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短編

人外の血を継ぐ新妻ですが、旦那様を穏やかに堕としたい

作者: かも ねぎ
掲載日:2026/08/07


 心臓が跳ねた。


 肌が粟立ち、呼吸の仕方を忘れてしまう。

 一目見た途端、分かった。


 ――この人だ、と。


 それは、婚約者として初めて彼――レオニス・フェアチャイルドを紹介された時のことだった。

 柔らかそうな胡桃色の髪。淡い翡翠の瞳。

 真っ直ぐに立つ、少し線の細い身体つき。

 宰相補佐のくせに騎士のように体格の良い兄とは違う、繊細な雰囲気の彼。

 どうしようもなく、好みだった。


 彼が、優しく微笑む。


「こんにちは。ヴァレンティア嬢」

「あ……いつも兄がお世話になっております。フェアチャイルド様」


 私は慌ててカーテシーをした。

 

「僕のことは、レオニス、と、お呼びください」


 その声。その瞳。その雰囲気。

 そして、私は思った。


 ――この人を食べたい、と。


 唾を、飲み込んだ。




 

 ローテーブルの向こう。

 ソファに美しく座った母が、声を低くした。


「結婚する前に、可愛い娘に伝えておきたいことがあります」


 私も、母に合わせ、姿勢を正してソファに座り直す。

 昼の柔らかな日差しが、部屋を満たしていた。


「なんでしょう? お母様」

「あなたは私に似て非常に美しい金髪碧眼の娘です。体型も艷やかで宜しい」

「……はぁ、それは、ありがとうございます」


 何が仰っしゃりたいのかしら。


「私はあなたの婚約者様、レオニス様との対面シーンを見たときから、気になっていたのです。あなたの艶がより増したことに……」


 お母様がゴクリと息を飲んだ。


「いいですか? これは……我がヴァレンティア家の最大の秘密です。これまでの長い歴史の中で、それは厳かに守られてきました……」


 私は眉を寄せる。


「……私たちの祖先は、人ならざるものでした」

「……は?」


 お母様の金の髪に部屋の光が静かに滑っていった。


「我が祖先は……サキュバスなのです」


 後ろにいた私の侍女――ミラがかすかに身じろぎをする。

 窓の向こう、白い鳩が数羽、連なって飛んでいった。

 テーブルに置かれたカップ。

 琥珀の水面には、小さな波紋。


「……今、なんと?」

「あなたの祖先はサキュバスなのです!」

「えぇ!?」


 この秘密を持って、間もなく私はレオニス・フェアチャイルドのもとに嫁ぐことに決まった。


 ――え? つまり? どういうこと……?





 レオニスは、初めに会った印象のままの男だった。穏やかで、誠実で、優しくて……。それはもう、最高の婚約者だった。


 そうして迎えた初夜の日。

 私は――



 死にそうだった。



 寝室のソファに座り、レオニスを待ちながら、身を震わせる。

 燭台の淡い火だけが揺れる部屋。

 ちょっと甘い香りの香が焚かれている。

 厚いカーテンは外界とこの部屋を切り離し、音が何もない、静かな場所。


 震えているのは、初めて人に身を委ねることへの恐怖ではない。


 愛しの旦那様を、吸い尽くして殺してしまうのでは

 ――その恐怖だ。


 やはり、初夜は見送るべきかもしれないわ……。


 その時、部屋にノックの音が響く。

 意を決する。


「どうぞ」


 扉が開く。

 私を探しているレオニスの視線が下がり、彼の肩がビクリと震えた。

 私が、床に蹲るようにして土下座をしていたからだ。


「え!? ちょっ……セレナ、何をやって――」

「白い結婚でお願いします!!」


 腹から声を出す。

 宰相補佐の癖に鍛錬を欠かさないお兄様につき合わされた日頃の成果よ。


「……え」


 レオニスが私のそばに駆け寄り、膝をつく。

 肩に手を添え、私の身を起き上がらせた。


「……白い結婚だって?」


 彼の声が、わずかに震えている。

 私は顔を上げた。


「うっ……」


 顔が良い!

