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ゴーストライター  作者: 佐田読子


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07【黄泉比良駅】


四葩宅の作業部屋。

加湿器の稼働音をBGMに、常一はモニターにかじりつき、黙々と動画に字幕を打ち込んでいた。

空調の温風で、やたらと目が乾く。

目薬を求めてキーボードを叩く手を止めた所で、ブーッブーッと机の上でスマホが振動した。

画面に「浦」の名前が光る。すぐに切れてしまったので、かけ直した。


「……もしもし?どしたん?」


受話口の向こうで、ガタン、ゴトンと重たい走行音が反響した。

その雑音に紛れるように、浦の声がくぐもって聞こえる。

電波が悪い。地下鉄か、あるいはトンネルの中だろうか。

常一はスマホをスピーカーに切り替え、手元のキーボードへ視線を戻した。

作業を続けながら、ふたりは他愛もないことをぽつぽつと話す。

仕事の愚痴とか、最近食べたコンビニスイーツの話とか。


しばらくして、作業部屋のドアが開いた。

クリスマスソングを口ずさみながら、四葩がスーパーの袋を提げて戻ってきた。


「おかえり。……え?うん、ひらりん帰ってきた」


スマホに向けて相槌を打ちながら、差し出されたエナジードリンクとおにぎりを受け取った。

何故か四葩はいつも、高菜とツナマヨしか買ってこない。


「ありがと。……え?なんて?」


聞き返しつつ、片手でプルタブを開ける。

四葩は自分の席に腰を落ち着け、サンドイッチの袋をガサガサと開いた。

しかし、ふと手を止める。

そして何かに気付いたように、常一の方へ顔を向けた。


「……お前、誰としゃべってんだ?」

「んー? 浦。友達」

「いや、さっきから雑音しか聞こえねぇんだけど」

「え?」


バチンッと、電線がショートするみたいな音が耳の奥で弾けた。

スマホから流れているのは、砂を噛むようなザラついたノイズだけ。

さっきまで普通に聞こえていた、おしゃべりな浦の声は、どこにもない。


── ザザ……ザァァァ……。


呼吸の仕方さえ忘れたみたいに、常一は呆然と画面を見つめた。

震える指先で、そっと通話終了のボタンを押す。

静まり返った室内。

加湿器の給水アラートが、場違いなほど軽快な電子音を鳴らした。





『── この列車は、初七日、四十九日方面、各駅に止まります。次は黄泉比良(よもつひら)。黄泉比良に停まります』


車内アナウンスの音に合わせて、意識がゆっくりと浮上する。

随分と寝入ってしまっていたらしい。

ぼうっとする頭を、減速する車輪の振動が小刻みに揺らした。


がたん、と車両が停止する。


乗客たちがまばらに立ち上がり、無言のままホームへと降りてゆく。

浦も、その流れに引かれるようにホームへ足を下ろした。

湿った紙のような不吉な匂いがする。

何人かの乗客を新たに乗せて電車は遠ざかり、無機質なホームに静寂が落ちた。

チカッ、チカッと、頭上の蛍光灯が不安定に明滅する。


「黄泉比良駅……?」


駅名標を見上げた浦は、ぼんやりと小首を傾げた。

次の駅は〈初七日〉。その隣、前の駅名は〈葦原〉。

聞いたことも見たこともない駅名だ。

しかも、普段ほとんど乗らない地下鉄にいる。

濃い闇の中へ線路が左右に伸び、ホームの先──上へと続く階段は、なぜかぐっしょりと濡れていた。


……おかしい。

ここで、ようやく浦の頭はジワジワと違和感を覚え始めた。

そう言えば、自分はしこたま酒を飲んで泥酔していたはずだ。

それで、終電に乗ったような乗れなかったような──?


