『浪費家と言われた貧乏令嬢は婚約解消されました。では、侯爵領に貸していたものを返していただきます』
「ローランド様。少し、お耳に入れておきたいことがございます」
秘書であるセシリア・ベルネ男爵令嬢がそう切り出したのは、ローランド・ヴァルハルトが領主館へ戻って三か月ほど経った頃だった。
午後の執務室には、初夏の日差しが差し込んでいる。
ローランドは王都から取り寄せた革張りの椅子に深く腰掛け、手にしていた書類から顔を上げた。
騎士団を退く際に仕立てた濃紺の上着。
胸元には銀鎖の懐中時計。
窓の向こうの厩舎には、騎士団時代に惚れ込んで買い取った黒毛の軍馬がいる。
侯爵家嫡男としては、別段贅沢というほどでもない。
少なくともローランド自身はそう思っていた。
「なんだ?」
「……リディア様のことです」
その名を聞いて、わずかに眉を寄せる。
リディア・エルフォード。
十四歳の頃から七年間婚約している女性だった。
今年で二十一になる。
本来なら、すでに結婚していてもおかしくない。
婚姻が遅れていた理由の一つはローランド自身にあった。
王立学院卒業後、侯爵家嫡男として三年間、王国騎士団へ出仕する義務があったからだ。
そしてもう一つ。
『せめて、今手をつけている事業が一段落するまでは』
と、リディアが望んでいた。
彼女は十六歳頃から将来の侯爵夫人として父オスヴァルトに領政を学び、やがて実務にも関わるようになった。
ローランドはそれを、婚姻前の勉強の延長くらいに考えていた。
自分は騎士団の義務を終えた。
リディアの仕事もそろそろ片付く。
今年の秋には結婚する。
そういう話になっていた。
「リディアが何かしたのか?」
「なんと申し上げてよいのか……」
セシリアは困ったように言い淀んだ。
彼女はローランドが領政へ参加するようになってから補佐を務めている女性だった。
地方貴族の娘ながら計算に明るく、筆が速い。
人付き合いにも長けている。
何より、ローランドが何をしようとしているのか察するのが早かった。
三年間領地を離れていたローランドには、領内の商人や役人との細かな関係がまだよく分からない。
その点、セシリアは便利な秘書だった。
「申し上げるべきか迷っていたのです」
「言ってくれ。俺の補佐役だろう」
「……では」
セシリアが一冊の帳面を差し出した。
「こちらをご覧ください」
「アステル商会?」
「はい」
ローランドも名前くらいは知っていた。
ここ四年ほどで急速に力をつけた新興商会だ。
薬草、織物、硝子、輸送。
扱うものにはまるで一貫性がない。
しかも商会主はほとんど表舞台へ姿を見せず、誰が実権を握っているのかもよく分からない。
商人の間では『顔のない商会』などと呼ばれているらしい。
「侯爵領とアステル商会の間では、かなり大きなお金が動いております」
セシリアが指を差す。
「昨年だけで、侯爵家からアステル商会へ一万八千白金貨」
「……随分多いな」
「今年も、すでに一万を超えております」
確かに大金だった。
「それがリディアと何の関係がある?」
「こちらを」
別の書類が差し出される。
署名を見て、ローランドの手が止まった。
――リディア・エルフォード。
「これは?」
「アステル商会が借り入れを行った際の保証契約です」
「保証人がリディア?」
「それだけではありません」
出資契約。
委任状。
取引承認書。
どれにも同じ署名があった。
「アステル商会とリディア様には、かなり深い関係があるようなのです」
ローランドは書類を見下ろした。
だが、すぐには腑に落ちなかった。
「……それはおかしい」
「おかしい、とは?」
「リディアが金を使い込んでいるという話なら、さすがに無理がある」
思わず苦笑した。
リディアほど金のかからない令嬢を、ローランドは知らなかった。
侯爵家嫡男の婚約者だというのに、彼女の装いはいつも質素だ。
高価なレースも宝石もほとんど使わない。
夜会でも、母から贈られた小さな真珠の耳飾りを何年も使い続けている。
ドレスも、『まだ着られますから』 と自ら仕立て直す。
高価な香水も買わない。
以前ローランドが王都から上等な砂糖菓子を持ち帰ったときには、
『美味しいです。でも、こんなに高価なものを買わなくても、今度私が焼きますね』
などと真顔で言った。
そのリディアが……浪費家?