 かすかに石鹸の香りもする。

 胡桃色の髪が湿っていて、艶があって――


 とにかく、好き!


 彼はいつも高襟のシャツを着ていた。

 だけど今は首筋が露出している。

 その白い……首。


 噛みつきたい!


「ソファで……話そう。セレナ」


 甘い声。

 しっかりと出ている喉仏。

 なんだか目眩がする……。


 私は首を振った。


「白い結婚ということは……離縁を前提としているということ?」

「え……まさか」


 離縁なんてしてやるものか。

 レオニスは眉を歪めた。


「え……じゃあ……なんだろう。

 僕に触れられたくないってこと?」


 そんなことあるわけ無いじゃない。

 私は首を振る。

 翡翠の瞳が、私の瞳を不安気に見つめていた。


 ――殺してしまうかもしれない……なんて。

 言えない。


「宰相閣下に……何か言われた?

 僕では……君の伴侶には相応しくないと……」

「いえ……父はレオニスを気に入って褒めていました」


 この結婚話を持ってきたのはお父様だしね。


「白い結婚を貫くには……やっぱりそれなりの理由が必要だと……思うんだ。

 僕だって世継ぎは欲しいし……

 それに……その……」


 ――そうよね。傷つくわよね。私、最低よね。どうしよう……。どう言ったらいい……?

 レオニスを傷つけたいわけじゃないの。

 むしろ……傷一つつけたくないから……触れたくないわけで……。


「ご……ごめんなさい!」


 私は立ち上がり、扉に向かって駆け出した。


「あっ! セレナ! 待って!」


 レオニスの制止の声も無視して、部屋から逃げ出した。


 ――私だって!


 曲がりなりにも淑女なのよ!?

 言えるわけないじゃない!!


 ――祖先がサキュバスだからだなんて!!

 




