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五年間悪運を切り落とし続けた王太子専属理髪師、解雇されたので自分の店を開いたら王弟殿下が通い詰めてきました

作者: アウラ

「あなたの髪を切る必要はもうありません。明日から来なくていい」


王太子殿下の言葉が、朝靄の残る謁見の間に静かに落ちた。


私は瞬きを一つ。


(ああ、今日は寝癖が特にひどいですね、殿下。右側の跳ね方が尋常じゃない)


五年間、毎朝四時に起きて整えてきた金色の髪が、今日は無残に乱れている。新しい理髪師はまだ決まっていないのだろう。それとも、婚約者のセレーナ様が自ら手入れすると言い出したのか。


どちらにせよ、私には関係のない話だ。


「かしこまりました、殿下」


私は深く一礼した。顔を上げず、感情を込めず、五年間そうしてきたように。


「……それだけか」


殿下の声に、わずかな困惑が混じった。


(それだけ、とは? 泣いて縋れとでも?)


「他に何か」


「いや……いい。下がれ」


殿下は手を振った。その仕草すら見慣れている。重要な外交官を追い払う時、退屈な報告を打ち切る時、そして——不要になった使用人を切り捨てる時。


私は腰に下げた銀のハサミに触れた。ひんやりとした金属の感触が、指先から心臓まで冷たく染み渡る。


このハサミは、フォルシェット家に代々伝わる魔道具。切った髪から持ち主の「運」を読み取り、必要とあらば運命の糸すら断ち切れる。


殿下は知らない。


私がこの五年間、毎朝何をしてきたか。あなたの悪運を密かに切り落とし、暗殺の気配を察知しては幸運の一房を残し、重要な謁見の前には運気の流れを整えてきたことを。


「リーネ」


振り返りかけた私を、殿下が呼び止めた。


「……なんだ、その顔は」


「どのような顔でしょうか」


「いつも通りだ。いつも通りすぎる」


殿下の眉間に皺が寄った。


(五年間ずっとこの顔ですが)


「お気に召しませんでしたか」


「そうじゃない。ただ——」


言葉を濁す殿下の背後で、扉が開いた。


「エドゥアール様!」


黄金色の縦ロールを揺らしながら、セレーナ様が駆け込んでくる。翡翠の瞳が私を捉えた瞬間、氷点下まで冷え込んだ。


「まだいたの、この女」


「今、出ていくところです」


私は再び一礼した。


「セレーナ、言葉を慎め。リーネは五年間よく仕えてくれた」


「たかが理髪師でしょう? 代わりはいくらでもいるわ」


殿下は何も言わなかった。


否定も、肯定も。


その沈黙が答えだった。


(そうですね。代わりはいくらでもいる)


いくらでもいるから、切り捨てられる。


いくらでもいるから、感謝されない。


知っていた。最初から知っていた。


だから私は、五年前にすべてを切り落としたのだ。


——ハサミが、胸元でかすかに熱を持った。


あの日。十八歳の私がこのハサミで初めて切り落としたのは、殿下の悪運ではなかった。


「きれいに切るね。ずっと君に頼むよ」


そう笑った殿下への、私の恋心だった。


「失礼いたします」


私は謁見の間を後にした。振り返らなかった。振り返る理由がなかった。


廊下を歩きながら、私は小さく息を吐いた。


(さて、これで睡眠時間が増えるわね)


