「最近猟銃の免許を取りまして……お陰でコイツらまで駆り出されてしまいましたよ」

 ガハハと笑う土方 ― 下の名前が分からないので、加奈子は父親の方をこう呼ぶ事にした ― だったが、その顔には何処か不安と憂いがあった。

 それも当然だろう。駆り出されたという事は、彼等は人食いイノシシと戦うため、或いはこの施設を人食いイノシシから守るため呼ばれたに違いない。自分の息子が人食いイノシシと戦う事になったのだから、心配もするというものである。

 浩一もその顔付きは勇ましさよりも不安が大きそうだ。正夫の方は、あまりそういった気持ちを感じさせなかったが。

「実は田沼さんが人食いイノシシと出会ったと聞きまして……出来れば、どんな相手だったか知りたい。分かる範囲で良いので、教えてくれませんか?」

「……それは構いませんが、その……」

 土方に問われ、田沼は言葉を濁らせる。同時に加奈子の方をちらりと見てきた。

 恐らく、自分のメンタルを気遣っているのだろう。それが分かる程度には、加奈子も人の気持ちを汲み取れる。こくりと頷き、「大丈夫」の意思を示した。

「……分かりました。分かる事で良ければ」

 加奈子の覚悟を察し、田沼は自分達が出会った人食いイノシシについて語る。

 田沼の話す内容は、同じ光景を見ていた加奈子にとっても間違いのないものだった。むしろ加奈子よりも正確に覚えており、田沼があの状況下で情報をしっかり分析していた事が窺い知れる。自分などわたふたするばかりだったのにと、加奈子は田沼の事を見直す。

 ともあれ正確な情報だったのだが、土方達は怪訝そうに顔を顰める。困惑、というよりも疑心の念を感じさせた。

「……それは、その……本当なのですか?」

「そう思うのは無理ないですよ。俺だって、出来れば今でも冗談だと思いたいぐらいですからね」

 向けられた疑念の言葉に、しかし田沼は機嫌を損ねる事もない。返事を貰った土方は、バツが悪そうに顔を田沼から逸らした。

「あ、ああ。いや、すみません。田沼さんの話を疑うなんて、どうかしてましたな」

「気にしないでください。当然の反応です。むしろ俺の言葉だからと、なんでも受け入れられては困ります。冗談一つ言えなくなりますから」

「ははっ、それもそうですね……しかし、猟銃を至近距離で喰らってもピンピンしてるとは……」

「当たり所が悪かったんじゃないですか? 人間にとって、ですが」

 未だ信じられない様子の土方に、息子である正夫が自分の意見を伝える。

 至近距離で撃ち込んで当たり所なんてものがあるのか、猟などした事もない加奈子には分からない。が、あり得ない事ではないのだろう。田沼達の沈黙が、正夫の意見を肯定していた。確かにFPS系のゲームで遊んでいても、パニック状態で撃った弾は至近距離でも殆ど当たらない。加奈子は自分の経験を当て嵌め、正夫の意見の現実味を実感した。

 しかし、加奈子にはもう一つ気になる点がある。

「あの、すみません。猟銃だけじゃなくて、ピストルも、たくさん撃たれていたのですが……」

 イノシシに撃ち込まれていたのは、猟銃の弾だけではない。警察官が撃ち込んだ、拳銃の弾だってある。一発二発なら兎も角、拳銃の弾を無数に撃ち込まれて死なないのも、不自然ではないか?

 その疑問への答えは、田沼が教えてくれた。

「動物の骨や毛皮は、人間が思う以上に分厚くて頑丈だからな。拳銃の弾だと通じない事もある」

「あ、そうなんだ……」

「とはいえ、あくまで簡単には倒せないって話だ。十数発も撃ち込めば致命傷になるだろうし、目玉から脳を貫けば一発だろう。まぁ、動物ってのは脳みそぶちまけながら走ってきてぶん殴るとか平気でやってくるから、一撃で倒せる威力がなきゃ危ない訳だが。拳銃の弾を何十発撃ち込んでも死なない、というのも確かに奇妙だな」

