瀬戸内からの回航が佐田岬まで行けなかった
広島の観音マリーナを一隻のヨットが出港してきた。
「今回の回航はちょっと時間が掛かりそう。さっき天気アプリ見たけど朝になかった熱低がフィリピンの東側に沸いて出てきてた」
「ちょっそれまずいわ。この時期に珍しいのは育ちやすいのよ? トカラで待ち伏せされたら詰みかねないわ。この後は平郡島で潮待ちするでしょ?」
「するよー。大潮に当たってるからコソコソと伊予灘側を抜けて平郡島まで行く感じ。下手に時間ずらすと引きずられて座礁しかねない」
広島湾に出たヨットは大奈佐美島を右舷に見ながら南下していた。多くの大型船が行き交い38ftのヨットは小さな木の葉のようだった。
「風は……相変わらず凪に近いね。機走前提でも悲しい物があるよ。弱いアップだし周防大島を回るから風は安定しない……ってことでジブをちょい出す」
「どうせ平郡島を出るまでメインは出せないでしょ。この子は流行りのジェノアだけど……マスト大丈夫なの? 38ftのオンデッキだけど折れない?」
「はっきり言うとヤバい。アメリカ製なんだけど線が細い。スペック表をネット確認したけど……誰が付けるの許可したんだって感じだね」
「変に巻いたままだと痛むよ? そこってオーナーさんに言った?」
「言った。でも耳が遠かった。このヨットは凄いぞ? ジェノアとコードゼロだ。メインが小さめなのが救い? いや……単に頭デケェ万力だな」
「オーパイの反応は? 特に何も言ってなかったから可もなく不可もなくのアメリカ製なんだと思うけど。あと……なんでウィンドベーンが付いてるの?」
「湾内で軽くしか確認できてない。主機はヤンマーでまぁ十分。燃料は40が2個。コードゼロは確認してないがジェノアはファーラーが渋めだな」
「それってジブが小さかったのよ。この子はこじんまりなのに飾り立て過ぎた歌手ね。流石にブーム入れ替えしてたらよく寝る子になってたわ」
「メインのウィンチはマストね。だから基本ジブにしたいんだが……ジェノアでファーラーが渋いと……。流石に壊れないとは思うけど……」
「何ていうか、幼稚園生に六年生のランドセルを背負わした罪悪感を感じるよ? なんで回航依頼を受けたの? 熱低は仕方ないけど……」
「すまん……200だったんだ。期間は最大3週間。スキッパー代は別途だから300ぐらいになるだろうな。慶良間でこの金額は……罠だったな」
「落とし穴しかないわね」
会話しながらも大型船を避け引き波の洗礼を受けながら機走を続けていた。左舷に大黒神島が少し小さく見えた。回避で予定より西に少し逸れていた。
「あまり主機を虐めたくないけど回転上げないとだな……。カタログ的には8ktまで出ると書いてあったけど6ktが限界だろうから5時間でギリと……」
「平郡島で5時間ぐらい待つんでしょ? 天気アプリだと風はダウンみたいよ。ゼロ出す? オススメはしないけど」
「ムリムリ、暗い中でやったら落ちる。それに絶対に風が巻くんだから観音もハードジャイブまっしぐら。やっぱりチビジェノアで機走しか選択肢がない」
「とりあえず6ktで進んでくれるのを祈るしかないわね。遅れると潮と西日で目が痛いわよ。ちゃんとサングラスを用意しておいてよ」
「あいよー」
ヨットはなんとか諸島を右舷に見ながら伊予灘に出た。大型船の優先航路に近づかないようにオートパイロットを設定し一息ついた。
「ねぇ、このヨットってどういう考えで艤装したんだろうね。マストと帆のバランスがおかしい。造水機や冷蔵庫とか積んでるのに500wとか」
「そのくせリン酸鉄リチウムで5000whのポタ電……。ことごとくバランスが悪い。燃料タンクだって40リットルが2個ってのも小さいだろ!」
一息ついたらヨットのおかしな点の話になった。そろそろ伊予灘に出るため監視のために休憩セットをキャビンに戻した。
