水葬狂のアトリエ
1
その光景は異様だった。街灯に照らされたそれはまるでひとつの芸術作品のように際立って存在していた。あの現場はこれまで十年以上、殺人や事故の現場を見てきた本郷にとっても極めて異質で、資料も合わせれば千件近く目を通してきたどのケースにも分類できないでいた。二年前の夏、蝉しぐれが渦巻く夜半過ぎ。あの遺体から目を離せないでいた。
「本郷」
同じ警察学校からの同期である猪俣が声をかけた。その声は年々洒落では済まなくなっている猛暑からぼんやりしていた本郷をたしなめるというよりは、ずっと緊迫したものだった。
「どうした?事件か」
「ああ、殺しだ」
「現場は?」
本郷たちにとって、殺人などもはや珍しくもなかったが、同僚の声色の様子からそれがひと通りのものではないことを察した本郷は席を立ち上がりながら猪俣の話に耳を傾ける。
「一丁目の電話ボックス」
「なんだ?そりゃ。死因は」
猪俣が唾を飲み込んだため、返答には一瞬の間があった。
「おそらくだが、溺死だ」
「……嘘だろ」
その言葉を聞いた本郷は二年前のあの夏にいた。半袖のワイシャツが汗で背中に張り付く不快感に、むせかえるような湿度。蝉しぐれ。目の前には、電話ボックス。その電話ボックスは水で満たされており、その中で被害者の遺体がゆらゆらと浮いている周りに赤で統一された大量の花弁と赤い金魚が泳いでいた。
「水葬狂……」
思わず本郷の口から漏れたその言葉は、事務所内の警官の多くを緊張させたようだった。猪俣が緊張で強ばった顔で頷く。
「ああ……。たぶんあいつだ。水葬狂だ」
2
新型コロナウイルスがまだ猛威を奮っていた頃、警察を密かに騒がせていた事件があった。二、三カ月に一人のペースで、明らかに故意に溺死させられた異様な遺体が発見されていた。模倣犯の出現を恐れた警察組織は、「溺死」とだけ発表し、その異様な光景については公表を避けていた。二年前、本郷が見た電話ボックスの遺体もその一つである。犯行は防犯カメラの死角で行われ、「展示」された。犯人の手がかりも目撃情報も出てこなかった。
「この一年、なかったのにな。ああいう遺体」
「水葬狂先生がアイディアを思いつかなかったんじゃねえか?電話ボックス、バスタ
ブ、自動車、マンションの受水槽ときてネタ切れになって……」
「原点の電話ボックスに返ってきたわけだ」
不謹慎には思いながらも、猪俣の軽口に調子を合わせる。本郷は現場に向けて走らせていた車のハンドルを強く握った。今日はやけに土の匂いが強い。雨が生乾きのアスファルトを走らせていると、閑静な住宅街に立ち入り禁止の黄色いテープが貼られているのが目に入った。心臓が鈍い音で鳴るのがわかる。この先に、あれがある。水葬狂の「作品」が。
「本郷?どうした、行くぞ」
「あ、ああ」
眩暈がする。車のドアを開け、頼りない地面に革靴の底をつける。テープをくぐり、現場の捜査官たちに挨拶しながら歩を進めると、果たして二年前と同じ光景がそこには あった。到着が早かったのか、まだ現場はそのままになっていた。本郷は、遺体が動かされていないことにほっとしている自身を感じ、ぞっとした。俺は、この水葬狂の「作品」を直に見れたことに安堵しているのか。あり得ない。しかし、その様子はやはり、美しいと感じてしまった。携帯電話が一般に普及して三十年は経とうという今や過去の遺物となってしまった電話ボックスは、人に忘れ去られたようにポツンと存在している。その中には水で満たされ、中には黒い花びらが舞っている。そして、まるで眠るように目を閉じた女性の遺体があった。二十代半ばごろと見受けられるその黒髪の女性は、美人と言って差支えのない容貌をしていた。異様で、どこか神々しさすら覚えるその殺人現場は紛れもなく……
「おぞましいな」
「えっ」
忌々しそうに吐き捨てた猪俣の言葉で本郷は我に返った。
「芸術作品でも作ってるつもりかよ。ふざけやがって」
「あ、ああ……そうだな。変態野郎が」
本郷は慌てて同意した。どうかしてる。猪俣の言うとおりだ。こんなことが許されていいわけがない。舌打ちをして、周囲の聞き込みを始めた。結果は二年前と同じく、全くの空振りに終わった。夕暮れが近づき、棒になった足で現場に戻る頃には、遺体は回収され、「作品」はなくなっていた。
「帰ろう」
猪俣に告げ、本郷は事務所へと引き上げた。この夕陽のオレンジがかった朱が差したら、あの「作品」はいっそう美しかっただろうと思いながら。
3
水葬狂再び。このニュースは全国の警察組織を震撼させる事態となっていた。捜査本部が設置され、地元警察の本郷たちはそこに加えられる形となった。マスコミへの公表に踏み切るか否かで上層部は頭を悩ませていた。しかし、それよりも本郷には昨日の電話ボックスの遺体で気になる事実がひとつだけあった。
「感電死?」
「ああ、二年前の水葬狂事件の被害者の死因はすべて溺死だった。今回も同様だと思
っていたんだが、どうやら死因は感電死らしい。何らかの形で感電死させた遺体を
電話ボックスに入れたのか、電話ボックスに入れてから感電死させたのか……」
「まさか、模倣犯か?」
「バカな。マスコミには二年前の事件の様子を公表してないんだぞ。しかも、溺死と
いうことだけは発表してる。模倣犯なら溺死させるんじゃねえか?」
会議の後、猪俣と本郷はその違和感について話し合っていた。
「水葬狂が、手口を変化させてきた……?」
「異常者の考えることはわからんがな。やはりリニューアル開店ってつもりなのか
ね」
生暖かい風が本郷の顔を撫でる。まだ二月だというのに、気持ち悪いほどの陽気だ。
「……俺たちが水葬狂と呼んでるのも、当然知るわけもないしな。溺死へのこだわり
はそこまで強いものでもなかったのかな」
そうは思えない。本郷は自身で口にした言葉に違和感を覚えていた。二年前の例の現場を、自分より先に見つけていた人間がいたとしたら?その光景に見入られてしまったそいつが、二年の時を経て再現をしようとしたのが昨日の事件だということはないだろうか。たしかに殺された女性は二年前の被害者と似た風体をしている。水で満たされた電話ボックスに花と共に収められていたのも同じだ。しかし、二年前の遺体は、もっと異常な状態だった。なにせ、死体と花弁が別々に収められていた今回の死体と違い、二年前のそれは花が茎を残した状態、つまり花としての形を保ったまま、遺体に直接活けられていたからだ。
4
二年前。本郷が見つけた電話ボックスの遺体は鮮烈なグロテスクさと美しさを放っていた。当時、本郷が教育係を任されていた新人の緒方という青年などは、その遺体を見て嘔吐したものだ。
「新人、仏さん見る覚悟できたか?一週間はしゃぶしゃぶなんか食えないからな」
張り詰めた表情で、多少芝居がかって頷いた緒方は頼りなく見えた。いくぞ、と声をかけてから遺体を覆っていたブルーシートをめくり上げると、案の定彼の顔は青ざめていったが、まだ逃げ出すのはこらえているようだった。
「どうだ、いかれてんだろ。」
「あ……、あの、この花は……どうして、こんなことを?」
「さあね」