「よぉ、セレナ」


 お兄様が屋敷に来ました。

 上背もあり、ガタイもいい。どう見ても騎士か軍人にしか見えない兄――フェリクス・ヴァレンティアを玄関ホールで迎える。

 彼は私の顔を見て笑った。


「君、目の下に隈ができてるぞ。毎夜励んでるのか? あっはっは!」

「下品ですわ!!」

「あ、フェリクス」


 私とお兄様が顔を上げると、ちょうど大階段の上からレオニスが駆け下りてきた。きちんとクラヴァットを結び、フロックコートを着込んでいる。


 ――うわ。天上人の降臨だわ。

 美しすぎる。見てよ、あの穏やかな翡翠の瞳。


 彼が下まで降りてくると、お兄様がレオニスの背を軽く叩いた。


「あれ? 王宮に行くのか? 休日なのに?」

「そう。資料の受け渡しがあってね。

 今日じゃないと無理だと言われていたんだ。……フェリクス、ゆっくりしていってくれ」


 お兄様がちらと私を見る。


「あー……。じゃじゃ馬妹は……よくやってるか?」


 レオニスが私を見る。

 柔らかく、微笑んだ。


「うん。とても良くしてくれるよ」


 胸が、ずきっと痛んだ。


 あの日以来、レオニスは夫婦の寝室に来ることも、“白い結婚”について問いただすことも無かった。


「じゃ、フェリクス。僕行くから」


 レオニスが私の腕を軽く引き、額に短くキスを落とした。


「もう少し準備を整えたら出かけてくるね。セレナ」

「はい。行ってらっしゃいませ……」


 甘い微笑み。


 それだけを残して、彼はまた階段の上へと去っていった。

 駆け上がっていく足音が、軽やかに玄関ホールに落ちる。


 私はその背を見送った。

 小さく、息を吐く。


 ――あの背中に抱きつきたい……。





 お兄様をとりあえずサロンに案内し、ソファに向かい合って座った。

 実家からついてきてくれた侍女、ミラが私たちの前にカップを置き、紅茶を注ぐ。


「……白い結婚?」


 私は黙って頷いた。お兄様は髪をかき上げる。


「母上に様子を見て来いと言われて、渋々来てみたら……。なるほどな」

「死にそうですわ。レオニスは……すごく魅力的なので……」


 お兄様が窓の外を見下ろす。

 レオニスがちょうど馬車に乗り込むところだった。


「あいつとはずっと一緒に仕事をしてきた仲だから気にしたことなかったけど……」


 彼がこちらに気づいて、手を振る。

 キュッと胸が締め付けられる。


 ――可愛い……。笑顔が子犬みたい……。


 私も、そっと手を振り返した。


「確かにあいつ……男の目から見ても艶っぽいな。線が細いしな」


 眉を寄せて、お兄様を見た。


 ――お兄様って本当にゴツいな……。


「……試してみるか?」

「何をです?」

「俺も“サキュバス”の血を継いでるってことだろう?

 つまり、俺がレオニスを抱――」


 パンプスを投げつける。

 お兄様は見事に避けた。

 私は立ち上がる。


「それ以上言ったら縁を切りますわ!

 それから、そんなこと本当にしたらお兄様の✕✕✕を切り落としますからね!!」


 ミラが淡々とパンプスを拾って戻ってきた。


「あはは。ごめんって」

「笑い事じゃないのよ!」


 つい、涙が落ちた。


「わ! 本気で!?」


 お兄様が肩を震わせ、くしゃくしゃのハンカチを取り出すと私に差し出す。

 それを受け取り、私はまたソファに座って顔を覆った。


「レオニスに……もしものことがあったらと思うと……もう……どうしたらいいのか……」

 

 声が震えてしまう。

 お兄様が一度席を立つと、私の隣に座り直した。


「ごめんな……。

 からかっていい話じゃなかったな……。

 でも……父上はピンピンしてるし……そんなに……」


 そっと背をさすってくれる。

 私はハンカチで鼻をかんだ。


「おい! それ俺のハンカチ!」


 結局、お兄様は私が泣き止むまで、背をさすっていてくれた。

 ――だけど、どうしたらいいのか。

 何も分からないままだ。





 雷鳴が響き、部屋に白い光が走った。


 私はシーツを頭からかぶり、身を震わせる。雷は、幼い頃から苦手だった。


 また大きな音が落ちた、その時。


「セレナ……大丈夫?」


 シーツから顔を出すと、レオニスが私の前に膝をついていた。


「ミラが教えてくれたんだ。雷が苦手だって」

「……子どもみたいでしょう?」

「僕もピーマンが怖いよ。たぶん昔、追いかけられた」

「まさか」


 思わず笑うと、彼はほっとしたように瞳を細めた。


「隣に座っても?」


 私が頷くと、レオニスはベッドの縁に腰かける。


 その直後、稲光が走った。

 驚いた私は、彼の胸に飛び込んでしまう。


「ご、ごめんなさい」

「大丈夫」


 離れようとした私の背に、腕が回された。


「手は出さないよ。白い結婚を貫く。約束する」


 優しい声。

 胸に響く心音。

 それから、甘い香り。


 ――無理。

 押し倒したい。


 顔を上げる。

 燭台の火を映した翡翠の瞳が、私を見つめていた。


 白い首筋に吸い寄せられるように、顔を寄せる。

 彼の首に腕を回し、唇を重ねようとした。


「待った」


 レオニスの手のひらが、二人の唇の間に入る。


「それ以上はだめ。僕の理性がもたない」


 ――私の方が、もちそうにない。


 涙が頬を伝った。

 レオニスの瞳も、苦しそうに揺れる。


「君が白い結婚を望んだんだろう……?」

「ごめんなさい……」

「僕はどうしたらいい? 君に何を求められているのか、分からないよ」


 震える声。


「許されるなら、このまま君を暴いてしまいたいのに」


 私は何も答えられなかった。


 レオニスは瞳を伏せると、私をもう一度抱き寄せる。

 そして、子どもを宥めるように、背を優しく叩いた。


 窓を打つ雨音。

 彼の香り。


 私はその腕の中で、静かに目を閉じた。





 本日は、王城舞踏会。

 