相変わらず周囲に船舶はいるがAISを見る限りは突っ込んで来る線はなかった。対地速度は5.8ktとなんとも微妙なラインだった。それでも前には進んでいた。
「なんとか伊予灘に出たけど風が渋いな。由利島まで出て西南西に入ろう。大型船に翻弄されそうだけどAISを見る限りは穏やかな船列だからイケるだろ」
「そういえば由利島ってまた無人島に戻ったの? 見なくなっちゃったよね」
「どうだろ……。もうちょっと漁船をやって欲しかったな。で、マスト付けていつの間にかヨットにしたらめちゃ推すんだけど」
「帆船は作ってなかった?」
「んー、まぁ帆船と言えば帆船なのか? あのサイズでスクエアとかヤードが重すぎだろ。気持ちは分かるがメインかジブ……いや小さいし軽すぎる」
「小さい以前にキールがないし軽すぎて転覆する未来しかないわよ。ヨットは重量の半分をキールが優しく包んでいるから寝ずに帆走するのよ」
由利島は既に見えなくなり平郡島が見えてきた。
「時間はかなりギリだったけど間に合いそうだ。問題は西に回り込めるか……できれば平郡西にアンカリングしたい」
「でも西だと潮を受けるわ。この子のアンカーって信用できるの? 先に言うとスターンにアンカーないわよ。振り回されて流される未来しかないと思う」
「仰せの通り……信頼感は欠片もない。チェーンが10mで後は12mmのロープがたぶん30mぐらい。アンカーが掛かったら……ごめん……たぶん外れない」
「ダメしかないわね」
西に回り込もうと画策したが正論に押し流され平郡東港に逃げ込んだ。といっても島影に入れば西日と潮にやられる可能性はほぼなくなっていた。
潮待ちで夕食を軽く取り男性は仮眠に入った。同行している女性は男性の妻で二人は夫婦だった。
二人が出会ったのは二人とも祖父の代わりに漁業組合の会合に顔を出した時だった。男性の祖父は漁師は引退していたが組合に残っていた。
二人は意気投合し交際を始め2年前に籍を入れた。
漁師を目指していた二人は船舶免許を取り祖父の知り合いから古く乗らなくなった30ftのヨットを譲り受けた。そして二人でコツコツと補修し使えるようにした。
補修したヨットを使い二人は漁師になった。ヨットで伊予灘に出て手釣りで根にいる高級魚を狙った。季節によっては青物狙いで豊後水道まで足を伸ばした。
小さくともヨットなので予約制でヨット体験も開催していた。瀬戸内の風光明媚な景色をヨットで回る体験ツアーはそれなりに集客できていた。
しかしヨットは既に寿命が近かった。二人は相談し回航を請け負う仕事も始めた。頻度は少ないがヨットの回航でヨットの購入資金を貯めていた。
そして報酬の高さに今回の回航を請け負う事となった。
周囲は暗くなり船内灯と船尾付近にぶら下げたLEDランタンで明かりの中で出港準備を始めていた。船首に揺れる明かりが移動していった。
「ウィンドラスはきちんと動くから良かった」
男性はバウの状態を確認しアンカーの巻き上げを始めた。男性たちのヨットにウィンドラスは付いていない。そういう意味ではクルーザーヨットである。
「しかし純正のアンカーじゃないだろ。なぜ小さいのに変えた? しかもあるはずのセカンドアンカーも予備のアンカーも積んでない……」
男性にとってスターン側のアンカーや予備のアンカーは常備品という感覚があり確認を怠った。よく見るとフェンダーも微妙に数が少なかった。
「バウキャビンが倉庫状態はあるあるだけどロープが異様に多かった。このサイズで20mmのロープって使うか? 使っても良いけど16mm以内で十分だろ」
バウキャビンにはとにかくロープが詰め込まれていた。予備のアンカーがないのに予備のジェノアには絶句した。出港前に点検しておくべきだった。
「次の寄港地は山川か西之表でしょ? アンカーを探した方がいいと思うわ。ただでさえ熱低が不穏なのにアンカーがこれじゃ神頼みするしかなくなるわよ」