「溺れ死なせた遺体を傷つけて、花を飾るなんて……」
「違う違う」
「え?」
緒方の言うように、女性の遺体は肩や腕、目、腹に至っては観音開きにされてダリアや曼珠沙華といった真っ赤な花が活けてあった。まるで女性の血液を吸い上げて赤く花開いたとでも言うように。しかし、緒方の言ったことには決定的な間違いがあった。本郷も、その事実を聞かされた時は耳を疑った。
「殺してから活けたんじゃない。被害者が生きて、意識のある内に体のあちこちを切
開して、花を活け、挙句に飾り上げてから溺死させたんだ」
「……そ……え」
もはや緒方は驚愕と畏怖の感情でまともに言葉を発せないようだった。
「人間じゃねえよ……こんなことができる奴は」
本音だった。本郷は、緒方が口許を押さえて近くの茂みに駆けていくのを感じながら呟いた。緒方はその一件で心を病み、警察を辞めた。本郷は彼を弱いとも無責任だとも思わなかった。むしろ賢明な判断だと思う。こんな仕事を続けていたら、まともではいられない。警察官には独特の目つきがある。人を疑い、威圧する嫌な目つきだ。本郷も学生時代から交際していた妻に、警察官になって二年経った頃に目つきが悪くなったと言われた。会社員でもしていれば、見なくてもいい光景や、経験することがない修羅場を、俺たちは見なければいけない。人間として見てはいけない禁忌も、中には含まれる。そんな仕事からは、さっさと足を洗った方がいいに決まっている。正義や安全なんてよそに任せて、会社員でもやっていれば、優しい気持ちで人と接することができる。本郷には、緒方という男はそういう生き方がまだできる、そういう明るい生活がふさわしいと思えた。そのため、それから半年もせずに緒方の訃報が届いた時には、呆然としてしまった。よりにもよって、水葬狂事件の被害者としてである。
緒方の遺体はマンションの受水槽から発見された。飲み水から異臭がすると報告を受けたマンションの管理人が発見した。受水槽内の緒方は、受水槽に蜘蛛の糸のように張り巡らされた赤い糸の中心部に据えられ、まるで真紅の繭のように遺体は糸に隙間なく包まれていた。受水槽に繋がる水道管の止水栓を締め、タンク内に細工できるほど水位を下げた水葬狂は、睡眠薬で昏睡状態にされていた緒方を糸に包み、受水槽に張った「蜘蛛の糸」に繋いだ。まだ作品は完成ではない。止水栓を再び開けると受水槽への注水が始まる。当然、タンク内の水位は徐々に上がっていき、身動きのできない緒方を飲み込んでいった。おそらく緒方は死の瞬間まで意識があったという。捜査資料としてその写真を見ながら、本郷は落涙したが、その涙の理由は惜別の悲しみとも思えなかった。では何だというのだろう。その感情の正体に気付きかけた本郷は、乱暴に手にしていた缶コーヒーをゴミ箱へ放り投げた。ほとんど口をつけていなかった缶からは中の飲料がこぼれ出て、壁を汚した。ゴミ箱の中から、まだコーヒーが流れ出る音がしている。二〇二〇年九月の出来事である。
5
「やっぱり、違和感がある」
本郷はつい最近起きた電話ボックスにおける水葬狂の犯行を見直しながら呟いた。
「感電死のことか?」
猪俣が応える。禁煙中の彼の口からは安っぽい飴玉の匂いがした。
「ああ。水葬狂は過去四件の事件ですべて被害者を溺死させている。何らかのこだわ
りがあったはずだ。……緒方を殺した際も、明らかに遺体を受水槽に設置した方が
楽に決まってるし……二年前の電話ボックスの被害者なんて、溺死する前にショッ
ク死するところを、わざわざ溺死するように工夫している。」
「ああ……。そうかもな。では、なぜ……?」
「苦肉の策だったのかもしれない。電話ボックス内で溺死する前に、被害女性が目を
覚ましてしまった、とか」
「それで、黙らせるために電話ボックスの天蓋を開けて、切断された電気ケーブルを
投げこんだ?」
「うーん……」
「二年前、水葬狂は電話ボックスに花と一緒に金魚を入れてる。当然感電なんてさせ
たら一匹残らず浮いてるはずだ。今回、生き物を入れなかったってことは初めから
感電死させるつもりだったとも考えられないか?」
「わからない。同じ作品を作るつもりはないというだけの話なのかもしれない
し……」
そこで猪俣が眉をひそめたのがわかった。
「なあ」
「どうした?」
「あの犯行現場を『作品』とか言うの、やめないか?」
「あ……ああ、そうだな。」
妙な空気が流れる中、猪俣のスマートフォンが鳴った。耳に当て、みるみる険しくなっていく彼の表情から、悪い知らせであることは一目瞭然だった。
「事件か?」
小声で猪俣に尋ねると、彼は頷いた。
「水葬狂先生だよ。」
「もう!?まだ前の事件から一週間だぞ!場所は?」
「品川区の水族館だ」
6
本郷は車を走らせている間じゅう、胸のざわめきを感じていた。未解決の連続殺人事件の被害者がまた出てしまったのだから、それは当然のことだ。決して期待のようなものではない。そう自分に言い聞かせる。数百メートル先に水葬狂が手にかけたと見られる死体がある。それでも、街ゆく人々はいつも通りに日常を送っているようだ。保育士に連れられて歩く小さな子供たちの頭には黄色い帽子が被せてあり、まるでひよこが群れで歩いているように見えた。やたらと日差しが強く本郷の目に入り、その緑とも紫ともつかない残像は目を閉じてもしばらく瞼の裏に残り続け、なかなか消えなかった。
「遺体はどんな様子だ?」
「サメやら大型の魚が泳いでる一番でかい目玉の水槽に浮かび上がったらしい」
「浮かび上がった?下からか?」
サメ、という単語から嫌な想像をしつつ本郷が答える。
「らしいな。どういうわけか知らんが。見えてきたぞ」
猪俣の言葉通り見えてきた水族館は封鎖され、人だかりが出来ていた。
「現場は?」
「はい、こちらです」
遺体はすでに水槽から取り除かれ、ブルーシートに包まれて床に寝かされていた。問題の水槽では何事もなかったかのように作り物の海賊船のオブジェや金貨の山の間
をカラフルな魚の群れや巨大なジンベエザメが悠々と泳いでいる。遺体が浮かび上がり、水中を浮遊している様子を収めた写真はどこか神々しくもあり、本郷の目を奪った。猪 俣はかがみ、遺体にかけられたブルーシートをめくった。
「思っていたより綺麗だな。それに……冷たい」
「冷たい?当たり前だろう。死んでいて、しかも水槽の中にいたんだ」
そう言いながら本郷も遺体に触れてみると、たしかにその遺体は冷たかった。不自然すぎるほどに。
「こいつは……?」
「凍っているんです」
思わず口を吐いて出た疑問に、鑑識の痩せた男が答えた。
「なんだって?」
「死因は凍死です。そのため死亡推定時刻は割り出しにくいですが、少なくとも死亡
してから丸一日は経過している模様です」
「今度は凍死かよ……」
「水葬狂は意図的に溺死を避けているのか……?」
「気になるな。しかし、よくサメにかじられたりしなかったもんだ」
猪俣が呟くと、今度は甲高く上ずった男の声が聞こえてきた。
「し、しませんよ。うちにいるサメは決まったエサしか食べませんし、サ、サメは本
来臆病な動物なんです」