分からない。記憶が、ひどく曖昧だった。

けれど、バーへ向かう前に履いた新品のヒール。

擦れた踵がジクジクと熱を持ち、靴の縁が肌を噛むたびに今も痛い。

少なくとも、夢の中ではなさそうだ。

ホームには、浦以外にも数人の乗客がいた。

だが、誰もが顔を伏せたまま、微動だにせず立っている。とても話しかけられる雰囲気ではない。

浦はブルゾンのポケットに手を入れ、スマホを取り出した。

時刻は、深夜1時を回っている。

タクシーが呼べないかと電話を掛けてみる。

しかし、呼び出し音が数度鳴ったきり、応答はない。

眉を寄せて画面を確認すると、表示はいつのまにか「圏外」に変わっていた。

どうしようかと考えているうちに、ホームにアナウンスが響いた。


『電車がまいります。白線の内側に立って、お待ちください』


回送かと思ったが、電車はこちらへ近づくにつれ速度を落とし、そのままホームに停車した。


── 知っている駅まで行けるかも。

そんな淡い期待で、開いたドアへ歩み寄る。

その瞬間、後ろから腕をぐいと引かれて仰け反った。


「死にたいの、小波?」


聞き覚えのある声。

振り返った浦を、見知った琥珀色の瞳が睨んでいた。


「……え、アンタ、何で?」


その呟きの背後で、電車のドアがバタンと重く閉まった。

車体はゆっくりと動きだし、金属を擦るような低い音を残してホームから離れていった。





灯亡書房の店内は、すっかり冬仕様であった。

カウンター脇に置かれた灯油ストーブがゆらゆらと熱を点し、カフェスペースの座卓は炬燵に変わった。

窓にはクリスマスのステッカーが貼られ、メニューにはホットココアとジンジャーブレッドクッキーが並んでいる。

和風とも洋風ともつかない雰囲気だが、どこか不思議な統一感があった。

ハロウィンの時期にも装飾をしていたことから、綴も相生も意外とイベント好きなのかもしれない。

しかし、その浮き足立った店内には、どうにも似つかわしくない顔がひとつあった──常一である。


「……昏睡状態の親友と、電話?」


綴が確認するように聞くと、常一は温かなマグを両手で包み込みながら、小さく頷いた。

その隣から、四葩が言葉を継ぐ。


「三日前のことだよ。雑音相手にウンウン相槌打ってる常一見て、マジでビビったわ。

俺が指摘した途端に、コイツにも雑音しか聞こえなくなったみたいだけど」


「それまで、めっちゃ普通に会話できててんで?でも、一昨日……」


はじめは、自分の性質や職業のせいだと思い、常一は問題を自分側に求めた。

しかし、その後、何度かけても浦に電話は繋がらず、メッセージアプリも既読にならなかった。

胸騒ぎと異変の匂い。

直接会って確かめるしかない。そう考えて、常一は浦のアパートを訪ねた。


101号室のポストには、ピザや不動産のチラシが何枚も差し込まれ、風に揺れていた。

しばらく帰っていない事は、誰の目にも明らかだった。

迷った末、常一はスマホの連絡帳の奥底から、浦の母親の番号を引っ張り出した。

最後にかけたのは、いつだったか思い出せない。気まずい沈黙を挟んで、通話が繋がった。


『……さーちゃん、駅で事故に遭ったの。幸い、大きな怪我はなかったんだけど、意識が戻らなくて……』


急いで病院へ駆けつけると、浦はベッドの上で静かに眠っていた。

呼吸は穏やかで、傷跡らしい傷も全く残っていない。

浦の身体につながる機械の小さなピッピッという音が、やけに耳についた。

なぜ目覚めないのか──その理由を、誰も説明できなかった。


原因は、線路への転落だったという。

金曜日の最終電車、浦はかなりアルコールを摂取していたらしい。

足元がふらついたのか、はたまた外的要因があったのか、詳細は分かっていない。

発生日時は、二週間前の深夜零時すぎ。

にも関わらず、常一はその後も何度も浦と電話をしていた。

最近ハマっているドラマの話も、学生時代からのくだらないノリも、いつも通りだったはずだ。


……いや、違和感が全くなかった訳ではない。

後付けに聞こえるかも知れないが、突然通話が途切れたり、声が布越しのようにこもって聞こえる事が頻繁にあった。

しかし、その程度のことだ。

電波かスマホの不調だろうと、軽く受け流していた。


「よう電話かけてくるなとは思ってたよ。

でも、言うて、前も週一ペースで連絡してたから……」


とは言え、それまで発信するのは常一からが多かった。

それが、この二週間は全て浦からの着信だ。

しかも大抵、2コールほどで切れてしまう。

折り返すと、他愛ない雑談がはじまるだけである。

時間はまちまちで、昼間もあれば深夜もあった。


しかし今思えば、それもおかしい。

浦はフレックス制とはいえ会社勤めだ。

平日昼間に、わざわざ雑談の電話をかけるはずがない。

常一自身がフリーランスな為、すぐにはその違和感に気付けなかった。


