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『虹色の太ももと、私のレクイエム』

掲載日:2026/10/30

『虹色の太ももと、私のレクイエム』


夕暮れのあぜ道は、血のような茜色に染まっていた。


耳の奥で、誰かが笑っている。


カラスの声でも、風の音でもない。金属をきりきりと引っかくような、知らない誰かの笑い声だった。


「あっちへ行け。もっと遠くへ行け」


小学三年生の私は、ランドセルを放り出し、泥だらけのズックで走っていた。


息が切れる。胸が焼ける。それでも足は止まらなかった。


気がつけば、駄菓子屋の店先に立ち、色とりどりの飴玉をポケットにねじ込んでいた。


なぜ盗んだのか。


なぜ家を飛び出したのか。


自分でも説明できなかった。


頭の中で嵐が吹き荒れていた。ただ、その嵐から逃げたかった。


けれど、逃げた先にも、私の居場所はなかった。


家へ連れ戻されると、父と母が待っていた。


「どうしてまた、こんなことをしたの!」


母の声が玄関に響いた。


私は何も言えなかった。


何を言えばよいのか、分からなかった。


桜の木刀。


樫の木刀。


柳のむち。


今でも、その名前を覚えている。


打たれた太ももには、いくつもの痣ができた。


昨日の赤。


一昨日の青。


少し古くなった黄色。


さらに時間が経った緑色。


風呂場で自分の足を見下ろすと、まるで絵の具を塗り重ねたような色が広がっていた。


虹色の太もも。


虹は、本来、美しいものなのに。


私の虹は、痛かった。


学校でも、私はいつも下を向いていた。


文字を読もうとすると、文字が躍るように見え、頭が痛くなった。


教室でじっと座っていることも難しかった。


ほかの人には聞こえない声が聞こえ、怖くなって家を飛び出すこともあった。


大人たちは、私を困った子どもだと思っていたのだろう。


けれど、私だって、どうすればよいのか分からなかった。


普通の子どものように振る舞いたかった。


叱られたくなかった。


誰かに褒めてもらいたかった。


でも、うまくできなかった。


自分に自信など、ひとかけらもなかった。


いつもうつむき、背中を丸めていた。


そんな私の背中には、竹の物差しが入れられた。


背筋を伸ばすためだった。


私は、背中を伸ばそうとした。


けれど、背中を伸ばすことと、顔を上げて生きられることは、同じではなかった。


背中は伸ばせても、心は縮こまったままだった。


風呂場で膝を抱え、痣のある太ももを撫でながら、私は呟いた。


「……私は、世界で一番不幸な女の子なんだ」


そう思うと、不思議に少しだけ落ち着いた。


私は悪くない。


私は、かわいそうな女の子なんだ。


そう考えなければ、幼い私は、自分に起きていることを受け止められなかったのかもしれない。


自分を悲劇の主人公だと思うことは、誰にも分かってもらえない私が、自分自身に与えた小さな避難場所だった。


十三歳になるころには、村の人たちの視線も冷たくなっていた。


「あそこの娘だ」


「また何かやったらしいぞ」


そんな声が背中に突き刺さった。


私は、わざと顎を上げ、平気な顔をして歩いた。


本当は、怖かった。


本当は、誰かに分かってほしかった。


十四歳で、私は精神科の病棟に入院した。


統合失調症という病名が、私の人生についた。


病名が分かったからといって、それまでの苦しみが消えるわけではなかった。


私は、父と母を恨んでいた。


どうして私を殴ったの。


どうして優しくしてくれなかったの。


どうして、私ばかりこんな目に遭うの。


心の中では、同じ問いが何度も繰り返されていた。


けれど、私の記憶には、もう一つ、消えない言葉があった。


おばあちゃんのお葬式の日。


二階まで降り積もるほどの雪があった。


その雪の中で、私は盗みの疑いをかけられた。


ただでさえ、村では悪い子だと思われていた。


また私なのか。


また私が疑われるのか。


そんな思いが胸の中に渦巻いていた。


そのときだった。


父と母が、私に言ってくれた。


「世界中のみんながお前を悪い子だといっても、


父さまと母さまは、