振り返ると、男は水族館のロゴが入ったオレンジ色のジャンパーを着用しており、どうやらこの水族館のスタッフのようだった。男は薄く禿げ上がった頭を神経質そうに掻きながら続けた。
「人を襲う可能性のあるサメなんて、ほんの二、三種類です」
「あなたは?」
本郷が男に警察手帳を見せて言った。
「わ、私は木下と申します。この水族館のスタッフで、この水槽は私の担当です」
「木下さん。ありがとうございます。死体はいつ頃からあったかわかりますか?」
「その……今朝、開館前にはなかったと思います。いや、昼にダイバーが魚たちにエ
サをやるショーもありますから、その時も遺体があれば気付いたとは思います
が……」
「なるほど。では、この衆人環視のなか、死体を投げ入れるなりした人物がいる
と?」
「考えにくいですが、そう……そうなんだと思います」
「例えば。たとえばなんですがね、スタッフのあなたなんかならそれができたと思い
ますか?」
猪俣が早速揺さぶりをかけた。木下という男は目に見えて狼狽した。
「いっ、あの、私はそんなことは」
「わかってます。たとえばの話じゃないですか」
本郷が猪俣を見ると、猪俣は目の前の小男にはっきりと疑いのまなざしを向けていた。刑事特有の、あの目だ。こうなると並大抵の人間は縮こまってしまう。
「できた、とは思います。担当ですから。しかし、人の死体なんて投げ入れた瞬間
にお客様がパニックを起こしますよ。それに、私も見ていましたが、遺体は上から
降ってきたのではなく、下から浮かび上がって来たんですよ?」
おどおどしながら、木下は答えた。その言葉に嘘はないように本郷には思えた。
「なるほど。ご協力ありがとうございます。また何か思い出したらご連絡ください。」
木下に名刺を渡し、水族館から帰る道中、猪俣は木下を調べようと言った。やはり猪俣は彼を疑っているようだった。
7
「どうしたの?最近顔色悪いよ?」
帰宅した本郷を見るやいなや、妻の沙耶は本郷の顔を覗き込んで言った。
「ああ……いや。面倒な事件に手を焼いててね」
妻にもらった紺色のネクタイを緩めながら曖昧に答える。実は二年前に捕まえられな かった異常殺人鬼がまた現れてね、そいつは俺の部下を殺した奴なんだ。そして俺はどうやらその殺人鬼が作る死体のアートが好きらしいんだ。とは言えるわけがなかったが、沙耶は夫の言葉以上の重大事に巻き込まれているのだと察していた。
「ご飯、食べよ?」
「今、ちょっと食欲が」
「ダメだよ。一緒に食べよう」
そう一方的に告げると、沙耶はⅠHコンロを操作し、上に載っている鍋を温め始めた。カレーの匂いがした。
「こういうベタな手料理ってさ」
食卓に向かい合わせに座った沙耶はカレーを口に運びながら言った。皿には福神漬けではなくらっきょうが添えられている。沙耶の好みだ。
「ほっとするよね」
口にしたカレーの味は何の変哲もない家庭のカレーの味だったが、その気遣いが本郷にはありがたかった。自分にはこういう幸せを感じる機能がまだ備わっている。その事実に、本郷は心底安堵したのだった。その夜は何日かぶりに沙耶と缶ビールを飲み、床に就いた。
8
その夜から二日後、本郷は心療内科を訪ねていた。自分が抱えているかもしれない変質を相談するためだ。その手の医療機関にかかることに少なからず抵抗を覚えていた本郷だったが、あの日眠りに落ちる前に、自然と心に決めていた。職場からは少し離れたところにある医院を選んだ。白塗りの壁が印象的な小さいクリニックだった。牛玖メンタルクリニックは早朝から多くの順番待ちの患者がおり、本郷は驚いていた。心療内科とはこんなに混み合うものだったのか。院長の牛玖総という医師は五十代くらいの男だったが、短く切った白髪を後ろに撫でつけた彼は美男と言って差支えのない容姿をしていた。柔和な表情で本郷をしばし見つめてから、本郷が何かを言う前から「随分と我慢しましたね」と言った。何年も精神疾患の患者と向き合った経験のなせる業だろうか。それともただのマニュアルなのか。本郷はこんな時にも刑事として相手を観察して注意深くなる自分に少しだけ辟易した。
「そんな顔をしていますか?」
本郷がそう返すと、牛玖は小さく笑った。
「そりゃあ、それだけ眉間に皺を寄せて入ってくれば私でなくてもわかりますよ」
飲み物はコーヒーがいいか緑茶がいいかと聞かれ、本郷はコーヒーを選んだ。ほどなく、スタッフがカップに入れたコーヒーを持ってきた。インスタントではない、ドリップして淹れた香りだ。
「それで、何をそんなにお悩みですか?」
本郷がカップに口をつけたのを見届けてから、彼は本題を切り出した。
「その、職業柄いろんな現場に出くわすのですが」
「かまいません。私には守秘義務がある。ありのままにお話ください」
本郷がわずかに言い淀んだ様を目敏く感じ取った牛玖はそう言った。本郷はその言葉 を待っていたかのように、全てを話した。巷では猟奇的な連続殺人が起きており、二年以上前から追っているが逮捕には至っていないこと。二年の歳月を経て、またその殺人鬼のものと見られる死体が出ていること。遺体がいつも異常なまでの工夫がされて飾られていること。その光景が頭から離れないこと。その異常な遺体が自分の心をざわつかせること。部下を殺されたこと。自分は水葬狂と呼んでいるその異常者と同じ危うい感覚を持っているのではないかと不安なこと。本部の捜査方針が正しいとは思えないこと。話している間、本郷は何度も気が遠くなる感覚を覚えた。話し終える頃には、ぐったりと疲れ切ってしまっていた。
「なるほど」
顔色ひとつ変えずに医師はカルテに何やら書き込んでいる。
「俺は、おかしいんでしょうか」
「誰にでも、薄暗い欲望が眠っているものです。ただ、大抵の人間は自身のそういっ
たパンドラの箱の存在に気付く機会がないだけです」
そう告げた牛玖は緑色の正方形の付箋に何やら筆記体で書いて見せた。
「ネクロフィリア。死体に興味を持ってしまう人のことですが、あなたは違うでしょ
う。特定の、そういった特殊な遺体を美しいと思ってしまう」
「そうですね。様々な遺体を目にして来ましたが、もうとっくに慣れてしまって。こ
んなことは初めてです」
「まさにその慣れが原因なのかもしれませんね。事故や事件、自殺の遺体を見慣れて
しまったために、その特殊な状態の遺体にまるで初めて他殺体を見た時のような衝
撃を覚えた」
「そう……なんでしょうか」
「ええ、前にもそういった患者様がいました。その方も警察官でした。何も本郷さん
が異常というわけではありませんよ」
「そうですか。良かったんですかね……」
予想しなかった言葉に本郷は珍しく取り乱したが、牛玖は落ち着き払って診察を切り上げた。
「ひとまず、感情の起伏を穏やかにする薬を出しましょう。次にいらっしゃる時は、
もう少し昔のお話を伺いましょうか。お大事になさってください」
