第19話 ストライクゾーンには下限がある
それは、元はただの鏡だった。
当時は珍しく、体全体が映るような高級な鏡。やがて、それが段々といわくが付き、百年以上の間、壊れずに使われ続けた。
やがてその鏡は意思を持ち、力を持ち、付喪神となった。
ただの器物だった鏡は、人の心を映し出す神として祀られ、小さな土地を管理する神にまで成り上がったのである。
その神に祈った者はたくさん居た。
己の心の醜さを恥じる者。
己の心に素直になれない者。
あるいは、鏡の力によって悪しき化生の正体などを見破ったりなどもしたことがあった。
歴史に残るような偉大な神では無かったけれど、祈る者たちに精一杯の加護を与える、優しい神だったのだ。
そんな神が狂ったのは、さて、どうしてだろうか?
時が流れるにつれて、信仰が薄れてしまったからだろうか?
人が神を信じなくなったからだろうか?
あるいは、もっと別の決定的な出来事があったのかもしれない。ただ、一つだけ言えることがある。
今の『彼女』はもう神では無く――――ただの、災害だった。
「ゆるるるるまろうけるすりんんだだあらしんこと」
狂った言葉が紡がれる。
それに合わせて、世界に『反射』が満ちていく。
始まりは彼女が祀られていた小さな村だった。彼女が狂い、その権能を暴走させてからという物の、あらゆる場所に『反射』が設置されていくのである。
鏡として、心を映し出す神であった彼女は今、手当たり次第に人々の心を暴いているのだった。あらゆる場所に、己の自身を『反射』させて向き合わせる力を植え付け、人々を混乱させている。
「てりしとるるるるるうかみのあまがみとるね」
誰しも、自分の本性を『反射』されてしまえば、目を背けてしまう。場合によっては目を閉じ、耳を塞ぎ、動けなくなってしまうかもしれない。
彼女が歩けば、人々は彼女にひれ伏すように混乱し、動けなくなる。
狂った神は、己が力尽きるまで災いを振りまくだろう。
さながら、こうして力を顕示すれば、また信仰を得られるのだと、頑なに信じているかのように。
「哀れな神よ、俺がその悲しみを終わらせてやろう」
狂い歩く彼女の前に現れたのは、神服を纏った狐面の少年――鈴木次郎。
次郎は、人々が倒れ伏す中、一人だけ平然と彼女の前に現れたのである。
「まろうううどおうしせててえててててってて」
壊れた玩具の如く狂った言葉を紡ぎ、彼女は己が権能を次郎へ向けた。
人の心を映し出す、『反射』の権能。
どんな些細な弱みだろうが、自虐だろうが映し出し、さらけ出す鏡。
まともな人間だったのなら、己の認めたくない部分に目を瞑り、蹲り、動けなくなってしまっていただろう。
そう、まともな人間であったのならば。
「知っているか? 鏡が反射するのは、光があるからこそ、だ」
「――――あ」
どすりと、次郎の手刀が彼女の胸を貫く。
彼女はその衝撃に驚いたように目を丸め、呆然と次郎を見つめていた。
「がらんどうの闇を映し出しても、何も見えない。ただ、それだけだ」
「あ、あうあ」
彼女の体に亀裂が入る。
神となった際に、人を模した体だが、貫かれれば鏡に戻るのが道理だ。既に、致命傷を受け、彼女はただの鏡に戻りつつあった。
「もう充分働いただろう…………鏡の神よ。そろそろ、休め」
「………………あ、あー」
次郎が彼女の胸から手を引き抜くと、だらりと、そのまま彼女の体が地面に落ちる。
がしゃん、という、割れるような音が鳴ったかと思うと、彼女の体は破片となって散らばっていく。きらきらと、空の光を反射させて。
「――ありがとう」
最後の瞬間、彼女は狂気では無く、微笑んで消えた。
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そこは都心から大分離れた、辺鄙な村だった。
辺鄙と言っても、温暖で豊かな土地を持っているので、さほど村人たちが生活に困窮していることは無い。若者が一度村から離れても、その豊かさを思い出し、戻ってくることも多い程度に、長閑で平和な村だった。
現代では珍しく、まだ土地神信仰や、それに関わる祭りを定期的に行っている場所だったのだが、何故か、その土地神は狂ってしまった。
確かに、信仰は昔に比べれば薄れていただろう。
人は神を信じなくなっていただろう。
されど、狂ってしまうほどにその土地神は、忘れ去られてしまったわけでは無かったというのに。
「結局、原因は不明なんだな」
「最近似たような事件が相次いでましてね? 恐らく、何者かによる攻撃だと考えているのですが、敵もさる者。まったく尻尾が掴めません」
「その結果、俺が尻拭いとして神様の代役か」
既に次郎は、神殺しからその信仰の引き継ぎ。さらには、新たな神としての登録を済ませて、神服を脱いだところだった。今は、普段着のシャツとジーンズ姿で地元のカフェで一休み中である。
「あはは、大丈夫です。任期は長くてもたった百年。だらだら過ごしていればあっという間ですよ」
依頼者である藤二は、相変わらずの学生服姿で次郎と向かい合って談笑していた。
「この野郎、人の一生が終わるレベルの長さじゃねーか」
