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ゴーストライター  作者: 佐田読子


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08【黄泉比良駅】



浦が初めて錫に会ったのは、二年前のことだ。

同期の送別会の帰り、なんとなく寄り道をしたくなって、ふらりと立ち寄ったのが彼のバーだった。


錫が営むブックバー『R』では、客は皆、静かに本を読んでいる。

錫はいつもカウンターの向こうに腰を据え、気まぐれに各テーブルを回っては、短い会話を交わしたり、注文を取ったりする。そして、また定位置へ戻るのだ。

その仕草や、のらりくらりとした雰囲気が、どこか猫っぽい ──浦は、常々そんなことを思っていた。


浦が座るのは、決まってカウンター席だ。

そこで錫と向かい合い、ミステリー小説のトリックや動機について、取り留めもない考察を交わす。

その時間を気に入って、毎週金曜日の夜、浦は錫のバーに通っていた。


錫は見た目だけで言えば、生意気なシティボーイといった風情で、琥珀色の瞳も、最初はカラーコンタクトだと思っていた。

年齢など聞くまでもない。どう見ても、自分より年下だと思い込んでいた。


けれど、妙にジジくさいと感じる部分もあった。

言葉の端々や、ふとした所作に古臭さが滲む。

それに、やけに物を知っている。

ブックバーを営むくらいなのだから、読書家で、その延長で身につけた知識だろうと、特に気にしていなかった。


「実は、オレさ……猫又なんだよね」


それが、まさか齢百十五歳の妖怪だから、なんて。

まともな大人の思考回路じゃ思い付く訳もない。


聞けば、元は売れない作家の飼い猫で、なんやかんやと長生きするうちに、妖怪になっていたらしい。

そして、時代のどさくさに紛れて人の姿に変じ、バーを開き、そうやって生きてきたのだ。

あのバーも、年季の入った佇まいから、誰かに譲り受けたものだとばかり思っていた。

けれど実際は、正真正銘、錫が一代で築き上げた店だったのだ。


「で、三十年くらい前かな。

 なんか“移住応援課”とか名乗る奴が二人来てさ。どんどん妖怪が住みづらい世の中になってますから、移住しませんか〜?って提案されたの」


「移住……って、どこに?」


「さあ。妖怪が治めてる場所があるんだって。

 で、そこへ行く交通手段を聞いたとき、黄泉比良駅の話がちょろっと出たんだよ」


その頃の錫は、すでにバーを営んでいて、特に不便もなかった。

だが、人の姿に化けられない妖怪や、山や川に棲む妖怪たちが、この現代社会で暮らすのは……それは、確かに困難だろう。

おそらく妖異線が運休しているのは、すでに大半の妖怪が移住してしまった後だからだと錫は考えていた。

最近は妖怪の目撃情報もめっきり減り、移住応援課の訪問も、いつの間にかぱったり途絶えていた。


「オレの秘密はこれだけ。知ってることも、これで全部」


普通なら、浦とて到底信じられる話じゃない。けれど、状況が状況だ。

まさか自分が妖怪と知り合いだったなんて、常一に話したら、どんな顔をするだろう。


ほんとに。世の中って、不思議なことがあるものだ。


「ずっとその姿で店に立ってるんでしょう? 何か言われたこと、ないの?」


「んー……“マスター、変わらないね”って言われるくらいかな。

 うちに通う客って、いい意味で他人に興味ないじゃん」


「そう、かしらね。……まあ、そうか」


あのバーでは、客同士で交流することが、ほとんどない。

皆、読書に夢中な、いわゆる本の虫の集まりだ。

錫が老けただの、老けていないだの。そんなことを、わざわざ注視して詮索する客は、いなさそうだった。


「それに人間は、病気だなんだって、いつの間にか来なくなる。みんなオレより先に死ぬもんね」


事故や事件といった外的要因で突発的に死ぬことはあっても、妖怪の寿命は、人間とは比べものにならないほど長い。

錫は今までも、何人もの常連を見送ってきた。


「だから、オレが何十年も一人で店をやってるなんて、分かりゃしないよ」


「……そっか。そんなもんか」


「うん、そんなもんだよ」


人間が思うよりずっと自然に、怪異は日常に溶け込み、普通に暮らしているようだ。

別に害をなすわけでもなく、特別に恵まれた富を得るわけでもない。


それに、例え妖怪が恐ろしい一面を持っているとしても、錫は自分を助けようとして、ためらいもなく飛び込んでくれた相手だ。その事実は変わらない。

だから、彼を畏れ、忌避する理由はないのだ。


協力して、共に生きて帰る。

それ以外の選択肢は、最初からなかった。


「さて。そろそろ活動再開としましょうか」


エレベーター脇のベンチに腰掛けていた二人は、同時に立ち上がった。

どうするかと目配せすると、錫が先に動き、<呼>ボタンへ手を伸ばす。


「……次は、下に行ってみる?」





動物病院で引き取った青灰の猫は、灯亡書房の小上がりに寝かされていた。

座布団を二枚重ねた上に毛布を敷いた簡易寝床で、四葩に撫でられても、相生にくすぐられても、猫は静かに目を閉じて起きる気配はない。


「妖怪って、本当にいるんだねぇ」と、綴。

猫には、同じ色の尾が二本、ぴたりと寄り添うように並んでいる。

幽霊は日常茶飯事だが、妖怪は初めてだ。

四人は揃って、まじまじとその姿を観察した。


「猫又、でいいのかな?」

「そやろなぁ。でも、何で猫又が浦と?」

「一緒にいるっていうマスターが猫又なんじゃねぇの?」

「人の姿になれるってこと? この猫が?」


その旨をまとめて質問として送ったが、浦からの返信はいまだない。

そもそも、異世界じみた駅に迷い込んでいるという時点で、十分すぎるほど不思議だ。

それなのに、そこへさらに妖怪まで重ねてくるのは、少々、盛り込みすぎにも思えてきた。


「協力関係っぽいし、害はなさそうだけど」

「黄泉比良駅行きは、こいつが原因なんじゃない?」

「だとしても、意図したものじゃないでしょ」


話し合いの最中、綴は猫が寒くならないよう、小上がりに小型の電気ストーブを設置した。

何にせよ、こちらの落ち度で死なせてはならない。

妖怪をどう介抱すべきかは分からないが、丁重に扱う、という点だけは全員の意見が一致した。


猫又がすやすやと眠る、その傍らで、常一は先ほど撮影した駅の写真を検める。

ここへ来る途中、コンビニでプリントしてきたものだ。