診察室を出ると、待合室にいる人間の視線を強く感じた気がしたものの、それは気のせいだった。誰もがスマホや雑誌、同伴した人間に注目している。ここの人たちは皆自分のことしか考える余裕がないようだ。処方箋をもらい、毎食後に飲むように言われた。その薬は真っ赤なカプセルに入れられていて、わずかながら本郷に威圧感を与えた。精神に影響する薬を飲むこと、治療を受けることが初めての本郷にとって、そのカプセルは実際に脅威であった。これで自分の変質が治らなかったら?刑事を続けていてもいいのだろうか。逆に、治るということは、自分の人格が薬品の作用によって変化することを意味する。本郷の精神に影響するカプセルの効果が発揮された時、変質が治ろうが治るまいが、自分は自分なのだろうか。牛玖が言っていた警察官の患者は、どうなったのだろうか。まだ警察手帳を持ち、職務に従事しているのだろうか。彼は以前のままの彼なのだろうか。紙袋の中にあるカプセルの存在を常に感じながら、本郷は電車に揺られて帰宅した。
「おかえり」
本郷が帰宅したのはまだ昼間だったが、沙耶が迎えてくれた。妊娠も六カ月を過ぎ、家にいる時間が増えているためだ。本郷は強ばった表情を柔らかくするよう意識して返事をした。一緒に昼食を済ませると、早速処方箋を紙袋から取り出した。赤いカプセルと目が合い、本郷はわずかに緊張した。
「どういう薬なの?」
「ストレスを和らげる薬らしい。鬱とかではないから、軽いものだよ」
妻というよりは自分自身に言い聞かせるように言うと、透明なグラスに水道水を満たしていく。その水の中に、水葬狂の作った遺体が見えた気がする。赤いカプセルを手に取り、その威圧感を感じる。これで、水葬狂の作品に魅入られなくなる。これで、自分が変わる。人格の一部が切り落とされる。本郷はまるで自分が手に取ったのは薬品ではなくカミソリの刃であるかのように思え、生唾を飲んだ。早く飲まなくてはいけない。沙耶が見ている。ただの軽い薬なんだから、正露丸でも飲むように自然に摂取しなくてはおかしい。本郷は赤いカプセルを無理やり飲み込んだ。悲鳴と一緒に。直後、本郷のスマホが鳴り、水族館スタッフの木下が任意で警察署に連行されたことを知った。
9
どこの宗教観の言葉かは知らないが、神は乗り越えられない試練は与えないと聞いたことがある。では、これはどうだろう。ドラマの世界の取調室と違い、現実の驚くほど窮屈な警察署の取調室で目の前の若い警察官に睨みを利かされながら、水族館のスタッフ木下は思った。これは乗り越えられる試練なのだろうか。まだ自分に妻と子供がいた頃のことを思い出していた。あの時も、やりようによっては乗り越えられたのだろうか。
「被害者の志村ケイさんが殺害されたと思われる二五日の夜二三時頃、どちらにいら
っしゃいました?」
「家にいました」
答えながら、ちらりと取調室の出入り口に目をやる。窮屈なのには理由がある。取調べを受ける人間は部屋の一番奥に座らされ、ドアにたどり着くには横に大きく出っ張っている机を横歩きして回避し、向かいに座っている警察官を回避したあと、さらに逆側からドア前にせり出した机に座った警察官の前を通らなくてはならない。つまり、逃げ出した容疑者をどうあっても逃がさないためにこの部屋の全ては設置されていた。木下は、パニックになって駆けだした自分の手首を、目の前の猪俣という刑事の浅黒くゴツゴツした手が力強く掴むのを想像し、冷や汗を流した。
「それを証明できる人は?」
「ほ、本当にそう言うんですね。は、はは。いえ、ごめんなさい。緊張で変なことを
言ってしまって……。証明はできません。ひ、一人暮らしだから……」
「ご結婚されてますよね?」
わかってて聞いているんだろうか。木下にはわからない。
「別居しています。二年前から」
「二年前から……」
猪俣が二年前という言葉に反応する。何かまずかっただろうか。
「別居された理由など、差支えなければお聞かせ願えますか?」
猪俣の太く黒い眉が神経質そうに動いていて不快だった。
「……ありふれたものです。合わなくなったんですよ。中学生になった娘とも上手く
やれてなかったですし」
「立ち入ったことをお聞きして申し訳ありません」
申し訳ないとまるで思っていないような顔で猪俣が詫びを入れた。
「あのう、私はどうすれば疑われずにす、済むんでしょう……?」
股の間で組んだ手の指をもぞもぞと動かしながら木下は言った。
「木下さんを疑っているわけではありませんよ。皆さんにお聞きしてますから。で
は、あなたに水族館での犯行はできたと思いますか?」
「お、思いません。」
「先日はできたと思うとおっしゃいませんでしたか?」
「いっ、あっ、できたとは思う。けど、あんなふうに遺体を時間差で浮かび上がらせ
たり、人知れず遺体を投げ込んだりはできないと言ったんです。すみません……」
「なるほど……」
こんな不毛な時間を、もう二時間は過ごしている。木下は自分の禿げ上がった頭皮に 汗が浮くのがわかった。事件のあった日に水槽内でショーを行ったダイバーの西畑は同棲中の恋人や住居付近のコンビニ店員の証言でアリバイが証明されたらしく、警察署に連れてこられたのは自分だけだった。木下は自分の孤独を噛みしめていた。
「悪いな、昨日は休ませてもらって」
いったん取り調べを終えて木下を帰した猪俣に本郷が声をかけた。
「いいって。大丈夫なのか、体調は」
「ちょっと疲れてただけだ。ありがとう」
本郷は嘘でも本当でもないことを言った。警察官という職業では、上司や同僚にプライベートの端まで把握されている。嘘を言うのは得策ではなかった。
「そうか」
「で、どうだ。木下だっけ。あいつは」
「あいつが水葬狂ってイメージはしっくり来ないかもしれないが、何か隠しているの
は確かだ。次は令状を取って本格的に絞り上げてやる」
「……」
本郷は頷き、あの禿げ上がった小男が女性の体を切り刻み、花を活けている様や後輩の緒方を赤い糸でミイラのように包んでいる様子を思い描いた。
「沙耶ちゃんは?」
「ああ、落ち着いてるよ。息子の名前選びに余念がない」
「いいね。うちの小僧はもう生意気でな。困ったもんだよ」
「樹くんか。もう小学生になるか?」
「来年な。なあ、知ってるか。ニチアサ。仮面ライダーとか戦隊ものとかの番組。あ
れの玩具の売り方が本当えげつないんだ」
「へえ?」
「まず、最初に変身セットと武器の玩具を買い与えて安心するだろ?ところが、二カ
月もしないうちに新しいヒーローが出て、その玩具が出る。そのあと一カ月くらい
で敵が強くなるから、パワーアップ用の玩具が出るんだよ。クリスマスとか親のボ
ーナスの時期とかにぴったり来るんだこれが」
「商魂たくましいな」
猪俣の何気ない日常に触れ、彼も血の通った男であると認識した本郷はわずかに安堵した。
「俺たちにもないもんかね、パワーアップアイテム」
「ああ、まったくだな」
猪俣は短くなったセブンスターを、本郷は缶コーヒーの空き缶を始末してデスクへ向かった。
10
「これは驚きましたね、本郷さん」
水族館の事件から一週間、本郷たちは木下の調査を行っていたが、ちょっとした偶然が本郷を驚かせた。木下は二年ほど前、つまり妻と別居を始める前に牛玖メンタルクリニックに通っていたということだった。牛玖医師に話を聞きにクリニックを訪れると、牛玖は本郷にだけ聞こえるように挨拶をした。