毎朝四時起きから解放される。それだけで十分だ。


——けれど。


足を止めて、私は銀のハサミを見つめた。


「持ち主の運命も切り落とせる」


そんな禁忌の力を持つこの道具は、今、私に何かを訴えている気がした。


切り落としたはずの感情の残滓が、まだどこかに眠っていると。


でもそれは、きっと気のせいだ。


私は歩き出した。王宮の長い廊下を、二度と戻らないつもりで。





三日後、私は王都の片隅で小さな店を借りていた。


「『切り捨て御免』……リーネ様、本気でこの名前にするんですか」


元同僚の侍女マーゴが、看板を見上げて目を丸くした。


「良い名前でしょう」


「皮肉が効きすぎてます!」


「お客様には好評よ」


「まだお客様いないじゃないですか!」


私は店内を見回した。椅子が二脚、鏡が一枚、そして窓際に小さなハーブの鉢植え。質素だが、清潔で居心地の良い空間。


「ここで誰の髪を切るんですか? 王宮から追い出された理髪師なんて、貴族は誰も来ませんよ」


「来なくていいわ。町の人を相手に細々とやるつもりだから」


「リーネ様の腕なら、もっと——」


「マーゴ」


私は彼女の言葉を遮った。


「私はもう、誰かに仕える気はないの」


四時起きも、理不尽な要求も、感謝されない献身も。全部終わり。


マーゴは唇を尖らせたが、やがて大きくため息をついた。


「……分かりました。でも私、ここで働きますからね。リーネ様一人じゃ心配です」


「給料は払えないわよ」


「住み込みで構いません!」


押しの強い友人に、私は小さく笑った。笑う、という行為自体が久しぶりだった。


「ありがとう」


「——リーネ様、今笑いました?」


マーゴの目が輝いた。


「笑ってないわ」


「笑いました! 口の端が上がってました!」


「気のせいよ」


「気のせいじゃないです! ああ、王宮を出て正解でしたね! リーネ様がやっと人間らしい顔を——」


「マーゴ、お茶を淹れて」


「はい! でも後で絶対この話の続きしますからね!」


騒がしい友人が奥に引っ込むのを見送りながら、私は窓の外を眺めた。


王宮の尖塔が、遠くに見える。


あそこで今頃、殿下は新しい理髪師を探しているのだろうか。それとも、セレーナ様が意気揚々と髪を整えているのだろうか。


どちらでもいい。


もう、私には関係のない話だ。


——けれど。


銀のハサミが、また熱を帯びた。


「殿下の悪運」を切り落とす者がいなくなった王宮で、何が起きるのか。


考えないようにしていた予感が、ゆっくりと形を成していく。


「……まあ、自業自得ですよね」


私は独り言ちて、ハーブティーの準備を始めた。


遠い王宮で起きることなど、もう知ったことではない。


私の新しい人生は、今日から始まるのだから。





開店から一ヶ月が過ぎた頃、異変が起きた。


「リーネ様! また予約が入りました! ブランシェ伯爵夫人から!」


マーゴが予約帳を手に駆け込んでくる。


「……断って」


「無理です! もう三週間先まで埋まってます!」


私は手元の髪を切る手を止めた。今日の客——パン屋の主人の髪は、堅実な幸運に満ちている。小さな幸せを積み重ねて生きてきた人の髪だ。


「はい、終わりましたよ」


「おお、さっぱりした! ありがとうよ、姉ちゃん」


パン屋の主人は銅貨を置いて上機嫌で帰っていった。


私は窓の外を見た。開店当初は閑古鳥が鳴いていたこの店に、今や貴族の馬車が列を成している。


「どうしてこうなったのかしら」


「決まってるじゃないですか」


マーゴが胸を張った。


「リーネ様に髪を切ってもらったら運が良くなるって、噂が広まったんです! ガレス子爵は切った翌日に大きな商談がまとまったし、オルテンシア男爵夫人は娘の縁談が決まったし——」


「偶然よ」


「偶然が何度も重なりますか?」


私は黙った。


偶然ではない。私は彼らの髪を切りながら、絡まった運命の糸をそっとほぐしていた。彼ら自身の力で掴める幸運を、少しだけ掴みやすくしただけ。


「でも困るわ。貴族の相手なんてしたくないのに」


「えー、お金になりますよ?」


「お金より睡眠が欲しい」


「相変わらずですね……」


マーゴが呆れたように笑う。


そのとき、店の扉が開いた。


「予約なしの客は——」


言いかけて、私は言葉を飲んだ。


入ってきたのは、みすぼらしい外套を被った男。フードの奥から覗く瞳は深い紫紺。伸び放題の黒髪が、疲れ切った顔を縁取っている。


(この髪……)


私は息を呑んだ。


男の髪からは、複雑に絡み合った運命の糸が見えた。才能の糸、努力の糸、そしてそれらを押し潰すように絡みついた「抑圧」の糸。誰かに——おそらく身近な誰かに——ずっと押さえつけられてきた人間の髪だ。


「……予約は、ひと月先まで埋まっている」


男は低い声で言った。


「だが、俺には時間がない」


「お断りします」


「金なら払う」


「お金の問題ではありません」


男がフードを脱いだ。


紫紺の瞳が、まっすぐに私を見つめる。


「——頼む」


その声には、切実な響きがあった。藁にもすがるような、けれど誰にも縋ったことのない人間特有の、不器用な懇願。


私は彼の髪を見た。絡まり、縺れ、けれど折れてはいない運命の糸を。


「……一度だけです」


口が勝手に動いていた。


「リーネ様!?」


マーゴが目を丸くする。


「マーゴ、奥に下がって」


「で、でも——」


「お願い」


渋々引き下がるマーゴを見送り、私は椅子を指した。


「どうぞ」


男が座る。鏡越しに目が合った。


「名前を聞いても」


「……アル、とでも呼べ」


嘘だ。この男は嘘をつくのが下手だ。


(アル、ね。アルヴィン王弟殿下)