「少なくとも、自分のために金を使う女じゃない」
「わたくしも、最初はそう思いました」
セシリアは頷いた。
「ですが、こちらをご覧になってください」
帳面をめくる。
北部大湿地。
倒産寸前の毛織物工房。
三十年前に閉鎖された鉱山。
使われなくなった河岸倉庫群。
そして最近では、北東部の石灰質の谷。
「……何だ、これは」
「アステル商会の主な投資先です」
「こんなものに?」
「わたくしにも理解できません」
セシリアは困ったように眉を下げた。
「まともな商人なら、もっと価値の分かるものへ投資するのではありませんか?」
ローランドは帳面を見た。
確かに奇妙だった。
騎士団勤務が長かった自分に、商売の詳しいことは分からない。
それでも。
何も育たない湿地。
潰れた工房。
鉱石の出ない鉱山。
そんなものへ大金を投じるのが、まともな金の使い方には思えない。
「しかも、アステル商会には多額の借り入れがございます」
「借金まで?」
「はい」
「どれほどだ」
聞かされた額に、ローランドは身を起こした。
「それほど?」
「いくつもの商会や金融業者から集めています」
「……リディアの実家に、そんな金があるはずがない」
エルフォード男爵家は貧しい。
領地は小さく、これといった産業もない。
持参金さえ侯爵家が不要としたほどだ。
セシリアは少しためらってから続けた。
「ですから、わたくしは心配なのです」
「何を?」
「侯爵領からアステル商会へ渡っているお金が、本当に正当なものなのか」
「……」
「リディア様がご自分のために使っているとは思いません。でも」
セシリアは言葉を選ぶように続ける。
「お金を使うことそのものに、歯止めが利かなくなっているのではないでしょうか」
ローランドはすぐには答えなかった。
私腹を肥やしている……まさか。
彼女は自分のことには金を使わない。
だが……
その代わり、一度必要だと思ったことには妙に頑固だ。
帳簿を見る。
侯爵領からアステル商会への巨額の支払い。
リディアの署名。
商会の莫大な借り入れ。
理解不能な投資。
事実だけを並べれば、不穏だった。
「まさか……」
「違っていてほしいのです」
セシリアは静かに言った。
「ただ、侯爵様がここ数年で豊かになさった領地へ、リディア様が少し深く入り込みすぎているようにも見えてしまって」
ローランドの眉間に皺が寄った。
ヴァルハルト侯爵領は、かつて決して豊かな土地ではなかった。
山が多く、耕作地は少ない。
北部には広大な湿地。
鉱山は枯れ。
古くからの毛織物産業も衰退していた。
ところがここ四、五年で、領地は急速に豊かになった。
薬草。
高級織物。
硝子。
河川交易。
三年間の騎士団勤務を終えて帰ってきたローランドには、子供の頃とは別の土地のように見えた。
当然、父オスヴァルトの功績だと思っていた。
王都でも、
――ヴァルハルト侯爵は名君だ。
と何度も聞いた。
その父の成果へ。
リディアが入り込んでいる?
「バーナードを呼べ」
◇
「アステル商会について説明しろ」
老家令バーナードは、卓上の帳面を見ても表情を変えなかった。
「こちらをどこで?」
「質問に答えろ」
「申し訳ございません」
バーナードは深く頭を下げた。
「旦那様より、アステル商会との契約内容については口外せぬよう申しつけられております」
「俺は次期侯爵だぞ」
「承知しております」
「ならば話せ」
「旦那様の許可なくは」
ローランドの胸に苛立ちが湧いた。
「リディアも関係しているな?」
バーナードは黙った。
「答えろ」
「私から申し上げることはございません」
その沈黙が、ローランドには肯定に見えた。
――やはり何か隠している。
父も。
家令も。
リディアも。
確かに、自分は三年間騎士団にいた。
だが遊んでいたわけではない。
侯爵家嫡男として必要な義務だった。
ようやく戻り。
これから領政を覚え。
次期侯爵として責任を負おうとしているのに。
自分だけが何も知らされていない。
領地に戻ってきてからの不満が蘇った。
『少しお待ちください』
『本当にそれでよろしいですか?』
『もう一度確認しましょう』
リディアはいつも自分にくどいほど念を押していた。
商人と交渉する際は、契約書を全て調べろと言う。
土地を買おうとすれば、水利権まで確認したのかと言う。
何かを思いつけば、収支を出したのかと言う。
まるで。
自分一人では何もできないと言われているようだった。
騎士団では違った。
ローランドの決断の速さは長所だった。
危機に際して迷わない。
これと決めればすぐ動く。
部下からも信頼された。
セシリアも言う。
『ローランド様の思い切りの良さは、素晴らしいところだと思います』
『判断が早い方が上にいらっしゃると、周囲も安心できますもの』
それに比べて……
「リディアを呼べ」
◇
呼び出されたリディアは、いつもの格好だった。
濃紺のドレス。
余計な飾りのない袖口。
髪はきっちりまとめられ、耳元には例の小さな真珠。
ローランドは一瞬だけ迷った。
本当に?