「木下は、どういった内容で診察を受けていたのですか?」
「私には守秘義務がありますので、令状なしにお答えすることはできません。けれ
ど、彼もまた自分が普通ではないのではないかと悩んでいました」
「なるほど……」
「牛玖先生、木下には何か異常な欲求があると?」
猪俣が食い下がっても、牛玖は静かに答える。
「そうとも言えますし、そうでないとも言えますね。私から見ればありふれた症例の
ひとつです」
「さっさと令状が下りないもんかね」
「ああ」
水族館の水槽を調べたところ、水槽内にオブジェとして設置されていた沈没船の中に細工された痕があった。オブジェの中に女性の凍死体を隠し、遺体の解凍が進んだことで比重が変わり、ひとりでに浮かび上がったのではないかという見解だった。牛玖医師への聞き込みでは収穫がなく、猪俣は苛立った様子だったが、カルテを見ることができれば、捜査は進展しそうだった。事務所に戻ってから同僚たちの目を盗んで赤いカプセルを飲んだ本郷は、牛玖の言葉を反芻していた。ありふれた症例のひとつ。自分もそうなのだろうか。自分のように、グロテスクに飾り立てられた遺体を美しいと思ってしまう人間がありふれている世の中というのは、それはそれで空恐ろしいものがあった。
11
「おかえり」
「ダメじゃないか、こんな時間に。眠れないのか?」
深夜に一時帰宅した本郷の顔を、妻は再び覗き込んだ。
「心配なの」
「なにが?」
「あなたの顔。ひどく怯えてるみたいだもん」
「大丈夫。もう今の事件も解決しそうなんだ」
思ってもいないことを本郷は言った。
「そう。そしたらなおる?」
なおる。『直る』なのか『治る』の意味なのか、本郷には判断がつかなかった。あなたのその異常な興味は犯人が捕まったら消えてなくなるの?そう言われているような 気がして、本郷は不安を覚えた。木下が水葬狂で、牛玖医師のカルテでその異常性を認め、逮捕されたとする。これだけ計画的な連続殺人をしたのだ。極刑のほかはないだろう。今後、ああいった遺体を目にすることなく、本郷は警察官を続ける自分を想像した。赤いカプセルで人格をそぎ落としながら、沙耶と生まれてくる息子と共に暮らしている自分。その自分は、水葬狂の作るアートを見れなくなることに全く不満を持っていない。そんな日々が果たして本当に来るのだろうか。学生時代、「時計じかけのオレンジ」という映画を観たことがある。暴力と性への欲求に取りつかれた若者を、それらに嫌悪感を抱くように学習させることで「更生」させるという内容の映画。主人公の若者は暴力や性に嫌悪感を覚えるようにはなったが、それは更生と呼ぶには程遠い姿に本郷には思えた。自分に処方された赤いカプセルは、自分を更生させるのだろうか。それとも、遺体に嫌悪感を覚えるようになるのだろうか。それは更生と呼べるのだろうか。
「また難しい顔してる。もう無理しないで?警察辞めてもいいんだよ?」
「すまない……。でも、この事件だけは見届けたいんだ」
刑事として?水葬狂のファンとして?本郷は自嘲した。
12
その事件が起きたのは、街がゴールデンウイークで賑やかになる頃だった。処方箋を飲むことにもカウンセリングを受けることにも抵抗がなくなってきた本郷の前に突然現れた。牛玖医師とのカウンセリングを終えると、スマホに猪俣からの不在着信があった。本郷は、その通知を見るといやな予感を覚えたのだった。折り返す間もなく、再び猪俣から着信があった。受話器のアイコンをタップすると、本郷の返事も待たず、猪俣がまくし立てた。
「本郷、今どこにいる」
「病院の帰りだけど」
「そうか。とにかく、事務所に来い。家には帰るな」
「何があったんだよ」
「いいから、家には寄らずに事務所にまっすぐ来るんだ。私服でもなんでもいい」
本郷は、答えずに通話を切り、スマホの電源を落した。家で何かがあった。すでにくぐっていた改札を出て、タクシーに乗った。自宅を目指して。案の定、家の前にはパトカーが停まっており、立ち入り禁止の規制がされていた。本郷は運転手に財布の中身を適当に押し付けると、無我夢中で駆け出した。
「沙耶!」
「本郷!馬鹿野郎、なんで来た!」
「沙耶ぁ!」
家のリビングには、沙耶がいた。沙耶と、自分の息子が。巨大で透明なバランスボールのような球体の中に、腹を裂かれた沙耶と臍帯で繋がれたままの子供が、太極図のように円を描いて、ボールの中に満たされた水に浮いていた。
「本郷、俺が必ず捕まえる。いや、ぶっ殺してやる!畜生!」
「大丈夫ですか!」
本郷は、どこか遠くに猪俣や他の捜査官たちの声や野次馬の騒音、何よりも自分から噴き出ているのだと気付いた叫び声を聞きながら、泣き崩れた。水葬狂だ。水葬狂に違いない。ありがとう。ありがとうありがとうありがとうありがとう。本郷は涙が止まらかった。赤いカプセルを飲み、沙耶と息子を失っても、水葬狂のアートを美しいと思えたことに安堵し、その美しさに感激しての涙だった。
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それから一カ月、初夏とは思えない猛暑の中、本郷はがらんどうになった自宅で朝も昼もない日々を送っていた。猪俣や上司の強い勧めで、休職の身となっていた。寝て起き、三日や五日食事を取らないことも普通になっていた頃、水族館スタッフの木下があっさり逮捕されたことを知った。殺人の容疑ではない。罪状は児童買春だった。沙耶が殺害された時の木下の行動を調査していた際、意外なところから彼のアリバイは証明されることとなった。少年課が補導した少女のスマホから、木下との金銭のやり取りを示すものが見つかり、犯行時刻、木下が少女とラブホテルにいたことが証明された。本郷は取り調べの一部始終を猪俣から聞いた。
「妻に、カウンセリングを勧められて」
逮捕された木下は諦めがついたのか、殺人の容疑が晴れたからか、素直に自供を始めたそうだ。
「心療内科にかかったんです。妻は、私がしていることに気付いても、治療を受けて
一緒にいる道を選んでくれました。そこで、処方されたんです。欲求を抑えるとか
いう青い錠剤です」
「それは効かなかったのか?」
「いいえ」
「では、なぜまだこんなことをやってる?余罪もあるだろう」
「飲まなかったんです」
「は?」
「飲めなかったんです。怖くて。一年もの間、たったの一錠も」
「何が?」
「自分が変わってしまう薬を飲むという行為が」
「それで、妻と子供との時間を失っても?」
「え、ええ。刑事さん。あなたにはわからないと思います。飲んで、変わった方が。
べ、別人になった方が、どれだけ幸せだったか。いくら私でもわかります」
「では、なぜ飲まなかった?」
「大好きだったんです。この欲求が。世間では変質と呼ばれるこの欲求が」
わけがわからん、と猪俣が吐き捨てた木下のこの供述が、本郷には痛いほどわかってしまった。本郷は、水葬狂のアートを好む欲求を、どうしようもなく愛していた。