「綴ちゃん、これって何やと思う? 浦、どうなってんの?」


助けられるなら、助けたい。

浦の意識はまだどこかにあって、常一に向けてSOSを発信しているのかもしれない。

そう思うと、放っておくわけにはいかなかった。

常一の問いに、綴は少しだけ視線を落として考え込む。

明確な答えを持っている様子ではなかった。


「その話だけだと何とも言えないけど……意識がどこかにある、って線は否定できないと思う」


全て推測ではあるけど、と前置きをして、綴は続けた。


「会話ができてた理由だけど……常一側の認知バイアスと、浦くんの無意識下で発してた残留思念が同期した結果だと思う。

いわば、意図しない“疑似的な通信回路”が、一時的に形成されてた状態かな。

で、一輪の指摘がトリガーになって、常一の認知が正常化したことで、その同期が崩れて、信号として成立しなくなった……そういう理屈が一番筋が通るかな」


霊的存在のエネルギーが、電磁波へ干渉するという解釈がある。そもそも、霊自体が電気エネルギーだという説もあるくらいだ。

故に、電子機器を通した心霊現象は珍しくない。ひらりんの動画内でも度々起こる事だ。


「じゃあ、その意識はどこに……何とかコンタクト取られへん?」


焦りと不安を滲ませて、常一は綴を見つめた。


「うーん……」


綴は眉間に指を当て、頭の中の知識をかき集める。


「幽体離脱みたいに霊体として漂ってるなら、探しようもあると思う。けど、別の次元に飛んでるとなると……どうかな」


これと確信して言い切れず、綴の言葉は尻すぼみに消えた。

ブラウザが読み込み中のまま固まったみたいに沈黙が落ちて、数十秒。

カウンターで小さなツリーにオーナメントを吊るしていた相生が、ふと手を止めてぽそりと口を開いた。


「……四志磨に聞けば? あいつ、こういう時に使えそうな何か持ってんだろ」





寝駒 錫(ねこま すず)は、浦が通うバーの店主であった。

そんな相手と、この得体の知れない駅で顔を合わせるなど、想像もしていない。できるはずがない。


「小波、これ、忘れてったでしょ?」


錫がリンと小さな鈴を鳴らし、浦に何かを差し出した。

木彫の桃の根付がついた鍵である。


「あ……家の鍵。届けに来てくれたの?」


「そ。カウンターに落ちてたから、急いで追いかけたの。そしたら小波、線路に落っこっちゃうんだもん。マジでビックリしたよ」


八重歯を覗かせて「にゃはは」と笑う錫。


「線路に……落ちた……?」


その言葉を聞いた途端、浦の頭の中で、パラパラ漫画をめくるみたいに記憶が甦った。


──華の金曜日。ベロベロに酔った自分。

錫には「タクシーで帰れ」と釘を刺されたのに、意地になって「まだ終電に間に合うわよ」と駅へ駆けた、深夜0時。

改札に引っかかり、点字タイルに躓き、よろよろと階段を上がった。

ようやく辿り着いたホームで、ちょうど電車の接近アナウンスが流れた。

焦った勢いのまま駆け出して──点字ブロックに、ヒールが引っかかった。

酔いで足元の感覚はぐらぐらで、たたらを踏む。

ズルッと滑る靴底。ふっと身体が浮く感覚。

迫る電車のライトが強烈に目を刺し、耳をつんざく警報音。


そこで、記憶はぶつりと途切れている。


「──アタシ、死んだ?」

「いや、首の皮一枚つながってる感じ」


夢の底から引き上げられるように、感覚が鮮明になっていく。

だが、冷静さを取り戻すほどに、浦の頭の中は疑問符でぱんぱんに膨れ上がった。

線路に落ちたはずなのに、死んでいない。

電車に乗った覚えもないのに、気づけば乗っていた。

そして今、知らない駅で立ち往生している。どう考えても意味が分からない。

しかし、狼狽える自分とは対照的に、錫は暢気に口笛でも吹きそうな様子だ。


浦は、改めて問いかけた。


「で、何でアンタはここにいるの?」


「だから、これ届けるために追いかけたの。

で、追いついたと思ったら、小波が線路に落ちてって。反射で飛び込んだら……何かここにいた」


あっけらかんと経緯を説明した錫に、浦は一瞬きょとんとしたまま固まった。

要約すると、錫は自分を助けようとして線路に落ちた事になる。


「うそ。じゃあ、アタシのせいで……」


ひどい眩暈がして、半歩あとずさる。

空の胃袋に氷水を流し込まれたみたいなショック。そして、罪悪感が浦の鳩尾に一気にこみ上げてきた。


「違う違う、オレが勝手に飛び出しただけ。腕くらい掴めるかなーって思ってたのになァ」


大したことじゃないと言わんばかりに、錫はへらりと笑った。

けれど、酔ったのも、忘れ物をしたのも、転落したのも。全部、浦自身の落ち度で招いた結果に違いはない。


「本当にごめんなさい……。錫の言う通りタクシーで帰ってれば、こんな事には……」


可哀想なほど目を泳がせる浦に、錫は恬として頷いた。


「それはそう。というかさ、うちで酒をガブガブやるの、小波だけだからね?