この女が浪費家?
どう見ても、今日自分が着ている上着一着の方が、彼女の衣装一式より高そうだった。
だが。
人は見た目だけでは分からない。
目の前には数字がある。
「リディア」
「はい」
「アステル商会を知っているな」
彼女の目が帳簿へ向く。
「ええ」
「どんな関係だ?」
リディアはわずかに首を傾げた。
「私が立ち上げました」
ローランドの迷いが消えた。
「やはりそうか」
「やはり?」
「侯爵領からアステル商会へ莫大な金が流れている」
リディアの眉が寄った。
「どちらの帳簿を――」
「また確認か!」
思わず声が大きくなった。
リディアが目を瞬かせる。
「ローランド様?」
「君はいつもそうだ!」
「何のお話です?」
「『確認してください。最後まで調べてください。契約書を読んでください』だと!」
言い始めると止まらなかった。
「俺が何かをしようとするたび、必ず横から口を出す!」
「それは――」
「俺を信用していないんだろう!」
リディアの顔から表情が消えた。
「そんなことはありません」
「だったら、なぜいつも俺を止める!」
「止めてはおりません。ただ確認を……」
「それだ!」
ローランドは卓を叩いた。
「いつまで俺を子供扱いするつもりだ!」
リディアは黙った。
「俺は三年間騎士団で働いた。部下もいた。人の命に関わる判断もしてきた」
「存じています」
「それなのに戻ってきたら、君は何でも俺に確認しろと言う!」
「領地経営は、騎士団での判断とは性質が――」
「俺をバカにしているのかっ!」
リディアの目が揺れた。
「違います」
しばらくの間、互いの視線が揺らぐ。やがてリディアは俯くと口を開いた。
「……そう受け取っていらしたのですね」
その声には、ほんの少しだけ傷ついた響きがあった。
だがローランドは気づかなかった。
この際、しっかりと彼女に言う必要があったのだ。
「アステル商会には巨額の借金がある」
「ええ」
「君が保証している」
「はい」
「価値のない湿地や廃鉱にまで金を使っている」
「そうですね、今のところは……ですが……」
「それを浪費と言わず何と言う!」
リディアは彼を見た。
「説明を――」
「言い訳はいらない」
その瞬間。
リディアの瞳から、何かが消えた。
「……そうですか」
「ああ……このままでは君と結婚できない。信用できないからな」
長い沈黙。
やがてリディアは小さく息を吐いた。
「分かりました。婚約を解消いたしましょう」
ローランドの方が驚いた。
「……それだけか?」
「他に何か?」
「弁明しないのか」
リディアはほんの少しだけ笑った。
ひどく寂しい笑いだった。
「今年の秋には、結婚するつもりだったのですが」
「……」
「あなたが騎士団からお戻りになったら」
静かに続ける。
「一緒にこの領地をやっていくのだと思っていました」
ローランドの胸が一瞬ざわついた。
「そのために、ずっと準備してきました」
「……」
「でも」
そこで言葉を切る。
「私の話をお聞きになるおつもりがないのでしたら、仕方ありません」
それ以上は何も言わなかった。
「手続きをいたします」
◇
その日の夕方。
リディアが持ってきた婚約解消契約書は六枚あった。
「六枚?」
ローランドは呆れた。
「婚約を解消するだけだろう」
「七年の婚約ですから」
「だから?」
「財産関係があります」
リディアは淡々と説明する。
「婚姻成立時に、私が保有している事業資産、権利、および関連債務の一部をヴァルハルト侯爵家へ移管する予定でした」
「債務?」
ローランドは鼻で笑った。
「君の借金まで侯爵家へ持ち込むつもりだったのか」
「資産も一緒です」
「どちらも必要ない」
リディアの指が、一瞬だけ止まった。
「本当に?」
「何だ?」
「婚姻を前提とした資産移管を、すべて失効させます」
「ああ」
「アステル商会と侯爵家との共同事業に設定している特別条件も終了します」
「好きにしろ」
「私名義で保有している事業権、土地、商会持分についても、ヴァルハルト家への移転義務はなくなります」
「分かったと言っている」
リディアは契約書を差し出した。
「最後までお読みください」
また、その言葉だった。確認、確認、確認……
「必要ない」
「重要な契約です」
「リディア」
ローランドは苛立った。
「最後まで俺を信用しないのか」
リディアはしばらく彼を見た。
「……そうですね」
「何?」