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本郷が休職している間に、水葬狂事件は大きく進展することになる。容疑者であった木下の潔白が複数の事件で証明され、本郷沙耶が殺されたことから、警察の目は別に向けられることになる。何より、二年前の犯行と同様に本郷沙耶殺害の状況から、犯人は素人ではない。つまり、医学に関する知識がある者である可能性が浮上した。次に警察が目星をつけたのは沙耶が通っていた産婦人科の看護師の青年であった。青年の部屋には大型のトカゲや蛇といった爬虫類とハムスターが飼育されていた。ハムスターは愛玩用ではなく、爬虫類の生餌として飼われていた。
「彼女に興味がありました」
入江というその青年は取り調べに対して淡々と供述した。感情的になりすぎていた猪俣の代わりに別の捜査官が取り調べを行った。
「美しかった。妊婦はみな美しいが、沙耶さんは特別です」
「どう、特別だった?」
「なんというかね、命を諦めたような儚さがあった」
「だから殺した?」
「いいえ。とんでもありません。私は殺していません」
「ではなぜ、犯行のあった日の少し前から被害者宅の付近をうろついていた?」
「ですから、興味があったんですよ。この人は、本当に出産をして母親として生きて
いけるんだろうかって」
「大きなお世話じゃないか?」
「そうですね。でもまるで、自分が死ぬのかわかっている。子供も生まれてこないこ
とがわかっている。そんな妊婦見たことありますか?そういう諦めみたいなものが
感じられたんですよ」
「お前が殺したんだろ?」
「いいえ。何度も言いますが、僕は殺していません。」
「えーと、その。諦めっていうのはなんだ」
「たまにね、子供をお腹に抱えたまま産まずに母子ともに死んでしまうハムスターが
いるんですよ。ハムスターみたいな小動物は帝王切開をしてもほとんど死んでしま
うから、もう死ぬのを見届けるしかないんです。そんな時の母ハムスターにはね、
覚悟がある。もう自分も子供も助からないって。風船みたいに膨らんだ体を億劫そ
うにしながら、じっと死を待ってる。そんな感じが、沙耶さんからもしました」
「わかった。いやよくわからんけどな。わかったよ。では犯行のあった時刻、どうし
てた?」
「家でレポートを書いていました」
「レポート?学生でもないだろう?」
「そうですね。でも、行った看護がどういう結果に至ったか、適切だったかを判断す
るために書く病院はありますよ。少なくともうちはそうです」
「なるほど。証明できる?」
「院長のメールを確認してください。送信時刻が」
「すでに完成させたレポートを犯行現場で送信しただけじゃないか?」
「そんなことはありませんよ。そうだ、その時院長とビデオ通話もしています。どこ
から送信したかとか通話履歴とか、調べられないんですか?」
入江からの事情聴取はそれ以降の展開を見せることはなく、入江が契約しているプロバイダーからの回答を待つばかりとなった。
「入江があの、犯行に使われたビニール風船みたいなものを購入したのは間違いない
んだろう?」
猪俣が担当刑事に尋ねると、彼は頷いた。
「通販サイトでな。入江のアカウントからだ」
「他人がアカウントを悪用した可能性は?」
「そうなら入江がまずそれを黙ってないだろう。間違いないよ」
「じゃあ、あいつが」
「ああ。あいつの自宅の家宅捜索の許可を取れたら、何か見つかるだろう」
あの青年が水葬狂だとしたら、二年前の事件の時、彼はまだ看護学生だったことになる。恐ろしい話だ。猪俣は胸が悪くなった。
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入江の契約するプロバイダーからの返答に時間がかかり、業を煮やした捜査本部は入江宅の家宅捜索に踏み切った。先に訪問した時には見つからなかった動物虐待の痕跡と思われるものや、医院から盗み出したと思われる麻酔薬などが見つかり、ますます入江への疑いは強くなっていったが、事態は再び混乱に陥ることとなる。猪俣が自宅のバスタブで遺体となって見つかったのである。まさに入江が警察に拘留されている間に。バスタブはあふれるほどの血液で満たされ、どうやら動物の血液も混じっているようだった。死因は失血死。警察官が二人も殺された。その事実はもはや怪奇現象にも等しいほどの異様さであった。その知らせを受けた本郷は休職の返上を決めた。
「もう少しお休みになった方がいいと主治医としては言わざるを得ませんが」
知らせを受けた当日の夜に牛玖メンタルクリニックの医師である牛玖の自宅を尋ねた本郷は、牛玖の言葉を遮った。
「これは、俺がケリをつけなきゃいけないんです。家族を殺され、相棒を殺され、水
葬狂は俺を追い込みたいんじゃないかと思うんです」
「考えすぎではないですか?」
「それでもいい。とにかく、動かないとおかしくなりそうなんです」
本郷の様子をじっと眺めた牛玖は、職務復帰の許可を出すと答えた。私服姿の牛玖は初めて見たが、その視線は初めて本郷の内面を見透かしたあの時の観察するような眼であった。
「たしかに、あなたを今のまま一人でいさせておくのはむしろ恐怖を駆り立てるよう
だ。クリニックに戻って診断書を書きましょう。ただ、一週間に一度は必ず診察を
受けに 来るように。いいですね?」
「はい」
本郷を自家用車の助手席に乗せた牛玖は、さらに一言つけくわえた。
「地獄のまっただ中にいるというなら、ひたすら突き進みなさい」
「はい?」
「チャーチルの言葉です。本郷さん、満足のいくようになさってください」
「はい」
「少し、臭かったですかね」
本郷は、偶然にも彼を主治医に選んだことを感謝した。
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翌日、さっそく現場に復帰した本郷は一カ月の遅れを取り戻すように捜査資料を不眠不休で読み漁った。赤いカプセルの服用は、もはやしていなかった。それは、猪俣の遺体の様子に、これまで自分が水葬狂の作る遺体に感じた美を感じなかったことも手伝っていた。採血用の針を体中に刺され、失血死してからも血を抜かれ続けていたであろう猪俣の体には、不自然な点があった。溺死のように見せ、別の死因であるという手口は一緒であるものの、そこには不必要な傷があった。もだえ苦しんだ猪俣はなぜか、自身の下腹部、つまり膀胱のあたりを指でかきむしり、傷を広げようとしていたらしい。変わり果てた親友の姿に、本郷は何度もゴミ箱に嘔吐し、内容物を失った胃袋を痙攣させた。水葬狂がこの傷を望んだわけはない。本郷はそれを直感していた。水葬狂の「作品」の魔に魅入られたからこそ、断言できた。それなら、これは猪俣が残したメッセージということになる。膀胱、この位置を考えるとやはり、女性の子宮を指しているのだろうか?それだとしたら、やはり、沙耶がかかっていた産婦人科は無関係ではないのではないか。だが、最重要の容疑者であった看護師の入江に猪俣は殺せない。では、あの医院の中に、別の容疑者が……?