「出会った警察官が全員下手くそで、ちゃんと当てられなかっただけかも知れないですよ」

「……正夫。あまり不用意な事は言うな」

「へいへい」

 皮肉混じりの正夫の意見を、浩一が窘める。亡くなった方に対し失礼な発言ではあるが……あり得ない、とは言えないだけに、いまいち否定し辛い。

 実際、加奈子達は倒れたイノシシを至近距離で検診した訳ではない。猟銃で撃たれた瞬間頭から血が噴き出たところも見たが、人間の場合頭の出血は傷の深さと比べて激しく出るものだという話を聞いた事がある。イノシシも人間と同じで、単に血の出方が派手なだけだったかも知れない。肉も飛んでいたが、頭皮の一部が吹き飛んだだけなら死にはしないだろう。正夫が言うように、当たり所が人間にとって良くなかっただけだとしても、加奈子達が目撃した光景とは矛盾しない。

 自分達の命を助けてくれた人々が無能だとは、加奈子としては思いたくないが……そうでないと人食いイノシシへの勝機が見えず、複雑な気持ちだった。

「ま、相手がイノシシ離れした怪物だろうと、ただの幸運な獣だろうと、いざ出会ったら撃つしかないんだ。その時は急所をよく狙うようにしますよ。それで駄目なら……そういう事なんでしょう」

「そうですね。まずは、本当にあのイノシシに銃が効かないのかを確かめるべきだと思います。俺の勘違いという事もありますから」

「……良し。田沼さんの話は、俺の方から他のメンバーにも伝えておきます。やる事が変わるとは限りませんが、事前に伝えておけば心構えも出来ますからな」

「すみません、土方さん。お願いします」

「任せてください」

 快活に笑いながら、土方はその場を後にしようとする。浩一と正夫も、土方を後を追うように去ろうとした。

 三人との話が終わったと思い、加奈子は意識を三人から外す。気を抜いた、という訳ではなく、集中させていた意識を拡散するようなイメージだ。そしてこの場に居る誰よりも加奈子は若く、健康だった。

 故に、加奈子の耳だけがその『音』を聞き取る。

「……おじさん、なんか聞こえない?」

「? 何かってなんだ?」

「いや、なんかわーわー言ってるような……玄関の方だと思うけど」

 自分で言いながらもいまいちハッキリとした感覚が持てず、加奈子はホールの玄関に視線を向けた。

 目に映り込むのは、自分達から五十メートルは離れた先にあるホールの玄関口に、ぞろぞろと集まる警官達の姿。遠くに居る彼等の声は聞こえず、顔もあまりよく見えない。しかし慌ただしく走る姿、通信機らしき物へと叫ぶ姿、そして避難者達を部屋の奥に押し込もうとする姿……どれを見ても、何か良くない事が起きていると窺い知れた。

「……浩一、正夫。お前達は他の避難者達の傍に居ろ。俺は警察の人等に話を聞いてくる」

「親父、気を付けてくれよ」

「俺も一緒に連れてけよ。守りに入るのは癪だ」

「……駄目だ。お前達はそこに居ろ」

 土方は息子達を残して玄関口へと向かい、正夫は舌打ちをしながら、浩一は黙って加奈子達の傍に立つ。二人の手が腰にあるポケットに伸び、そこから一発の弾丸を抜き出したのを加奈子は見落とさなかった。

 そうだ。今この時、警察官達がざわめくとしたら『アイツ』しかいない。誰もがそれを分かっている。

 だとしてもそれはきっと、近くまで来ているだとか、増援が欲しいだとか、上層部が無茶ぶりしてきただとか……そういう話の筈だ。そうだと加奈子は思いたかった。

 だが、心の奥底では気付いている。

 友達の花中が予想した通りなら、『アイツ』は常に空腹だ。大量のエネルギーを求めている。しかし町中の人々が避難し、何処を探しても餌が見付からない状況だ。このままでは餓死してしまう。

 そして『餌』は今、一ヶ所に集まっている。『アイツ』の、テレビ曰く犬並に優れているという嗅覚ならば此処を見付け出せるだろう。

 襲撃しないなんて、ナンセンスだ。

「皆さん! 奥に! もっと奥に入って! 入口は危険です! 早く奥に!」

「だ、駄目だ! 抑えきれない!」

 警官の悲痛な叫びが聞こえてきた時、加奈子は自分の願望を諦めた。

 直後、ホールの一角が爆破でもされたかのように吹き飛ぶ!