「今はもう、そのお話をしても仕方ありません」
ローランドには意味が分からなかった。
羽根ペンを取る。
「君との関係は、これですべて終わりだ」
署名した。
セシリアも証人欄へ署名する。
リディアは二人の署名を確認した。
「本当に、これでよろしいのですね?」
「くどい」
数秒。
彼女はローランドの顔を見ていた。
そして、自らも署名した。
「承りました」
契約書を閉じる。
「約束ですから」
静かに言った。
「必ず守ります」
◇
部屋を出た途端。
リディアの足が止まった。
廊下には誰もいない。
夕日の差し込む窓辺へ、赤い光が長く伸びている。
「……終わったのですね」
口に出してみる。
不思議なほど実感がなかった。
十四歳で婚約した。
七年間。
ローランドが学院へ行くのを見送った。
騎士団へ入るのも。
初めて部下を持ったと嬉しそうに手紙を寄越したことも。
辺境警備で怪我をしたと聞いて、眠れなかった夜も。
全部覚えている。
騎士団の義務が終わったら。
帰ってきたら。
結婚するのだと思っていた。
だから。
十七歳のとき、初めてオスヴァルト侯爵へ申し出た。
『北の染色工房について、少しお話を聞いていただけませんか』
たった一軒の、小さな工房だった。
それが始まりだった。
ローランドが帰ってきたとき。
少しでも豊かな領地になっていてほしかった。
二人で治めていく土地なのだから。
彼が騎士として経験を積んでいるなら。
自分も、できることをして待っていたかった。
気がつけば。
それがアステル商会になっていた。
「……馬鹿ですね、本当に」
誰に対して言ったのか。
自分か……ローランドか。
分からなかった。
頬に何かが伝った。
指で拭う。
涙だった。
一滴。
それきりだった。
契約は終わった。
ならば。
次にすることは決まっている。
「リディア様」
後ろから声がした。
振り返ると、バーナードが立っていた。
老家令は、何も聞かなかった。
ただ。
「馬車をご用意いたしましょうか」
「お願いします」
少し歩いてから、リディアは振り返った。
「それから、バーナードさん」
「はい」
「明日の朝、アステル商会の支配人を呼んでください」
老家令の目がわずかに動いた。
「よろしいので?」
「ええ」
リディアは契約書を胸に抱いた。
「約束が変わりましたから」
◇
翌朝。
アステル商会の応接室には、帳簿と契約書が山のように積まれていた。
「本当に婚約を解消なさったので?」
支配人のマティアスが何度目か分からない質問をした。
「しました」
「……では、侯爵家への移管は」
「なくなりました」
「商会持分も?」
「私のままです」
マティアスは頭を抱えた。
「お嬢様には悪いですが、私は少し安心しました」
「なぜ?」
「あの条件で商会の半分近くを婚姻財産へ組み込むなど、気前が良すぎます」
「夫婦になる予定でしたから」
その言葉だけは、まだ少し痛かった。
リディアは帳簿を開くとマティアスに宣言した。
「ヴァルハルト侯爵領との取引を整理します」
「撤退するのですか?」
「いいえ」
即答した。
「既存事業は継続します。ただし、婚姻を前提に設定していた優遇条件は終了です」
「通常契約へ?」
「そうなりますね。こうなった以上、他のお客様と待遇を変えるわけにはいきません」
「ヴァルハルトへの新規投資は?」
リディアは少し考えた。
次は侯爵領北東部の谷へ大きく投資する予定だった。
石灰。
良質な粘土。
森林。
川。
全てが揃っている。
窯業と建築材の産地にできる。
その事業が終われば、結婚するつもりだった。
ローランドに見せたいと思っていた。
『無駄な浪費をして……』
きっとそう言う。
そして成功すれば驚くだろう。
そんな顔まで想像していた。
もう。
必要ない。
「北東部の谷への追加投資は停止します」
マティアスが頷く。
「では資金をどうします?」
「エルフォード領へ回します」
「ご実家へ?」
「ええ」
リディアは微笑んだ。
貧しい男爵領。
昔から、どうにかしたいと思っていた。
ただ、自分はいずれヴァルハルト家へ嫁ぐ。
だから優先順位を後ろへ置いていた。
「父の領地にも、まだ、活用されていないものがたくさんあります」
「……また、誰も欲しがらないものを買うおつもりで?」
「価値は我々が作り出すものですから」
マティアスがニヤリと笑った。
「あなたは変わりませんね」
「変える必要がありますか?」