うちのコンセプトは、読書を肴に酒を嗜む“大人のブックバー”なんですけど?」


「ア、アタシだって、いつもはそうしてるじゃない!今回はちょっと……会社で嫌なことがあったのよ」


「はいはい。ま、そこらへんの反省会はまた今度で。まずは帰るのが先」


「でも……いえ、そうね。帰ったら、必ずお詫びさせて頂戴」


巻き込み事故にあった上に、こんな得体の知れない状況に置かれれば、普通はもっと相手を詰ってもおかしくない。

錫がこれほど楽観的でいられる理由が、浦には分からなかった。

けれど、当の被害者が「あとでいい」と言うのなら、今は従うしかなかった。


「……とりあえず、状況整理をさせて」


浦は胸に溜まった息を、ふーっと吐き出した。

ぐらつく気持ちを立て直して、視線を上げる。


「錫は、この駅がどこか知ってるの?」


「んー、まあ。俺も昔、聞きかじった程度なんだけどさ……」


記憶を手繰るように、錫は指先で唇を軽くノックする。


「黄泉比良駅は、この世でもあの世でもない。生と死の境目にある駅、らしい」


琥珀色の虹彩の中で、瞳孔がきゅうっと細くなった。

線路の左右を順に指し示しながら、錫は続ける。


「ざっくり言えば、こっち、初七日まで進んだら死亡ルート」


指先が、ホームの左側を指す。


「で、逆に葦原へ戻れたら、生存ルートってわけ」


一拍置いて、錫は視線を右側の線路の先へ流した。


「多分、このホームに停まる電車は、初七日行きだけだろうね」


そう言って、錫の指先はもう一度、左を指した。

もし、引き止められずに電車へ乗っていたら……。

思い至った瞬間、浦の背中にぞわりと怖気が走った。

一寸先は闇。

これほど死を身近に感じたのは、もちろん初めての経験だ。


「……葦原に戻る電車も、当然あるのよね?」

「うん。これがあったから」


錫はジーンズのポケットを探り、一枚の切符を取り出した。

形は、新幹線や特急のチケットに似ている。


「知らない間に、ポケットに入ってたんだ」


小首をひねる錫に倣い、浦も自分の切符がないか探し始めた。

ポケット、バッグ、財布……どこにもない。

もしや、自分には帰る権利が与えられていないのかも知れない。

浦の中にある希望が、しょんぼりと萎み始めた時。


「あ……」


ふと、手にしたスマホの裏。

カバーとの隙間に、一枚の切符がきれいに挟まっていた。



==================

 葦原環状線  黄泉比良駅 発

 0番線  3号車 あ-11


 23:59 発

 一 度 限 り 有 効


 ※紛失の際は速やかに駅員へお申し出下さい

==================



「俺の座席は、あ-12。隣だね」

「それはいいけど……葦原環状線ってどこよ?」


そもそも、このホームが何線の何番線なのか。

浦はもとより、錫も知らない。

周囲を見渡しても、路線図や案内板もない。

あるのは、天井から滴る水音が響く、暗い階段が一本だけだ。


「23時59分発……まだ時間はあるわね」


浦は一応、出発時間5分前にスマホのアラームを設定した。

これが鳴る前に、目的地に辿り着けることを祈る。


「乗り遅れたら、どうなるのかな?」


それを見ていた錫が、冗談なのか真剣なのか分からない顔でそんなことを言う。

出発時刻までに乗り場を見つけられなかった場合、普通の駅なら次の便を案内してもらえる。

だが、おそらく、そんな親切はここにはないだろう。

ふたりは言葉もなく、目を合わせた。


「……絶対に乗り場を探すわよ」


浦はヒールの踵を、カツンと硬い床に響かせた。

その決意表明に、「賛成」と、錫も軽く手を挙げる。

ふたりはホームの奥に佇む、濡れた階段へと歩き出した。


はしなくも、その背中を追いかけるように、初七日行きの電車が再び滑り込んできた。

開閉する扉の向こうへ、数人の乗客が吸い込まれるように乗り込んでいく。


気怠げに扉が閉まり、列車は闇の向こうへ走り去った。





「ガラケー?」


清遠から速達で届いた荷物の中身は、二つ折りの携帯電話だった。

裏の充電端子のカバーには、色褪せたプリクラが貼り付けられている。

若い男女であることは分かるが、かすれて表情までは判別できない。

その曖昧さが、かえって薄気味悪かった。


「一応、意識のない相手と話せる物がないかって聞いたんだけど……」


綴が常一からの相談内容を掻い摘んで伝えると、清遠は「ちょっと倉庫、探してみるわ!」とだけ言って電話を切った。


そして今日、これが届いた。

荷物の中には、きっちりとした請求書と、何やら書きつけられたメモが同梱されている。

四葩がそのメモを手に取って、読み上げた。


「これは、異世界に繋がるケータイ電話です。ただし、メール機能しか使えないので、あしからず。……これ、正解なの?」


