『虹色の太ももと、私のレクイエム』
『虹色の太ももと、私のレクイエム』
夕暮れのあぜ道は、血のような茜色に染まっていた。
耳の奥で、誰かが笑っている。
カラスの声でも、風の音でもない。金属をきりきりと引っかくような、知らない誰かの笑い声だった。
「あっちへ行け。もっと遠くへ行け」
小学三年生の私は、ランドセルを放り出し、泥だらけのズックで走っていた。
息が切れる。胸が焼ける。それでも足は止まらなかった。
気がつけば、駄菓子屋の店先に立ち、色とりどりの飴玉をポケットにねじ込んでいた。
なぜ盗んだのか。
なぜ家を飛び出したのか。
自分でも説明できなかった。
頭の中で嵐が吹き荒れていた。ただ、その嵐から逃げたかった。
けれど、逃げた先にも、私の居場所はなかった。
家へ連れ戻されると、父と母が待っていた。
「どうしてまた、こんなことをしたの!」
母の声が玄関に響いた。
私は何も言えなかった。
何を言えばよいのか、分からなかった。
桜の木刀。
樫の木刀。
柳のむち。
今でも、その名前を覚えている。
打たれた太ももには、いくつもの痣ができた。
昨日の赤。
一昨日の青。
少し古くなった黄色。
さらに時間が経った緑色。
風呂場で自分の足を見下ろすと、まるで絵の具を塗り重ねたような色が広がっていた。
虹色の太もも。
虹は、本来、美しいものなのに。
私の虹は、痛かった。
学校でも、私はいつも下を向いていた。
文字を読もうとすると、文字が躍るように見え、頭が痛くなった。
教室でじっと座っていることも難しかった。
ほかの人には聞こえない声が聞こえ、怖くなって家を飛び出すこともあった。
大人たちは、私を困った子どもだと思っていたのだろう。
けれど、私だって、どうすればよいのか分からなかった。
普通の子どものように振る舞いたかった。
叱られたくなかった。
誰かに褒めてもらいたかった。
でも、うまくできなかった。
自分に自信など、ひとかけらもなかった。
いつもうつむき、背中を丸めていた。
そんな私の背中には、竹の物差しが入れられた。
背筋を伸ばすためだった。
私は、背中を伸ばそうとした。
けれど、背中を伸ばすことと、顔を上げて生きられることは、同じではなかった。
背中は伸ばせても、心は縮こまったままだった。
風呂場で膝を抱え、痣のある太ももを撫でながら、私は呟いた。
「……私は、世界で一番不幸な女の子なんだ」
そう思うと、不思議に少しだけ落ち着いた。
私は悪くない。
私は、かわいそうな女の子なんだ。
そう考えなければ、幼い私は、自分に起きていることを受け止められなかったのかもしれない。
自分を悲劇の主人公だと思うことは、誰にも分かってもらえない私が、自分自身に与えた小さな避難場所だった。
十三歳になるころには、村の人たちの視線も冷たくなっていた。
「あそこの娘だ」
「また何かやったらしいぞ」
そんな声が背中に突き刺さった。
私は、わざと顎を上げ、平気な顔をして歩いた。
本当は、怖かった。
本当は、誰かに分かってほしかった。
十四歳で、私は精神科の病棟に入院した。
統合失調症という病名が、私の人生についた。
病名が分かったからといって、それまでの苦しみが消えるわけではなかった。
私は、父と母を恨んでいた。
どうして私を殴ったの。
どうして優しくしてくれなかったの。
どうして、私ばかりこんな目に遭うの。
心の中では、同じ問いが何度も繰り返されていた。
けれど、私の記憶には、もう一つ、消えない言葉があった。
おばあちゃんのお葬式の日。
二階まで降り積もるほどの雪があった。
その雪の中で、私は盗みの疑いをかけられた。
ただでさえ、村では悪い子だと思われていた。
また私なのか。
また私が疑われるのか。
そんな思いが胸の中に渦巻いていた。
そのときだった。
父と母が、私に言ってくれた。
「世界中のみんながお前を悪い子だといっても、