 天井のフレスコ画は宗教画。

 シャンデリアの光があちらこちらに散り、会場を照らし出す。

 無数の燭台の火が、壁の金の装飾に光を返されていた。


 着飾ったレオニスの破壊力は半端なかった。向き合ってダンスしている時は、心を無にしていた。そうしないと、もたなかった。いや、すでにもっていない。

 すでに、私はどうかしている。


 レオニスは私の隣で、宮廷貴族たちとにこやかに会話している。


 私は横目で彼を見た。


 いつも穏やかな彼。

 だけど、“宰相補佐”の顔をした彼は、その瞳の奥に沈むような芯がある。

 ゾッとするような色気。


 ――宗教画の神とか目じゃないわよね。


 こっちの方が美しいのでは?

 え? 神より上?

 つまり……彼は創造神?

 私、神様と結婚しちゃった……?


 え、すごくない?


「えぇ、ではまた」

「お話できて良かったです」


 宮廷貴族のご夫妻が去る。私も慌てて頭を下げた。


「セレナ。僕は少し、紳士会の方へ顔を出してくる」

「では、私はご夫人方の方へ」

「うん。では後でね」

「はい」


 離れ際、レオニスは私の指先にキスをした。

 甘やかな笑みを残して、踵を返す。


 ――私は彼に甘えすぎている。


 何も聞いてこないことに甘えて、なぜ私が“白い結婚”を貫きたいのか、話せずにいる。

 彼を傷つけていると、分かっているのに。


 ――本当は、恥ずかしいとか、言ってる場合じゃないのよ……。

 



 

 ご夫人の集まり。

 談話室にて、思い思いに座り、会話に花を咲かせる。

 その内容。ほぼ、猥談と夫の悪口。


 ――レオニスのところへ帰りたい!


「ところで、フェアチャイルド夫人は、新婚でしたわね。どうなのです? 彼」


 ――下の話が聞きたいんですよね? 話しませんよ。


 私は頬に手を添えた。


「とっても素敵な旦那様で、私にはもったいないくらいですわ」

「まさか、白い結婚?」


 ――え?


「え? なぜです?」


 夫人の一人が扇で口元を覆いながら、お上品に笑った。笑っている内容がお上品ではありませんけれども。


「いえ……。女の勘ですわ。ふふ」


 ――女の勘……恐るべし。


「まさかそんな……。白い結婚にする理由もありませんし……。その……可愛がってもらっておりますわ……」

「あら、そうですの」


 ――帰りたいよぉ!!



 ◇



 レオニス・フェアチャイルドは、舞踏会場の壁際を歩き、妻のいる談話室に向かっているところだった。


 突然、その肩を抱かれる。

 驚いてそちらを見た。


「……殿下」

「新婚さん。どう? 新妻は」


 ヴァレリオ王太子。彼は艶のある白金の髪をかき上げると、不敵に笑った。


「お前の奥様。セレナだっけ?

 すごく色っぽいよね。ちょっと貸してほしいな、俺に」

「殿下はそろそろ身辺を気をつけられた方がよろしいかと」


 視線が交わる。


「妃殿下は準備されているようですよ」

「なんの? 離縁? 俺の女遊びに愛想つかして……とかいうやつ?」


 レオニスは何も言わずに、王太子の瞳を見つめ返した。


「女から離縁なんかできるわけ――」

「妃殿下は公爵家のご令嬢ですからねぇ。

 その辺のご令嬢とは立場が違うわけですから」

「で、お前の妻、貸してくれるわけ?」

「私の話を理解されていないようですね」


 向こうから、王太子に女性たちが寄ってきた。甘い声で「殿下」と呼ばれ、彼は簡単にレオニスを離れ、そちらへ向かう。


 レオニスは王太子に抱かれていた方の肩を見て、手で埃を払うような仕草をした。


「……貸すわけ無いだろ。

 雑魚が」


 小さく、こぼす。


 舞踏会場の喧騒。

 弦楽師たちの音楽。


 誰にも彼の声は届かなかった。


 レオニスは小さく息を吐き出し、妻のもとへ向かった。


 

 ◇



 私は眉を寄せた。

 邸宅の車寄せに王家の馬車が停まり、慌てて玄関ホールに降りてきたところ。


「お前、やっぱり美人だな」


 目の前に、王太子。旦那様は宮廷に出仕中。この男は、私の全身を舐めるように見てくる。


 ――これは……。


 私がミラを見ると、彼女は無言で頷き、音も立てずに駆け出した。

 執事長が私を守るように横につく。


「お前の部屋でいいや。行こう」


 ――かなり……危機では?