「異世界って……浦の意識、異世界にあんの?」


四葩も常一も、そもそもが清遠に懐疑的だ。

胡散臭いと言わんばかりに、ふたりは机の上のガラケーを一瞥する。


「うーん、まあ、分かんないけど!物は試しだよ!」

「繋がんなかったら返品しろ。着払いでな」


綴と相生も半信半疑といった様子だが、清遠がただのガラクタを送りつけてくるとも思えない。

それに、請求書に記された金額も、なかなかにそれなりだった。


「じゃあ……ちょっと、やってみよか?」


常一は恐る恐るガラケーを手に取り、電源ボタンを長押しした。

デフォルトらしい待受画面が、ぼんやりと灯る。

最近は通話アプリばかりで、メールなどほとんど使っていない。

まだ、アドレスは同じだろうか。

常一は学生時代に交換した浦のアドレスを思い出しながら、ぎこちない手つきでガラケーに打ち込んだ。





「何なのよ、ここは……!」


階段に座り込んだ浦は、パンパンに張った足からヒールを脱ぎ捨てた。

その隣で、さすがの錫もうんざりした様子でしゃがみ込んでいる。

結果から言おう。黄泉比良駅は、ダンジョンと呼んでも差し支えのない、巨大で入り組んだ駅であった。


まず、二人がホームから階段を上がった先は、だだっ広いコンコースだった。

人工大理石の白いタイルが隙間なく敷き詰められ、床の左右には点字ブロックが途切れることなく延びている。

等間隔に並んだ柱には、注意事項を記した紙が無造作に貼られていた。

『後方確認は不要です』『合流・再集合はできません』など、意味はよく分からない文言ばかりだった。


壁の案内サインも同様だ。

見つけた時は喜んだが、行先を示す矢印は上下左右、果ては斜めにまで伸びていて、どれがどこを指しているのか判然としない。

おまけに、読み方の分からない文字まで混じっている。

つまり、全く案内になっていなかった。


それでも、ほうぼうを歩き回って数時間。

〈販売中止〉の紙が貼られた券売機や、シャッターの降りた売店、準備中の札がかかった立ち食いそば屋を見つけた。

駅員室もあったが、不在らしく、何度かノックしてみても誰も出てこなかった。

エレベーターも見つけた。使用できそうだったが、軽率に乗るのははばかられて、ひとまず様子見とした。


とりあえずの収穫といえば、ふたりが降りた路線が〈魂魄連絡線〉という名前だと分かったことだ。

しばらく歩いた先に電光掲示板があって、時折、行き先が表示される。

それに『魂魄連絡線 約3分後 初七日方面』とあったのだ。

しかし、こんなに広いのに、いや広いからなのか、他に探索しているような人はいなかった。

それとも現在は、浦たち以外に切符を持つ人がいないのか。

元のホームへ戻ってみても、誰ひとり疑問を抱いている様子はなく、皆、ぼんやりと待ちぼうけているだけだった。

そして、ときどき〈初七日〉行きの電車が来て、何事もないように乗り込んでいく。


「電波が拾える場所もないわね」

「当たり前でしょ。そもそも現世と繋がんないだろうし」


事故の時点で、錫は浦の忘れ物以外、何ひとつ所持していなかった。

スマホもなく、最初から外からの助けを期待していない。

それでも、浦は諦めずに端末を操作していた。


── だって、常一なら、もしかしたら。


浦が聞いただけでも、この短期間で、常一は信じがたい経験をいくつもしている。

それに本人でなくとも、常一が話していた古書店の霊能力者や占い師に繋げてくれれば、あるいは。


そんな淡い期待を、捨てきれずにいたのだ。


「コールはかかるんだけど……あら?」


いつの間にか、メールアプリのアイコンに赤い丸と〈1〉の数字が灯っていた。


「新着メール、一件……?」





「綴ちゃん! 見て!」


浦にメールを送ってから、一時間後。

灯亡書房に残って仕事をしていた常一の手元で、あのガラケーのお知らせランプがピカッと光り、短い通知音が鳴った。


反射的に受信メールを確認する。

画面には、浦のアドレスと【Re: 常一です】という件名が表示されていた。

メールを開くと、本文は簡潔に二行だけ。


【黄泉比良駅で迷子よ 葦原環状線を探してる】


「黄泉比良駅……?」


「字面だけ見れば、黄泉……つまり、死後へと続く場所だと思うけど」


綴は「あ」と小さく声を上げ、何かを思いついた様子で、オカルト雑誌の並ぶ棚を漁り始めた。

やがて一冊を引き抜き、表紙をトントンと指で叩く。


「十年以上前の発行だけど……」


「異世界への扉?」


表紙には、古印体で〈異世界への扉〉と特集名が大きく刷られている。


「僕の記憶が確かなら、ここにそんな駅の記載があった気が……あ、ここだ」


綴は雑誌をぱらぱらとめくり、あるページを開いて皆に示した。





秋の特大特集! 異世界への扉

── 帰れなくなる駅の記録 ──


あなたは、道を間違えたことがありますか?