 粉塵が舞い上がり、衝撃によるものか玄関口近くに居た警察官数人が空を飛ぶ。避難者達の悲鳴がホール内にこだましたが、されど爆音はそれをも掻き消した。舞い上がったコンクリートの一部が雨のように降り注ぎ、女子供関係なく襲い掛かる。

「ブギオオオオオオオオオオオオッ!」

 その悲劇を嘲笑うかのように、聞こえてくるおぞましい鳴き声。晴れた粉塵の中から現れたのは、加奈子にとっては最早見慣れた生物。

 人食いイノシシだった。

「……マジかよ。コンクリートを吹っ飛ばすなんて、マジモンの怪獣だな」

「冗談言ってる場合か!」

 まさかこれほどのパワーがあるとは思わなかったのか、呆けたようにぼやく正夫を浩一は一喝する。我に返った正夫は、獰猛な笑みを浮かべながら猟銃に弾を込めた。

 そして正夫は、一人入口の方へと駆ける。

「なっ!? おい、お前!」

「守りに入るのは性に合わねぇ! それに、あんな化け物相手じゃ人手が幾らあっても足りないと思うぜ!」

 引き留める浩一を無視して、正夫は人食いイノシシの下へと駆け寄ってしまう。

 人食いイノシシの出現に、誰もが最初は固まっていた。されどイノシシがぼりぼりと何かを食べ、吐き出したものが人の腕だと気付くと、警察官と猟師達は顔を引き攣らせながら銃を構える。

 警察官達十数人と猟師十数人は、堤防のように人食いイノシシの前に横並びとなる。包囲をしないのは、外れた銃弾が仲間に当たる可能性があるからだろう。誰かが指示をした素振りはないが、事前に打ち合わせしておいたのか、銃を使う身として自然と判断したのか、その陣形はスムーズに作られた。

 そして攻撃タイミングもぴたりと一致していた――――誰もが一斉に、我慢出来なかったのだろう。

 警察官達の拳銃が、猟師の猟銃が次々と火を吹く。日本では聞き慣れない火気の音に避難者達は一瞬慄き、しかしすぐに喜びが顔に浮かんだ。例え銃社会の住人でなくとも、日本人は銃が強い武器である事を知っている。人食いのケダモノが、科学の力で膝を突くのだと確信していた。

 事態を正しく予想出来たのは、加奈子と田沼だけだろう。

 イノシシに当たった銃弾が、全て易々と弾かれる未来を予想出来たのは。

「お、おい!? 銃弾が効かないぞ!?」

「不味い、弾が……装填す」

 警察官の一人が装填を知らせた、まるでそのタイミングを見計らったかのようにイノシシが動き出す! 猛然と駆け寄ったイノシシは装填しようとした警察官に跳び掛かり、鋭い牙を有した口で腹に噛み付いた!

「ぐえっ!? だ、助け――――」

 噛み付かれた警察官が苦しそうに助けを求めた、が、その声は半ばでぶつりと途絶える。

 代わりに、ズゾゾゾゾッ! という身の毛もよだつ怪音が鳴り響いた。

 音はほんの一~二秒で鳴り終わり、するとイノシシは乱雑に警察官を放り投げる。投げ捨てられた警察官はホールの床に落ちたが、ピクリとも動かない。

 他の警察官達は慌ただしく投げ捨てられた警察官の下へと集まる。彼等は倒れた警察官の頬を叩くなどしたが、やはり彼が起き上がる事はない。一人が足を持ち、もう一人が上半身を抱え、安全な場所まで運ぶために持ち上げた。

 彼等はその瞬間に気付いたのだろう。

 それよりも前に、加奈子は察していた。あの不気味な音が、花中からの言葉が、イノシシの『意図』を教えてくれた。

 イノシシは喰ったのだ、人間の中身(・・)だけを。皮の下の脂肪を食べる時間を惜しみ、筋肉を裂いてもぐもぐと食べる事さえ省いたのだ。より高栄養価である内臓だけを吸い取る事で、更に効率的な食事が出来るようになったがために。