「いいや」
本郷は独り言ちた。水族館の事件、および沙耶殺しの時のアリバイは入江以外は証明されている。では……
「あ……?」
単純な話だった。同じ院内に協力者がいれば入江のアリバイは崩れ、同様に他の院内関係者も怪しくなってくる。だから猪俣は「産婦人科から目を離してはいけない」とメッセージを送ったのだ。時計を見ると時刻は深夜三時を回っていたが、本郷は居ても立っても居られず、入江が勤め、沙耶が通っていた産婦人科へと独り車を走らせた。もしも水葬狂が二人いたとしたら、二年前の溺死にこだわっていた事件との差異も説明できるのではないか。もしかしたら入江が、院内の薬品を盗み出していることなどをネタに脅されていた協力者の方かもしれない。医院に着き、守衛の老人に警察手帳を見せ、院内を見せてもらう。深夜とは言え入院設備もある病院のため、何名かの看護師や医師はいるようだった。その場にいる何名かに聞き込み調査をし、さらに院内を調べようとするも、守衛は不服そうだった。院長に話を通さないと通せない場所もあるということで、明朝また出向くことにした本郷だったが、窓の外に目をやると、異常な光景を目の当たりにした。大きくコの字型になっている施設のため、本郷がいる中央の窓からは施設の両端が見渡せるのだが、その右端の東棟屋上にあたる部分に弱弱しい炎のような明かりが見えたのだ。守衛に案内されるまま、明かりの見えた屋上のドアの前まで行くと、やはり炎のような光が揺らめいている。鍵を開け、扉のノブに手をかけると、不自然にそれは重かった。守衛と二人がかりでドアを押し開く。なにか、ひも状のものがほどけるような音と共にどさっと重いものが落ちたような音がした。たとえば人間のような何かが。
「わあ!」
守衛の老人が先に声を上げたのは、目の前で黒焦げになった人体が未だ炎を上げながら倒れていたためである。
「触るな!」
本郷は守衛の男に命令し、現場を確認した。目の前の黒焦げの人間は死んでいるが、かろうじて白衣を着ていたことが見受けられる。間違いなくこと切れている。だが、落下音の正体はこれではないだろう。落下音は、もっと遠くでしたはずだ。そう考えて現場を眺めていると、階下が騒がしくなってきた。本郷が屋上から中庭を覗くと、そこにはもう一人の人間がいた。三階建ての屋上から落下したのだから当然、頭は爆ぜて体のあちこちが異様な方向にひしゃげているため、こちらも生きているはずがなかった。呆然としながら、本郷は本部へ連絡を入れた。
翌朝の調査で本郷を驚かせたことは二つあった。一つは二体の遺体は看護師の入江と、院長の財前という初老の男だったこと。そして自殺として判断されたことだった。院長 の財前のデスクにはPCのワードソフトが起動したままになっており、遺書のようなものが書かれていた。PCのキーボードからは財前の指紋しか検出されなかったため、本人が書いたものに間違いないと判断された。内容は以下の通り。
「私、財前光義は看護師の入江将太と共に、幾多の殺人に手を染めてきた。しかし、それは美の探求のためであり、罪の意識は全くない。二年前にはまるで私に届かなかった警察諸兄も、此度は入江と私に行きついた。水葬狂という魅力的な名前までいただき、ここに敬意と感謝を表す。私はいくつもの生の瞬間に立ち会ううちに、死の持つ静謐な美しさに魅入られたのだ。この事件をぜひ大きく報道していただきたい。水葬狂としての最後の作品として、我々自身を捧ぐことにする。 財前光義」
味気ないゴシック体で書かれたその文の他に、引き出しにはご丁寧に水葬狂最初の事件からの手口や経緯などを記したファイルと、ボイスレコーダーが入っていた。ボイスレコーダーは、猪俣が殺された時に隠し、回していたものらしかった。
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猪俣のボイスレコーダー
「財前院長、あなた往診はもう随分と前にやめてらっしゃいますよね?なにせ院長様
だ」
レコーダーを再生すると、かつての親友の声がする。本郷はぎゅっと歯を食いしばっ
た。
「ええ、それが何か」
「じゃあ、本郷沙耶が殺された時、病院の車に乗ってどちらへ?」
「……」
「苦労しましたよ。記録ではこの時刻、院内の車は二台残っていることになってる。
でも、駐車場を映した防犯カメラには一台しか残っていない。あなたが、入江とビ
デオ通話で会議をするといって鍵のかかるミーティングルームに閉じこもってから
の二時間、実は本郷の家に行っていたんじゃないですか?」
「仮に私が席を外したら、ビデオ通話をしていた入江くんがあなたたちに何か言うん
じゃないですか?」
「言うでしょうね。あなたの共犯者でなかったら」
「なるほどね」
猪俣の語気がだんだんと強くなってくる。
「もしかしたら最初からビデオ通話を繋いだままの端末を病院と入江の自宅に置いた
まま、一緒に本郷宅へ移動していたかもしれない。どうなんだ?」
「ふふふ」
「何がおかしい」
「ドラマだったら証拠を出してみろと言うところなんだろうが、この際どうでもい
い。実はね、猪俣刑事。私は君が私までたどり着くような気がしていたんだよ。入
江に 捜査の目が向いている時から、嫌な目で私を見ていたね。そしてだ。果たし
て今夜、君は私の前に現れた。結構結構。君は実に優秀な警察官だ」
財前がその狂気を剝き出しにすると、次いでコポコポとグラスか何かに液体を注ぐ音が入る。
「まあ立ち話もなんだ。座って、一杯どうだね?」
その一言を聞くや否や、グラスの割れる音がする。猪俣が払い落したのだろう。
「てめえが本郷のカミさんを。殺してやるよ。逮捕じゃねえ」
「ふふふ、いかんね。そう力んでは人は殺せないよ。人を殺す時は、優雅に、用意周
到にだ」
「黙れ」
「人を殺すのは息をするのと同じ、ヘンリーというシリアルキラーの言葉だが、私は
全く同意見だね。生を司る産婦人科医でいる私が死を操る魔に魅入られるのも当然
の話だ」
「幼稚だな」
「なんだって?」
「そこらのヒネた中学生でもあるまいし、猟奇殺人鬼の言葉をありがたがって、自分
のみじめさを見ないフリをしてる痛いコスプレ野郎だ、てめえは」
「がっ!」
鈍い音に次いで、本郷のうめき声。人が床に倒れる音がする。おそらくは、財前か入江に殴り倒されでもしたのだろう。
「私は本物だよ。猪俣くん。本物の水葬狂だ。君の優秀さに敬意を表し、私の作品に加えてあげよう。この水葬狂の作品にね」
ここで音声は途切れている。
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本郷を驚かせたもう一つの点だが、それは財前と入江の死体の異様さであった。財前の遺体は黒焦げに焼かれていた方で、入江の遺体は屋上から落下したものだったが、死因は二体とも焼死でも転落死でもなく、溺死だったのだ。まるで溺死のように見えて別の死因であるという最近の水葬狂事件とは真逆をいくような状況である。現場の光景も極めて異様であり、夜の闇のもとではわからなかったが、転落した入江の遺体には鱗のような痕が体中に巻きついており、黒焦げになった財前の遺体は、屋上のタイルいっぱいに血液と見られる水滴で描かれた竜の大きく開いた顎の中に収まるように配置されていた。後から知ったことだが、これは海外のアーティストがSNSで発表したアートの手法を用いているらしい。
「これが自殺…なんて信じられないな」