常一の経験上、駅という場所は殊更に霊が写りやすい。

今回も、やはり例外ではなかった。

待合室のベンチに腰掛ける中年サラリーマンの霊。

線路を走り抜けて行く女の残像。

他にも、数えきれないほどの霊が、写真に写り込んでいる。


「うーん、浦には関係なさそう……ん?」


それは、念の為に駅構内の案内図を撮った写真だった。

ピントが合っていないだけかと目を凝らしたが、違う。

しかし、オーブでも、幽霊でもない。

何か別の図のようなものが、薄く重なって見えている。

その異変に気づいたのか、横から四葩も覗き込んできた。


「これ、何やろ? 綴ちゃん、吸い込まれへん?」


近づけても遠ざけても、はっきりした形がつかめない。

常一は猫を撫でていた綴に、写真を差し出した。


「んん? 何だろう?」


綴も写真を凝視する。

しばらく眺めていたが、埒が明かないと判断したのか、おもむろに胸ポケットから万年筆を取り出した。


「えいっ」


綴がペン先を突き刺すと、写真がごぽっごぽっと蠢き出した。

万年筆で吸い込めるということは、やはり単なる画像の不具合ではないようだ。


「あ、結構やばいかも」


万年筆を握る手にぐっと力を込める綴。

その背を支えるように、慌てて四葩が手を添える。

カウンター越しに、相生も鋭い視線を注いだ。


写真に重なっていた“何か”は、やがて粘度の高い液体へと変じ、万年筆の中へ吸い込まれていく。

遠くで電車の走る音が響き、最後の一滴までが万年筆に収まった。

途端に綴はどっと力を抜き、そのまま四葩にもたれかかる。


「だ、大丈夫……?」

「うん、平気。……書き起こしてみよう」


常一の心配をよそに、綴はすぐさま起き上がり、きちんと正座した。

待っていたかのように、相生が無言で原稿用紙を差し出す。

万年筆で吸い込むところは、常一だって何度も見てきた。

だが、こうして書き起こす場面を見るのは初めてだった。


ペン先が、トン、と原稿用紙に触れる。


次の瞬間、まるで糸で操られているかのように、万年筆が滑り出した。

綴は瞬きひとつしない。意識があるのか、ないのか分からない。

ただ、その手だけが迷いなく、淀みなく文字を綴っていく。


「……?」


ふと、常一は違和感を覚えた。

原稿用紙に書かれているのが、文字だけではないのだ。

文の合間に、線や奇妙なマークが描き足されている。


「これって……トイレ? こっちは……階段?」


横から身を乗り出した瞬間、相生が低い声で言った。


「邪魔すんな」


慌てて常一は身を引き、口を閉じる。

どうやら書き起こしは、途中で止めてはならないらしい。

万年筆のインクが尽きるまで、綴の邪魔は許されない。


待つこと、数十分。

部屋に満ちていたのは、紙を擦る微かな音と、息が詰まるような沈黙だけだった。


やがて原稿用紙四枚分を書き終えると、綴はふっと手を止め、万年筆を置いた。


「……これは、」


気怠げに呟きながら、綴は書き起こした紙を相生に手渡した。

一枚だけを見ても、意味は掴めない。

だが、四枚の原稿用紙を床に並べ、端と端を合わせていくにつれ、ばらばらだった線と文字が、ひとつの形を成していく。


常一は思わず「あ、」と声を漏らした。


「黄泉比良駅の……案内図だ」





エレベーターが、静かに下降してゆく。


心なしか〈上〉へ向かった時よりも、空気が押し潰すように重たくなっていくように感じた。

それが気のせいなのか、あるいはこの箱の中で確かに起きている変化なのか、判断はつかない。

互いに会話をする気も起きず、時間の感覚が曖昧になりかけた頃、ようやくエレベーターは停まった。


『下でございます』

抑揚のないアナウンスとともに、扉が開く。


そこは、〈上〉とはまるで別の場所だった。

照明は乏しく、薄闇が滞留している。

吐いた息が白くなる錯覚を覚えるほど、空気は刺すように冷たかった。

二月の夜気を、無遠慮に室内に持ち込まれたような寒さだ。


浦も錫も、すぐには一歩を踏み出せなかった。

だが、ここに葦原環状線がないと決めつけるには早い。

互いの存在を確かめるように肩を寄せ合い、二人はエレベーターの外へ出た。そして、すぐに察する。


─── 違う。


奥の方は完全な暗闇に沈み、どれだけ目を凝らしても先は見えない。

だが、見渡せる範囲には改札らしきものが一切なかった。

エレベーターを降りたその先が、直にホームなのだ。


「絶対、ここじゃないわ」

「うん、明らかにね」


話し合わずとも、二人の意見は一致した。

壁は薄墨を流したような色合いのタイル張りで、ところどころに染みのような影が残っている。

天井に並ぶ蛍光灯は光源が弱く、明るさというよりは暗くはない程度の光を辛うじて保っていた。

視界全体が、どこかホラー映画のセットめいている。


不意に、アナウンスが割り込んだ。


『電車が通過します。白線の内側にお下がり下さい』


スピーカーに埃でも詰まっているのか、音はぼわぼわと滲み、語尾が不自然に伸びて響いた。

二人が壁際へと身を寄せると、遠くから低い唸りが近付く。

やがて、ホームをかすめるようにして、古びた電車が姿を現した。


「……貨物列車?」


錫が、確信を持てないまま呟いた。

コンテナのような無機質な車体が、何両も連なって通過していく。

その後ろに、唐突に普通の客車が連結されていた。

車内の照明は安定しておらず、チカ、チカ、と数秒おきに点いたり消えたりを繰り返している。

嫌な予感を覚えながらも、浦は無意識に車窓を凝視してしまった。


電気が点いた、ほんの数秒。

座席の上に、等間隔で物が並べられているのが見えた。

日本人形。うさぎのぬいぐるみ。小さな木箱。スノードーム……他にも色々だ。

どれも雑多で、用途も揃っていない。

それらが、誰かに席を割り振られたみたいに、整然と座していた。


再び照明が落ち、視界が途切れる。

ゴォォオオオと、海鳴りにも、腹の底から漏れる呻き声にも似た音が、ホーム全体を舐めるように通り過ぎた。


「……っ」


錫はビクリと肩をすくめ、全身の毛が逆立つ感覚に身を震わせた。


「……長居しちゃだめだ、ここ」


妖怪ゆえか、猫ゆえか。

理由を考えるより先に、錫は厭な気配を嗅ぎ取っていた。説明できないが、駄目なものは駄目なのだ。

彼は迷わず浦の背中に手を当て、半ば押すようにしてエレベーターへ戻る。


「客用じゃないみたいね、この階は」