父さまと母さまは、
いいえ、あの子は優しい子だというよ」
私は、その言葉を忘れなかった。
殴られたことも忘れなかった。
怖かったことも忘れなかった。
けれど、父と母が私を信じてくれた、その言葉も忘れなかった。
私の中には、ずっと二つの記憶があった。
どうして殴るの。
どうして信じてくれるの。
どうして怖いの。
どうして優しいの。
子どもの私には、分からなかった。
大人になっても、簡単には分からなかった。
それから長い年月が流れた。
私は村を離れ、働いた。
芸者の置屋で住み込みの仕事をした。
毎日の仕事をこなし、お金を貯めた。
少しずつ、少しずつ。
そして、自分の働いたお金で、家を買った。
私の家。
誰かの家に住まわせてもらうのではない。
自分で働いて、自分で買った家だった。
私は、そこに暮らしを築こうとした。
子どものころ、いつも下を向いていた私。
背中に竹の物差しを入れられていた私。
その私が、大人になって、自分の家を持ったのだ。
けれど、家を持ったからといって、人生がうまくいくわけではなかった。
病気もあった。
暮らしの苦しさもあった。
生きていくことが、どうにも難しくなった。
そして私は、家を売った。
芸者の置屋で働いて貯めたお金で買った、あの家を。
どんな気持ちで手放したのか。
今でも、簡単な言葉にはできない。
ただ、家を売っても、生きていかなければならなかった。
そして私は、女性のためのリハビリ施設へたどり着いた。
そこは、十四歳の少女がそのまま入った場所ではない。
働いて、家を買って、その家を手放して、それでも生きようとしてきた大人の私が、たどり着いた場所だった。
施設には、年配の女性指導員がいた。
私は、その人に父と母のことを話した。
何度も話した。
半年ほど、話し続けた。
「私は、ずっと殴られてきたんです」
「誰にも分かってもらえなかったんです」
「お父さんも、お母さんも、私のことなんか愛していなかったんです」
桜の木刀。
樫の木刀。
柳のむち。
虹色の太もも。
背中に入れられた竹の物差し。
思い出すたびに、胸の中で昔の少女が泣き叫んだ。
私は、あのころの自分に代わって、何度も訴えた。
痛かった。
怖かった。
悲しかった。
どうして私ばかり。
指導員は、私の話を聞いていた。
そして、ある日のことだった。
いつものように両親への恨みを語り終えた私に、指導員が静かに言った。
「……あなたのお母さん、よく自殺しなかったわね」
私は、言葉を失った。
「……え?」
「あなたも、ずっと苦しかったでしょうね」
指導員は言った。
「でも、あなたのお母さんも、どうしてよいか分からなかったのかもしれないわね」
私は、すぐには頷けなかった。
だって、私は殴られたのだ。
本当に痛かったのだ。
怖くて、悲しくて、何度も泣いたのだ。
「でも……私は、痛かったんです」
そう言うと、指導員は黙って私を見つめた。
私は、また話し始めた。
どれほど怖かったか。
どれほど恨んだか。
どうしても忘れられないことが、どれほどあるか。
指導員の言葉を聞いたからといって、その場ですべてが変わったわけではなかった。
ただ、心の中に、それまでなかった問いが一つ生まれた。
お母さんも、苦しかったのだろうか。
お父さんも、どうしてよいか分からなかったのだろうか。
その問いを抱えたとき、私は、昔の母の姿を思い出した。
警察へ私を迎えに来て、何度も頭を下げていた母。
小さく丸まった背中。
父の恐ろしい顔。
その顔の奥に、何があったのか。
私には分からない。
今でも、分からないことはたくさんある。
ただ、父と母もまた、一人の人間だったのだと考えるようになった。
何でも分かる大人ではなかった。
何でもできる親でもなかった。
どうしてよいか分からず、間違ったこともした人たちだった。
けれど、私のことを信じてくれた人たちでもあった。
あの雪の日。