「いえ」
支配人は首を振った。
「それでこそ、我々の商会主です」
リディアは書類へ署名する。
一つ。
また一つ。
婚姻を前提としていた契約を外していく。
奇妙なものだった。
七年間かけて作った未来を、自分の手でほどいていく。
悲しくないわけではない。
けれど。
ローランドとの未来がなくなったからといって、自分までなくなるわけではない。
アステル商会も。
積み上げた信用も。
自分の経験も。
何一つ失っていない。
「最後に……侯爵領へ出している長期貸付についても、婚姻特約を外してください」
「返済期限を通常条件へ?」
「はい」
「それなりの額になりますよ」
「契約通りです」
マティアスが笑う。
「侯爵家は驚くでしょうね」
「仕方ありません」
リディアは淡々と言った。
「婚約を前提としてお貸ししていたものですから」
そして。
少し考えてから、続けた。
「婚約がなくなった以上――」
自分でも驚くほど、すっきりした声だった。
「侯爵領にお貸ししていたものを、すべて契約どおり返していただきましょう」
新しい自分が前に進めるように、そして、信用していただいているお客様のために。
◇
三日後。
「……で、お前は、これに署名したのか?」
王都から帰還したオスヴァルト・ヴァルハルト侯爵は、婚約解消契約書を手に呆然としていた。
「はい」
「全部読んだのか」
「内容は聞きました」
「全部読んだのかと聞いている!」
父が怒鳴った。
「父上まで何なんです!」
「バーナード! いるかっ」
家令が入ってくる。
「アステル商会との契約を全部持ってこい!」
ほどなくして、帳簿と契約書が何冊も運び込まれた。
父は一冊を開き、ローランドの前へ叩きつけた。
「アステル商会へ金が流れていたと言ったな」
「はい」
「ここを見ろ」
示された数字に眉を寄せる。
「十二万……?」
「これまでアステル商会が、侯爵領へ出した開発資金だ」
「え? 逆ではないのですか?」
「違う。お前が流出だと思った金は、その返済と利益分配だ!」
ローランドは動けなかった。
「つまり……侯爵家がアステル商会から?」
「投資を受けていた」
「でもアステル商会はリディアが――」
父は額を押さえた。
「そうだ、リディア嬢が作った商会だ」
「そのアステル商会には、莫大な借金があります!」
セシリアが横から声を上げた。
「事業をする商会に借り入れがあることの何がおかしい」
侯爵は苦虫を噛み潰したような顔を向けた。
「いくらなんでも、借金が多すぎ――」
「利益と資産も見ろ!」
父が別の帳簿を開いた。
並んだ数字を見て、ローランドは言葉を失う。
「……こんなに?」
「借入額以上の事業資産と収益がある」
「ですが、投資先に問題を抱えています」
セシリアが帳面を開く。
「湿地や廃鉱ばかりです!」
「北部湿地」
父が言った。
「今では王都へ出荷する薬草の七割を生産している」
セシリアが黙る。
「倒産寸前だった毛織物工房」
「……」
「現在のヴァルハルト織の中心だ」
ローランドの喉が鳴った。
「廃鉱山は?」
「鉱石は出ん」
父は答える。
「だが、捨てられていた石が耐火煉瓦に使えるとリディア嬢が見抜いた。その煉瓦で高温炉を作り、硝子産業を育てた」
ローランドは父を見た。
「待ってください」
声が震えた。
「それは……父上が始めた事業では?」
オスヴァルトは息子を見つめた。
しばらくして、空虚な笑い声を上げた。
「私の功績? 誰がいったんだ」
「違うのですか」
「功績か……もちろんあるとも」
父は言った。
「リディア嬢が持ってきた話を、馬鹿げていると切り捨てなかったことだ」
ローランドは頭が真っ白になった。
「最初にあの子が事業の話を持ってきたのは十七のときだ」
「十七……」
「お前が騎士団へ入った年だ」
ローランドは息を止める。
「最初は小さな染色工房だった」
借りた金は期日より早く返した。
次は少し大きな額を借りた。
それも返した。
また借りた。
そして……成功させた。
「そうやって、商人たちから信用を積み上げた」
「信用……」
「今では『あの娘の計画なら話を聞こう』と言う商人がいくらでもいる」
ローランドの脳裏に、昔のリディアが蘇った。
『私には、失って困らない財産なんてありませんもの』
『信用こそが、私の財産です』
あの言葉。
「なぜ……」
「何がだ」
「なぜ、彼女はそこまで事業にのめり込んだのですか?」