それは本当に「道」だったのでしょうか。

近年、都市部を中心に「存在しない駅に降り立った」という証言が、断続的に寄せられています。

本特集では、そうした“帰路喪失型空間”の中でも、特に報告例の多い一地点を取り上げます。



黄泉比良よもつひら


── 生と死の狭間に出現する境界駅


黄泉比良駅は、現在確認されているいかなる公式路線図にも記載されていない駅名である。

国土交通省、各鉄道事業者の公開資料を含め、該当する名称は一切見当たらない。


しかしながら、インターネット上の体験談や匿名掲示板への投稿を精査すると、複数の投稿者が驚くほど一致した構内構造を証言していることが分かる。


「都会の巨大ターミナルのように複雑で、複数の路線に接続している」

「駅員は存在する」

「エレベーターで“下”に行くのは避けた方がいい」


これらの証言は、投稿時期や発信元が異なるにもかかわらず、細部に至るまで共通点が多い。


なかでも特に多く報告されているのが、電車の行き先表示である。

〈初七日〉〈葦原〉といった、明らかに宗教的、あるいは死生観を想起させる語彙が用いられている点は、注目に値するだろう。



■ 駅にいる「人々」


目撃談によれば、構内には常に一定数の乗客がいるという。

彼らは黄泉比良駅で下車し、ホームで次の電車を待つ。

そこに疑問を抱く様子は見られず、電車が到着すれば、当たり前に乗り込んでいく。


あくまで取材班の推測であるが、黄泉比良駅で下車する人々は、いわゆる「生と死の狭間」にある状態であり、この駅で命の審判を待っているのではないだろうか。

そしてその結果が「死」であった場合、彼らは再び電車に乗り、どこか別の場所へと向かう


なお、複数の証言を総合すると、その審判の大半は「死」である可能性が高い。



■ 帰還者の証言


黄泉比良駅から帰還したとされる例は極めて少ない。

具体的な帰還方法については、再現性のある報告は確認されていない。

これらの現象について、専門家の見解は分かれている。

脳の錯誤、臨死体験による幻覚とする説も根強い。



■ 編集部より


本記事は、複数の投稿・取材記録を元に構成されています。

記載内容の真偽について、当編集部は断定的な結論を出すものではありません。





「返事は? 来た?」


錫が浦の手元を覗き込み、スマホの画面に視線を落とす。


「まだよ。ちゃんと返信できたかしら……」


浦は端末を握り直し、親指で無意識に画面をなぞった。

待機マークがくるくると回るばかりで、新しいメールは一向に更新されない。


「常一クンだっけ? どうやってアクセスしたんだろうね?」


メールアプリを開き、件名に『常一です』と表示された時は、思わず目を疑った。

こちらからはいくら試しても、電話もメールも一切繋がらなかったというのに、一体、どんな方法を使ったのか。


本文にはこうあった。


『浦へ

お前が昏睡状態になって二週間経ってる

どこに居る? 無事か?』


二週間。そんなにも長い時間が経っているなんて、到底信じられなかった。

錫に伝えると、彼も「マジ!?」と顔色を変えた。

こちらとあちらでは、時間の進み方に齟齬があるのかもしれない。

だとすれば、この通信にもタイムラグが生じる可能性がある。

返信しても、すぐに届かないかもしれないし、その逆もまた然りだ。

そもそも、無制限にやりとりできる保証すらない。


疑問は次々と浮かんだが、ひとまず余計なことは考えないことにした。

現状だけを簡潔に打ち込み、返信する。

それが、二十分前のことだ。


「常一ね、おもしろい人たちと知り合いなのよ。この間も、その人たちと一緒に、相当ヤバい人形を退治したって話してたわ」


浦が教えた占い師の噂話は、結果として常一に妙な縁をもたらした。

心霊配信動画の編集という仕事もそうだが、なにより交友関係が、かなり特殊になったと言っていい。

常一が語る古書店の人々とは、浦自身はまだ会ったことがない。

それでも、彼らのことを話す常一はいつも楽しげで、親しい間柄であることが自然と伝わってくる。

だから今回も、十中八九、彼らが助力してくれているのだろう。


「へぇ、そっかァ」


軽く伸ばした語尾とは裏腹に、錫の表情はどこか思案気だった。


「……返事ばかり待ってても、進展しないわよね」


浦は変化のないスマホの画面から目を逸らし、よいしょと腰を浮かせてヒールを履き直す。

床に踵を下ろす音が、コツンと小さく鳴った。

錫もそれに倣うように、ひょいと立ち上がる。

ぐぅっと背筋を伸ばして、ぱっと脱力した。

そして、何か良いことを思いついたとばかりに、にぃっと口角を上げた。


「じゃあ、一回乗ってみる?」





「バーのゴミ出し?」


「そう。何か知らんけど、浦、バーのマスターと一緒におんねんて」


朝食用の冷凍焼きおにぎりが電子レンジの中でくるくる回るのを、二人並んで眺めながら、常一は四葩に事の次第を説明していた。


浦とのやり取りは、昨夜、灯亡書房を出たあとも続いていた。

返信の速度はまちまちで、即座に返ってくることもあれば、二、三時間まったく音沙汰がないこともある。


常一は、綴が見つけた雑誌の記事を写真に撮って添付した。

しかし、どうやら向こうでは写真は閲覧できないらしい。

そこで、役に立ちそうな部分だけを抜き出して打ち込み、改めて送った。

それに対する浦からの返信には、内容が「同行者の話と似ている」とあった。

同行者とは誰のことかと尋ねると、行きつけのバーの店主だ、という旨が返ってきた。


そして、メッセージの最後には追伸が添えられていた。


『小波のお友達へ

 バーが片付け途中 燃えるゴミは木曜 鍵はポスト! 頼んだ!』


メールを読み返して、常一はしばし目が点になった。

生死の境にいる人間が、ゴミ出しの段取りを気にしている場合か。

心配すべき点が、どうにもズレている。


「そのマスターは、何で死にかけてんの?」

「それがな、浦と一緒に線路に落ちたらしいねん」

「は? じゃあ、その身体はどこにあんの?」


常一も、まったく同じ疑問を抱いていた。

浦と一緒に線路へ転落したのなら、当然、同じ現場で救助され、同じ病院へ搬送されているはずだ。

だが、浦の母親からは、そんな話は一切聞いていない。

知っているのに言わない理由もないはずだ。


「まぁ、バーの片付けついでに駅も見てくるわ。何か分かるかもしれん」


電子レンジが、ピーピー、と間の抜けた終了音を鳴らす。

常一は皿まで熱くなった焼きおにぎりを取り出し、自分の分と一緒に四葩へ差し出した。