私は気づかないふりをして、櫛を手に取った。


「どのように切りましょう」


「任せる」


「では、失礼します」


髪に触れた瞬間、運命の糸が指先に流れ込んでくる。


——幼い頃から比較され続けた兄との記憶。


——才能を発揮するたびに潰されてきた苦い経験。


——与えられた痩せた領地で、それでも領民のために尽くしてきた日々。


——そして今、王位継承争いで追い詰められ、八方塞がりになっている現状。


「……っ」


彼が小さく身じろぎした。


「痛みましたか」


「いや……妙な感覚がする」


「そうですか」


私は銀のハサミを取り出した。


彼の運命は縺れているだけだ。才能も努力も、そこにある。ただ、兄という存在に絡め取られて、身動きが取れなくなっているだけ。


「少し、楽になりますよ」


ハサミが銀の軌跡を描いた。


縺れた糸を解くように、絡まりをほぐすように。彼本来の運命の流れを、あるべき形に戻していく。


黒髪がさらさらと落ちていく。


彼の肩から、目に見えて力が抜けていった。


「……何をした」


「髪を切っただけです」


「嘘をつけ」


「嘘ではありません」


鏡越しに、彼の瞳を見つめた。さっきまで曇っていた紫紺の瞳に、わずかに光が戻っている。


「あなたの運は縺れているだけです。ほんの少し、絡まりを解いただけ」


「……そんなことができるのか」


「理髪師ですから」


彼は黙った。けれどその沈黙は、さっきまでの重苦しいものとは違っていた。


「終わりました」


私はケープを外した。


鏡の中の彼は、別人のようだった。伸び放題だった黒髪は精悍に整えられ、疲れ切っていた顔には生気が戻っている。


「……これが、俺か」


「お気に召しませんか」


「いや」


彼は立ち上がり、私を見下ろした。


背が高い。王太子殿下より頭一つ分は高い。


「また来ていいか」


「ご予約はひと月先まで埋まっておりますが」


「ひと月後でいい」


「……殿下でしたら、特別に」


彼が目を見開いた。


「気づいていたのか」


「髪を触れば分かります」


「——そうか」


短い沈黙の後、彼は口の端を上げた。笑顔、と呼ぶにはぎこちない。けれど、最初に見たときの翳りは消えていた。


「来週、また来る。予約を入れておけ」


「横暴な方ですね」


「王族だからな」


「王太子殿下は、もう少し穏やかでしたけれど」


彼の目が細まった。


「あの男より穏やかに見られたいとは思わない」


何か、感情がこもっている声だった。兄への複雑な感情が、その一言に凝縮されている。


「かしこまりました。では来週に」


「ああ」


彼は金貨を——髪を切る代金としては法外な額を——置いて、店を出ていった。





「リーネ様、今のお客様——」


マーゴが奥から飛び出してきた。


「王弟殿下よ」


「やっぱり!? どうして王族がこんな店に——あ、ごめんなさい、こんな店って言い方は」


「いいわよ。実際、こんな店だもの」


私は窓の外を見た。みすぼらしい外套の男が、路地裏に消えていくのが見えた。


「でも、王弟殿下が来るなんて……何かあったんでしょうか」


「さあ。私には関係ないわ」


嘘だった。


彼の運命の糸に触れたとき、私は確かに何かを感じた。彼の苦しみを、孤独を、そしてそれでも折れない強さを。


(五年前、私は自分の感情を切り落とした)


そのはずだった。


なのに今、胸の奥がかすかに温かい。


「リーネ様? どうかしました?」


「何でもないわ」


私は首を振り、次の客の準備を始めた。


——けれど。


彼が落としていった金貨が、妙に重く感じられた。





同じ頃、王宮では。


「また失敗だと?」


エドゥアール王太子は、新しい理髪師を睨みつけていた。


「も、申し訳ございません殿下……」


「もういい。下がれ」


これで何人目だろう。リーネが去ってから、誰が髪を整えても満足できない。どこかがおかしい、何かが足りない。


「殿下、お髪が乱れておりますわ」


セレーナが近づいてきた。


「私が整えて差し上げましょうか」


「……いい」


彼女の手を避け、エドゥアールは窓辺に立った。


今日も不運が続いている。朝の外交会議では失言し、昼の乗馬では落馬しかけた。これで今週三度目だ。


「おかしい……」


何かが狂っている。リーネが去ってから、すべてが。


(まさか、あの女が)