「王太子殿下。今は旦那様がご不在です。日を改めていただきたく――」

「なんで俺がお前の言う事を聞かなくちゃいけないわけ?」


 老執事が口を挟むも、王太子は彼を睨みつける。

 ヴァレリオ殿下は一歩私に寄り、私の顎に手を添えて顔を上げさせた。


「……白い結婚なんだろう?

 あの宰相補佐に触られたくないんだ?

 俺が手ほどきしてあげようか」


 ――は?


 あ、でも、待って。

 こいつで試してみる?

 そうしたら本当に死ぬかどうかわかるのでは?

 別にこいつならどうなったっていいし。

 ……いやいや無い無い。

 試すってことは、こいつとそういうことするってことでしょ?

 無理無理、無い無い。

 私、レオニスのものだし。

 レオニス以外ありえないし。

 それにさ、何?

 こいつとレオニスの共通点て“人間”てところしかなくない?


 そもそも、こいつ――“人間”か?


「あれ? 固まっちゃった?

 へぇ……。本当にうぶなんだ。可愛い。部屋でさ、いいことしようよ」


 王太子が顔を寄せ、その呼吸が肌に触れる。


 ――“人間”じゃないや、こいつ。

 ――立派な外道でした。


 少しだけ、膝を曲げる。

 歯を食いしばり、伸ばす!

 鈍い音が鳴る。

 頭突きによる顎砕き。


「うっ!」


 殿下がよろけたところで、その胸ぐらを掴む。

 腕を振り上げ――頬を殴りつける。

 男はつばを飛ばし、白大理石の床に落ちていった。

 その体に跨り、もう一度腕を振り上げた。

 だが、執事に腕を取られる。


「奥様! そこまでにしておきましょう! やり過ぎです!!」


 私は、舌打ちをした。


 玄関扉が音を立てて開かれる。


「セレナ!!」


 石床を踏むブーツの音。

 レオニスが私に駆け寄りつつ、床に視線をやる。

 わずかに呼吸が荒い。

 彼の眉が寄った。

 床で伸びている男。

 その脇で足を止めた。


「……これは?」


 執事が小さく頭を下げた。


「奥様が殴り倒しました」

「……殿下を? セレナが?」

「女の拳で気を失うなんて、鍛錬が足りないんじゃないですか? そいつ」


 私が腕を組んでそう言うと、旦那様は呆けたように私と殿下を見比べていた。


「……それにしてもミラをやったとはいえ、お帰りが早かったのね」

「ちょうど帰路の馬車の中にいたんだ。

 そうしたらミラが迎えに来たから、途中から彼女の馬に乗って帰ってきた」


 レオニスは屈み込み、殿下の顎に手を添えて脈を見ている。


「えっと……、客室で寝かせておこうか。縄で縛っておいて。言い訳は後で考えるから」


 レオニスが執事長に言うと、ミラと彼で、殿下を引きずっていった。

 彼らの姿が奥に消える。


 レオニスはゆっくり、細く息を吐いた。


「……セレナ」


 私は彼の胸に飛び込む。


 ――これ。


 レオニスも、私の背に腕を回した。


「怖かった?」

「来てくれるって分かってたから」

「まぁ、セレナが自力で防いだみたいだけどね」


 この香り。この声。この鼓動のリズム。


 視線が絡む。

 ほどきかたなんて、とうに忘れてしまった。

 