浦がそう言うと、

「うん」

錫は短く応えただけだった。


エレベーターに乗り込むなり、錫は〈閉〉のボタンを何度も叩く。

必要以上に、指先に力がこもっている。

浦もこの場の不気味さは十分感じていたが、錫の焦り方はその比ではない。


線路では、未だ列車が走り続けている。

一体、何両目まで続いているのか。

金属が擦れる音と、低い唸りが、途切れる気配を見せない。

エレベーターのドアが、異様なほどゆっくりと閉まり始める。

そのわずかな隙間の向こう、浦は気付いてしまった。


ホームに、誰かが立っている。

人だ。それも、女。


通過列車の巻き起こす風に煽られて、長い髪がばさばさと乱れている。

顔は闇に沈み、輪郭だけがぼんやりと浮かび上がっていた。


そして────


「……ひっ」


声にならない声が、喉の奥で引っかかった。

女が舞うように、両腕をゆらりと揺らした。


その瞬間。

浦のブルゾンのポケットから、家の鍵が滑り落ちる。

金属が床に当たって、カシャン、と乾いた音を立てた。

続いて、付けていた桃の根付が弾けるように砕け、細かな破片が床に散らばる。

数年前、母が社員旅行先で土産に買ってきてくれた根付だ。

「悪いものが寄ってきませんように」と、魔除けの祈りを込められた物。


その守りが、壊れた。


そう理解するより早く、エレベーターの扉が閉まり切る。

微かな振動とともに、箱は上昇を始めた。


床に散った欠片を見下ろしたまま、浦と錫は一拍遅れて現実を飲み込む。

背中を伝って、冷や汗が一気に噴き出して──ふたりは同時に、悲鳴を上げた。





【 黄 泉 比 良 駅 案 内 図 】   

─────────────────

《上》                

YA-01 高天原線          

HG-00 彼岸特急(当駅始発)     

■ 改札 北改札(1)/中央改札(2)    

─────────────────

─────────────────

《中》                

AS-02 葦原環状線         

     0番線           

     0番線(副)        

     0番線(臨)        

KR-05 魂魄連絡線         

YI-?? 妖異線(運休)                         

■ 改札  中央改札(2)          

─────────────────

         │

   ※関係者以外立入非推奨

         │

─────────────────

《下》                

TD-09 常闇貨物線         

NR-13 奈落急行線         

■ 改札 南改札(3)           

─────────────────

─────────────────

〔 出 口 案 内 〕

 1番出口 市街地方面

 2番出口 旧市街・河岸方面

 3番出口 立入制限区域

 4番出口 閉鎖中

─────────────────

※番線・改札番号・出口案内は

予告なく変更となる場合があります





綴は書き起こしに少し疲れたのか、「ちょっと休ませてもらうね」と言い残して席を外した。

残された三人は、解決策を探すべく、原稿用紙へと顔を突き合わせた。


「……出口案内があるけど、これ誰用だ?」


紙の端を指で叩きながら、四葩が首を傾げる。


「さあな。通勤に使ってる奴でもいるんじゃね?」

「この路線で? そんな人、おる?」


言い出せばキリがない程、気になる点はいくつもある。

路線名、案内の文言、配置の妙……だが今、優先すべきはそこではない。

視線は自然と、葦原環状線の記述へと集まっていく。


綴が書き起こした案内図には、幸いにも中階の構内地図まで描き込まれていた。

とても簡素でありながら、構造自体は複雑怪奇。

まるで、道に迷わせることを想定して作られたような駅。

そんな不穏さが、紙の上から滲み出していた。


それによると、中階は階段を使って上下に三階分ずつ移動できる構造になっている。

つまり、中階だけで実質六階建てだ。

だが、エレベーターは上・中・下という三つの階層間を移動する為のもので、細かな階数には対応していない。

代わりに、階段は駅の至るところに設置されていた。

ただし、それは決して親切設計とは言えない。

単純に上下するだけの階段ではないのだ。

例えば、二階へ行きたい場合でも、最寄りの階段では辿り着けず、一度四階まで上がってから別の階段を使わなければならない。

つまり、行き先と進行方向が、まるで噛み合っていない。


地図からでは距離感まで掴めないが、そもそも駅自体はかなり広いはずだ。

無駄に長い通路、意味のない迂回、最短距離での移動を想定していない動線。

この駅の職員になったら、一日中、道案内と迷子の対応に追われるに違いない。


「この、葦原環状線がゴールやねんな」


常一は構内図の端から、スーッと指で道順をなぞり、葦原環状線の改札口を差した。

この経路を、メールのやり取りだけで案内するのは難しそうだ。

文字情報だけでは、現在地や向きの微妙な差異を共有できないし、送受信にもどうしてもタイムラグが生じる。

とはいえ、構内図が存在し、経路が一応は判明している以上、理屈の上では不可能ではない。


光明は見えた。

少なくとも、葦原環状線そのものには辿り着けるはずだ。


だが、ひとつ引っかかる点があった。

浦からのメールには、『0番線の列車に乗りたい』とある。

しかし、案内図のどこを探しても、その表記は見当たらない。

番線の欠落なのか、呼称の違いなのか。

あるいは、この構内図が前提としている路線体系そのものが、浦の見ているものと食い違っているのか。

その可能性がある限り、迂闊に次の指示は出せなかった。


「現地で見れば分かんじゃねぇの?」

「そやったら、ええねんけど……」


案内図には、ところどころに※印が付されていた。

『予告なく変更となる場合があります』という注意書きも気になる。

変更が発生する基準が分からない以上、こちらで立てた手順は、いつ無効化されてもおかしくない。

浦のメールには発車時刻も記されていたが、こちらではすでに過ぎている。

基準点が存在しないため、残り時間を逆算することもできなかった。


─── まだ余裕はあんのかな?

