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【第4話】異常、なし

「――動かすな!」


《幽影》の鋭い声が、静まり返ったギルド内に響く。

反射的に揺さぶろうとした《狂刃》は、はっと息を詰め、呆然としたままその身体を支えた。


その間に《幽影》は素早く出血箇所を確認し、背中の衣服を慎重に切り裂く。

血を吸い取った衣服の切れ端が、やけに重い音を立てて床に落ちた。


露出した背中の傷を見て、《幽影》の顔が瞬時に険しくなる。

《狂刃》は、目を見開いたまま硬直した。


そこにあったのは、背中を縦断するほどの、深い裂傷。


衣服に吸い取られてもなお、新たな鮮血が溢れてくる。


「……これは、まずい」


《幽影》が即座に布を当てて傷口を圧迫した。


「おい、回復魔術だ!」


ワイルドウルフが声を張り上げる前に、《教授》はすでに詠唱を終えていた。

みるみるうちに赤く染まる布の上から手をかざし、力を込める。


閃光が場を包む中、《教授》は《狂刃》に詰問した。


「……致命傷に近いぞ。何があった!」


「知らねえよ!さっきまで普通に喋ってた!歩いてた……!」


わけがわからないといった様子で吐き捨てる《狂刃》。

視線が、傷口から、血の気の引いた顔へ移った。


まだ幼さの残る顔。瞼は閉じられ、小さな唇は浅い呼吸を繰り返している。

ぐったりと寄りかかる身体は、あまりに軽い。


「……なんで、気づかなかった?」


唇を噛む――だが。


何かを思い出したように、ぽつりと、言葉が零れる。


「……いや、違う。『見た』……」


「話は後だ」


《幽影》が短く遮る。

口調は冷静だが、その表情は険しいままだった。


「傷の治りが悪い」


その言葉を受け、《教授》が舌打ちする。


「すでに全力だ」


裂けた皮膚は、じわじわと塞がっていた。

しかし、辺りを包む光の強さと比べて、明らかに遅い。


自身も呼吸を乱しながら、《教授》は呟いた。


「……回復魔術の効果は、本人の自己保存本能に影響を受ける」


「……は?」


「……」


《狂刃》がその意味を理解する前に、《幽影》は、静かに目を伏せた。


その頃には、ギルド内で回復魔術を使える者たちが集まってくる。

ざわめきが広がり、眩しすぎるほどの魔力の奔流が、ひとつの命に注がれていく。


「……傷の治りが、遅すぎる」


誰かの呟きが、やけに大きく響いた。

その違和感だけが、静かに残る。



医務室の空気は、重かった。


寝台には、静かに目を閉じて横たわる、小柄な身体。

傷はどうにか塞がり、呼吸も安定している。

《狂刃》は壁にもたれながら、険しい表情でじっとその顔を見ていた。


「……あらためて聞こう。何があった?」


《教授》が切り出す。

問われた《狂刃》は、視線を逸らし、投げやりに吐き捨てた。


「……知るかよ。何があったかなんて、こっちが聞きてえ」


「《狂刃》」


幽影の声が、静かに落ちる。

無言の圧に《狂刃》は舌打ちし、まくし立てた。


「――任務中に、背中を斬られたのを見た。なのに傷はなかった。そいつも『なんともありません』ってヘラヘラしてやがった。それが、帰ってきたらこのザマだ」


《幽影》が、冷静に指摘した。


「実際に斬られていたのなら、あの傷で平然としていられたはずがない。笑うどころか、立つこともできなかったはずだ」


「ああ、そうだろうよ」


《狂刃》の声音には、嘲りの感情が滲んでいた。


「でもな。俺は見た。触った……血の匂いもしなかった。出血どころか、傷ひとつなかった」


言いながら、自分でも信じていないような顔で。


《教授》は一瞬目を細めた。


「念のために聞くが、彼が自発的に防御や治療をした痕跡は?」


《狂刃》は首を振る。


「斬られるまで気配にも気付いてなかった。そんな余裕があるわけねえ」


「……それが事実だとしたら、現時点で考えられる可能性は1つだ」


《教授》が、銀縁眼鏡を静かに押し上げる。


「無意識に致命傷を無効化し――理屈は不明だが、受けていたはずの傷が、『時間差で現れた』」


口にした声が、わずかに揺れていた。


一瞬の沈黙。


「……なんだ、そりゃ」


《狂刃》が、馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに眉をひそめた。


「そんな能力、何の役に立つ?どうせ最後は死ぬんだろ」


《教授》は頷く。


「その通りだ。『結果』は何も変わらない。だが……『過程』は変わる」


「はあ!?訳わかんねえぞ」


「あくまで事実からの推測にすぎない」


過熱しかけた空気を引き戻すかのように、《教授》はかぶりを振った。


「現時点で原因を断定することは不可能だ。彼が目覚めるまでは――」


その時。


「……あれ?」


小さな呟きが、医務室に落ちた。


※※※


目を開けると、一面の白だった。

しばらくして、それが天井だとわかる。


「……あれ?」


思わず、声が漏れた。


僕、なんで寝てるんだっけ?