 つまり奴は、一人の人間を喰い殺すのに三秒と掛からないという事。

 この場に居る警察官と猟師の数は約三十人……一分半で、ご馳走様だ。

「み、みんな、逃げ……!」

 加奈子は咄嗟に叫ぼうとした。しかしその口は、脳裏を過ぎった記憶により阻まれる。

 ホールの出口は二つだけ。今、イノシシが陣取っている玄関と、玄関と向かい合う位置にある非常口のみ。誰でもそれに気付いている。だから誰もが目指す。

 人が一度に二人も通れないような、狭い出口を。

「ば、化け物イノシシだああああっ!?」

「キャアアアアアアアアッ!?」

「おかああさぁぁん! おかああさぁん!?」

 悲鳴がホール内を満たす。誰もが自分や、自分の家族を守ろうとして出口に殺到。押し合いへし合い、誰一人として外に出られない。口論が巻き起こり、暴力が場を支配する。これでは加奈子達も逃げられない。田沼と共に、棒立ちするしかなかった。

 その間も警察官と猟師は銃をイノシシに撃ち込み続ける。猟銃は装弾数の関係からか連射こそ出来ていないが威力の高い一撃を、警察官は威力こそ低いが連発出来る拳銃で応戦。並の生物なら、とっくにくたばっているほど苛烈な攻撃を加えていた。

 しかしイノシシは健在。

 受ける銃弾など気にも留めず、イノシシは次々に警察官や猟師を喰らっていく。三秒で一人の仲間が中身だけ喰われ、何時自分に狙いを定めるか分からない……恐怖がチームを支配し、半狂乱の銃撃戦が繰り広げられる。最早前線は崩壊したも同然。

 このままではイノシシは戦う者達を食べ尽くし、市民を貪り始めるだろう。

「畜生が、図に乗るんじゃねぇ!」

 諦めと絶望が警察官と猟師に広がる中、一人の若者が声を荒らげた。

 正夫だ。

 彼は勇ましい声と共に、なんとイノシシに向けて突撃! 人が射線に入り、猟師達と警察官達は咄嗟に銃口を上に上げる。イノシシも獲物の方から近付いてきたと思ったのか、中身を吸い取った猟師の亡骸を投げ捨て、正夫と向かい合う。

 正夫は銃口をイノシシの方に向けず、あくまで突進を続ける。イノシシはおどろおどろしい鳴き声を上げながら前傾姿勢へと移り、そして正夫目掛け走り出す! 自動車すら突き飛ばすエネルギーを加速に費やし、イノシシは弾丸が如く速さに達した。

 その瞬間を見極めた正夫は、滑り込むように姿勢を低くする。

 ホールの床は正夫の身体を滑らせ、イノシシの口は正夫が居た場所を空振り。されど野生の反応速度は、正夫が自分の下に潜り込もうとしたのを捉えていた。素早く視線を下に向け、正夫に喰らい付こうと大口を開けた

 刹那、正夫は猟銃の先をイノシシの口の中に突っ込んだ。

 『獲物』が自ら口に跳び込んできたのは初体験だったのか、イノシシの動きが止まる。それはきっと僅かな時間の事だろう。しかし僅かでも止まれば十分。

 引き金に掛かった指を引くだけで、銃弾は放たれる。

「腹減ってんなら、鉛玉でも食っとけ」

 正夫の宣言と共に猟銃は火を吹いた。

「ブギィイイィィアイイィギイイイィィィィイイ!?」

 体内から直に弾丸を受け、イノシシは咆哮を上げて苦しむ。口の中から黒ずんだ血液をばらまき、胴体の下に居る正夫の身体を汚した。正夫は顔を顰めながらも素早く転がり、イノシシの下から脱出する。

