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ゴーストライター  作者: 佐田読子


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05【鏡の瞳】


鏡呼様、ああ、愛しき我らの神よ──

朝露のごとく清らかな光を宿す、鏡のご双眸。

この世にあるすべての鏡を、いま、我が手で打ち砕きたい。

あなたの御瞳だけに、この身を、魂を、永久に映し続けるために。

永遠に、ただあなたの御瞳のみを見つめ、ただあなたの御名のみを呼びたい。

我らが不浄の魂を、愛し、赦し、受け入れてくださる唯一の方。


鏡呼様。


鏡呼様、鏡呼様……鏡子よ、僕には君しか ──




「一途、鼻血出てる」


相生の声に、綴はふっと現実へ引き戻された。

ぽたり。

赤い滴が原稿用紙に落ち、文字の隙間をじわじわと染めていく。

握っていた万年筆をそっと机に置き、相生が差し出したちり紙を受け取った。


「……集中しすぎたみたい」

「信仰がらみだからな。負担がでかいんだろ」


鼻を押さえたまま、綴は胡座をかいた相生の膝へ身を預けた。

もぞもぞと頭の位置を整えると、先ほど書き起こした一枚の原稿用紙に手を伸ばす。


「あの黒い怪異は、ただの感情の煮こごりだ。大した情報はなかったよ」


映御の会の洋館で、最初に対峙した黒い怪異。

おそらく元は、あの部屋に寝かされていた男性信者三人の遺体の残穢だ。

だが、あの場に蔓延った信仰心から成る妄執を吸い込み、凝り固まって変異したのだろう。


映御の会の信仰に至る経緯や共同生活の記憶、そしてくり抜いた目玉の行方……そうした生前の記憶は、もはや残っていなかった。


「凰さんから連絡あった?」

「ああ。切り取った撮影データがいくつか送られてきた」


相生がスマホを操作し、カメラフォルダを開いた。

画面に並んだ薄暗い動画を、一つずつ再生していく。


まずは祭壇。

そこに硝子のケースに閉じ込められた人形が、金の刺繍をまとった打掛姿で静かに鎮座している。

正面には一脚だけ、ぽつんと置かれた椅子。

供えられているのは、色を失った花と空の皿。

霊体も、オーラも映ってはいない。

ただの記録映像。


そう思った矢先だった。


最後の一つ。

カメラを下ろす寸前に撮られた、やや引きの画角。

その中で、人形の顔が、ほんのわずかにこちらを向いていた。


……鏡呼は、まだ息をしている。


「あと、四志磨が映御の会についての追加資料もメールしてきた。」




────────


件名:映御の会・追加資料

送信者:清遠 四志磨


本文:

照覧の間について、ちょっと補足。

・入れるのは男性信者と、選ばれた女性信者だけ。

・そこで行われていたのは大きく分けて二つ。


 ①〈照覧の祈り〉

  男性信者を人形の前に座らせ、その瞳に映る姿を“真実の愛の姿”と教え込むもの

 ②〈映瞳礼拝〉

  選ばれた男性信者が人形と一晩を過ごす儀式。

  夜を通して互いに視線を交わし続け、神と対話する


上位の女性信者は「神の器を清める役目」とされ、祭壇の飾り付け、人形の拭き清め、衣装替えなんかを担っていたみたい。

一般信者は人形を直接拝むことは許されてなくて、ドアの小窓から御神体を見てたんだって。


以上。

映像データと合わせて確認しといてね。


──────────



「狙った男は目で落とす、魔性の女ってわけだ」


相生が冗談めかして顔をしかめる。

綴は「そりゃ大変だ」と笑って、彼の胸元をぽすっと叩いた。

けれど、その笑みはすぐに薄れる。

実際には、笑い話で済むものではなかった。

常一もそうだったが、あの人形の瞳には、理性を鈍らせ陶酔させる力が宿っている。

男の心を掬い取り、甘い水底へと引きずり込む……そんな性質だ。


精神に作用するタイプは、十中八九、始末が厄介で後を引く。

故に、鏡呼人形の瞳を直視するのはリスクでしかなかった。

だが、あの部屋に足を踏み入れれば、否応なく鏡呼の視線に晒されてしまう。

ならば、全員が目隠しをしたまま鏡の瞳を回収できるか。否、それは現実的ではない。


綴は思考を整理するように目を閉じ、ぽつりと呟いた。


「……やっぱり、常一が必要だね」





「──絶っ対に嫌や!!」


店のガラス戸を震わせるほどの大声で、常一は断固拒否した。

天井の本棚に眠るホコリさえ落ちてきそうな絶叫だ。


「そうだよね、嫌がるのは分かってた。でも、どうしても常一の力が必要なんだ」


綴は身をかがめ、小上がりにそっと片膝を乗り上げる。

まるで子どもをなだめるように、穏やかな声音で説得を試みた。


「完全に囮やん! 俺の体目当てやん!」


常一は座卓に食い込みそうなほどしがみついて、首をぶんぶん横に振る。

隣に座る四葩は、その必死すぎる抵抗ぶりに笑いをこらえきれず、口元を手で押さえた。


たが、常一がこうなるのも無理はない。


なにせ映御の会の洋館から命からがら逃げ帰ってきたのは、つい三日前の出来事なのだ。

恐怖の記憶はまだ新しい。

なのに、店に入るなり綴は、「もう一度同行して」「人形の前に座って」などという正気を疑う要求を口にしたのだ。


「無理やって!! 二度と行かんって言うたやん!!」


常一は、イーッと歯を剥いて威嚇した。

駄々をこねる子ども、そのものである。


「こないだはあんなに行きたがってたのに?」


「だから説明したやん! あれは俺の意思ちゃうねん! ホンマの俺はめっちゃ嫌がってたの!」


四葩がにやにやと揶揄うと、常一は座卓をドンッと叩いて抗議した。

カップの中で、コーヒーに小さな波が立つ。


いきり立つ常一の肩に、綴はそっと手を置いた。

真摯な顔つきで目を合わせ、大真面目に言う。


「常一には、傷ひとつ付けさせないよ。凰さんが」

「他人任せかい!!」


常一は即座に綴の手を振り払って、床に突っ伏した。

肩を震わせて、おいおいと泣き真似をする。

いや、実際にちょっと泣いていた。


「もちろん僕もだし、流転もだよね?」


綴がちらりと視線を送ると、カウンターの向こう、相生が文庫本から顔も上げずに「ん? おう、だな」とおざなりに返事をした。

その頼りなさに、常一はますますベソをかいて身を固くする。


「うそやん! 流兄はいざとなったら綴ちゃん優先するやん!」


「今回は常一ファーストで動いてもらうから!」


綴は力強く断言すると、座卓に身を乗り出して「お願い!」と小型犬のような目で見上げてきた。


「ぐっ……!」


喉まで出かかった拒絶の言葉を飲み込む常一。

何だかんだ言って、普段はこちらが頼んで霊視だ除霊だとお願いしている立場だ。

心霊写真の件でも世話になっている。

恩を思えば、無碍に断るのも気が引けた。


──とはいえ。


前回、自分はかなり危ない橋を渡った。

写真の残穢だけでもあのザマだったのに、直接あの人形の瞳を見てしまったら?

