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ゴーストライター  作者: 佐田読子


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06【鏡の瞳】

 

映汀様は、妹の婚約者でした。

妹といっても、異母の妹でございます。

彼女は正妻の子、私は妾腹の子。

父は貿易商で、異国の女と火遊びをしてできたのが、私です。


だから私は屋敷の離れで育てられ、母(こう呼ぶといつも烈火のごとく怒られますが)の許しがなければ、庭に出ることさえ叶いませんでした。


母は妹を伴って離れにやって来るたび、決まって私を罵られます。


「卑しい身分のお前に、離れを与えてやるなんて!」

「なんて下品な顔……。母親の血がそのまま滲み出ているわね」

「その気味の悪い目、見ているだけで虫唾が走る」


妹はといえば、女学校での学びや友人との交流、街の流行りものなどを、得意げにピーチクパーチクと語ります。

そして、最後には決まってこう言うのです。


「あたしは望まれて生まれた子だから。あなたとは違うの」


父は、私を愛していたと思います。

赤子の私を屋敷へ迎え入れると、母の強い反対を押し切って、乳母まで雇ってくださいました。


「君の母親も、美しい灰色の瞳をしていた。だが、おまえのそれは、さらに美しい。……ほら、父様を映してごらん」


父は、ことのほか私の瞳を気に入っておられました。

私は生まれつき、水面のように景色を映す、銀に輝く瞳をしております。

父はそれを「鏡の瞳」と呼びました。


それで、映汀様のことですけれど。

妹は十六の年に婚約いたしました。

わが家は財に恵まれておりましたけれど、男児に恵まれなかったため、婿養子を迎えることになったのです。

映汀様は、外国語に堪能で、学問にも秀でた方でした。

妹はたいそう気に入っており、映汀様のことを頭のてっぺんからつま先まで褒めては飽きませんでした。

女学校でも羨ましがられているのだと、得意げに申しておりました。


「やあ、君が離れの主か。」


母も妹も、私のことは秘密にしていたようです。

離れは倉庫にしているだけだとか、古くて汚くて足場が悪いだとか、そう説明していたのだとか。

けれど、映汀様は好奇心の旺盛な方です。


「絶対に入るなと言われてね。

 そう言われると、かえって気になるじゃないか。」


初めてお会いした映汀様は、妹が言うほどの美丈夫ではありませんでした。

父以外の殿方を見たことがなかった私ですけれど、顔立ちの整い方でいえば、父の方が勝っていたと思います。


「君を見れば、事情は何となく察するよ。」


だけど、聡明で大人びた方ではありました。

映汀様は、母や妹の目を忍んで、たびたび離れへ足を運んでくださいました。

時には本を携えて、時には異国の香りのする小さな包みを手に。


「これは、英国の紅茶だよ。香りを嗅いでごらん」

「こっちは、上海の絹の端切れだ。

向こうでは、これで子どもの肌着を縫うらしい」


港の話、異国の文化の話、音楽や機械の話。

私の知らないことを、たくさん教えてくださいました。



「君は、外へ出たいと思わないのか」


あれは、いつだったでしょう。夕暮れのことです。

格子窓から射す橙の光のなかで、映汀様がそう仰いました。


「外……考えたこともございません」

「そうか。しかし、君の瞳は閉じこめておくには惜しい。

 外の景色を映したら、きっともっと美しく光るだろう」


そんなことを言われたのは、初めてでした。

母と妹はこの瞳を気味悪がり、父はただ、うっとりと眺めるばかりです。

だから、何とお返事をすればよいのか分からず、私は黙ってしまいました。


「鏡子──」


映汀様は、そのあと何と仰ったのでしたっけ。

躊躇うように、彼の指が私の袖を引いたことだけは覚えているのですが。



「ほら、ご覧になって。美しいでしょう」


妹が、庭から見える母屋の一室を指さして言いました。

開け放たれた障子の向こう、座敷の中央には、金糸の刺繍が施された打掛が掛けられていました。

陽の光を受けて、鳳凰の文様が淡くきらめいています。