父が、信じられないものを見るような顔をした。
「お前と結婚するからだろう」
ローランドは息を止めた。
「お前が騎士団にいる間、あの子はここで、お前との結婚後の暮らしを作っていたんだ」
「……」
「婚姻を延ばしたのも、仕事そのものがしたかったからではない」
父の声が低くなる。
「最後の事業整理を終えてから、アステル商会の持分や事業権を婚姻財産として整理したかったからだ」
「つまり」
ローランドの声が掠れた。
「俺は……」
「お前は」
父が契約書を指差した。
「彼女が何年もかけて、お前との将来のために作ったものを」
静かに言う。
「全部いらないと、自分で署名したんだ」
◇
「では……侯爵家は、侯爵家はこれからいったいどうなりますの?」
セシリアが震える声で尋ねた。
「どうもこうもない。これからリディアには謝罪に行くだけだ」
オスヴァルトは答えた。
「リディア嬢だから既存事業をそのまま続けてくれている。普通なら、新規投資を止めるだけでなく、契約の更新そのものを拒まれてもおかしくなかった」
ローランドは青ざめたが、セシリアは少しホッとした顔をした。
しかし、すぐにオスヴァルトは話を続けた。
「ただし、今までのようには暮らせない」
「今までのように……って?」
「王都の別邸を一つ手放す。馬車も減らす。夜会も控える。新規事業も当面縮小だ」
「そんな……」
「昔の我が家はそれで暮らしていた。アステル商会へは莫大な借金もある」
「……そんな話、聞いていません」
セシリアは非難するような声を上げた。
「何?」
ローランドが振り返る。
「わたくしは……侯爵家がこれほどアステル商会に借金があるだなんて知りませんでした」
「だが、君はリディアが浪費していると」
「帳簿だけ見れば、そう見えました!」
「俺を騙したのかっ」
「でも、最後に決めたのはローランド様でしょう?」
胸に刺さった。
「!」
セシリアの目を伏せた。
「リディア様がいなくなれば……あなたの隣に、私が立てるかもしれないと思ったのに……」
「セシリア……どう言うことだ?」
「でも……質素に暮らしながら借金を返す将来まで、私は望んでおりません」
それだけ言って、彼女は部屋を出ていった。
ローランドは追わなかった。
◇
ヴァルハルト侯爵家は表面上は何も変わりがなかった。
ただ、魔法が解けてしまったように、影が差していた。
王都の別邸を一つ売った。
母は毎季ドレスを新調するのをやめた。
ローランドも、新しい軍馬を買う予定を取りやめた。
夜会は減った。
大規模な新規事業は凍結された。
身の丈に合った生活へ戻っただけ。
だからローランドも、最初は思った。
いずれ取り戻せる。
問題は、そこではなかった。
「ローランド。この契約は私にも見せろ」
父が言う。
「この程度なら俺の権限で」
「見せろ」
「……はい」
家令も。
「若様、こちらへ署名なさる前に、もう一度条件をご確認ください」
「読んだ」
「では旦那様にも」
「そこまで必要か?」
「念のためでございます」
母も。
「その話、お父様にも相談した?」
「母上まで」
「ごめんなさい。でも……一応ね」
商人たちも。
「申し訳ございません。この金額ですと、侯爵様の連署をお願いしたく」
以前なら、自分の裁量で通すことができた。
今は通らない。
最初は腹が立った。
一度間違えただけではないか。
いつまで信用しないつもりだ。
ある晩。耐えきれず父に言った。
「父上」
「何だ」
「いつまで俺を信用しないつもりですか」
父は書類から顔を上げた。
「信用?」
「俺は失敗した。それは認めます。ですが、一度の失敗で――」
「お前は何に失敗したと思っている?」
ローランドは黙る。
「リディアを疑ったこと」
「違う」
「契約を読まなかったこと」
「それも一つだ」
父は静かだった。
「お前が間違えたことを怒っているのではない」
「なら」
「人は誰でも間違える」
「……」
「だがな、ローランド。忠告を素直に聞けなければ、いつまでも間違えたままだ」
ローランドは何も言えない。
「七年も婚約していた女性の話を聞かなかった。家令の沈黙を、自分に都合よく解釈した。私にも確認しなかった」
「……」
「そして、人生に関わる契約書を読まずに署名した」
父は息を吐いた。
「私は、お前の決断の速さと実行力を買っていた」
怒鳴られた方がまだ楽だった。