いや、馬鹿な。たかが理髪師に何ができる。


……たかが理髪師。そう思っていた。なのに。


「殿下?」


「なんでもない」


エドゥアールは自分の髪に触れた。乱れた金髪が、かすかに跳ねている。


リーネなら、こんなことは起きなかった。


ふと、彼女の灰青色の瞳を思い出した。常に無表情で、何を考えているか分からなかった瞳。


今頃、どこで何をしているのだろう。


——まさか、弟の元に通っているとは。


この時、エドゥアールはまだ知らない。


自分が切り捨てたものの価値を、思い知らされる日が来ることを。





「リーネ、今日は何か良いことがあったか?」


窓際の席で、アルヴィン殿下が尋ねてきた。


「特にございませんが」


「そうか。俺はあった」


「何がございましたか」


「ここに来る日だからな」


(……何を言っているのだろう、この人は)


私は無表情を保ったまま、彼の髪に櫛を通した。あれから三ヶ月。王弟殿下は毎週欠かさず店を訪れるようになった。


最初は「髪を切るだけだ。余計なことは聞くな」と警戒心むき出しだったのに。


「今日は領地の子どもたちから手紙が届いた」


「左様ですか」


「見るか」


「結構です」


「そう言うな。ほら、この絵を見ろ。俺の似顔絵らしい」


殿下が差し出した紙には、黒い丸に手足が生えた何かが描かれていた。


「……人間、ですか?」


「俺だ。分かるだろう」


「分かりません」


「冷たいな」


(冷たいのではなく、本当に分からないのですが)