正直、命がいくつあっても足りない。


「じゃあ、ひらりんも来て!」

「バカか? 下見も行かなかった俺が、本番に行くわけねぇだろ」


「優秀なスタッフがどうなってもええの!?」

「まぁ、大丈夫じゃね?」


常一の苦し紛れの誘いをキッパリ拒否した四葩は、おもむろにスマホのメッセージ画面を見せた。


「凰介から、“常一借りる、ちゃんと返す”って連絡来てたんだよね」


「ふざけんな???」


またしても自分の知らないところで話が進んでいることに、常一は青筋を浮かべた。

本人を無視して勝手に貸し出すな。


「四志磨が、常一にも報酬払うって話だよ?」


にっこり笑って補足する綴。

その気遣うような笑顔が余計に腹立たしい。


「常一は本当に座っとくだけだよ?目隠ししてていいんだよ?」


「いやいやいや! 簡単に言わんといて!?」


再び行く行かないの応酬が始まると、ようやく相生が文庫本をぱたりと閉じた。


「……うるせぇな。子どもの喧嘩かよ」


ぼやく声は低いが、目元にはうっすら笑みが浮かんでいる。


「ほら、常一。報酬まで出るんだぞ? 四志磨はロクでもないけど、金払いはいいぜ?」


四葩が片方の眉を上げて、指先で硬貨の真似をしてみせる。

対して常一は拳を握り、即座に反論した。


「金の問題じゃないから!」


いくら貰えたところで、死んだら終わりだ。

ハイリスク・ハイリターンは望んでいない。


ごね続ける常一を前に、綴は一度こめかみを押さえると、改まって姿勢を正した。


「じゃあ、逆に聞くけど──」


指先で机の端を軽くなぞりながら、わざとらしく目を伏せる。


「常一は、僕らが失敗してもいいんだね?」


その問いに、不意を突かれた常一は口をつぐんだ。


「失敗して、僕も、流転も、みーんな鏡呼様に狂わされて──それでもいいんだね」


別れ話を切り出す女のように、綴の顔には影が落ちる。

その声は芝居じみているはずなのに、妙に罪悪感を掻き立てる悲壮感があった。


「……ぐぅ……!」


ぐらつく意思を必死に保とうと、常一は顔をそらす。


「お前、もう諦めろ」


ここで、すっかり呆れた四葩がため息をついた。

彼とて常一の気持ちは痛いほど分かるが、ウンと言うしかないケースはどうしたってあるのだ。


「鏡呼様がマジの神様になっちまったら、綴ちゃんも凰介も手出しできない。神様は祓えないからな。だから後になって鏡呼様が常一を探しに来ても、その時はもう助けてもらえないぜ」