メールのやり取りを始めてから、すでに二日が経過している。浦達は現在、何日の何時を彷徨っているのだろうか。


「そもそも、こんな駅の構造……生きて帰らせる気あるんかな」


常一の思考は、出口のない円を描き始めていた。

不明点を整理すればするほど、この駅の難攻不落さが明瞭になっていく。


「チケットがあるんだから、その気はあるだろ」


四葩に脇腹を小突かれ、常一ははっと我に返った。

気付けば、原稿用紙を見つめたまま、無意識に黙り込んでいたらしい。

希望が見え始めたからこそ、気持ちは余計に焦れてしまう。

可能性を数えられる段階まで来た分、失敗した場合の想像も、どうしても具体的になる。


もし、ここで食い違っていたら。

もし、時間内に届かなかったら。

そんな仮定が、頭の奥で勝手に増殖していく。


「まぁ、死にかけた人間が生き返るってのは、そりゃ大仕事なんだろうよ」


相生は頭を掻きながら、辛気臭い常一を見て言った。


「いいか。こういう時はな、当事者を信じてやんのが一番大切なんだよ。

無理かも、ダメかもなんてのは、部外者のお前が先に考えることじゃねぇ。

こっちの情報は役に立つって前提で、お前はメールを送り続けろ」


相生は常一が持つガラケーを指差した。

そうだ。こちらが弱気になって、手を止めてはいけない。

それは、繋がっているはずの糸を、こちらから切ってしまうのと同じだ。

どんなに難解でも、どんなに無茶でも。浦ならきっと汲み取って、そこから打開してくるはずだ。


常一はすぅっと息を吸い込み、「流兄の言う通りやわ」と肩をすくめた。


「てか、俺らって普通にチートツールだと思うんですけどォ」


四葩が、わざとらしく拗ねた口調で言う。

冷静に考えれば、異世界と繋がるガラケーに、霊能力者、駅の案内図……。

そんなものを同時に手に入れている時点で、普通ではありえない。ほとんど奇跡だ。

常一と相生は顔を見合わせ、ほぼ同時に「それな」と頷いた。





中階へ戻った二人は、エレベーターからできるだけ距離を取り、壁際に据え付けられたベンチへ、ほとんど転がり込むように腰を落とした。

しばらくは言葉も出ず、ただ荒い呼吸だけを繰り返す。


「……あんたが猫又だって話、よぉく分かったわ」


浦は背もたれに頭を預けたまま、乾いた笑いを漏らした。

まだゼェゼェと息は切らしているが、軽口のひとつも叩ける程度に余裕が戻ってきた。


「信じてもらえてよかったよ」


錫も浦ほどではないが、肩で息をしながら応じた。


なにせ、錫の逃げ足の早いこと早いこと。

ヒールを履いた浦は必死に追いすがり、何度もバランスを崩しかけた。

そのたびに、あの女の気配が背中に貼り付いてくるような気がして、歯を食いしばりながら足を踏ん張った。


やがて呼吸が落ち着くと、浦はポケットからスマホを取り出し、メールアプリを開いた。

しばらく確認していなかったうちに、常一からの新着メールが三通も溜まっている。


「ていうか、待って。

常一からのメールに『エレベーターで下に行くな』的なこと、書いてあった気がする」


浦は画面を見つめたまま、半笑いで言う。


「いや、遅ぇよ」

「ごめんって。メール見てて、ふと思い出したのよ」


指で画面をスクロールしながら、新しいメールを確認していく。


「ねぇ、アンタの体を動物病院から引き取ったって。『猫又なん、浦は知ってた?』ですって」


「まじ? よかった……保健所じゃなくて」


「ってことは、駅員とお医者さんには、猫又なの見られたってことよね?」


「んー、まぁ。見られてたとしても、人の姿の俺を特定すんのは無理でしょ」


カリカリと耳の後ろをかきながら、錫はさほど気にした様子もない。


浦は三通のメールに、それぞれ短く返信していった。

一通にまとめることもできたが、届かないリスクを分散させておくためだ。

今のところ、多少のタイムラグはあるものの、送受信は概ね問題なさそうだ。

だが、いつ何が起きるかは分からない。


「もう二十時を過ぎたわね……」


スマホの時刻表示を見て、浦は落ち着かない気持ちになる。

発車時刻まで、残りはおおよそ四時間を切っていた。

数字だけ見れば、まだ余裕があるようにも思える。

だが、葦原環状線への手がかりは、いまだ何ひとつ掴めていない。

一方の錫は、何を考えているのか分からない顔で、通路の先をぼんやりと眺めていた。

齢百十五年の肝の据わり方なのか、それとも最悪、帰れなくても構わないと思い始めているのか。

その胸の内は読めなかった。


「……誰か来る」


不意に、錫の眉がぴくりと動いた。

その声に反応して、浦も顔を上げる。

視線の先で、下りへ続く階段がぽっかりと口を開けていた。

ペタン、ペタンと、肌に張り付くような足音が近づいてくる。

二人は身を強張らせ、じっと階段の奥へ意識を集中させた。


「ふぅ……ふぅ……あれ? ……人、いる?」


階段の下から現れたのは、小太りの中年男だった。

息を切らしながら一段一段を苦しげに登り切り、浦たちの姿を見つけた瞬間、目を丸くした。

アニメ柄のTシャツ一枚に、スウェットのズボンという完全な部屋着姿。しかも裸足だ。

片手にはスマホを握りしめていて、画面は、ついさっきまで見ていたのだろう、まだ点いたままだった。


「え、か……会話できるタイプの乗客、ですか?」


言葉を選びながらの問いかけに、彼の臆病さが滲んでいる。

おそらく、初七日行きの電車を待つ、生気を欠いた乗客たちのことを思い出しているのだろう。