「アタシのものよ。結婚式で着るの」


妹は得意げに笑いました。

めずらしく私を庭へ連れ出したのは、このためだったようです。

私は、あの豪奢な打掛を羨ましいとは思いませんでした。

けれど、あれを纏い、映汀様のとなりに立つというのは。

それは、どれほど幸福な気持ちなのかを想像していました。


八月。

あの夏のこと、私、死んだって忘れません。


夏祭りがあるとかで、数日前から妹は浮き足立っていました。

新しい帯を誂え、簪を選び、わざわざ私に見せびらかしていました。

私には関係のないことです。

夏祭りなんて、夜になると花火とかいう腹の底まで響くドンドンという音が鳴るだけの、ただ喧しい日。

それに、妹は映汀様と一緒に行って、女学校の友人たちに紹介するのだとか。

アベックがどうこうと言っていましたけれど、私にはどうでもいいことでした。


「ねえ、一緒に夏祭りへ行かないか?」


だから、映汀様にそう誘われたときは、さすがに面食らいました。


「私、外には行けませんよ」


そう申し上げても、映汀様は飄々としておられました。


「屋敷の者たちは皆、祭りへ出払うんだろう? 

 ほんの少しの間なら、誰にも気づかれはしないさ」


「……妹は、どうするんです?」


「なに、祭りというものは、人の波で溢れ返る。

 ツレとはぐれるなど、よくあることだよ」


「でも、祭りに着ていける浴衣も、下駄もありません」


「君の妹君が、たんと持っているではないか。

 いくつか拝借しよう。君にも似合うはずだ」


映汀様は、悪戯を思い付いたこどものように楽しげで。

私はそれ以上、彼に考え直して頂ける言い訳を見つけられませんでした。



母屋の忙しない気配が、嘘のように静まり返った夜。

額にじわりと汗を浮かべた映汀様に手を取られ、私は生まれて初めて、外の世界をこの瞳で見ました。


裏口から続く細い路地を抜け、大通りの雑踏。

香ばしく焦げる焼き鳥の匂い、金魚すくいの水に揺れる灯のきらめき、綿飴を抱えた子どもが駆けてゆく笑い声、遠くで鳴る拍子木、何十もの風鈴を一斉に鳴らす風。


赤い提灯の列の下、浴衣の裾が擦れ合う音が、波のように道を流れていました。


「余所見をすると、はぐれてしまうよ。僕だけ見ていて」


映汀様はそう仰って、混み合う人波を避けるように、私を川辺の方へと導きました。


露店のざわめきが次第に遠のき、灯の数もまばらになります。

もう顔を隠す必要もないと思い、私はお面を外しました。

熱の籠った顔が夜風にさらされ、柳の葉は揺れて、かすかに囁く。


やがて遠くで笛の音が細く響いたかと思うと、

──ドン。ドドン。


夜空に大輪の光が瞬きました。

紅、藍、金、白……色とりどりの火の花が、咲いては散ってゆきます。

あの喧しいだけだと思っていた花火が、これほどに美しいものだったなんて。

私が息を呑み、映汀様を振り返りますと、彼は静かに私を見ておられました。

花火の音のたびに、そのお顔に光がぱっと射して……なんと、優しいお顔でございましょう。


「君の瞳に映る花火の方が、ずっと美しいね」


そう言われて、胸の奥に、泣くとも叫ぶともつかぬ疼きを覚えました。


映汀様は懐から小さな包みを取り出し、紅い紐の簪をそっと差し出されました。


「君の瞳に似ていたから。鏡細工の玉なんだ」


掌の上のそれには、光を映す小さな鏡玉がついていました。

花火が再び空に咲いたとき、その玉の中に、私と映汀様が寄り添うように映り込んでおりました。


「鏡子、僕には君しか──」


あの夜、世界でいちばん美しかったのは、花火でも、祭りの灯でもありません。

映汀様が私を見つめてくださった、その一瞬です。



そして、その夜を境に、すべては終わりへと傾いてゆきました。



「この───泥棒猫ッ!」


母の癇声は、離れの襖を震わすほどでした。

映汀様が密かにここへ通っていたことが、母に露呈してしまったのでございます。


あの祭りの夜、留守を預かっていた女中のひとりが、映汀様が忍び込む姿を見ていたのです。

私が外へ出た事は知られていないようでしたが、そんなことは何の助けにもなりません。


「アンタの母親と同じじゃないの! 