「でも……でも俺……!」


それでも抗おうと頑張る常一だが、断り文句はもうそれほど残っていない。

四葩が言う通り、綴らが失敗した場合にリスクが残るのも確かだ。


「信じて。常一が一緒なら、絶対大丈夫だから」


綴がダメ押しとばかりに囁いた。

あたかも安全は保証されていますといった眼差しで、逃げ場を完全に塞ぎにかかる。


「……っ……!!」


常一は唇を噛みしめ、しばし沈黙した。

が。やがて、観念したように座卓へ突っ伏し、呻くような声を漏らした。


「……わかった……行く……行きますぅ……」


「はい! 常一くんのYES、いただきましたー!」


四葩が高らかに拍手を鳴らすと、ふざけて相生もそれに続いた。

綴は満面の笑みで「ありがとう!」と声を弾ませる。常一の完全なる降伏であった。





── 三日後。

灯亡書房の軽バンは、再び集落へと続く県道を走っていた。


フロントガラス越しに射し込む日差しはやわらかく、道端では保育園児たちが先生の引くカートに揺られながら散歩をしている。

ラジオからは軽快な音楽とパーソナリティの笑い声。


助手席の綴が、ドライブスルーで買ったコーヒーを後ろに回した。


「凰さん、ミルクはいらない?」

「あぁ、ブラックで大丈夫」


香ばしいコーヒーの香りが広がる車内。

常一はミラーレンズのサングラスをかけて、一人黙りこくっていた。


「それ、意味あんの? どうせ目隠しするでしょ?」


清遠が片手でコーヒーカップを揺らしながら、常一のサングラスを横目で見た。


「万が一や。部屋に入る前に、何かあるかも知れん」


常一は真顔のまま、指先でサングラスの位置を直す。

極度の緊張と寝不足のせいで、心なしか顔の彫りが深くなっていた。


「そう? じゃあ、これもやるよ。お守り」


清遠はにっと笑って、ポケットから携帯用の消臭スプレーを取り出した。

怪異に対して効果があるのは、前回で証明済みだ。気休めにしては上出来だろう。

常一は無言でそれを受け取り、胸ポケットにしまい込んだ。


「さて。いくつか、確認しておきたい」


取り留めのない会話が交わされる狭間で、瓢が口を開いた。

軽バンの中に漂っていたゆるい空気が、わずかに引き締まる。

綴は、ラジオの音量を下げた。


「清遠、回収するのは“瞳”だけでいいんだな?」

「うん。ガワはどうなってもいいよ」


清遠が頷く。

狙うのは、人形そのものではない。鏡の瞳だけだ。


「なら、流転は遠慮なく人形をぶっ叩け。怒らせれば、本性を見せるはずだ」


瓢の指示に、運転席の相生がバックミラー越しに無言でまばたきした。


「瞳を取り出せたら、俺が受け取って封じる。それで終わりだ。後処理は清遠に任せる」


「はいはーい、了解です」


清遠はゆるくピースを掲げて応じた。

緊張感の欠片もないのは、そう装っているのか、本当に楽観的なのか。

あるいは、ただの慣れなのか。


「……てかさ、四志磨さんは“鏡の瞳”をどうすんの? 誰かに売るん?」


「まさか。これは、然るべき人に渡すんだ。市場には出ないから安心して」


常一は、何気なく尋ねたつもりだった。

だが、その答えにどこか触れてはいけない含みを感じて、踏み込むのは止めにした。

それに、瞳の行方が鬼の手に渡ろうと仏の手に渡ろうと常一には関係ない。

無事に回収がなされ、二度と自分の前に現れなければ、それでいいのだ。


「あと、先に渡しておくものがある」


瓢が軽く目で合図すると、清遠がラゲッジスペースに身を乗り出し、デリバリーバッグの中から小さな布包みを取り出した。


「常一。君には、照覧の間に入る前に、これを付けてもらう」


差し出されたのは、黒く細長い布だった。

指先で触れると、しっとりとした絹の感触。

その中央に、銀糸で『遮』の一文字が刺繍されている。

鏡の瞳の誘惑から、常一を守るための目隠しである。


「それと、全員にこの薬を。気配を薄め、姿を曖昧にする」


瓢は次に、小さな薬包を取り出した。

赤い筆跡で『隠』と記され、その中には乳白色の粉末が詰められている。


得体の知れないものを口にするのは気が進まない。

だが、綴も相生も何も言わずに受け取っている。

仕方なく常一もそれを手に取り、一思いにコーヒーで流し込んだ。

かすかに、ニッキのような香りが鼻を抜けた。


「──もうすぐ着くぞ」


相生が声をかけ、アクセルをゆるめた。

フロントガラスの向こうには、集落の屋根がぽつぽつと並び、その奥に薄暗い雑木林が広がっている。

ラジオは、いつの間にか止まっていた。

不安を煽るエンジンの唸りだけが、車内に低く響いていた。





映御の会の洋館は、今日も時を止めたような静謐の中に佇んでいた。

前回、逃げ帰る際に引っかかったロープが、玄関先で千切れたまま垂れ下がっている。