「ギィ、ギイィィ、プギィイィィ……!」

「今だ! 全員で身体に喰らわせろ!」

 そして苦しむイノシシへの攻撃を、正夫は大声で指示した。

 一瞬、ほんの一瞬だけ猟師達と警察官達は呆けたように立ち尽くす。されどすぐに我に返り、弾を込めながらイノシシに接近。

 動きの鈍くなったイノシシの胴体に、銃弾を集中させる。

 頭ほど硬くはないのか、胴体は銃弾を受けるほどに傷付き、イノシシは悲鳴を上げる。苦しむイノシシに射手達は距離を詰め、より高い威力の射撃を加えた。

 イノシシの動きは徐々に弱くなり、ついには膝を突く。それでも射撃はしばし続き……やがて弾を再装填した正夫が、イノシシの右目に猟銃を突き付けた。

 そして無言のまま、一撃。

 目玉のすぐ後ろには、脳が存在する。穴の空いた眼球からは黄土色の何かがごぽりと吹き出し、どろどろと流れ出た。イノシシは全身を痙攣させ、俯せに倒れたまま静かになる。

 更には念のためとばかりに、正夫は角度を変え、目玉の中で猟銃を発射。他の猟師や警察官も、胴体に密着した状態で撃ち込み、止めを刺す。

 きっと本来の猟では、あり得ないほど念入りな止めなのだろう。猟師達と警察官達の目には憎悪が浮かび、仲間の仇討ちをしているようだと加奈子は思った。事実、このホールでの激戦だけで、警察官と猟師が二人ずつ亡骸として床に転がっている。彼等が抱くイノシシへの怨みは相当大きいに違いない。

 何十発もの実弾を与えてから、猟師達と警察官達はイノシシを取り囲む。それから話し合いを始めた。暗い雰囲気はなく、むしろ段々明るくなっている。

「皆さん! 安心してください! 人食いイノシシは間違いなく退治しました!」

 やがて一人の警察官が、加奈子達一般市民にそう宣言する。

 その言葉を理解するのは、平時ならばすぐだろう。しかし混乱していた市民の頭は、中々警察官の宣言を理解しない。

 それでも出口に殺到しようとする動きを止めるだけのパワーはあり、

「や、やったああああっ!」

「助かった! 助かった!」

 しばらくして、市民達は喜びを表現するのだった。

「……良かった……」

「ああ、良かったよ。本当に」

「全く、アイツは本当に……」

 加奈子の独り言に、田沼も同意する。正夫の兄弟である浩一だけが、呆れたようにため息を吐いた。

 警察官と猟師が集まり、話し合った末に出た結論である。今度こそ、イノシシは間違いなく死んだのだ。人食いイノシシ騒動はこれで幕を閉じた。

 安堵していると、自分達の方へと駆け寄る二つの人の姿に加奈子は気付く。見れば、それは土方と、すっかり黒く汚れた正夫だった。

「土方さん、無事で何よりです」

「ははっ、なんとか生き残れましたよ……全く、とんでもない化け物でした。コイツも無茶をするし、生きた心地がしませんでしたよ」

「銃が効かねぇ化け物には、内側から攻撃する。モンスター映画の基本だぜ? ま、銃じゃなくてダイナマイトが欲しかったけどな」

「調子に乗るんじゃない!」

 土方に叱られても、正夫はへらへらとした笑みを浮かべる。誰にも勝てなかった大物を退治したのだから、調子付いても仕方ない。加奈子が同じ立場なら、一月は周りに自慢するだろう。浩一も呆れ顔だが、父親に加勢しない辺り気持ちは分かるのだ。誰だって彼の笑顔に同意する筈である。

 むしろ土方のお説教が終わるや、顔を顰める正夫自身の態度の方が不自然なぐらいだ。

「……どうしましたか? 怪我でも、したんですか?」

「ん? ああ、いや、アイツの臭ぇ血が掛かっちまってな」

 加奈子が訊くと、正夫は苦笑いを浮かべながら答える。

 確かに、嬉しさに舞い上がって気付けなかったが、正夫からは酷い臭いが漂っていた。血の臭い、ではない。これは腐敗臭だろうか。甘いような酸っぱいような苦いような、鼻がひん曲がりそうな臭さ――――

 そう考えて、加奈子はぞわりと身体を震わせる。

「……あ、あの、おじさん……一つ、訊いて良い?」

「あん? なんだ?」

「動物の血って、どれぐらいで腐るの?」

「どれぐらいって、まぁ、肉よりは腐りやすいと言われているな。そうだな、温度などを考えると三十分……」

 加奈子は田沼に尋ねる。尋ねられた田沼は、途中まで答えるも言葉を途切れさせてしまう。

 沈黙が全てを教えてくれた。

 あり得ないのだ。血が、ほんの数分で腐敗臭を発するなんて事は。腐敗のメカニズムは加奈子だって知っている。雑菌がタンパク質などを分解するという事だ。その過程でアンモニアや硫化水素、更には何かしらの ― 人体にとって有害、無害に関係なく ― 物質が発生する。腐敗臭が漂うという事は、既に雑菌が繁殖し、色々分解されているという証だ。