「だよなー。ほんとごめんなーこんなん受けて」
「まさかここまで艤装がおかしいとかないから。そういう意味では外洋に出れない艤装ってのが常識的にないから。常識に裏切られたから仕方がないわ」
アンカーが上がり出港の準備が整った。あと10分ほどで予定の時間になる。時計を確認した男性が最終確認でランタンを回した。
「このスイッチなんだ?」
男性は係留によく使うバウ側のクリートにボタンが付いていた。
「ていうか……クリートにボタン? 恐ろしく操作ミスしやすそうというかミスしろと言ってるとしか思えない配置だな! 特注クリートかよ!」
「あなた、これ……バウスラスターよ! 38ftなら付いていても……って普通つけないでしょ! しかもスイッチがコクピットでなくてバウのクリート!」
女性が大声で突っ込みを入れた。
「ギュイッ! ギュイッ! ギュイッ! ギュイッ! 」
「「えっ!!」」
「地震です! 地震です! 強い揺れに警戒してください」
「「えーーー!」」「ズゥゥーーーン……」
突然鳴り始めた緊急地震速報に慌てた二人が携帯を取り出そうとした時に振動を感じた。
「振動! 直下型でデカいやつか? 出すぞ!」
男性は船尾に向かって駆け出した。女性は周囲を見渡すと港の街灯が倒れる瞬間を視界に捉えた。そして「主機を入れたら右舷を吹かすわ!」と声を上げた。
「任せる!」
男性が返答すると「ピィーー」と音が鳴り主機が回り始めた。暖気もなしに主機の唸りが高まるのを感じた女性はクリートのボタンを押した。
「ブシャーー」
右舷から勢いよく噴出した泡が海面に白い跡を残しヨットがグラッと揺れ左に回頭し始めた。スクリューも海水を掴み前進を始めた。
「海面が見えないからスラスターを止めてキャビンに入れ! 中から開いてるハッチを全部閉じて。その後は飛ばされないようにハーネスつけろー」
男性が声をかけながらモニターを見て操船した。接岸せずアンカリングで済ませていたことが幸いだった。ヨットは平郡東港から出て南東に向けた。
「ハッチは閉めたわ」
キャビンから顔を出した女性が男性に紐を投げた。
「サンキュー」
受け取ったハーネスを身に付けた男性は両舷のジブシートをスターンのクリートに掛けハーネスのカラビナにもやい結びで吹き飛ばないように固定した。
「こんなん気休めだけど飛ばなきゃ何とかなる!」
主機を全速に叩き込み島や陸から離れるために進んだ。ヨットは頑張ってはいるが6ktより速くはならず時速で10km/h程度しか出ていなかった。
「ここは瀬戸内だ! 細さを舐めるなよ! 伊予灘からの津波だと追い波だがたかが知れてる。豊予海峡だって狭いんだよ!」
ジリジリとしか進まないヨットに頼るしかない男性は焦りを自虐寄りの罵倒で誤魔化した。そして暗闇よりも暗い物が近づく気配を感じた。
『八島側? 島影にならない?』
男性はステアリングを右に勢いよく回した。
ヨットがグラッと左舷に傾き飛ばされそうになるが右舷側から取ったジブシートが男性の逃走を許さなかった。上半身だけ左に行きたがった。
『グッ……腰にくる……』
感覚的に黒い物が前方と感じステアリングを中央に戻そうと回した。感覚だけを頼りにステアリングを操作していると周囲が明るくなった。
『はぁ?……なぜ明るい? 海保か? 海自か?』
男性は明るくなった理由が分からなかった。強烈な探照灯を当てられていると錯覚した、
『違う! 光ってるのは……海中!』
水面下が光り目の前に黒い壁が見えた。
『バカな……こんな波は瀬戸内で作れねえぞ!』
周囲が全て光と化し男性は完全に視覚を失った。目を閉じたはずなのに眩しさしか感じなかった。
『ちくしょう! あのセリフ言うちゃ――』
唐突に光が消失し黒い物が凄い速度で通り抜けた。
木の葉のように舞うはずのヨットが海上に存在しなかった。
ヨット物が書きたくて書きました。