いいえ、あの子は優しい子だというよ」


私は、その言葉を忘れなかった。


殴られたことも忘れなかった。


怖かったことも忘れなかった。


けれど、父と母が私を信じてくれた、その言葉も忘れなかった。


私の中には、ずっと二つの記憶があった。


どうして殴るの。


どうして信じてくれるの。


どうして怖いの。


どうして優しいの。


子どもの私には、分からなかった。


大人になっても、簡単には分からなかった。


それから長い年月が流れた。


私は村を離れ、働いた。


芸者の置屋で住み込みの仕事をした。


毎日の仕事をこなし、お金を貯めた。


少しずつ、少しずつ。


そして、自分の働いたお金で、家を買った。


私の家。


誰かの家に住まわせてもらうのではない。


自分で働いて、自分で買った家だった。


私は、そこに暮らしを築こうとした。


子どものころ、いつも下を向いていた私。


背中に竹の物差しを入れられていた私。


その私が、大人になって、自分の家を持ったのだ。


けれど、家を持ったからといって、人生がうまくいくわけではなかった。


病気もあった。


暮らしの苦しさもあった。


生きていくことが、どうにも難しくなった。


そして私は、家を売った。


芸者の置屋で働いて貯めたお金で買った、あの家を。


どんな気持ちで手放したのか。


今でも、簡単な言葉にはできない。


ただ、家を売っても、生きていかなければならなかった。


そして私は、女性のためのリハビリ施設へたどり着いた。


そこは、十四歳の少女がそのまま入った場所ではない。


働いて、家を買って、その家を手放して、それでも生きようとしてきた大人の私が、たどり着いた場所だった。


施設には、年配の女性指導員がいた。


私は、その人に父と母のことを話した。


何度も話した。


半年ほど、話し続けた。


「私は、ずっと殴られてきたんです」


「誰にも分かってもらえなかったんです」


「お父さんも、お母さんも、私のことなんか愛していなかったんです」


桜の木刀。


樫の木刀。


柳のむち。


虹色の太もも。


背中に入れられた竹の物差し。


思い出すたびに、胸の中で昔の少女が泣き叫んだ。


私は、あのころの自分に代わって、何度も訴えた。


痛かった。


怖かった。


悲しかった。


どうして私ばかり。


指導員は、私の話を聞いていた。


そして、ある日のことだった。


いつものように両親への恨みを語り終えた私に、指導員が静かに言った。


「……あなたのお母さん、よく自殺しなかったわね」


私は、言葉を失った。


「……え?」


「あなたも、ずっと苦しかったでしょうね」


指導員は言った。


「でも、あなたのお母さんも、どうしてよいか分からなかったのかもしれないわね」


私は、すぐには頷けなかった。


だって、私は殴られたのだ。


本当に痛かったのだ。


怖くて、悲しくて、何度も泣いたのだ。


「でも……私は、痛かったんです」


そう言うと、指導員は黙って私を見つめた。


私は、また話し始めた。


どれほど怖かったか。


どれほど恨んだか。


どうしても忘れられないことが、どれほどあるか。


指導員の言葉を聞いたからといって、その場ですべてが変わったわけではなかった。


ただ、心の中に、それまでなかった問いが一つ生まれた。


お母さんも、苦しかったのだろうか。


お父さんも、どうしてよいか分からなかったのだろうか。


その問いを抱えたとき、私は、昔の母の姿を思い出した。


警察へ私を迎えに来て、何度も頭を下げていた母。


小さく丸まった背中。


父の恐ろしい顔。


その顔の奥に、何があったのか。


私には分からない。


今でも、分からないことはたくさんある。


ただ、父と母もまた、一人の人間だったのだと考えるようになった。


何でも分かる大人ではなかった。


何でもできる親でもなかった。


どうしてよいか分からず、間違ったこともした人たちだった。


けれど、私のことを信じてくれた人たちでもあった。


あの雪の日。


「世界中のみんながお前を悪い子だといっても」


そう言ってくれた父と母。


その言葉は、確かに私の中に残っていた。


私は、父と母を恨んでいた。