浦と錫は顔を見合わせ、ほぼ同時に頷いた。


「大丈夫。会話できるわよ」

「ちゃんと噛み合う方です」


その返答に、中年男はホッとしたように肩の力を抜いた。

その様子を見定めながら、浦は改めて問いかける。


「あなたも……葦原環状線を探してる人?」


「い、一応。でも、もう三日はここにいるけど……

初めて会ったよ。その、ちゃんと話せる人に……」


そう言って、澤田と名乗った中年男は、もじもじと親指の爪を噛んだ。

彼の話によれば、自室で両親と口論になり、勢いで立ち上がった拍子に家具へ頭をぶつけたらしい。

次に気が付いた時には、見知らぬ駅のホームに立っていた。それが黄泉比良駅だった、という。

澤田もまた駅構内をあちこち彷徨った末、試しにスマホを操作してみると、なぜかネットの掲示板にだけは繋がった。


そこで立てたのが、【脱出RTA】黄泉比良駅【迷子】というスレッドだった。


「最初は情報集めのつもりだったんだけど……」


澤田は浦たちに画面を向け、スクロールしてみせた。


「反応が意外と良くてさ。書き込んでるうちに、つい夢中になっちゃって」


その語り口からは、危機感よりも話し相手ができた嬉しさのほうが勝っているのが伝わってくる。


「何でか分かんないけど、画像添付はできないんだ。でも、有能なスレ民が色々情報くれて……葦原環状線自体は、見つけたんだ」


「えっ、あったの?! どこ!!」


思わず身を乗り出した浦に、澤田は「ひぇっ」と小さく声を上げ、一歩引いた。


「そ、それが……道順がめちゃくちゃ複雑で。この中階って本当に縦にも横にも広いんだよ……だから、ほとんど、まぐれみたいなもんだし。正直、あんまり覚えてなくて……」


言い訳するように、澤田は目を泳がせる。


「過去ログを辿れば分かるかもだけど……でももう、だいぶ流れちゃってると思うんだよな……」


「いいから、遡って見せなさいよ!」


ブツブツと歯切れの悪い独り言ばかりを続け、要領を得ない澤田に堪えきれず、浦はその肩を掴んでぐわんぐわんと揺さぶった。


「や、やめて! やめてくださいって!」


澤田は情けない声を上げる。


「それに、本当に正解だったかも分かんないんですよ……だって、現に、乗れてないわけで……」


「確かに」

横で聞いていた錫が、素直に頷いた。


「それ、何で?」


首を傾げて問いかけると、澤田は吃りながらも、葦原環状線の改札を見つけた後の出来事を、ぽつぽつと語り始めた。


「えっと……お、俺は発車時刻の三十分前に辿り着いたんだけど……」


改札自体は、意外なほど普通だった。

ICカードのタッチパネルも備え付けられた、改札機が二台。

そこを抜けた先に広がっていたのは、待合室がひとつあるだけの、拍子抜けするほど簡素な空間だった。

通路らしい通路は見当たらず、行き止まりのように壁が迫っている。

ほかに行き場もなく、仕方なく澤田は待合室へ足を踏み入れた。

腰を下ろして間もなく、天井のスピーカーがハウリング混じりに鳴り響いた。


『葦原環状線をご利用のお客様は、お呼び掛けがあるまでお待ち下さい』


それきり、時間だけが過ぎていく。

十分、二十分──時計を確かめるたびに針は進んでいるのに、追加の案内は一向に流れない。

発車時刻をとうに過ぎても、待合室には何の変化もなかった。

埒が明かず、澤田は次の行動をネットの掲示板に託した。


『安価で何するか決めるわ >>518』


匿名の書き込みがいくつも並び、やがて五一八番目のレスが書き込まれる。

そこに書かれていたのは、『改札の外に出て探索』という、至って無難な指示だった。

それに従って待合室を出た澤田は、再び構内を歩き回ってはスレへ書き込み、今に至る。


「で、でも、大した展開がないからさ……スレ民も減ってきてて……」


気まずそうに視線を逸らし、彼は曖昧に笑った。


「途中で蕎麦を食べた辺りが、たぶんピークだったな……へへ」


「蕎麦?」


「し、知らない? 最初はずっと準備中だったんだけど、こないだ見た時は開いてたんだよ」


身振りを交えながら、澤田は次第に早口になる。


「ここさ、腹減るとか眠いとか、そういう欲求は全然湧かないのに……匂いを嗅いだ瞬間、急にすごい空腹になってさ。

ヤマタノオロチっていう、立ち食いそば屋」


言われてみれば、浦たちも探索の途中で、それらしい看板を見かけた気がする。

だが、思い返しても、営業している店は一軒もなかったはずだ。


空腹や眠気を感じていないことには、二人は今さらながら気が付いた。

ついでに言えば、喉の渇きさえ覚えていない。


「ま、まぁ……今の僕らには、必要ないもんね」


澤田はスマホの画面をタップしながら、ぼそぼそと言った。


「多分さ、ほとんど死んでる状態なんだろうし……」


確かに、ここで食事や睡眠をとることに意味はない。

身体は現世にあり、寝たきりのままなのだ。

浦も錫もそこはあっさりと受け入れて、まだ何かぶつぶつと話している澤田へ向き直った。


「それで、アンタどうすんの?」


浦が腕を組んで尋ねると、澤田は一度、タップする手を止める。


「駅員だったら〈上〉にいたよ。声かけてみれば?」


錫の軽い提案に、澤田は曖昧に首を振った。


「い、いや……僕はもう少し、駅の探索を…………」


そこまで言いかけた、その時。


「お客様」


背後から、温度のない声が落ちてきた。

三人はビクリと肩を揺らし、同時に振り向く。