 妹の婚約者をたぶらかすなんて、どこまで恥知らずなの!」


母は烈火のように声を張り上げ、何度も何度も、私の頬を打ちました。


「物珍しかっただけよ、そうでしょう! 

 妾の子のくせに!分を弁えなさい!」


髪を掴まれ、引きずり倒され、それはそれは酷い折檻でございました。


「アンタに人としての幸せなんて、有り得ない!

 妾腹の子は、所詮妾腹の子よ!」


このまま屋敷を放り出される勢いでしたが、幸い、そうはなりませんでした。

但し、母は父にさえ離れへの出入りを禁じました。

戸口には堅牢な閂が打ち据えられ、私は完全に籠の中の鳥となったのでございます。


格子窓がひとつの私の部屋は、朝も昼も薄暗くって退屈です。

けれど、映汀様がくださった簪を撫ぜれば、私はいつでもあの夜を鮮明に思い起こせました。

この鏡の瞳に映した、美しい祭りの夜。

あの夢のような煌めきを。



飽くことなく繰り返し、繰り返し。

幾日も、幾日も。



やがて冬が訪れて、しんしんと雪の降る夜のこと。

静けさの中、ガタンと閂の解かれる音がいたしました。

食事の刻でも、呼びつけを受けた記憶もございません。

私は恐る恐る、戸に手をかけました。

頬を刺すような冷たい風が吹き込み、庭にはすっかり雪が積もっております。

吐いた白い息がゆらりと揺れた、その向こう。


私は、すべてを理解しました。


気づけば裸足のまま、ふらりと庭へ踏み出しておりました。

母屋の方では、半ば開かれた障子からあかりが洩れ、金糸の打掛を纏う妹の姿が見えました。

その傍らには、紋付袴の映汀様が、凛と座しておられます。


母は、これを私に見せつけたかったのです。

妾腹の娘にふさわしい屈辱として。

妹の婚約者に心を寄せた、愚かな女への罰として。



「嗚呼、」

私の瞳には、いま、地獄が映っている。



「……本日の佳き日に、謹んでお誓い申し上げます」


障子越しに、映汀様の宣誓が聞こえます。

その御声に曇りはなく、時おり、妹へとやわらかな微笑みを向けているように見えました。



それならば。

ふたりの新たな門出に、私もひとつ、贈り物を捧げましょう。



袂に忍ばせていた、あの簪を取り出します。

映汀様の指先がふれた箇所に唇を寄せ、そして、ためらうことなく瞼へと押し当てました。


白く積もる雪に、紅が滲みひろがってゆく。

その上を、ころりと落ちた鏡の瞳が転がりました。



「今より後は、千代に八千代に睦び親しみ──」



これは祝福ではございません。


呪いでございます。




 *



原稿用紙の上を走っていた常一の指先が、止まった。


「瞳は、鏡子の父親が見つけて、ひそかに保管していた。

  そして晩年、病に伏せた折に、娘婿の映汀へ託したんだ」


そこへ、綴が言葉を添える。


鏡の瞳から吸い上げた、生前とその後の記憶。

とりあえず書き起こしだけは終わったと綴から報告を受け、常一もせっかくだからと読ませてもらったところだ。

原稿の続きをパラパラとめくりながら、常一は何とも言えぬ表情で小さく呻いた。


「瞳だけになってからの記憶は不明瞭だし、支離滅裂な箇所が多いんだ。

ただ……鏡子は、映汀が再び瞳に映り込んだことを、心の底から喜んでいたよ。

 ほとんど、狂気に近いほどにね」


綴が万年筆で書き起こしたのは、鏡の瞳の記憶に過ぎない。

ゆえに、映汀の心境は推測するしかない。

だが、彼が瞳の呪いに囚われたのは疑いようもなかった。