私は内心で突っ込みながら、彼の髪を整え続けた。


三ヶ月前と比べて、殿下の運命の糸は随分と解けてきている。相変わらず王太子との確執は続いているが、少しずつ味方も増えているようだ。


「リーネ」


「はい」


「俺の髪を切るとき、何が見える」


手が止まった。


「……何も」


「嘘をつくな。お前が俺の髪に触れるたび、何かを視ているのは分かっている」


紫紺の瞳が、鏡越しに私を見つめていた。


「見えるのは、運命の流れのようなものです」


「運命の流れ」


「はい。絡まっているか、流れているか。滞っているか、巡っているか」


「俺の運命は、どう見える」


「……最初は、とても縺れていました」


殿下は黙った。


「今は、少し解けています。でもまだ、誰かに——おそらく兄君に——絡め取られている部分がある」


「兄か」


苦い声だった。


「子どもの頃から、ずっとだ。俺が何かを成し遂げそうになると、必ず潰された。悪意があったのかは分からない。ただ、兄にとって俺は——」


「脅威だったのでしょう」


殿下が目を見開いた。


「才能ある弟は、脅威です。殿下が何もしなくても、存在自体が」


「……お前には、何もかも見えているな」


「髪を触れば分かるだけです」


「それだけじゃないだろう」


殿下が立ち上がった。私より頭一つ分高い背丈が、至近距離に迫る。


「リーネ。お前は五年間、兄に仕えていた」


「はい」


「兄の運命も、視ていたのか」


「……はい」


「どう見えた」


私は少し迷った。けれど、彼の真剣な眼差しに嘘をつく気にはなれなかった。


「悪運が、とても多い方でした」


「悪運」


「ええ。暗殺の気配、外交の失敗、人間関係のもつれ——放っておけば、いくつもの災いが降りかかる運命を持っていました」


「それを、お前が」


「切り落としていました。毎朝、少しずつ」


殿下は絶句した。


「五年間、ずっと?」


「はい」


「それを、兄は知っていたのか」


「いいえ。殿下には、お伝えしていませんでした」


「なぜだ」


「伝える必要がなかったからです。私はただの理髪師ですから」


「ただの理髪師が、五年間も悪運を切り落とし続けるか」


殿下の声が、低くなった。


「リーネ。お前は兄を、愛していたのか」


心臓が、一瞬跳ねた。


「……五年前までは」


「五年前までは?」


「切り落としました。このハサミで」


銀のハサミを示す。殿下の目が、驚きに見開かれた。


「運命の糸だけではなく、感情も切れるのか」


「禁忌の力です。本来は使うべきではない」


「なぜ使った」


「主人を愛する侍女など、迷惑でしかありませんから」


私は淡々と言った。


「感情を持たなければ、傷つくこともない。五年間、私は従順な使用人でいられました」


殿下は何も言わなかった。


しばらくの沈黙の後、彼は口を開いた。


「今は、どうだ」


「今、とは」


「感情は、まだ切り落とされたままか」


私は答えに詰まった。


三ヶ月前までは、そうだった。何も感じない、何も求めない、空っぽの人形のような毎日。


でも今は。


「……分かりません」


正直に答えた。


「何かが、戻ってきているような気はします。でも、それが何なのかは」


「そうか」


殿下は、小さく笑った。


「なら、俺が教えてやる」


「は?」


「お前の感情が何なのか。俺が——」


店の扉が、勢いよく開いた。


「ちょっと聞いてください、リーネ様!」


マーゴが血相を変えて飛び込んできた。殿下の存在に気づき、慌てて頭を下げる。


「あっ、し、失礼しました殿下! でもリーネ様、大変です!」


「何があったの」


「王太子殿下が——エドゥアール殿下が、この店を探しているそうです!」


私の手から、櫛が落ちた。





その夜、私は店じまいをしながら考えていた。


王太子殿下が、私を探している。


理由は容易に想像がつく。私が去ってから、殿下の周りでは不運が続いている。その原因が元理髪師にあると考えても不思議ではない。


(呪いをかけたと思われているのかしら)


呪いなど、かけていない。私はただ、悪運を切り落とすのをやめただけだ。今の不運は、殿下が本来持っていたもの。


「リーネ」


声に振り向くと、アルヴィン殿下がまだ店内にいた。


「殿下。もう閉店ですが」


「分かっている」


彼は窓辺に立ち、暮れなずむ空を見上げていた。


「兄がお前を探している」


「そのようですね」


「どうする」


「どうも。逃げも隠れもしませんよ。私は何も悪いことをしていませんから」


「——俺が守る」


唐突な言葉に、私は目を瞬いた。


「殿下?」


「兄が何を言ってきても、俺が守る。この店の客は、俺の大切な臣下たちだ。お前に手を出すなら、俺が相手になる」


「……私は殿下の臣下ではありませんが」


「なら、何だ」


紫紺の瞳が、私を捉えた。


「お前は俺の何だ、リーネ」


答えられなかった。


理髪師と客。それ以上でも以下でもない関係のはずだった。なのに、彼の問いかけに、心臓が妙に速く鳴っている。


「……理髪師です」


「それだけか」


「それだけです」


「嘘をつくな」


殿下が近づいてきた。私の顎に手を添え、顔を上げさせる。


「お前の目は、初めて会ったときより温かくなっている」


「気のせいです」


「俺の髪に触れるとき、手が震えるようになった」


「……手入れが足りないだけです」


「俺が来る日、お前は朝から落ち着かないとマーゴが言っていた」


(マーゴ……!)


「切り落としたはずの感情が、戻ってきているんじゃないか」


殿下の声が、耳元で囁くように響いた。


「それは兄への想いじゃない。別の、新しい——」


「殿下」


私は一歩退いた。


「今日は、お帰りください」


「リーネ」


「お願いです」


声が、震えていた。自分でも気づかないうちに。


殿下は私を見つめ、やがて小さくため息をついた。


「……分かった。今日は帰る」


「ありがとうございます」


「だが、忘れるな」


扉に手をかけながら、殿下は振り返った。


「俺は待っている。お前が、自分の感情に気づく日を」


扉が閉まった。


店内に、私一人が取り残された。


銀のハサミが、腰元で熱を帯びている。五年前に切り落としたはずの何かが、確かに胸の奥で蠢いている。


——それが何なのか、私は知っている。


知っているからこそ、怖かった。


また切り落とさなければならなくなるかもしれない。また、空っぽになるかもしれない。


「……馬鹿みたい」


誰に言うでもなく、呟いた。


窓の外では、王宮の尖塔が月明かりに照らされていた。


嵐が、近づいている。





その日は、朝から空気が重かった。


「リーネ様、なんだか嫌な予感がします……」


マーゴが落ち着かない様子で店内を行き来している。


「気にしすぎよ」


「でも、王太子殿下がこの店を探しているって——」


「来たら来たで対応するわ。私は何も後ろめたいことはしていない」


言いながら、私は銀のハサミを磨いていた。いつもより念入りに。今日、使うことになるかもしれない予感があった。


昼過ぎ、予感は的中した。


店の前に豪華な馬車が止まり、王家の紋章が日差しに輝いた。


「っ……! リーネ様!」


「分かってる。マーゴ、奥に下がって」


「でも——」


「いいから」


私はエプロンを外し、扉の前に立った。


扉が開く。


金色の髪に空色の瞳——けれど、かつての輝きは失せていた。


「久しいな、リーネ」


エドゥアール王太子が、店内に足を踏み入れた。


「ようこそ、『切り捨て御免』へ。ご予約はいただいておりませんが」


「予約? 俺に予約を取れと?」


「当店では、王族も平民も平等にお待ちいただいております」


殿下の眉が跳ね上がった。


「相変わらず生意気な口を利く」


「生意気でしたでしょうか。申し訳ございません」


私は深く一礼した。かつてと同じように。けれど、かつてとは決定的に違う何かを胸に秘めて。


「……座れ」


殿下が顎で椅子を指した。


「私が座るのですか」


「話がある」


「お髪を整えに来られたのでは」


「黙れ」


殿下の声に、苛立ちが滲んだ。金色の髪は乱れ、目の下には隈が浮かんでいる。


(随分とお疲れのようで)


