のこりを拾う町
誰もが、言葉を拾って暮らしている町があった。
落ちているのは紙ではない。声でもない。
空気のすき間に、柔らかい「ことば」が沈んでいる。
朝の道ばたで見つけることもあれば、靴の裏にいつの間にか貼りついていることもある。
拾ったら、手のひらにのせて家へ持ち帰る。
火をつける代わりに、鍋の下に「ありがとう」を敷く。
湯気が出る。壁の穴には「だいじょうぶ」を詰める。風が入らなくなる。
店の看板は「いらっしゃいませ」でできていて、雨に濡れると少し縮む。
その町では、思ったことは体の外に出ない。
口が動いても、喉が鳴っても、外へは出ない。
だから誰も、誰かの本音を聞いたことがない。
かわりに、外に落ちていることばを拾って、今日の自分の分にする。
ミナは、ことばを拾う仕事をしていた。
手が大きく、歩くのが速い。
朝に拾える量が、その日の生活の重さを決める。
ミナの家は小さく、隙間が多い。
ふすまの端はめくれ、床板は鳴り、冬は冷える。
ミナは冷えるのが嫌いでもないが、嫌いでもないことが嫌だった。
ある日、橋の下で、見慣れない色のことばを見つけた。
黒でも白でもない。
薄い青と、薄い茶が混ざったような、濡れた土の匂いがする。
「のこり」
手のひらに乗せると、やけに軽いのに、落とせない感じがした。
ミナはそれを持ち帰り、台所の棚に置いた。
いつもなら拾ったことばはすぐ使う。
煮物に敷いたり、布団の端に縫い付けたりする。
でも「のこり」は、どこに置いてもしっくりこなかった。
鍋の下に敷くと湯がぬるくなる。壁に詰めると穴が広がる。床に置けば、そこだけ音が消える。
ミナは「のこり」を捨てようとした。
川へ投げた。
だが家へ帰る途中、ポケットの中に戻っていた。
入れた覚えはない。
ミナは笑ってしまい、次に少し気持ち悪くなった。
翌日から、町の様子がずれ始めた。
市場で「いらっしゃいませ」の看板が、半分だけ「いらっしゃい」になっていた。
パン屋の「おいしい」は「おい」になり、
魚屋の「やすい」は「や」に縮んでいた。
誰かが盗んだわけではない。誰もそんなことはしない。
ことばは拾うものだ。奪うものではない。
なのに、店の人は困っていない顔をしていた。
困っていないのに、視線が合わない。
合っても、見ていない。
ミナの家でも、布団の端の「だいじょうぶ」がほどけて、「だい」だけになった。
夜、寒さは入ってこないのに、汗が出た。
ミナは起き上がり、棚の「のこり」を見た。
そこにあるはずなのに、輪郭が薄い。
目を離すと、ある。見つめると、ない。
外へ出ると、道ばたのことばが少ない。
落ちているのは、かけらばかりだ。
「お」「は」「よ」。
それを拾っても、手のひらの上でころころと転がるだけで、形にならない。
ミナは、町の外れの廃屋へ行った。
誰も住んでいない場所には、ことばが溜まる。そう聞いたからだ。
廃屋の入口には、古い「きけん」がぶら下がっていた。
ミナが近づくと、「きけ」が落ちて、床に転がった。
残ったのは「ん」だけで、妙に元気がよかった。
廃屋の中は、静かだった。
静かというより、音が入ってこない。
床に落ちていることばはあったが、どれも湿っている。
触ると指が冷える。
「ごめん」「すき」「さよなら」
ミナはそれらを拾いながら、理由のない疲れを感じた。
拾えば拾うほど、手が軽くなる。軽いのに腕が上がらない。
奥の部屋に、鏡があった。
鏡の前には、ことばが一つも落ちていない。
ミナは鏡を見た。
鏡の中のミナは、いつもより背が低かった。
顔が見えにくい。目の位置がずれている。
ミナが瞬きすると、鏡の中は瞬かなかった。遅れたのではない。違う瞬きをした。
ミナは、ポケットから「のこり」を出そうとした。
出したつもりだった。手のひらは空だ。
でも、床に影だけが落ちた。
影の形は、ことばの形だった。読めない形だった。
そのとき、廃屋の外で誰かが歩いた。
足音が近づき、遠ざかった。
声は聞こえない。
ここでは本音も、あいさつも、外に出ない。
ミナはわかっているはずなのに、なぜか耳を澄ませた。
澄ませた分だけ、耳の中がざらついた。
家へ戻ると、町の看板はさらに短くなっていた。
「い」が増えた店もあった。「いらっい」
通り過ぎる人は、それを見て笑いもしない。
笑うためのことばが落ちていないのかもしれないし、落ちていても拾う気がしないのかもしれない。
ミナは棚を開けた。
そこには何もない。
代わりに、棚板の木目が少しだけ読めそうだった。
読めそうなのに、読めない。
口の奥で何かが動いたが、外へは出ない。
ミナは床に座り、手のひらを開いた。
空の手のひらに、確かに何かが乗っている気がした。
軽くて、落とせなくて、どこにも使えないもの。
窓の外で、夕方の風が「ん」を転がしていった。
ミナはそれを拾いに行かなかった。
拾わないと寒くなるはずなのに、寒さがどういうものだったか、少しだけ曖昧になっていた。