「神様からしてみれば一瞬みたいなもんですよ」
「もう既に手遅れだから言うが、今更ながら面倒になって来た」
「やめてください、ばっくれるのはマジで。そうなったら最悪の場合、この村人たち全員が疫病で死にますよ?」
「さすがにそれは夢見が悪いよなぁ」
異世界で大量殺戮を行った経験がある次郎だからこそ、その様子がリアルに浮かんできて顔を顰めてしまうのだった。
次郎は出来るならもう、その最低な気分を味わいたくないと思っている。
「まぁ、いいぜ。百年ぐらい…………考えてみれば、千年同じ相手を殺し続けるよりは退屈しないだろうさ」
「何ですか、その物騒な自慢話。相変わらず化物ですね、死ね」
「死んだら困るのはお前だろうが、馬鹿」
「馬鹿じゃありません、ただの毒舌です」
「地獄に逝ったら閻魔に舌を引き抜かれるがいいさ」
次郎と藤二はその後、土地神としての役割や、幽世での生活など、一通り不具合が出ないように話し合った。
そして、互いにコーヒーのおかわりが入り、そろそろサイドメニューの一つでも頼もうかという頃合いだった。
「それで、次郎さん。美人のお嫁さんの話なんですが」
「あの話、マジだったのか」
「信じてなかったんですか?」
意外そうに藤二は尋ねた。
藤二としてはてっきり、次郎はその話を信じて協力してくれたのだと思っていたのだ。
「お前のことだから、どうせ釣りだと思っていた」
「ひどいですね。前に美少女紹介すると言って、男の娘を紹介しただけじゃないですか」
「ちなみに俺、その男の娘にも振られたんだが」
「ざまぁ」
「いつか殺すわ、お前」
ここまで、次郎と藤二のテンプレである。
互いに嫌い合っている二人だが、妙に会話のリズムは合うらしい。
「その時は意地でも刺し違えます……んで、信じてないなら、どうしてこんな役割を引き受けてくれたんですか?」
「いや、だって、俺が受けないとろくなことにならなかっただろ?」
「…………まぁ、そうですが」
あっけからんとした次郎の答えに、藤二は何か違和感を覚えた。
確かに、次郎の言葉は正しい。次郎が土地神の代役を受けなければ、藤二の代役を受けなければ最悪――適格者を無理やり『神』へと変えなければならなかったのだ。
本人の意思を問わず、より大多数の人間を助けるための選択を選ばなければならなかった。
それに比べれば、邪神と天津神の血を持ち、その身のままで神へと昇華可能な次郎が代役を受けたのは、最善の流れのように思える。
そう、まるでご都合主義のように。
「俺なら慣れているからな。俺がやることで解決するなら、それでいい」
「…………それは、善意からですか?」
「そこはお前、偽善だと馬鹿にするところだろう、藤二。どうした? 毒舌のキレが悪いぞ」
苦笑する次郎の顔が、藤二にはひどく虚ろな物に思えた。
正義によって動くのではなく、周りによって与えられる義務のような……そう、運命を遂行するだけの『デウスエクスマキナ』。
世界を回す舞台装置のような存在。
だから、藤二は次郎が好きになれなかったのだ。
同じ人間だと思えないから。
「…………次郎さんが僕の毒舌を要求するなんて被虐体質ですか、気持ち悪い」
「ははっ、お前の彼女をぼこぼこにしているから加虐体質かな?」
「野郎、ぶっ殺してやる――――のは、置いておいて。そろそろ本題に」
藤二は深く息を吐いて、意識を切り替えた。
願わくば、これから紹介する女性が、次郎の虚ろさを埋めてくれないかと思いながら、藤二は手を鳴らす。
すると、カフェの中に黒子姿の者たちが現れ、瞬く間に暗幕を張った。
ちょうど、次郎の目の前に。カフェの出入り口から、次郎たちの席までを隠すように。
「美人のお嫁さんを紹介しましょう」
「マジか」
「今回はマジです、期待してください」
冷たい美貌を柔和に歪めて笑う藤二。
「さぁ、お待ちかねのご対面をいきましょう」
「おお!」
藤二が手を振り下ろす動作と共に、黒子たちは暗幕を落とす。
するど、そこには目を疑うほどに美しい少女が。
鴉濡れ羽色のショートヘアに、人形の如き精緻な美貌。藍色の着物を纏うその姿は、まるで、日本人形が肉を持ち、命を吹き込まれたかのようだった。
「羽喰 飛鳥です。不束者ですが、よろしくお願いします――次郎様」
微笑みすらせず、行儀よく礼をする姿は、絡繰り仕掛けの人形だ。
感情の無い、人形の如き少女。
けれど、次郎にとってそれは問題では無かった。そんなことよりも、もっとずっと、前提的な問題があったからだ。
「…………よーし、飛鳥だっけか? 一応訊くが、年齢は?」
「今年で十になります」
「そっかぁ」
飛鳥へ優しく微笑むと、その表情のまま藤二へ視線を向けた。
「なぁ、藤二」
「なんでしょう、次郎さん。お望み通りの美少女ですよ?」
しれっと藤二が答えたあたりで、次郎の微笑みが崩れた。その後から覗くのは、犬歯を剥き出しにした野獣の如き笑み。笑顔とは本来、攻撃的な物なのだ。
「俺のストライクゾーンにだってな、下限はあるんだよ!?」
「次郎さんがロリコンじゃなくて僕、ガチで安心しました」
この後、当然の如く、藤二は次郎に殴り飛ばされたのだった。