「お前が去ってから、おかしなことが続いている」


「左様ですか」


「外交では失言し、乗馬では落馬し、婚約者との関係も最悪だ」


「それは大変ですね」


「他人事のように言うな!」


殿下が拳を振り上げた——その瞬間、店の扉が開いた。


「兄上」


低い声が、店内に響いた。


アルヴィン殿下が、黒い外套を翻して入ってきた。その背後には、見覚えのある貴族たちの姿。ガレス子爵、オルテンシア男爵夫人、ブランシェ伯爵——皆、私に髪を切られたことのある者たちだった。


「アルヴィン……なぜここに」


「俺の行きつけの店だからな。兄上こそ、何をしている」


「この女に用があるだけだ。お前には関係ない」


「関係なくはない」


アルヴィン殿下が、私の前に立ちはだかった。


「この店の客は、俺の大切な臣下たちだ。彼女に手を出すなら、俺が相手になる」


王太子の顔が歪んだ。


「お前……この理髪師と何かあるのか」


「答える義務はない」


「私は王太子だぞ!」


「だから何だ」


アルヴィン殿下の声は、氷のように冷たかった。


「王太子だから何をしても許されるのか。王太子だから、人を切り捨てても、感謝もせずに使い潰しても、それが当然だと?」


「何を——」


「リーネは五年間、毎朝四時に起きて兄上に仕えた。兄上の悪運を切り落とし、暗殺の気配を察知し、運気の流れを整えてきた。その献身を、『たかが理髪師』の一言で切り捨てたのは誰だ」


王太子の顔から血の気が引いた。


「……何を言っている」


「まだ分からないのか」


私は一歩前に出た。


「殿下」


金色の髪と空色の瞳が、私を見た。かつてはときめいた色。今は、何も感じない。


「呪いなどかけておりません。私はただ、殿下の悪運を切り落としていただけ」


「悪運を……?」


「今の不運は、殿下ご自身が本来持っていたものです。私が去ったから降りかかるようになっただけ」


「嘘だ」


「嘘ではありません」


私は銀のハサミを掲げた。


「このハサミは、運命の糸を視ることができます。殿下の髪に触れていた五年間、私は毎朝、殿下の悪運を切り落としていました。暗殺計画、外交の失敗、人間関係のもつれ——本来なら殿下を襲うはずだった災いを、すべて」