「ただ、お前は危なっかしい。だが、最後には他人の話を聞ける男だと思っていた」
思っていた。
過去形だった。
「もう一度そう思えるようになるまでは、大きな判断を一人では任せられん」
その夜。
ローランドはほとんど眠れなかった。
◇
半年後。
リディアはエルフォード領の小高い丘から、建設中の工房を眺めていた。
「本当にここへ作るんですねえ」
マティアスが隣で感心したように言う。
「何か問題が?」
「何もありません。ただ、半年前まで侯爵夫人になる予定だった方が、ご実家で焼き物の工房を作っているとは」
「焼き物だけではありません」
「はいはい。建築材も、保存容器も、いずれは装飾品も」
「分かっているではありませんか」
リディアは笑った。
父の領地には、金はない。
だが、粘土があった。
森があった。
使われていない水車があった。
王都へ続く街道から少し外れているため、誰も価値を認めていなかった。
それなら価値を作ればいい。
「リディア様」
使用人が走ってくる。
「お客様です」
「誰?」
「ヴァルハルト侯爵家のローランド様が」
リディアの手が止まった。
胸に、小さな痛みが走った。
まだ、完全になくなったわけではないらしい。
けれど、あれから半年。
それだけの時間があれば、人はずいぶん先へ進める。
「分かりました」
リディアは工房を見た。
職人たちが働いている。
父が嬉しそうに何度も見に来る場所。
自分が選んだ、新しい仕事。
「お会いします」
◇
「お久しぶりです、ローランド様」
「ああ」
以前とあまり変わっていなかった。
ただ、少し痩せたように見えた。
「今日は?」
「謝りに来た」
「謝罪のお手紙はいただきました」
そこには、リディアへの誤解に対しての謝罪の言葉が書き連ねていた。そして、侯爵領を豊かにしてくれたこと、寛大な処置をしてくれたことへの感謝も。
それで、もう十分だった。
「違う」
ローランドは首を振った。
「俺は……ようやく分かったんだ」
リディアは黙って待った。
「侯爵家の収入が減ったことも、最初はそれが一番つらいと思っていた……でも違った」
自嘲するように彼は笑う。
「父上は、俺一人には大きな契約を任せない。母上も、家令も、俺が何か決めるたびに確認したのかと聞く」
「……」
「商人さえもだ……誰も、以前みたいに俺一人の判断を信用してくれなくなった」
彼は拳をきつく握った。
「最初は腹が立った」
「……」
「一度失敗しただけなのに、いつまで俺を信用しないつもりだって」
声が震える。
「でも、逆だった」
「逆?」
「俺は、ずっと信用されていたんだな」
リディアは何も言わなかった。
「父上にも。母上にも。バーナードにも。商人にも」
そして……
「君にも」
その言葉が胸に響いた。
「君は、俺が何か決めるたびに止めた」
――確認してください。
――話を最後まで聞いてください。
――契約書を読んでください。
「俺は、それが嫌だった」
「存じています」
「知っていたのか」
「ええ」
リディアは少しだけ笑った。
「分かりやすかったですから」
「俺は、君が俺を信用していないからだと思っていた……」
しばらく黙る。
そして。
「違います」
ローランドが顔を上げる。
「あなたなら、最後には話を聞いてくださると思っていました」
「……」
「間違えることはあっても、確認すれば修正できる方だと」
昔の自分は。
本当にそう思っていた。
「危ういところはあっても、悪い方ではない。だから、きっと大丈夫だと思っていました」
「やっぱり、そうだったのか」
「はい」
ローランドの声が掠れた。
「俺は……誰からも信用されていなかったんじゃない」
「ええ」
「信用されていたのに、自分で全部使い潰したんだ。やっぱりそうだったんだな」
リディアは目を伏せた。
「君は昔、言ったな」
「何を?」
「信用こそが、自分の財産だって」
思わず目を見開いた。
「覚えていらしたのですね」
「今になって、ようやく意味が分かった」
ローランドが立ち上がる。
「リディア」
「はい」
「もう一度、俺を信用してもらえないだろうか」
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
七年前の少年が見えた気がした。
思ったら走る。
困っている人を見れば放っておけない。
失敗すれば落ち込む。
それでも、翌日にはまた立ち上がる。
昔、好きだった人の姿。