─── そこに立っていたのは、駅員だった。

高天原線の受付にいた、コンシェルジュめいた装いとは違う。

巷の駅でよく見かける、ごく一般的なデザインの制服。

だが、帽子のつばが落とす影に表情が隠れている点だけは、同じだった。

駅員は浦と錫には一瞥もくれず、澤田の正面に立つ。


「遅くなって申し訳ございません。お席がご用意出来ましたので、ご案内致します」


「……せ、席?」


訝しげに聞き返した澤田を含め、三人の視線が宙で交錯した。

席——列車の座席と捉えていいのだろうか。

先程、発車時刻を過ぎても案内がなかったと、澤田は言っていた。

それが単なる駅側の手違いで、代わりの席が用意されたのだと考えれば、辻褄は合う。

それが葦原環状線の車両なら、浦たちも便乗して案内に従えばいい。


理屈の上では、おかしくはない。

──ここが、黄泉比良駅であることを度外視すれば。


あれこれと思考を巡らせる三人の沈黙を、駅員は了承と受け取ったらしい。

「では、こちらへ」とだけ告げると、スタスタと歩き出した。振り返りも、立ち止まりもしない。

三人は顔を見合わせ、慌ててその背中を追った。


だが、しばらくして駅員が足を止めた場所は、ホームでも改札でもない。

構内の隅に設えられたエレベーターだった。

浦たちが先ほど使用したものとは別のエレベーターだが、仕様は同じに見えた。


駅員は無言のまま、<呼>ボタンを押す。

澤田は、改札への道順こそ正確には覚えていなかった。

それでも、葦原環状線へ向かうのにエレベーターを使った記憶はない。それだけは、はっきりしていた。

澤田は落ち着かない様子でスマートフォンを握りしめ、雑多な書き込みが延々と流れるネット掲示板を見つめた。


《エレベーター乗るっぽい》

《乗ったらヤバいかな?》


送信しては、即座に画面を更新する。

だが返ってくるのは、関係のない煽りや、意味の分からない短文ばかりだった。


《それ、もう手遅れじゃね》

《そろそろ釣り宣言くるー?》

《下だったらオワリ 知らんけど》


低い電子音が鳴り、エレベーターが到着を告げる。

扉が開き、内部から流れ出した空気は、駅構内よりわずかに冷たい。

駅員は一言も発さず、澤田の背に手を添えた。

それは案内というより、有無を言わせない強引さだった。


「ちょっと、待っ───」


澤田は抵抗しながら、浦と錫へ助けを求めて振り返った。

だが、二人にも分からない。

ここで澤田に手を伸ばすべきなのか。それが吉に転ぶのか、凶を招くのか。

もし凶だった場合、そのリスクを負う価値を、澤田という男にまだ見い出せてはいない。


「──立ち食いそばヤマタノオロチは、当駅の名物です」


不意に、駅員が澤田の耳元で囁いた。

その蕎麦屋には行った。だが、それが何だというのか。どういう意図なのか、分からない。

澤田は、うんとも、いやとも答えられなかった。


「駅構内での騒音、破損、露出等は、他のお客様のご迷惑になりますので、固くお断りしております」


駅員は、マニュアルを諳んじているかのように淡々と告げる。そこに感情らしいものはない。

それでも、澤田の顔色はさっと変わった。

何か、心当たりがあるらしい。

まるで全ての証拠が詰め込まれているとでも言うように、反射的にスマホをポケットへ押し込もうとする。

だが、手のひらは汗で湿っていた。


「あっ」

鈍い音を立てて、スマホがエレベーターの床に落ちた。

身を屈めかけた澤田の動きが、一瞬、止まる。


「……ちょ、待っ、拾うだけ──」


その狼狽を、駅員は見逃さなかった。

無言のまま、慣れた所作で澤田の身体を中へと押し込む。


「や、やめ……っ」


澤田は抵抗しようとするが、情けなくも足がもつれ、膝をついた。

その隙を逃さず、駅員もエレベーターへと乗り込み、逃げ場を塞ぐ。

行き先ボタンを押し、深く一礼する。

それを合図にしたかのように、扉が静かに閉まった。


「……っ!」

閉まりきる直前、澤田の喉から短い声が漏れた。

浦と錫は、固まったまま、それを見送るしかなかった。


外扉のガラス窓の向こうで、箱がゆっくりと下降を始めるのが見えた。


「……<下>に行ったわ」


呆然と呟いた浦の声が、広い構内に虚しく落ちる。


「……あ、ねぇ、見て」


返事の代わりに、錫はすぐ近くの電光掲示板を指さした。

魂魄連絡線の案内の下に、新しい列車案内がパッと表示される。


『臨時 奈落急行』


行き先は記されていない。

だが、あれが向かう先に、輝かしい未来が待っていないことくらい想像するまでもなかった。


「……澤田さん、あれに乗るのかしら」


口にした瞬間、浦自身がその問いの答えを悟ってしまった。

きっと、乗るのだろう。そのために駅員は、わざわざ迎えに来たのだ。

ほんのわずかな罪悪感と、拭いきれない後味の悪さ。

二人はほとんど同時に、咳払いをした。

だからといって、ついさっき出会っただけの中年男を追いかけ、助けに行くほど、善人でも英雄でもない。

それよりも、胸の奥で、焦燥感が一気に膨れ上がった。

絶対に、葦原環状線を見つけなければならない。

そして必ず、0番線から、チケットに記された通りの列車に乗る。

それができなければ、迎えが来て、奈落急行に乗せられるかもしれない。

あるいは、永遠にこの駅を彷徨い続けることになるのかもしれない。


──それならいっそ、初七日行きの列車に乗る方が、まだ救いがあるのだろうか?