鑑識の男がそう漏らしていたが、無理もなかった。財前は生きたまま焼かれ、しかしそれでは死なないように調整された上で数多の輸血パックの中身をぶちまけたバケツ の中で溺死していた。それを、入江がやった?財前を溺死させた血液で手間のかかる竜の水滴画を描いてから、自死に取りかかったというのだろうか。自ら肺に点滴を打ち、肺や気管に水が溜まっていく生き地獄に悶えながら、自分で巻いたうろこ状のロープで身動きを封じ、誰かがロープの端を巻きつけたドアを開けて、コマでも回す要領で自分を階下に落してくれることを待つ…。本当にそんなことができるのだろうか。本郷にはむしろ、この二人には届かない何者かが、始末したように見えた。上空から撮られた現場写真はまさに、赤い竜の逆鱗に触れた人間たちが、その尾で絞め殺され、炎の息吹に焼かれた神話のようなワンシーンであった。彼らは、いったい何の逆鱗に触れてしまったというのだろう。
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水葬狂事件は被疑者死亡のまま幕を閉じ、本郷は警察を辞めた。今は退職金と貯金を食いつぶしながら過ごしている。
「本郷さん、もう自分を許してはいかがですか?」
相変わらず牛玖医師との診察は続いていたが、本郷はもはや何のために何を治療されているのかわからなかった。
「どういう意味でしょうか」
「ご家族と、友人の死を自分のせいだと思っていませんか?」
思っていなかったが、誘導されるように本郷は頷いた。
「先生が以前おっしゃっていた、私のように特異な遺体に魅力を感じてしまうように
なった警察官ですが、その人はまだ刑事を続けているんでしょうか?」
「いいえ」
思った通りの答えが返ってきた。
「では、私のように退職して、今も通っているんですか?」
「いいえ」
これも予想通りだった。もう、見当がついていたからだ。
「後輩の、緒方ですよね。そいつ」
「……」
「先生」
牛玖医師は困ったように続けた。
「では友人として、聞いていただけますか」
「はい」
眼鏡を外した牛玖は、目をすぼめるしぐさをしない。度が入っていないのだ。
「患者さんと対面する時はね、この伊達眼鏡をかけるんですよ。バリアみたいに心を
守ってくれるおまじないみたいなものです」
「異常者の心理は伝染するということですか」
「そうとは言いません。ただ、深く他人の心を覗いて共感するというのは、非常に危
うい行為なんです」
「そうだと思います」
「その患者さんは、異常に飾られた遺体の姿が頭から離れないと言っていました。や
がて」
「やがて……?」
「同じような『作品』を作ってみたいと思うようになるのを止められないと」
「……」
水葬狂として送検された財前も、シリアルキラーに憧れる節があったことを思い出す。奴も覗きすぎてしまったのだろうか。だとしたら誰の心を? 緒方も同様だ。
「話は以上です。彼はそうなる前に殺されてしまった」
「先生のもとにも、そういう情報が届くんですか」
「医師は横のつながりが強いんですよ」
視界がぼやけてきて、頭が回らない。最近、カウンセリングを受ける時はいつも夢の中のような心地がする。
「先生、俺は財前と入江は殺されたんじゃないかと思ってます」
「誰にです?」
「水葬狂」
「水葬狂、という連続殺人犯は彼らだった。間違いではないでしょう」
「違います」
「なんですか?」
「本物の、水葬狂です」
「本郷さん、あなたはもう警察官ではないし、事件は終わったんです。あなたの心の
ためにも、失った人たちのためにも事件のことは忘れてあなたの人生を生きるべき
です」
「でも……!」
本郷はいつの間にか涙を流していた。こういうことも増えた。
「いつも猪俣が何かを訴えかけているような気がするんです。そもそも、どう説明さ
れたって財前たちの死には不審な点ばかりだ。俺は、あいつらが二年前の水葬狂の
模倣犯なんじゃないかって思うんです。そして、図に乗った財前たちが本物の水葬
狂の逆鱗に触れ……」
「本郷さん」
「……はい」
「もう終わったことです。そして、証明のしようもない。違いますか?」
「いえ……ですが、先生もおっしゃったように、もしも財前たちが水葬狂のアートを
見て、緒方のように自分も作りたいと思ったとしたら?ありえる話じゃないです
か?そもそもなぜ財前たちは自分たちが水葬狂と警察が呼んでいることを知ってい
たんだとか…ああ、そうだ。そういえば財前はボイスレコーダーの中で『私が本物
の水葬狂だ』と言ったんです。あいつは、偽物の自覚があったんだ。だから」
「本郷さん」
牛玖に強く肩を揺すられ、本郷は我に返った。
「奥様やお子さん、同僚の猪俣さんへの罪の意識。それがあなたに見える水葬狂の正
体です」
「ああ……いや」
「強い薬に変えていきましょう。楽になりますよ」
診察を終えると、本郷は渡された処方箋の袋を覗いた。もう赤いカプセルではなく、白い錠剤だった。説明書きには、「不安を取り除く効果」とあった。それはいい。本郷は薬局の駐車場でさっそく何錠かまとめて飲んだ。この不安を消してくれるなら、なんでもいい。消してくれ。俺の中の水葬狂を。未だに脳裏に焼き付いて離れない、「本物の水葬狂」が作った美しい断罪の竜のアートを美しいと思う気持ちも、財前たちが死に、もうそれらを見れないのではないかという未練も、全て忘れさせてくれ。本郷は駐車場に無造作に立てて置かれていた口の開いた缶コーヒーを蹴とばすと、中にはコーヒーと煙草の吸殻が入っており、その汚水が跳ねてサンダルを濡らし、靴下に不快にしみ込んでいった。本郷は声を立てて笑い、歩き出した。
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「牛玖センセみたいな人がお客さんだったらなあ。あ、でも嫌かも」
美しく銀髪に染めた髪をカールさせた早乙女美香が、口を開けてステーキ肉を噛んだ。
「どうして?」
牛玖医師は自宅の広々としたダイニングで患者である彼女の向かいに座りながら、にこやかに美香を眺めている。
「だって、お客さん牛玖センセと同い年くらいの人が多いのに全然かっこよくないん
だもん。ケチだし。そんな人たちと一緒になって欲しくないな」
「なるほどね」
「最近は梅毒が業界でも流行って風俗辞めちゃって、SMサロンで働き始めたんだけ
ど、めちゃくちゃ難しいんだよ?鞭とかロウソクばっかがSMじゃないって初めて
知ったよ」
「興味深いね。どんなことをするの?」
「あのねー、まずお客さんのカウンセリングして、どんな人かを観察するの。それ
で、言ってほしそうな言葉を言ったり、からかって恥ずかしい思いをさせたり。本
当に 怒り出したり泣き出したりしないようにするの大変なんだから」
「ははは、君はよっぽど優秀な精神科医になれるよ」
牛玖は笑い、口許をナプキンで拭った。ソースとステーキ肉から滴る血液の混じった赤い染みができる。
「本当にそう思うよ。体張る風俗もきついけど、頭使う今の仕事も疲れる」
「私には何が見えるかな?」
「もー、やめてって。せっかくセンセとデートなのに仕事させないで」
「それは失礼」
美香は、しかし少し首を傾げながら牛玖の目を見つめる。
「Sなのは間違いないと思う。でも、なんか歪んでそう」
「ひどいな」
牛玖は苦笑してから「当たってる」とウィンクした。
「ねえ、センセ?この大きいカーテンの向こうは何があるの?窓とは逆側でしょ?」
美香が壁一面を覆った臙脂色のドレープカーテンを顎でしゃくると、牛玖は立ち上がった。
「知りたい?」
「え、うん。でっかいスクリーンとか?」
「違うよ」
牛玖がリモコンを操作すると、ひとりでにカーテンが開いていき、その中を晒した。現れたのは巨大な水槽と、中を幻想的に泳ぐクラゲの群れであった。
「綺麗……」
美香が嘆息すると、牛玖がはにかんで言った。
「地味な趣味だけどね、アクアリウムが好きなんだ」
「ううん、とっても素敵!クラゲだけっていうのもおしゃれだし」
「いや、実はまだ入れるつもりなんだよ。なかなか手に入れるのに苦労してたんだ
が、ようやく理想通りのが来たんだ」
「へえ?何を入れるの?」
美香が赤ワインを飲み込むと、ふいに眠気を覚えた。ぼやけていく視界の中で、牛玖の口の動きと声だけを感じた。
「人魚」
外は雨の音がいっそう強く増していった。
了