「……気がついたか」


――低く、落ち着いた声。


「《幽影》先輩?」


声のした方に顔を向けると、深い緑色の瞳が、静かに僕を見ていた。

反射的に起き上がろうとして、制される。


「《教授》先輩に《狂刃》先輩まで……どうしたんですか?」


「どうしたんですか、じゃねえ」


《狂刃》先輩が寝台にずいと歩み寄り、低い声で言った。


「お前、死ぬところだったんだぞ」


そうだ、任務の後、急に背中が痛くなって――。


「へえ……そうだったんですね。助けていただいたみたいでありがとうございます」


礼を言うと――その場の空気が、妙に静まった。


「……何だよ、それ」


「よせ」


何か言いかけた《狂刃》先輩を、《教授》先輩が制す。


「君は、背中にひどい傷を負っていた。原因に心当たりはあるか?」


心当たり、と問われると、1つしかなかった。


「ええと……任務中に、背中を斬られたと思いました。でも、痛くなかったんです」


「斬られた実感はあったんだな?」


「はい。けど、血も出ないし、動けるし、不思議だなって」


《幽影》先輩と《狂刃》先輩は、答える僕をじっと見ていた。

《教授》先輩は頷くと、一瞬だけ躊躇ったように、口を開く。


「……傷を受ける瞬間、君は何か考えなかったか?」


「……考えたこと、ですか?」


どうしてそんなことを聞くんだろう。でも《教授》先輩の顔は真剣だった。


少し考えてから、ぽつりと口に出す。


「任務を続けたい、って」


その瞬間。

医務室に、重苦しい沈黙が落ちた。


「よくわからないですけど、任務は成功しましたし。良かったです」


息を呑む音。

何かおかしいことを言っただろうか。


「……ふざけんな」


《狂刃》先輩が、僕を睨みつける。


「新人のくせに、何でそこまでしようとする?自分が死んだら意味ねえだろ」


金色の瞳は、明らかに苛立っていた。

何となくその威圧感に逆らえなくて、ぽつりと、言葉が漏れる。


「……早く、楽にしてあげたくて」


先輩は完全に意味がわからないという顔をした。


「は?何をだ」


「《狂刃》先輩の斬った敵、まだ生きてましたから」


金色の瞳が、大きく見開かれる。


「生きてた……?」


《狂刃》先輩は、心底不思議そうに呟いた。


「確実に致命傷を与えた。それで終わりだろ」


僕は、任務での光景を思い返す。


腹を裂かれ、手足を切断されても。

まだ息があった。

まだ声が出ていた。


放っておけば、いずれ死ぬ。


でも――。


「そのうち死ぬことと、すぐ死ぬことは、違いますよね?」


そう尋ねた瞬間。


《狂刃》先輩は、何か得体の知れないものを見るかのような目で、僕を見た。


「……お前、おかしいぞ」


低い声で、吐き捨てる。

先輩は乱暴な足取りで扉に向かい、医務室から出て行った。


「……何か、怒らせてしまったんでしょうか?」


返事はなかった。


《教授》先輩も、《狂刃》先輩と同じような目で僕を見て――。

《幽影》先輩は、いつものように、ただ静かな顔で、僕の姿を見つめていた。


――荒い足音が離れていった、そのすぐ後。


「……話は済んだか」


入って来たのは、ワイルドウルフさんだった。

言葉を発さない先輩たちを一瞥すると、寝ている僕の顔を見て、大げさなくらいの溜息をつく。


「お前な。呑気なこと言ってんじゃねえ。死にかけたお前のために、何人の魔術師が動いたと思ってんだ?あいつら、魔力を消耗して今日は仕事にならねえぞ」


僕は目を丸くした。そこまで大変なことになっていたとは思わなかった。


「そうなんですか?すみません、ご迷惑をおかけしてしまって」


後でちゃんと謝らないと。


ワイルドウルフさんはそんな僕を見て、ふっと息を吐いた。


「まあいい。本題だ。体調が回復したら、お前の『検査』をやる」


「検査ですか?」


僕が首を傾げると、《教授》先輩の眉が、ぴくりと動いた。


「ああ、今回みたいな現象は前例がねえ。何らかの特異体質や、過去に呪いを受けた可能性もある」


そんな覚え、全然ないけど……やる意味あるのかな?


疑問を抱きながらも、僕は頷くしかなかった。



後日。

検査結果が知らされた。


《特異体質の兆候:なし》

《呪いの痕跡:なし》

《身体能力:登録時と変化なし》

総評:至って平凡


――予想していた通りの結果だった。


「やっぱり、そうですよね」


横で一緒に検査結果を見ていた《教授》先輩の表情だけが、曇る。


「……そんなはずはない」


呟いた声は、どこか震えているようでもあった。

僕は、どうして先輩がそんな反応をするのか、よくわからなかった。

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