たぶん、あの頃の自分なら、手を伸ばした。
けれど、今のリディアの胸に浮かんだのは、恋しさではなかった。
――かわいそうに。
そんな、静かな憐れみだった。
「ローランド様」
「……」
「あなたは、悪い方ではありません」
彼の顔が歪んだ。
「決断が早い。行動力もあります」
リディアは微笑んだ。
「困っている方を見れば、考えるより先に走り出してしまうところも」
好きだった……確かに。
だからこそ、手放す時だった。もう、後戻りはできない。
「本当に、残念です」
ローランドは息を呑んだ。
「もっと早く、ご自分の危うさに気づいてくださればよかったのに」
「……もう、遅い……のか?」
答えは分かっていた。
ただ、それをわざわざ口にして彼を傷つける必要はないと思った。
だから、黙った。
「俺は変わる」
「そうしてください」
「父上たちの信用も取り戻す」
「ええ、あなたならできます」
「君の信用も……いつか」
リディアは静かに首を振った。
「それは、お約束できません」
ローランドが泣きそうに笑う。
「君らしいな」
「約束できないことを、約束するのは嫌いですから」
「ああ」
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
リディアは窓の外へ目を向けた。
向こうに、新しい工房が見える。
自分の未来が、もう始まっている。
「以前と同じことを申し上げてもよろしいですか」
「……ああ」
「大切なことを決めるときには、一度だけ立ち止まってください」
ローランドが目を閉じた。
「そして……」
「……」
「ご自分とは違う意見を言う方の話ほど、最後まで聞いてください」
「分かった、ありがとう」
「それを続けていけば、少しずつ信用は積み直せます」
「積み直す……」
「信用は、返してもらうものではありません」
リディアは穏やかに笑った。
「一つずつ約束を守って、また預けてもらうものです」
「……ああ、そうだな」
「私のためではなく、ご自分のためになさってください」
リディアは立ち上がった。
「リディア」
呼び止められた。
振り返る。
ローランドは何か言おうとしていた。
戻ってきてほしいのかもしれない。
許してほしいのかもしれない。
けれど、結局、何も言わず、力無く項垂れた。
「最後に一つだけ」
「失ってしまったものは、なかったことにはできません」
リディアは静かに首を振った。
「でも、その失敗まで浪費で終わらせる必要はありません」
「……」
「本当に変わることができたなら、これから先まで失わずに済みます。ですから、もう前を向いてください」
最後に、ほんの少しだけ笑って、リディアは部屋を出た。
◇
扉が閉じた。
ローランドは動けなかった。
――浪費。
かつて、自分が彼女へ投げつけた言葉だった。
価値のない湿地へ金を出す女。
潰れた工房を買う女。
廃鉱へ投資する女。
借金までして、意味の分からないものを集める浪費家。
けれど。
湿地は薬草畑になった。
工房は高級織物を生んだ。
廃鉱は硝子産業を支えた。
そして今。
彼女はまた、誰も価値を認めなかった貧しい故郷で、新しい工房を作っている。
彼女は、何一つ、浪費していなかった。
では、俺はなんだ。
本当に価値のあるものを、価値がないと思い込み。
確かめもせず。
人の話も聞かず。
自分の手で捨てたのは、誰だったのか。
父から預けられていた信用。
母からの信用。
家令からの信用。
商人からの信用。
そして……
七年もの間。
自分の危うさを知りながら。
それでも隣を歩こうとしてくれていた女性からの信用。
彼女は、自分が騎士団で義務を果たしている間。
二人の未来を作っていた。
それを……自分は……彼女が自分を信用していない証拠だと思っていた。
彼女は俺を信用してくれていたんだ……あの瞬間までは。
「……俺は」
声が掠れた。
「なんて……」
金を失ったときには泣かなかった。
王都の別邸を売ったときも。
新しい軍馬を諦めたときも。
一滴も。
なのに今は……涙が止まらなかった。
ローランドは両手で顔を覆った。
膝から力が抜ける。
その場へ崩れ落ちた。
ようやく知ってしまったのだ。
自分がどれほど多くのものを預けられていたのか。
それがどれほど大切なものだったのか。
そして……
どれほど簡単に自分がそれを浪費してしまったのかを。
男の慟哭を聞く者は、もう誰もいなかった。