「ふーん。だったら俺も行く」


それを受け取りながら、四葩が言う。


「え、めずらしい」

「その代わり、動画のネタにさせてもらおうぜ」


好奇心と打算が半々に混じった表情で、四葩はにんまりと眉を上げた。





ビジネス街に近い、飲み屋が軒を連ねる大通りから一本外れた、寂れた路地にそのバーはあった。

看板らしいものは見当たらない。

あるのは、ドア上部の半円形のガラス窓に印字された〈BOOK BAR R〉の文字と、その下に掛けられた「読書家のみ入店可」と記された小さな額縁だけだ。


「これは、商売っ気のない店やなぁ」


そう呟きながら、メールに書かれていた通りに、常一はドア横のポストへ手を突っ込んだ。

チラシやハガキをかき分け、底に沈んでいた鍵を引き抜く。


「いまどき、ポストに鍵隠すって……あぶねぇな」

「おじいちゃんなんちゃう? ……おじゃましまーす」


滑りの悪い鍵穴にやや手間取りながらも、常一はドアを開けた。

木の匂いに混じって、バニラを思わせる甘い香りが、かすかに漂ってくる。

薄暗い店内を手探りで進み、壁際の照明スイッチを押し上げた。

吊り下げ式のランプが、ぱっと優しい光を灯す。


店内は、想像よりもこじんまりとしていた。

一人掛けのソファ席が三つに、カウンターにはスツールが四脚だけ。

そして、壁にも床にも、そこかしこに本が置かれていた。

ウイスキーやスコッチの瓶が並ぶ棚に目を凝らすと、そこにはキープボトルならぬ“キープブック”が並んでいる。

大小さまざまな書籍のページには、〈誰々様〉と記された札付きの栞が、それぞれ挟まれていた。


「読書家の集まるバーってわけか」


四葩が、手近にあった洋書をぱらぱらとめくりながら言った。

綴に教えたら、きっと喜びそうな趣の店だ。


カウンターの奥には細い扉があり、その先には、梯子のように急な角度の階段が続いていた。

下からでは、二階の様子はほとんど窺えない。

ただの好奇心から、二人は両手をつき、慎重に二階へと上がっていった。


辿り着いた先は、壁一面を凸凹の本棚で埋め尽くした、まるで学者の研究室のような部屋だった。

不揃いの椅子や書き物机がそちこちに置かれ、年季の入ったランプや使いかけの鉛筆、ビスケットの入った硝子のジャーなどが、雑多に並んでいた。

休憩室兼倉庫、といったところだろう。


四葩がふと足元に目を落とし、指を差す。

そこには猫ちぐらと、猫用の液状おやつの空袋があった。

猫を飼っているのだろうか。だが、肝心の姿は見当たらない。

もし普段から中と外を行き来しているのだとしたら、この二週間、寝所に入れず困っているはずだ。

何事もなければいいのだが。


家捜しが目的ではないため、二人はそこそこで一階へ戻り、店の片付けを始めた。


「言うて、そんなに散らかってもないなァ?」

「冷蔵庫の余り物を捨てて、あとは洗い物くらいか」


マスターは、掃除の途中で店を出たのだろう。

ほうきとちりとりが、使いかけのまま置きっぱなしになっている。


ここから一体、どんな経緯で浦と一緒に線路へ落ちる事になるのか。

マスターについての解像度は、考えれば考えるほど、ぼやけたままだった。



「よし、こんだけやれば取材もオッケーだろ」


裏のゴミ置き場に燃えるゴミを出し、四葩は満足げに常一を振り返った。

バーの片付けを済ませ、表には『誠に勝手ながら、しばらくお休みします』と書かれた貼り紙を出し、店の鍵も預かることにした。


ここまでやっておけば、さすがにこちらの要求を無碍にもできまい。

浦とマスターが無事に帰還したあかつきには、黄泉比良駅について、インタビュー形式で動画を撮らせてもらう算段だ。


「そんじゃ、駅に行ってみますか」


バーから最寄りの駅までは徒歩で十五分ほどだった。

相対式ホームを備えた高架駅で、コンコースは一階、ホームは二階にある。

改札口は一階に一か所、二階には二番ホームへ直通する改札が設けられていた。


入場券を買って、改札を抜ける。


当然ながら、現在は通常運行だ。

浦が落ちた二番ホームのどこにも、事故の痕跡らしきものは何一つ残っていない。


「全景も撮っとく?」

「いや、特定されない程度にしとこう」


動画でも使えるよう、常一はホームや改札周りをスマホで数枚、手早く写真に収めた。

ひと通り撮り終えると、改札口に立っていた年若い駅員に声をかける。


「二週間前の、終電で起きた事故の件なんですが……」


そう切り出すと、駅員は「あぁ」と小さく頷いた。

怪しまれるのも避けたかったので、常一は自分が彼の友人であること、そして彼が今も昏睡状態にあることを、包み隠さず伝えた。


「……車体との接触はなかったはずなんですが」


駅員はわずかに目を見開き、困惑したようだった。


「それで、あの……落下したのって、彼だけでしたか? もう一人、いませんでした?」


改めて常一がそう尋ねると、駅員は即座に首を横に振った。


「いえ……防犯カメラにも、男性一人しか映ってなかったはずです」


そこで言葉を切り、駅員は、はたと黙り込んだ。

眉間に皺を寄せ、頭の中で映像を巻き戻すような仕草をする。


「あ……」


駅員は、やがて思い出したように、ぽつりと付け加えた。


「それと、ねこが一匹」

「ねこ?」


常一は四葩と目を合わせ、聞き返す。


「はい。落下する男性に飛びつくみたいに、ねこが走ってきたんです」


その猫は、事故直後に近くの動物病院へ搬送されたらしい。

目立った怪我はなかったものの、浦の体の上に重なるようにして気を失っていたという。

関係があるかは分からない。だが、偶然にしては妙だった。

二人は駅員から動物病院の場所を聞き、実際に行ってみることにした。


礼を言って踵を返しかけたとき、駅員が一度、なにか言いかけて口を噤む。


「……いえ。見れば、分かりますよね」


そう言って俯いたきり、それ以上は何も語らなかった。

問い返そうとした常一の声は、次の客の呼び掛けに遮られる。

駅員は慌ただしく応対に戻り、その背中はもうこちらを振り返らなかった。


ふたりは仕方なく来た道を引き返し、コインパーキングに停めていた四葩の車に乗り込んだ。

ドアを閉めた瞬間、外の喧騒が遮断され、車内に短い沈黙が落ちた。

助手席で四葩がスマホを操作し、『水瀬動物病院』と入力する。

その画面を横目に見ながら、常一は強くアクセルを踏み込んだ。





錫の提案に乗り、二人はエレベーターの前に立っていた。

ぱっと見た限りでは、何の変哲もない、ごく普通のエレベーターだ。