同時に、あの言葉に支えられて生きていた。


それが、私の人生だった。


矛盾していると言われても、仕方がない。


けれど、人の心は、そんなに簡単なものではない。


憎んでいた人を、愛することもある。


愛している人を、どうしても許せないこともある。


大好きだと思いながら、「なんで?」と問い続けることもある。


私は、そういう気持ちを抱えたまま、長い年月を生きてきた。


あれから、さらに歳月が流れた。


私は、すっかり歳をとった。


今は六畳のアパートで、ノートパソコンに向かっている。


かたかた、かたかた。


キーボードを叩く音が、小さな部屋に響く。


かつて文字を読むことが苦しかった少女が、今は小説を書いている。


人を笑わせる話を書く。


懐かしい人の話を書く。


昔の暮らしを書く。


そして、ときどき、自分のことを書く。


私は、この話を「小説家になろう」に来てから、何度も書いている。


一度書けば、気が済むというものではない。


何度書いても、まだ言い足りない。


何度書いても、あのころの私が、心のどこかに残っている。


読んだ人は、何かを言う。


親が悪い。


子どもが悪い。


もう許したのだから、それでいいじゃないか。


過去のことは忘れなさい。


けれど。


そんな簡単じゃない。


上から目線で物を言わないでよ。


上から目線で、私の人生を裁かないでよ。


あなたは、あの虹色の太ももを見たの。


あの雪の中に立っていたの。


自分で働いて買った家を、手放したことがあるの。


私が何十年も抱えてきたものを、たった一言で片づけないでよ。


私は、誰かに正解を教えてほしくて書いているわけじゃない。


ただ、あったことを書いている。


忘れられないことを書いている。


父と母が大好きだということも。


殴られて痛かったということも。


雪の日に信じてもらえたということも。


どれも、本当の私の気持ちなのだ。


私は、ふと手を止め、自分の太ももに触れてみた。


あの赤も、青も、黄色も、緑も、もうない。


そこにあるのは、歳月を重ねた皮膚だけだった。


けれど、痣が消えたからといって、記憶まで消えるわけではない。


今も、私の中には、あの少女がいる。


うつむいて、背中を丸めて、泣いていた女の子。


私は、その子に心の中で声をかける。


「よく生きてきたね」


それだけで、あの子が救われるかどうかは分からない。


私は、もう一度、キーボードに指を置く。


窓の外では、小さなレモンの青い実が、秋の風に揺れている。


「お父さん、お母さん」


誰もいない部屋で、私は呟く。


「私ね、今は二人のことが大好きだよ」


そして、少し間を置く。


「でもね……」


その先の言葉は、すぐには出てこない。


どうして、あんなに痛かったの。


どうして、あんなに怖かったの。


どうして、あの雪の日には、私を信じてくれたの。


どうして、優しいと言ってくれたの。


父と母は、もう答えてくれない。


人は、私のことを忘れる。


昔、私に何を言ったのか。


何をしたのか。


何を疑ったのか。


きっと、忘れてしまう。


でも、私は忘れない。


何十年たっても、忘れられない。


「なんで?」


「ごめんなさい」


私は、これからも、その二つの言葉を胸に抱えて生きていくのだろう。


どちらか一つだけを選ぶことなんて、できない。


これが、私の人生だから。


私は、また書く。


何度でも書く。


うまく書けなくても。


同じ話になっても。


誰かに、もう聞き飽きたと言われても。


私の中で、まだ終わっていないのだから。


これが、私のレクイエム。


父と母への。


あの雪の日への。


虹色の太ももを抱えていた少女への。


そして、今も「なんで?」と問い続けている、私自身への。


かたん。


小さなキーの音がした。


私は、続きを書き始めた。



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― 新着の感想 ―
なんか、作者の生い立ちを想像させる作品だねぇ
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