 テレビでやっていた。食中毒菌の中には、二十分かそこらで分裂し、倍に増える菌がいると……イノシシが倒れてから、まだ十分も経っていない。仮に十分で倍に増えたところでなんだ。お昼に食べ始めたお弁当が、食べ終わる頃には腐敗臭を漂わせているなんてあり得ないではないか。

 明らかにおかしい。

 先程まで生きていたものが、ほんの数分で腐りきるなんて、あり得ない。

 安堵の気持ちは一転し、加奈子は顔を青ざめさせる。視線は無意識にイノシシの方へと動く。

 俯せに倒れているイノシシは、加奈子に顔を向いていた。正夫が執拗に撃ち込んだ右目はぽっかりと穴が空いていたが、左目は未だに無傷。

 その左目は赤く充血していた。虚ろで、狂気めいて、不気味で、おぞましくて……生きていた頃と(・・・・・・・)何も変わらない(・・・・・・・)

「に、逃げてぇぇぇぇぇっ!?」

 気付けば加奈子は、無意識に叫んでいた。

 ホール中を満たしている喜びの感情を上回る悲鳴。誰もが加奈子の方へと振り向く。しかし加奈子の訴えを聞き入れ、逃げる者は誰一人としていない。

 当然だ。何から逃げれば良いのか、誰にも分からないのだから。

 脅威は、去ったのである。

「おい、加奈子どうした?」

「おっちゃん! 早く、早く此処から逃げて! アイツが、アイツが……!」

「落ち着け。どうしたんだ、アイツってイノシシの事か? それならもう退治しただろう?」

 錯乱する加奈子を宥めようとする田沼だが、それがますます加奈子を焦らせる。

 腐敗臭の異常さに気付いた田沼でも、加奈子の『考え』には至っていない。近くに居る土方や正夫、浩一も困惑するばかり。彼等はあの目をちゃんと見ていないから? それもあるだろう。

 しかし何より、彼等は猟師だった。命のやり取りをし、命を奪い、命を頂く仕事に就いていた。彼等は誰よりも命の尊さを知り、命の儚さを実感している。彼等にとってそれは起きてはならぬ冒涜であり、祈る事すらおこがましい愚行なのだ。ましてや自分達の手でやりながら考えるなど、言語道断であろう。

 いや、彼等だけではない。ゲームばかりしている小学生だって、そんな事はあり得ないという事を知っている。小学生の親だって信じていないし、他大勢の人々だって考えもしない。

 だから、加奈子だけが気付く。加奈子だけが怯える。

「分かった、怖かったよな……家に帰ろう。もう大丈夫だからな」

 田沼は加奈子の背中を摩りながら、ちらりと土方達の方を見遣る。土方は頷き、田沼の『意見』を受け入れた。

 加奈子は田沼に促され、非常口の方へと歩き出す。浩一と正夫、土方も一緒に来てくれた。

 全てが終わってから叫んだ加奈子に、市民達はひそひそと話ながら加奈子の方を見ている。喜びを邪魔されて怒りの目を向ける者、気違いを見るような侮蔑の眼差し、同情の眼……様々な視線が、加奈子に突き刺さった。

 それでも加奈子は自分の感情に従う。間違っていても構わない。それはとても喜ばしい事なのだから。人々の安寧が、本当に守られたという事に他ならない。自分が気違いになるなど些末な話である。

 ――――加奈子にとって残念な事に、加奈子の正しさは証明されてしまうが。

「ギギギギオオオオオオ……」

 地響きのようなケダモノの声が、した。

 人間達は誰もが固まった。逃げようとしていた加奈子もまた固まる。

 そしてホール内に居た全員が、一斉に振り返る。故に全員が、ハッキリと目の当たりにした。

 倒れ伏していた筈のイノシシが、四本の足で立つ姿を。

「……マジ、かよ」

「馬鹿な、あり得ない……あり得ない……!」

 正夫は呆然と呟き、土方は否定するように何度も同じ言葉を呟く。しかしイノシシは倒れない。

 しかと足は大地を踏み締め、全身の筋肉が膨れ上がる。体躯は先程よりも一回りほど大きくなっていた。穴の空いた眼球はうぞうぞと肉が蠢き、少しずつだが埋まっている。蠢く肉は半透明で、赤く充血し……無傷である左目と同じ材質であるように見えた。