金属製の扉は固く閉ざされ、脇には〈呼〉と書かれたボタンがひとつだけ付いている。

階数表示は見当たらない。

上下何階まで行けるのか、そもそも今が何階なのかすら分かっていない。


錫がボタンを押すと、ゴウン、と低く電気の通る起動音が響いた。

ほどなくして扉が開き、二人は中へ足を踏み入れる。

広くも狭くもない、清潔で、ごく一般的なつくりだ。

だが、階数ボタンは〈上〉〈中〉〈下〉の三つしかない。

そして現在、点灯しているのは〈中〉だった。


「どっちを押す?」

「やっぱ、上がる方が良さそうじゃない?」


理由はない。

ノリと勘に従って、錫が躊躇うことなくボタンを押す。


『上へ参ります』


無機質なアナウンスのあと、エレベーターはぐんぐんと上昇していく。

それは一向に止まる気配がなく、不安を覚えるほど長い時間が続いた。


『上で御座います』


ようやくエレベーターが動きを止め、扉が開く。

二人は、ほっと息を吐き出し、フロアへと足を踏み出した。

だが、すぐにまた「えっ?」と息を詰めた。


「ここは……駅、なの?」


見渡す限りの黒い大理石の床に、革張りのソファが数脚。

足元には間接照明まであって、まるでホテルのロビーのような光景が広がっていた。


「あ、誰かいる」


錫の視線を追って覗き込むと、カウンターらしき場所に、コンシェルジュ……いや、駅員が立っていた。

少々怖気づきながらも近づくと、向こうから先に声を掛けられた。


「お客様」


帽子の影に隠れて表情は窺えない。

だが、咎める感じはなく、あくまで事務的な声色だった。


「失礼ですが、一般の方は、こちらの改札はご利用いただけません」


「えっと……ここは、何線ですか?」


浦は戸惑いを隠しきれないまま、そう尋ねた。


「こちらは、高天原線の改札となっております」


駅員がそう答えると、錫はすぐに合点がいった様子で、「なるほど、神様専用か」と頷いた。

その言葉に反応するように、駅員がすっと錫のほうへ顔を向ける。


「そちらのお客様は、古典妖怪様でございますね。申し訳ございませんが、現在、妖異線は運行を休止しております。詳細につきましては、移住課へお問い合わせください」


── 何の話だ。

訝しがる浦とは対照的に、錫は「はーい」と利いた風に軽い返事を寄越した。

妖怪、とは。

しかし今は、それを問いただすより先に、聞くべきことがある。


「あの、芦原環状線はどこですか?」


浦がスマホの裏に挟まれた切符を示すと、駅員は即座に答えた。


「申し訳ございません。お答えできかねます」


たったそれだけ。軽く会釈をして、それで終わりだ。


「え、なんで?」

「申し訳ございません。お答えできかねます」


どう聞き方を変えても、返ってくる言葉はそれだけだった。

理由を尋ねても、その理由についてすら答えてはくれない。

まるでゲームのNPCのように、会話は同じ場所をぐるぐる回り続けた。


「行こう、小波。無限ループだよ」


しびれを切らした錫が、浦の手首を引いてエレベーターへ戻る。

〈中〉のボタンを押して、扉が静かに閉まった。

再び、長く重たい沈黙が落ちる。


「あのさ──」


錫が切り出したのと同時に、浦も口を開いた。

一瞬視線がぶつかり、錫が「先、どうぞ」と目で促す。


「……えっと。さっき言ってた“古典妖怪”って、何なのか聞かせてもらえる?」


やや気まずそうに、浦は頭ひとつ分低い位置にある錫の顔色を窺った。

知らぬふりをしても過ごせるだろうが、この状況で要らぬ疑問を残しておきたくなかった。


「あー……うん」


錫は口元をもごもごとさせ、言葉を探すように目を泳がせる。

やがて観念したように、ぽつりと言った。


「実は、オレさ───」





水瀬動物病院は、古く、こじんまりとしていた。

壁の塗装はところどころ剥げ、窓枠には長年の風雨で沈んだ色が残っている。

玄関先に掲げられた看板は日に焼け、白かったはずの地は黄ばんで、文字も輪郭を失いかけていた。

だが、ただ雑に放置されている訳ではなく、今も現役なのだと分かる程度の手入れは感じられた。


休診時間だと承知しつつ、常一たちはそっと扉を開けた。

誰もいない受付に向かって、遠慮がちに「すみませーん」と声をかける。

すると、奥から、白衣姿のおじいさんが顔を出した。


「はいはい、どうしました? 急患かな?」

「あ、いえ……ちょっとお伺いしたいことが──」


事情を説明すると、おじいさん──もとい院長先生は、特に怪訝な顔をするでもなく、診療室へと案内してくれた。

白く磨かれた床は薬品の匂いがほのかに漂い、犬猫のクゥクゥ鳴く声や、ケージを引っ掻くような音がかすかに聞こえる。


やがて院長先生は、一匹の青灰色の猫を腕に抱いて戻ってきた。

そっと診療台に寝かされた猫は、身じろぎひとつしない。

やや大きめのしっかりとした体つきに、手入れの行き届いた毛並みをしている。雨ざらしの野良猫ではなさそうだった。


「この子だよ。体に異常はないんだけど、二週間、ずっと寝たきりでねぇ」


院長先生は診察台の上の猫に手を伸ばし、慣れた指先で首元から背を撫で下ろした。

その手つきには長年、命を預かってきた人間特有の温かみがある。

猫は目を閉じたまま、わずかに胸を上下させていた。

眠っているというより、深い底に沈んでいるみたいに静かだ。


「飼い主の目星もつかないけど、保健所なんて情がないじゃない」


困ったように笑う院長先生に、常一も「えぇ、まぁ」と曖昧に相槌を打った。


「あの……引き取ること、できますか?」


少し間を置いて、四葩が遠慮がちに手を挙げた。

まさか彼の口からそんな提案が出るとは思っておらず、常一は少なからず驚く。

これも動画撮影のための打算なのか、それとも、この猫そのものへの素直な興味なのか。


いずれにせよ、浦と繋がっているかもしれない猫だ。

引き取るという選択に異論はなかった。


「かまわないよ。でもね」


静かに上下する猫の身体を、院長はぽんぽんと労わるように撫でながら頷いた。


「見ての通り、ただの猫じゃあないから。気にかけてやってね」


三人の視線が、自然と一点に吸い寄せられる。

院長先生があまりにも当たり前のように猫を扱うので、あえて口にはしなかったが──やはり、見間違いではない。



その猫には、尾が二本あった。






2026.01.15

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