「そんな……馬鹿な……」


「信じる必要はありません。ただ、事実を申し上げただけです」


王太子は後ずさった。


「ならば——ならば、また俺の髪を切れ! 悪運を切り落とせ!」


「お断りします」


「なぜだ!」


「私はもう、殿下の理髪師ではありませんから」


静かに、けれどはっきりと告げた。


王太子の顔が、怒りで紅潮した。


「お前……たかが理髪師の分際で——」


「兄上」


アルヴィン殿下の声が遮った。


「それ以上言うな。これ以上彼女を侮辱するなら、俺は兄上と敵対することになる」


「アルヴィン、お前——」


「お帰りください、兄上。今日のところは」


背後の貴族たちが、一歩前に出た。誰もが真剣な眼差しで王太子を見つめている。


「……覚えていろ」


王太子は捨て台詞を残し、店を後にした。豪華な馬車が走り去っていく。





「リーネ様! 大丈夫ですか!」


マーゴが駆け寄ってきた。


「大丈夫よ」


「怖かったです……王太子殿下、本当にいらしたんですね……」


「来たわね」


私は息を吐いた。思ったより、震えていなかった。


「リーネ」


アルヴィン殿下が近づいてきた。


「怪我はないか」


「ありません。殿下こそ、ありがとうございました」


「礼には及ばない。約束しただろう、守ると」


紫紺の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。


背後の貴族たちが、遠慮がちに店を後にしていく。マーゴも空気を読んで、奥に引っ込んだ。


店内に、二人きりになった。


「リーネ」


「はい」


「今の気持ちを、聞いてもいいか」


「今の……?」


「兄に再会して、何を感じた」


私は考えた。


五年間仕えた主人。かつては恋い焦がれた人。その人と再会して、私は何を感じたか。


「……何も」


正直に答えた。


「何も感じませんでした。怒りも、悲しみも、未練も。殿下の髪を見て、『相変わらず直毛で扱いやすそう』と思っただけです」


「……そうか」


アルヴィン殿下が、ふっと笑った。


「なら、俺を見て何を感じる」


心臓が、跳ねた。


「……それは」


「兄には何も感じないのに、俺には答えられないのか」


「殿下」


「いい。今日は聞かない」


殿下は踵を返した。


「だが、一つだけ言っておく」


扉に手をかけて、振り返る。


「お前に王宮理髪師の地位を申し出ようと思っていた。俺付きの理髪師として、王宮に戻らないかと」


「……それは」


「だが、やめた」


「なぜですか」


「お前は言っただろう。誰かに使われる人生は終わりにしたと」


私は、息を呑んだ。


「俺は、お前を使いたいんじゃない。お前の傍にいたいんだ」


「殿下——」


「だから、別の形で聞く。待っていてくれ」


扉が閉まった。


私は、その場に立ち尽くしていた。


胸の奥で、何かが激しく脈打っている。


五年前に切り落としたはずの感情。それとは違う、新しい——


「……馬鹿みたい」


二度目のその言葉は、さっきより温かく響いた。


銀のハサミが、祝福するように輝いた。





あの騒動から、一週間が過ぎた。


王太子エドゥアールは、宮廷での立場を急速に失いつつあった。外交の失敗が重なり、父王の信頼は地に落ち、婚約者セレーナとの関係も破談寸前だという。


「因果応報ですね」


マーゴが噂話を持ってくるたびに、そう言った。


「そうね」


「リーネ様、もう少し喜んでもいいんですよ? 五年間、酷い扱いを受けてきたんですから」


「喜ぶほどの感情はないわ。ただ……」


「ただ?」


「少し、寂しいとは思う」


マーゴが目を丸くした。


「寂しい? 王太子殿下に?」


「殿下にではないわ。あの頃の自分に」


「……?」


「十八歳の私は、あの方の笑顔を信じて生きていた。『ずっと君に頼むよ』という言葉を、宝物みたいに抱えていた。その気持ちを切り落としたのは自分だけど、切り落とさなければならなかった自分が、少し可哀想だなと」


「リーネ様……」


「でも、後悔はしていない。あのまま感情を持っていたら、もっと傷ついていたもの」


私は窓の外を見た。


「それに、切り落としたからこそ、新しい感情が芽生える余地ができたのかもしれない」


「新しい感情って……アルヴィン殿下への?」


マーゴの目が輝いた。


「……お茶を淹れてきて」


「答えになってません!」


「いいから」


騒がしい友人を追い払い、私は一人で店の準備を始めた。


今日は、アルヴィン殿下が来る日だ。


あれから殿下は、毎日のように店を訪れている。髪を切るためではなく、ただ会いに来るのだと言って。


(全く、忙しい方のはずなのに)