「……アタシ達、大丈夫よね?」


色落ちしたリップの隙間から、浦の頼りない声が零れた。

錫は無言で、足元の床を見下ろした。

白いタイルの目地をなぞるように視線を走らせても、答えはどこにも転がっていない。


その直後、浦のブルゾンのポケットの中でスマホがヴーッと低く震えた。

ハッと肩を強張らせて、慌てて端末を取り出す浦。

画面には、常一からのメール通知が二つ並んでいた。


浦は息を詰めて画面を開き、指を走らせてスクロールした。

一行、また一行。

読み進めるごとに、沈みかけていた浦の瞳に、わずかな光が戻っていく。


「……錫」


名前を呼ばれて、錫は俯いていた顔を上げた。


「アタシ達、やっぱりツイてるわ」

「ん?」


短く返しながら、錫は一歩だけ距離を詰める。

浦の手元を覗き込むように、わずかに身を乗り出した。


「常一が、構内地図を手に入れたわ!」


画面には、黄泉比良駅に乗り入れている路線の一覧や、葦原環状線の改札が〈中の一階〉にあることなど、今まさに欲しかった情報が並んでいる。

こちらが現在位置を正確に伝えられれば、改札まで案内してもらうことが可能になったのだ。


「……やるじゃん、にんげん」


思わず口元を緩めた錫に、浦は自慢げにウインクを返してみせた。



「現在地は、おそらくこの辺りかな」


綴が指先で、中階の構内地図をなぞった。

その動きにはまだ気怠さが残っているが、目だけはしゃんと冴えている。

座卓に広げられた紙の地図と、浦から断続的に届くメール。

それらを照らし合わせながら、綴と常一は言葉少なに、葦原環状線までの道順を組み立てていった。


黄泉比良駅の構内図は、理解しようとするほどに、こちらの正気を試してくる配置をしている。

無意味な行き止まりと、遠回りを強いる通路の数々。

それらを避け、あらゆる階段を使いながら、一階の中央改札へ辿り着かなければならない。


「とりあえず、この階段昇って四階行けって送るわ」


常一はそう言って、年季の入ったガラケーを開いた。

フリック入力も音声入力もない。

一文字入力するたび、親指でボタンを探し、押し込み、確定する。その手順が、ひどくもどかしい。


その隣で、四葩が突然、弾むような声を上げた。


「あった!」


スマホを高く掲げ、画面をこちらに向ける。

光を放つディスプレイに映っていたのは、見覚えのある掲示板のレイアウトだった。

白い背景に、等間隔で並ぶ黒文字の書き込み。

罵倒、憶測、冗談、真実がごちゃ混ぜになった文字が縦へ縦へと積み重なっている。

四葩が開いたスレッドのタイトルは、【脱出RTA】黄泉比良駅【迷子】。

常一は「えっ」と目を見開いた。


「浦くんのメールにあったじゃん。ネット掲示板を使ってる男と会ったって。多分、そいつが立てたスレ」


一心不乱にスマホとにらめっこしていたのは、これを探していたらしい。

那由多あるスレから、よく見つけ出したものだ。

四葩は嬉々として、スレ画面をスクロールし始めた。


「で。RTA、失敗か」


四人分のコーヒーを入れ直して戻ってきた相生が、湯気の向こうからぼそりと呟いた。


「失敗って言い方、やめなさい」


綴が咎めるように突っ込むが、誰も否定はしない。

浦からのメールには、その男がどうなったか、はっきりとは書かれていなかった。

それでも、その短く簡潔なメールの行間から、全員が同じ結末を読み取っていた。


「〈下〉に行ったって書いてたやんな?」

「ってことは、貨物列車……いや、奈落急行か」


駅全体の案内図に視線を落としながら、相生が指先で該当箇所を叩いた。

<下>を通る路線は、常闇貨物線か奈落急行線の二つだけ。どちらも厭な響きである。


「葦原環状線に乗れんかったら、そうなんのかな?」

「いや、どうだろ。こいつが安価で遊んだせいかもよ」


顔を曇らせる常一に対して、四葩はシラケた様子で答えた。


「あんかって何だ?」と相生。


「ネット掲示板の遊びだよ。

レス番号を指定して、その書き込み通りに行動するやつ。で、こいつは……」


四葩はスレッドを遡りながら、呆れたように鼻を鳴らした。


「エレベーターの扉に物を挟め、とか。柱の貼り紙を三枚破るまで全裸、とか。

……駅で、好き放題やってたみたいだな」


冗談半分、悪ノリ全開の指示が、軽い調子でいくつも積み重なっている。

黄泉比良駅がどこまで公共ルールに厳密なのかは分からない。

だが、通常の駅であれば、駅員に注意されるか、何らかの罰則が科されても不思議ではない行為ばかりだ。


実際に、男がすべてを実行したかどうかは確かめようがない。

それでも、書き込みの端々からは、相当気が大きくなっている様子がうかがえた。

葦原環状線に乗り遅れたから……というよりも。

規則違反の結果として、奈落急行に乗せられた可能性のほうが高い。


「この人も、昏睡状態やったんかな? どうやって駅に来たんやろ?」


浦へのメールを送り終えると、常一も自分のスマホを手に取り、四葩から送られてきたスレッドのURLをタップして画面を開いた。


「最初の書き込みにあるな。

 『ヒキニートワイ、親と喧嘩するも、よろけて頭ぶつける。目が覚めたら、電車の中だった……』って」


「普通にクソやんけ」


「まぁ、どういう事情でヒキニートになったかは分からないから、一概には言えないけど……クソだな」


スレッドは、それなりに盛り上がっていたようだ。

駅に迷い込んだ経緯。葦原環状線を求めて彷徨う記録。

面白がって集まるオカルト好き達の考察と、「どうせ作り話だろ」という冷やかしの応酬。

その軽薄な喧騒を抜けた先に、ようやく辿り着いた〈葦原環状線〉での書き込みがあった。


常一たちは、そこで会話を止め、画面に視線を縫い留めた。


「待合室しかない? 呼び掛けを待て、って?」

「で、結局、何も起こらずに、また改札の外に出たわけか」

「何でや? 身体のほうが心肺停止したとか、そういう理由?」

「分からないよ。でも、駅に居る状態のまま、身体だけが先に死ぬなんてあるかな?」

「何だ、それ。ややこしいな。卵が先か鶏が先か、みたいな話か?」

「違うやろ」


三人寄れば文殊の知恵と言うが、これに関しては四人いても合点のいく答えは出なかった。

なぜ列車に乗れなかったのか。

それは偶然だったのか、それとも揃えるべき条件が存在するのか。

そして、それは、浦たちにも起こりうることなのか。

誰も口にはしなかったが、同じ疑問と不安が、その場に飽和していた。


「……あ、誰か書き込んだ」


四葩が、スレッドの更新に気づく。

スレ主の書き込みが途絶えてからというもの、閲覧者の数も目に見えて減っていた。

しばらく動きのなかったその画面に、ぽつりと新しいレスが追加されたのだ。


【こいつじゃね?】

貼られていたのは、ネットニュースのリンクだった。



=================================


《引きこもりの息子、両親に暴行か 両親は重症、息子は死亡》


〇日夜、〇〇県〇〇市の住宅で、同居する無職の息子(40)と両親が口論となり、両親が重傷を負う事件があった。


警察によると、両親が息子に対し「そろそろ働いて外に出てほしい」などと訴えたところ口論に発展。

その際、息子が両親を蹴るなどして転倒させ、両親は病院に搬送され、現在も重症とみられている。


一方、息子は暴行の最中に体勢を崩し、室内の棚の角に頭部を強く打ち、その後、意識不明の重体となっていた。

病院で治療を受けていたが、〇日未明、死亡が確認された。


警察は当時の詳しい状況や、事件に至った経緯について調べを進めている。


=================================



「うーん、こいつに問題がありすぎて、電車に乗れなかった説が濃厚じゃね?」


四葩の言葉に、ついつい頷いてしまう。

不謹慎かもしれない。それでも常一としては、そうであってほしいと思ってしまった。


掲示板は、新たな情報を皮切りに、またぽつぽつと動き出した。


【じゃあ、駅で会った二人組は誰だ?】


そんな書き込みも見つけた。

少し遡って確認すると、更新が途切れる少し前に、【人いるんだがwww】というスレ主の軽い調子のレスが残っている。