 私は腕を彼の首に回す。

 そして顔を寄せて――。


「セレナ! 無事か!!」


 けたたましく音を立てて扉を開けて入ってきたのは、お兄様。


「……フェリクス」

「あれ? 俺、間が悪かった……?」


 レオニスがそっと私から離れた。

 私は盛大に舌打ちをした。





「やっほー。我が娘。

 熱々新婚生活は満喫しておりますか?」


 ――軽っ。


 母が、屋敷にやってきました。

 玄関ホールで迎えた彼女は、腹がたつほど陽気だった。


「……お母様」

「あら?」


 私は眉を寄せた。


「お母様。私の部屋でいいですね?」

「……はい」





 ミラが、私とお母様の前にカップを置き、紅茶を注いだ。私たちはローテーブルを挟んで、向かい合ってソファに掛けている。


「……白い結婚?」


 ――この流れ……。お兄様の時もやったな……。


 紅茶の芳香。

 カップを持ち上げ、静かに口につける。

 ほっと息を吐き出した。


「お母様が教えたのです。私はサキュバスの末裔であると」

「えぇ、そうよ。だから?」

「え?」


 窓の外、小鳥のさえずり。

 暖かな昼の日差し。

 

「セレナ。あなたは美しいわ」

「……ありがとうございます」

「美しいあなたは、レオニス様が大好きよね。一目惚れよね。あの方がとてつもなく好みなのよね?」

「……はい」


 お母様はソファの背もたれに身を預けた。


「……そういうことよ」

「わかりません!」


 カップをテーブルに起き、前かがみになってお母様の顔を覗き込むようにする。


「どういうことですか?」

「あなたのレオニス様を見る目、余裕がなくて、ギラギラしていたのよ。

 母として思ったわ……。あぁ……レオニス様……我が娘に襲われるわって」

「そ……そこまではなんとなくわかります」

「レオニス様もお忙しい方ですものね。

 将来も有望視されていますし?

 へとへとになっちゃうんじゃないかしらと」

「ヘトヘトニナッチャウ……?」


 私は胸に手を当てて呼吸を整える。


「お母様から私がサキュバスの末裔だと聞いて、私は調べたのです。

 サキュバスの伝承について。サキュバスはその……殿方のあれを……で、吸い尽くして殺してしまうと……。だから……その……」

「……レオニス様を殺してしまうかもしれないから、白い結婚を貫いていると……?」

「……そうです」


 お母様はソファの背に頭を預け、腕で顔を覆った。


「おバカ!!」


 彼女は身を起こすと、首を振る。


「……いえ。最後まできちんと説明しなかった私が悪いですわね。

 レオニス様まで巻き込んでしまって、申し訳なかったわ……」


 お母様は細く、長く、息を吐いた。


「人外の祖先だなんて、何代前の話だと思っているのですか? 血はもう薄れたわ。

 せいぜいその辺の令嬢より性欲が強いってだけですよ」

「え? で、では……」


 お母様は立ち上がると、テーブルを周り、私の隣に座り直した。


「あなたのお父様は今もお元気でしょう!?」

「え……確かに……」

「セレナ。あなたは愛されていいの」


 お母様にまっすぐに見つめられる。


 思い出す、レオニスの姿。

 触れたくて、触れたくてたまらなかった彼。

 視界が、思わず滲む。


「レオニス様に、愛されなさい」

「……はい」


 お母様に抱き寄せられる。


「こんなに素敵な我が娘が、愛されないわけないわ」


 その胸で私は泣いた。

 私よりも、多分豊満な胸だった。





 その夜。


 寝室にノックの音。

 私は驚いて扉を開けに向かった。


 向こうには、やっぱりレオニス。

 白い夜着に、青いガウン姿。


 ――漂う色香!