 やがてイノシシは、人々の方を振り向く。涎をだらだらと垂れ流し、呻きを漏らし、激情を露わにする。

 唯一感じさせないのは、生気のみ。

 加奈子は理解した。猟師達も現実を受け入れた。市民達も全てを察した。

 あのイノシシは、生きていない(・・・・・・)

 死体が、自分達を喰おうとしている!

「っ!」

 起き上がったイノシシを前にして、警察官達は全員腰のホルスターから素早く短銃を取り出す。猟師達も猟銃に弾を込め、構えようとする。加奈子が見る限り、もたついた人はいない。全員が最高のスピードを以てして、最良の動作で動き、最善の判断を下した。

 されどイノシシの速さは、全てを台なしにする。

「ブオオゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 咆哮でホール全体が揺れた。ビリビリと大気が震え、大勢の人が突き飛ばされたように倒れる。警察官や猟師のみならず、市民達も、だ。

 イノシシにとってそれはチャンスである。

 膨大な数の人間……それを一気に喰らうには、今こそが好機だった。

「ブゴフッ!」

「ぎゃ――――」

 イノシシは猛然とダッシュし、一人の若い女性に喰い付いた。恐らくは群衆の中で一番イノシシと近かった……ただそれだけの理由で。

 ジュポッ、と間の抜けた音がしたのはそれから間もなくの事。イノシシが乱雑に女性を後ろへと放り投げ、女性は四肢を広げたふしだらな体勢で横たわる。

 女性は、痙攣すらしない。

 当然だ。あの女性にはもう『中身』が入っていないのだから。

「う、わあああああああああああっ!?」

 情けなく、それでいて誰もが上げたがっていた悲鳴を、誰かが上げた。誰が上げたものかは分からない。

 悲鳴と共に、全員が一斉に逃げようとしたのだから。

「加奈子! 手を離すな!」

 田沼は加奈子の手を握り締め、全速力で走り出した! 加奈子も必死に後を追い、田沼と共にこの場から逃げる。

 加奈子は正しい選択をしていた。イノシシが死んだ(・・・)と思わず、今すぐ此処から逃げようとしていた。だから既に非常口の近くまで来ていて、人混みに揉まれ、幾らかの時間を取られながらも外へと出る事が出来たのだから。土方達も一緒だ。

 しかし大部分の者は違う。

 安堵していた。油断していた。それを判断ミスと断じるのは簡単だ。されどどうして脳に銃弾を喰らった生き物が蘇ると思うのか? そんな事は常識的にあり得ない。例え世界中で核兵器すら通じぬ怪物が現れるようになったとしても、死が覆ってはならないのである。

 だから逃げ遅れた。

 だから彼等は、餌となる。

「ひっ、止め、ぎっ!?」

「ぐぇっ!? たす……」

「おかあさああん! おかあさあぁぁぁぎゅ」

 次々と、人々の断末魔が不自然な途絶え方をする。ドサドサと亡骸の積み重なる音が、死の音色が連なる。

 イノシシの食事は、最早二~三秒という時間すら掛けない。一秒と発たずに吸い終わり、次の瞬間には空っぽの亡骸を放り捨てている。二十秒も発てば二十人が死に、されどイノシシの食欲は未だ収まらない。

 このままでは何十もの人々が、奴の食事だ。

「畜生がっ! もう一度脳みそ引っ掻き回して、死体に戻してやるっ!」

 そんな結末は認めないとばかりに、一人の老猟師がイノシシ目掛け突撃する! 周りの猟師が引き留めようとしたが、老猟師は止まらない。

 先の戦いで、胴体や頭部へと射撃が殆ど通用しない事は分かっている。密着して射撃をしても、止めを刺すなら兎も角、動きを止めるには不十分。再びあのイノシシを止めるには、弱点を突くしかない。