「のっぽと猫顔。どっちも男。美少女じゃない、やり直し。……やっぱクソやな」


「まぁまぁ。二人の記載があるってことは、これはやっぱり、黄泉比良駅の情報で間違いないってわけだ。

 おかげで、駅への解像度は確実に上がった。その点だけは感謝しよう」


そう言いながら綴は、構内地図にスレッド内で拾えた要点を書き加えていく。

彼の言う通り、このスレッドでスレ主の男を詳しく追っても意味はない。

すべきことは、浦たちが同じ轍を踏まないよう、駅の情報をひたすらかき集めることだ。


常一はぶるぶると頭を振り、スマホを握る手にぐっと力を込めた。





常一からのメールに従い、浦と錫は駅構内を歩き始めた。

二人の現在地を伝えるのは、思ったよりも簡単だった。

近くの壁に貼られた案内に、『ここは、三ノゐ』とあった。

それは常一が手元で見ている構内地図にも記載されている表記で、どうやら階数とエリア名を示しているそうだ。ちなみに改札は『一ノゑ』にあるらしい。


通路を抜け、点字ブロックに沿って右へ折れ、短い階段を上がる。

その先で突き当たりを左。すぐに現れた下り階段を降り、薄暗い連絡通路を渡る。

通路は途中で二股に分かれ、表示の剥がれた案内板に従って細い方へ。

照明の切れた自販機を横目にさらに曲がると、また階段だ。

上がって、下がって、平坦な道を少し歩いたと思ったら、再び折り返す。


「人生みたい」


何度目か分からない曲がり角で、錫がぼそりと呟いた。


「上がって下がって、進んで戻って、無駄に遠回りしてさ。なかなか望む場所には辿り着けないって仕様が、そっくり」


「アンタ……さては、疲れてきたんでしょ」


「……うん」


浦は「アタシも」と息を吐き、メールを確認するついでに、近くのベンチに腰を下ろした。

スマホを片手に、張りつめたふくらはぎをぐりぐりと揉む。

ひと席空けて錫も座り、間延びした動きで四肢を伸ばす。

「川の流れのよーにー」と小さく口ずさみながら、ぐぃーっと背中を反らせた。


「しかし、常一くんってのは親切だねぇ」


休憩がてらの雑談といったところか、伸ばした脚をぶらぶら揺らしながら錫が切り出した。


「良い奴よ。お互い何でも話せる仲だしね。共通点は少ないけど、不思議よね」


浦はそう言って、スマホを伏せる。


「何となく居心地の良い相手っているもんね。ある意味、運命の人って言うのかな」


「青い糸ってやつね」


くすりと笑ってから、浦は組んだ足に頬杖をついた。


「アタシ、こう見えて人見知りなのよ。

でも、常一とはすぐに打ち解けたわ。知り合って一週間後には、うちの実家に泊まりに来てたくらい」


自分で口にして、少し懐かしくなった。

あの頃のことを思い出すと、少しだけ恥ずかしくなる。

女子の比率が高い専門学校で、周囲に溶け込まなければという焦りから、浦は明るくて楽しい“オネェキャラ”を必要以上に演じていた。

反応は良かった。笑いも取れたし、人気者だった。

それに浦自身、そういう側面がないわけではない。

それでも、どこか嘘っぽくて、誰と話しても会話が上滑りしている感覚が抜けなかった。

帰り道には、決まってどっと疲れが押し寄せた。


そんな折、選択授業で隣の席になったのが常一だった。

最初に何を話したのかは、正直よく覚えていない。

ただ、間を埋めようとしなくても沈黙が苦にならず、言葉を選ばなくても会話が続いた。

つまり、自然体で過ごせたのだ。

気付けば、常一は頻繁に家に来るようになっていた。

浦の母親も彼をすぐに気に入り、夕飯を一緒に食べ、テレビを見て、まるで家族の一員みたいに過ごしていた時期もある。


「そうだ、母さん……当然、心配してるわね。早く帰ってあげなくちゃ」


浦はスマホのインカメラを見ながら、手早くリップを塗り直した。

色を整えると、そのまま立ち上がる。


「オレも……早く常連さん達に、キープブックの続きを読ませてあげなきゃね」


錫もへらりと笑みを浮かべ、ひょいと腰を上げた。



《突き当たりの階段を上って。踊り場で右へ》

スマホの画面を確かめてから、浦達は指示通りに階段を上った。

踊り場で一度足を止め、次は右。

メールの文面をなぞるように、身体だけを動かす。

通路を直線に進み、すぐ左。

そこには、さっきも見た気がする自動販売機と、同じように色褪せた案内板が並んでいた。

矢印の向きだけが違っているような気もするが、考え出したらきりがない。

混乱を避けるため、浦は案内板から目を逸らした。


三段だけの短い階段を上がる。その先で、通路は左右に分かれていた。

右へ進めば行き止まり。左へ行けば──ぽっかりと口を開けた階段が現れた。

常一からのメールを、今一度確認する。


《左に行くと、一階に続く階段があると思う。改札までは直線やから、案内できるのはここまでになる。気を付けて。》


浦と錫は顔を見合わせ、どちらからともなく小さく頷いた。

逸る気持ちを抑え、幾分か早足で階段を下る。

鉄製の手すりに指先を滑らせながら、最後の一段を踏み下ろし、一階のコンコースへ出た。


そこは、拍子抜けするほど他の階と変わらない。

ただ、天井の低いその通路は期待に反して、やけに長かった。


等間隔に並んだ白い照明、くすんだ壁、足元に連なる床の幾何学模様。

浦のヒールがコツコツと一定のリズムを刻む度に、距離の感覚が曖昧になっていく。

一歩ごとに、「本当に合っているのか」という疑念が、靴底からじわじわと染み上がってくるのだ。

来た道を引き返して確かめたい衝動を、必死で飲み込む。


その時だった。

ふっと、温かな出汁の匂いが鼻先を掠めた。


通路脇に、年季の入った暖簾が下がっている。

立ち食いそば屋『やまたのおろち』。

他の階でも似た店構えは見たが、そこにはいずれも「準備中」の札が掛けられていた。

浦は足を止め、身を屈めて、暖簾の隙間から店の中を覗き込んだ。

サラリーマン風の男が二人、肩を並べ、カウンターに立って蕎麦をすすっている。

店員の姿は見えない。

だが、カウンターの内側──調理場の奥からは、もくもくと湯気が立ち上っていた。

鍋の向こう側に、誰かがいるような気配はあるが、はっきりとはしない。


不意に、ぐぅ、と腹の奥が情けなく鳴り、浦は反射的に胃のあたりを撫でた。


──澤田の言っていた通りだ。


匂いを嗅いだ途端、さっきまで意識にも上らなかったはずの空腹が、堰を切ったように押し寄せてくる。

じゅわりと唾液が滲み、身体が強引に「食べろ」と命じてくる感覚だった。


「ねぇ……アタシ達も、ちょっと食べていかない?」


出汁の匂いに引かれるまま、浦はそう言って振り返った。

暖簾の向こうをもう一度確かめてから錫の方を見ると、返ってきたのは否だった。


「やめとこ」


錫は蕎麦屋の暖簾をじっと見つめ、警戒するように首を横に振る。


「えっ。お腹、減ってないの?」


断られるとは思っていなかった。

思わず目を丸くする浦に、錫は「腹は減ったけど……」と唾を飲み込み、声を潜めた。


「澤田サンの話を聞いてから、ずっと引っかかってたんだ。これ……黄泉竈食になるんじゃないかな」


「……よもつ、へぐい?」

聞き慣れない言葉に、浦は顔を顰めて聞き返す。


「そう。黄泉の国のものを口にすると、現世には戻れなくなるって話」


錫は頷いて、噛んで含めるように続けた。


「だから、ここの蕎麦を食べたら……死者扱いになるか、あるいは、この駅に永遠に縫い留められるかも知れない」


改めて、暖簾の向こうを窺う。

サラリーマン風の男たちは、相変わらず肩を並べ、無言のまま蕎麦をすすり続けていた。


ずずっ、ずずっと。

蕎麦を啜る音は一定の間隔で、いつまでも途切れない。

食べ終える気配はなく、丼を置く音も、席を立つ様子もない。

その不自然さに気づいた瞬間、浦の背筋を、冷たいものがぞわりと駆け上がった。


「……この駅って、イジワルだわ」


ぐぅ、と腹が鳴るのを力で押さえ込み、浦は蕎麦屋から顔を背けた。

名残惜しさを断ち切るように、大股でその場を離れる。


その背中を追いかけながら、錫は蕎麦屋に向かって「べぇ」と舌を出した。







2026.02.04

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