 彼は両手を上げた。


「夜分にごめん。手は出さない。約束する。

 でも、セレナに報告しておきたくて……」


 私は彼のガウンのベルトを引っ張って、彼を部屋に連れ込んだ。


 扉を閉める。

 鍵もかける。


 レオニスは不思議そうに私を見ていた。


「えっと……話したいんだけど……」


 湯浴みの後のようなのに、石鹸の匂い以外に美味しそうな甘い香りがする。

 これはやっぱりコロンではなくてレオニスの体臭なのね。


 匂いを確かめようと私が寄ると、彼は慌てて一歩下がった。


 顔を上げる。

 

 目に入るのは白い首筋。

 息を飲んだ。


「あの……セレナ? 話してもいいかな?」

「え? あぁ、はい。どうぞ」


 彼は立ったまま、腕を組んだ。


「ヴァレリオ殿下なんだけど、王太子ではなくなったよ」

「え」


 レオニスの口角が上がる。

 宰相補佐の顔。

 底の見えない、微笑み。

 思わずゾクリと腑が震える。


「彼、可哀想に、離縁されたんだ。

 公爵家の後ろ盾があったから王太子でいられたというのにね」

「離縁?」


 彼が頷く。


「妃殿下と、僕たちは結託していたんだ。

 彼女と殿下の結婚は陛下が押し進めてしまったけど、ヴァレリオ殿下は王には相応しくないなぁ……ってずっと思ってたんだよね。

 だから妃殿下に、殿下が王になるのに相応しいと思えないうちは、白い結婚を貫いてはいかがですか? って、お話してたんだ」


 部屋の燭台の火が、ゆらりと揺れた。


「結果。彼らは白い結婚だった。

 妃殿下の体は穢されることなく、彼女は有能な第二王子に嫁ぐことができる。

 王太子の座は第二王子殿下のものとなった。妃殿下は妃殿下のまま」


 私は眉を寄せた。


 ――宰相補佐……こわ……。


 実質、王を決めてるのは宰相補佐ってことじゃないの。

 いや待て、“僕たち”ってことは、お父様もグルなわけ!?


「僕の愛妻に手を出そうとしたんだ。生ぬるいよね。それ以上はやめておけって閣下に止められたから、“王太子”を取り上げただけだよ」


 ――もっと何か報復しようとしてたってこと!?


「そういうわけだから。やり返したよって報告したかったんだ。

 じゃあ、僕は戻るね。おやすみ」


 私は彼の体を押す。


「え」


 彼の後ろはベッド。

 レオニスはベッドの縁に腰かけた。

 驚いた顔で私を見上げている。

 私は、その膝に座った。

 彼が体を反らせて距離を取ろうとする。


「セレナ……。待って。なんで? どうしたの?」


 腕を伸ばして、両手でその頬を挟んだ。

 好きな顔。好きな匂い。好きな声。


「お慕いしています」


 彼の眉が歪む。

 邪魔されないように、素早く顔を寄せた。

 唇を奪う。

 肩に手を添えて、そのまま押し倒す。


 体温も、呼吸も。

 その翡翠の瞳さえ。

 全部。もう、遠慮なく、私のもの。


「……僕たち白い結婚なんだよね? それ以上は――」

「撤回します」

「……え!? 理由は?」

「終わったら全部お話します」

「終わったらって? ちょっと夜着を脱がそうとしないで。待って! 先に説明を――」

「もう無理!!」

「何がどうなってるの!?」


 


 

 カーテンの隙間から、金の光が差し込んでいた。


 衣擦れの音。

 

 レオニスが、隣でぐったりしている。

 私は彼の柔らかい胡桃色の髪を、そっと指先ですくい取った。


「……なるほどサキュバスの末裔か」

「レオニス。そろそろ支度しないと。今日も出仕する予定って」

「今日は休む」


 気だるげな翡翠の瞳と視線が絡む。


「僕のこと、吸い尽くすんでしょ?

 サキュバスさん」


 二人の口角が上がる。


「僕、死んじゃうかな」

「やるだけやってみる?」

「あははは。やっぱり無理かも」


 色っぽい白い首筋。鎖骨。

 うーん、噛みつきたい。


 白いシーツ。

 水のように漂う朝の光。

 それから、最高の旦那様。


 気だるい朝って素敵。

 

「レオニス、キスしてもいい?」

「キスだけなら」

「それでやめられるとでも?」

「じゃあ却下」


 二人で、笑う。


 まず、旦那様には体力をつけてもらわなければ!




 私は人外の血を継ぐ新妻です。

 けれど穏やかに堕ちたのは――どうやら、私の方だったようです。



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