「世界中のみんながお前を悪い子だといっても」
そう言ってくれた父と母。
その言葉は、確かに私の中に残っていた。
私は、父と母を恨んでいた。
同時に、あの言葉に支えられて生きていた。
それが、私の人生だった。
矛盾していると言われても、仕方がない。
けれど、人の心は、そんなに簡単なものではない。
憎んでいた人を、愛することもある。
愛している人を、どうしても許せないこともある。
大好きだと思いながら、「なんで?」と問い続けることもある。
私は、そういう気持ちを抱えたまま、長い年月を生きてきた。
あれから、さらに歳月が流れた。
私は、すっかり歳をとった。
今は六畳のアパートで、ノートパソコンに向かっている。
かたかた、かたかた。
キーボードを叩く音が、小さな部屋に響く。
かつて文字を読むことが苦しかった少女が、今は小説を書いている。
人を笑わせる話を書く。
懐かしい人の話を書く。
昔の暮らしを書く。
そして、ときどき、自分のことを書く。
私は、この話を「小説家になろう」に来てから、何度も書いている。
一度書けば、気が済むというものではない。
何度書いても、まだ言い足りない。
何度書いても、あのころの私が、心のどこかに残っている。
読んだ人は、何かを言う。
親が悪い。
子どもが悪い。
もう許したのだから、それでいいじゃないか。
過去のことは忘れなさい。
けれど。
そんな簡単じゃない。
上から目線で物を言わないでよ。
上から目線で、私の人生を裁かないでよ。
あなたは、あの虹色の太ももを見たの。
あの雪の中に立っていたの。
自分で働いて買った家を、手放したことがあるの。
私が何十年も抱えてきたものを、たった一言で片づけないでよ。
私は、誰かに正解を教えてほしくて書いているわけじゃない。
ただ、あったことを書いている。
忘れられないことを書いている。
父と母が大好きだということも。
殴られて痛かったということも。
雪の日に信じてもらえたということも。
どれも、本当の私の気持ちなのだ。
私は、ふと手を止め、自分の太ももに触れてみた。
あの赤も、青も、黄色も、緑も、もうない。
そこにあるのは、歳月を重ねた皮膚だけだった。
けれど、痣が消えたからといって、記憶まで消えるわけではない。
今も、私の中には、あの少女がいる。
うつむいて、背中を丸めて、泣いていた女の子。
私は、その子に心の中で声をかける。
「よく生きてきたね」
それだけで、あの子が救われるかどうかは分からない。
私は、もう一度、キーボードに指を置く。
窓の外では、小さなレモンの青い実が、秋の風に揺れている。
「お父さん、お母さん」
誰もいない部屋で、私は呟く。
「私ね、今は二人のことが大好きだよ」
そして、少し間を置く。
「でもね……」
その先の言葉は、すぐには出てこない。
どうして、あんなに痛かったの。
どうして、あんなに怖かったの。
どうして、あの雪の日には、私を信じてくれたの。
どうして、優しいと言ってくれたの。
父と母は、もう答えてくれない。
人は、私のことを忘れる。
昔、私に何を言ったのか。
何をしたのか。
何を疑ったのか。
きっと、忘れてしまう。
でも、私は忘れない。
何十年たっても、忘れられない。
「なんで?」
「ごめんなさい」
私は、これからも、その二つの言葉を胸に抱えて生きていくのだろう。
どちらか一つだけを選ぶことなんて、できない。
これが、私の人生だから。
私は、また書く。
何度でも書く。
うまく書けなくても。
同じ話になっても。
誰かに、もう聞き飽きたと言われても。
私の中で、まだ終わっていないのだから。
これが、私のレクイエム。
父と母への。
あの雪の日への。
虹色の太ももを抱えていた少女への。
そして、今も「なんで?」と問い続けている、私自身への。
かたん。
小さなキーの音がした。
私は、続きを書き始めた。