内心で呆れながら、けれど不思議と嫌ではなかった。


窓際の席に座る彼を見るのが、いつの間にか習慣になっていた。政務の愚痴を聞くのが、嫌ではなくなっていた。


「切り落としたはずなのに」


呟いて、銀のハサミに触れた。


このハサミで、私は五年前に恋心を切り落とした。王太子への想いを、根こそぎ。


でも、アルヴィン殿下への感情は——切り落としていない。切り落とす必要がない。


なぜだろう。


「——感情を切り落としても、魂は覚えている」


祖母の言葉が、ふと蘇った。


「切った感情は消えるのではなく、眠るだけ。新しい出会いが、それを呼び覚ますこともある」


もしかしたら、そういうことなのかもしれない。


王太子への恋心は確かに切り落とした。でも「誰かを愛する力」までは切り落としていなかった。


それが今、アルヴィン殿下という新しい器に注がれようとしている。


「……怖いわね」


また傷つくかもしれない。また切り落とさなければならなくなるかもしれない。


でも——


「怖くても、進みたいと思える相手がいるのは、悪くないのかもしれない」





夕方、アルヴィン殿下が店を訪れた。


「リーネ」


いつもと違う、改まった声だった。


「殿下。今日はお早いですね」


「ああ。今日は、話があって来た」


「お髪を整えますか」


「いや。いい」


殿下は窓際の席に座らず、私の正面に立った。


紫紺の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。


「リーネ。俺は以前、王宮理髪師の地位を申し出ようとした」


「はい」


「お前は断った。誰かに使われる人生は終わりにしたと」


「はい」


「その言葉を、俺は尊重する」


殿下が、一歩近づいた。


「だから、別の形で聞く」


「別の形……?」


「俺の理髪師としてではなく、俺の伴侶として——」


「殿下」


私は彼の言葉を遮った。


「少し、待ってください」


「……断るのか」


「いいえ。でも、その前に殿下に見せたいものがあります」


私は銀のハサミを取り出した。


「私は五年前、このハサミで自分の恋心を切り落としました」


「それは聞いた」


「切り落とした感情は、運命の糸として残ります。私の中に、ずっと」


私はハサミの刃に手を当てた。ひんやりとした金属から、かすかな熱が伝わってくる。


「見てください、殿下」


ハサミが光を放った。


私の指先から、一本の糸が現れる。五年前に切り落とした恋心の糸。


「これが……?」


「私が切り落とした感情です。王太子殿下への想いの——残骸」


糸は淡く光っていたが、どこか色褪せていた。生気のない、過去の遺物。


「見ての通り、もう輝きはありません。切り落とされた感情は、二度と戻らない」


「……」


「でも、殿下」


私は胸に手を当てた。


「ここに、新しい糸が生まれています」


胸の奥から、もう一本の糸が現れた。今度は眩いばかりの輝きを放っている。


「これは……」


「殿下への感情です」


殿下が息を呑んだ。


「切り落としてはいません。切り落とす気もありません。だから——」


「だから?」


「殿下のお申し出を、受けてもいいですか」


沈黙が落ちた。


そして——


「馬鹿」


殿下が、私を抱きしめた。


「受けてもいいか、じゃない。受けろ」


「……横暴な方ですね」


「王族だからな」


「前にも聞きました」


「何度でも言う」


殿下の腕に力がこもった。


「リーネ。俺の人生を、君の手で整えてくれないか」


「それは、プロポーズですか」


「プロポーズだ」


私は小さく笑った。笑う、という行為が、随分自然になった。


「かしこまりました、殿下」


「——その返事の仕方はどうなんだ」


「長年の癖ですので」


「直せ」


「努力します」


腕の中から見上げると、殿下は苦笑していた。けれど、その瞳には確かな喜びがあった。


「一つ、条件があります」


「言ってみろ」


「私はこの店を続けます。誰かに仕える人生は終わりですが、誰かの役に立つ人生は続けたい」


「構わない。俺も客として通い続ける」


「殿下は客ではなく、伴侶では」


「伴侶でも客でもいい。この窓際の席は、俺の指定席だ」


私は笑った。今度こそ、はっきりと。


銀のハサミが、腰元で祝福するように輝いた。





「ちょっと聞いてください、リーネ様!」


マーゴが奥から飛び出してきた——そして、抱き合う二人を見て固まった。


「あ」


「……」


「あ、あの、お取り込み中でしたか……」


「見ての通りよ」


私は殿下の腕から離れようとしたが、殿下は離してくれなかった。


「殿下」


「まだ離さない」


「マーゴがいます」


「構わない」


「私は構います」


「……少しくらい、いいだろう」


渋々腕を緩める殿下に、私はため息をついた。


「それで、マーゴ。何か用?」


「え、あ、はい! 王太子殿下とセレーナ様の婚約が正式に破談になったそうです! それと、父王陛下がアルヴィン殿下を次期王太子候補として——」


「それは後で聞くわ」


「はい! あと、アルヴィン殿下がリーネ様にプロポーズしたって噂が——って、本当だったんですね!?」


「今、目の前で見たでしょう」


「見ました! 見ましたけど! ああ、リーネ様がやっと幸せに——!」


マーゴが泣き出した。


「大袈裟よ」


「大袈裟じゃないです! 五年間、ずっと見てきたんです! リーネ様がどれだけ——」


「マーゴ」


殿下が口を開いた。


「リーネをよろしく頼む。俺はまだ、彼女の笑顔を全部知らない」


「はい! もちろんです! 殿下もリーネ様をよろしくお願いします!」


二人の会話を聞きながら、私は窓の外を見た。


王宮の尖塔が、夕日に染まっている。


五年前、あそこで私は恋心を切り落とした。誰かに傷つけられないために、空っぽの人形になった。


でも今は、違う。


傷つくことを恐れずに、誰かを愛することができる。


「リーネ」


殿下が、私の手を取った。


「何を考えている」


「……過去のことを、少し」


「後悔しているのか」


「いいえ」


私は首を振った。


「全部、今日のためだったと思えます」


殿下が、小さく笑った。


「なら、いい」


夕日が沈み、店内にランプの明かりが灯る。


「切り捨て御免」の看板が、窓越しに輝いていた。


切り捨てた過去。切り開いた未来。


そして、切り離せない今。


私の手の中で、銀のハサミが最後の輝きを放った。


新しい物語が、今日から始まる。

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王弟:王の弟 王子:王の男子 王太子:王の男子のうち、王位継承順位筆頭の者 この定義を踏まえて、小説の内容、特にアルヴィンの立ち位置を再考して、推敲してください。 展開はよくても、人物設定のミスがも…
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