 市民を喰らうのに夢中なのか、死んでいるから思考力がないのか。イノシシは猟師達が接近しても、逃げたり立ち向かったりする気配もない。老猟師はゆっくりと銃を構え、再生しきった右目に狙いを付ける。

 イノシシは市民を襲う瞬間、激しく頭を動かす。だがその動きは極めて単純。老猟師の熟練した腕前と経験を持ってすれば、動きを予想するのは容易い。

 ライフルは火を吹き、鉛玉を吐き出す。回転しながら正確に直進する弾丸は、見事イノシシの眼球を捉え――――

 ガキンッ、と甲高い音を鳴らして、弾かれた。

「……!? 外した……?」

 予想外の結果に、老猟師は驚き混じりに呟く。

 唖然としている間に、また一人、また一人とイノシシは市民を喰らう。我に返った老猟師はイノシシを憎悪の眼で睨み、経験を積んだ手は無意識に正しく銃弾を込めていった。

 老猟師が動きを止めたのは、装填が完全に済んでから。

 ――――イノシシの目が赤くない(・・・・)

 充血していた筈の目が、今は白くなっている。充血が治ったのか? 微かな違和感を抱かせる姿の答えは、すぐに明らかとなった。

 白い目玉が裂け、中から赤い目玉が露出したのである。

 それは膜だった。イノシシの目を覆うような膜が展開し、弾丸を防いだのだ。至近距離からのライフル弾を防ぐ、その強度が驚くべきものなのは言うまでもない。しかし何よりも恐ろしいのは、通常のイノシシには目を覆う膜など存在しないという事。そしてこの人食いイノシシですら、つい先程倒れる前までは有していなかった特徴だという事。

 目の当たりにした誰もが気付いただろう。このイノシシが、死ぬ前よりも強くなっていると。それも目から脳を撃ち抜かれたと理解し、弾丸を防ぐような『進化』を遂げたのだと。同じ手は二度も通用しない。不必要な攻撃は無意味どころか、半端に効いてしまえばより進化させ、折角の打つ手を潰してしまう可能性すらある。

 闇雲な攻撃は悪手でしかないのなら、今の猟師達に出来る最善の手は明白だ。

 未来の作戦の芽を摘まないために、静観する事である。

「……出来るか、そんな事っ!」

 しかし人間は、理論のみで生きてはいない。

 猟師達は、そして警察官達は、イノシシに銃撃をお見舞いする。今襲われている人々を守るために、命懸けの突撃を敢行した。

 未来の人間にとって幸いな事に、つまり今の人間にとって最悪な事に、イノシシの表皮は度重なる銃撃により『進化』しているのか、至近距離から撃ち込んでも血一つ流さなかった。最早弾丸はイノシシにとって脅威ではない。豆鉄砲など見向きもせず、イノシシは市民を襲い続ける。

 もう何十人もの内臓を吸い尽くしたイノシシだが、その食欲は収まる事を知らない。肉薄した警察官を、さながらスナック菓子を摘まむかのように襲い、中身を吸い取る。飢えたケダモノの暴虐は止まる気配すらなかった。

 惨劇は何時までも、何時までも続き、いよいよ警察官や猟師までもが逃げ出し――――

 やがてホールの中から、『生き物』はいなくなる。

 唯一立つ『死体』は、腐敗した体液を口からばらまき、おぞましい悪臭の漂う便を撒き散らす。積み上がった遺体をゴミくずのように蹴飛ばし、踏み潰した。ホールの床は汚物と血糊で染まり、一呼吸で吐き気を催す臭いが満たされる。

 『死体』は如何にも生きているように臭いを嗅ぐ。それからあろう事か、腹をぎゅるぎゅると鳴らした。未だその身は、新たなエネルギーを欲していたのだ。

 そしてその欲求を抑え込む理性など、死体にはない。

「ブゴオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 死の香りを漂わせる魔獣の咆哮が、町を満たす。

 進化を続ける怪物が、狩りを再開した。

なんかもうかつてない大惨事となっていますが、フィアとかミリオンのいない場所では大体こんな感じの悲劇が起きているのが、この世界です。


次回は明日投稿予定です。


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