原稿には“朝な夕なと見つめ合った、擦り切れるほど”という一文があり、異様な親密さと執着を滲ませている。


当時、映汀にはすでに妻との間にひとりの男児がいた。

だが、それ以後の家庭の様子は、記憶の端々から察するに明らかに破綻していた。

仕事に没頭するか、あるいは鏡の瞳を見つめ続けるか。

彼の生活は明らかに歪み始めていた。

やがて彼は、自室を母屋から離れへと移す。

理由は記されていない。けれど、誰にも邪魔されずに、瞳と時を過ごしたかったのだろう。


常一は、原稿に残された掠れた筆跡の「おかえりなさい」という文字に、苦い唾を飲み込んだ。


「やがて映汀は、瞳を手に、ある人形師を訪ねた。

 そして鏡子の姿に似せた人形を作らせ、その瞳をはめ込んだんだ。

 それが、あの鏡呼人形ってわけ。」


人形を屋敷へ持ち帰った映汀に、屋敷中が震え上がった。

映汀と鏡子の不義を知るのは、両親とごく一部の女中のみだった。

だが、生前の扱いに輪をかけて、死に様が死に様である。

不遇の姉に瓜二つの人形。しかも、その瞳はまるで本人そのもの。

恐怖に染まる屋敷の面々を、鏡の瞳は一人残らず映し出していた。


やがて人々は囁く。

日照雨家は呪われたのだ、と。


「妻……つまり妹は半狂乱で霊媒師の類を呼んだり、人形を壊そうとしたり、あれこれ奮闘したみたい。

 でも、映汀の守りは堅かったし、瞳の呪いも一筋縄ではいかなかった。

 結局、妹の方が心を病んで早くに亡くなったみたい。」


そして、映汀は死期を悟ると、その人形を息子へ託した。

息子はまた、その息子へと受け継ぐ。

鏡の瞳は代々、日照雨家の男たちを魅了し、やがて信仰の名を借りた狂気へと変異していった。


「……まさに、末代まで呪ってやるってやつだな」


常一の向かいで話を聞いていた四葩が、両腕をさすりながら身をすくめる。


「映汀もそれなりに好いてはいたんだろうが、全てを捧げるほどじゃなかったわけだ。

 ちょっかいを出す相手を、大いに間違えたな」


相生が棚にハタキをかけながら口を挟む。


映汀にとっては一時の情でも、鏡子にとっては生涯にただ一度の恋だった。

その重さは推して知るべし。

“縁がなかったのね”の一言で、泣き寝入りなどしてくれるべくもない。


「でも……あの瞳は、ほんまに綺麗やったもんなぁ」


常一は原稿をめくる手を止め、表紙に記された《鏡の瞳》の文字をじっと見つめた。

脳裏に、鏡呼人形の水面のような瞳の輝きが浮かぶ。

底知れない、けれど、見つめ合えばきっと覗かずにはいられない美しい光 ──


「常一。余所見してたら、またはぐれるよ」


綴がそう言って、原稿をひょいと取り上げる。

すかさず相生が、常一の背をハタキでパンッと叩いた。


「おい、まだ未練タラタラか?」

「……あ、あかん、あかん」


常一は我に返り、頭をぶんぶんと振った。

おととい、念のため瓢からお祓いを受けたというのに、あの瞳の記憶が今も頭のどこかで瞬いている。

時間が経てば薄れると言われているが、まったく厄介なものだ。


「…………俺、もう二度と四志磨さん案件は関わらん」


常一がげんなりと呟くと、四葩が「だから言っただろ」とばかりに消臭スプレーをシュッと放った。






【鏡の瞳・完】



2025.11.25

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