あれ以来、誰も足を踏み入れていないはずなのに──どこか、空気が違う。

常一はサングラス越しに、その違和感を確かめるように目を凝らした。


「ねぇ、写真撮ってくれない?」


唐突に綴が言った。

意図は分からないまま、常一は洋館を見上げる相生の後ろ姿へスマホを向ける。

シャッター音が小さく鳴った。


「……えっ!? 何も写ってない!」


画面を覗き込んだ常一は、思わず声を弾ませた。

だって、そこに映っていたのは、見たままの風景だけ。

彼にとっては数年ぶりの、“ただの写真”だった。

「やっぱりね」と、綴が小さく呟く。


「雑魚どもをねじ伏せてんのか」


相生はつまらなそうに、ふんっと鼻を鳴らした。


「え……どういうこと?」

「鏡呼様は、同担拒否なんだよ」


常一が首を傾げると、清遠がにんまりと笑って答えた。

ますます混乱した様子の常一に、「今さらの話になるが……」と瓢が言葉を次ぐ。


「君が日常的に霊被害を受けていないのは、霊同士が牽制し合っているからなんだ。

君の周囲では、私よ! いや私だから! と、君を巡ってキャットファイトが行われている。

その勝者だけが君に直接姿を見せられるんだ。敗者はせいぜい、写真に映り込むくらいが限界だ」


一拍置いて、瓢はふっと笑う。


「……もっとも、君の陽の気が強いことも大きい。

その特別な色気がなければ、一生怪異など無縁の人生を送れただろうな」


知りたかったけど、知りたくなかった。

常一は、我が身に起こっているあまりに理不尽な真実を、ただポカンと聞くしかなかった。


「前回の俺の祓除の影響も多少はあるだろうが……今日は、塵程度の霊すらいない」


瓢は周囲を見渡し、やがて洋館をひたりと見据えた。


「鏡呼は、圧倒的な強者だ。普段はその力が他の霊を惹き寄せる。だが、気に入らない相手は容易く排除できる」


常一の背筋を、冷たいものがぞくりと這い上がった。


「彼女、常一を独り占めする気満々だね」


清遠がけらけらと笑う。だが、笑い事ではなかった。


鏡呼様は、知っている。

常一が再びこの場所を訪れることも。

今まさに、足を踏み入れていることも。


二人の再会のために、丁寧にお掃除を済ませて、手ぐすね引いて待っているのだ。


「……もう、ほんま最悪や。何かあったらマジで恨むで、綴ちゃん……いや、全員や。ここにおる全員、恨んで呪ったる……」


常一はぶつぶつ泣き言を垂れながら、綴の背中にびったり張り付いた。


「はいはい、歩きづらいよ」


苦笑する綴にずるずる引きずられながら、アプローチの階段を上がっていく。

先頭の瓢が玄関扉を開き、数秒、気配を探るように動きを止めた。


「……おしゃべりは、ここまでにしよう」


粛然と告げると、瓢は皆を中へ促し、最後に扉を静かに閉めた。

金具がかちりと噛み合う音が、やけに大きく聞こえる。

玄関ホールには誰もいない。

乾いた花も、針の止まった時計も、開いたままのあの部屋のドアも動いたりしない。


──ただ、耳鳴りがした。


最初は金属を擦るようなかすかな音だったが、階段に足をかけると、その音が少し強くなる。

段を上がるたびに、耳の奥が詰まっていくような感覚があった。

常一は汗で湿った手で手すりをつかみ、ゆっくりと一段ずつ上がっていった。

サングラス越しの視界が不明瞭なのが気になって、結局、途中で外してしまった。


「……ぁ、」


二階にたどり着くと、耳鳴りはふっと止まった。

視界の先には、照覧の間がある。

常一は歩調をゆるめ、前を行く四人の影に紛れるように廊下を進んだ。


「……皆、音を立てぬよう。常一、目隠しを」


瓢はそう言うと、ドアの罅割れた小窓に指を這わせた。

彼が手を離した時、そこには複雑な文字の連なる札が貼りついていた。

常一は言われるまま、震える手で黒布を目に結んだ。


視界が閉ざされて、闇。

音の輪郭が急に鮮明になり、衣擦れや呼吸の気配がやけに近く感じられた。

その時、不意に誰かの手が常一の手を取った。

びくりと肩が跳ねる。

けれどすぐに、ほのかな柔軟剤の匂いが誰かを教えてくれた。


──ああ、綴ちゃんか。


常一はほんの少し安堵し、その手を逃さぬよう、そっと握り返す。

それを確認した瓢は、小さく頷き、ゆっくりとドアを押し開けた。

古びた香の匂いが、湿気を帯びて流れ出てくる。


照覧の間。


窓という窓には厚いカーテンが引かれ、外光はわずかに滲むばかり。部屋全体が、薄靄がかかったように濁っていた。

人形は、祭壇の上。ガラスの箱の中で、静かに座している。

金糸で縫い上げられた打掛は塵ひとつなく、白磁の肌は今も磨き上げられたように艶やかだ。

けれど、なにより目を奪うのは、その鏡の瞳だった。

それは濡れたように光を湛え、翳る部屋を映している。

これを神々しいと崇めたくなるのも、確かに分かる。


だが同時に、綴は思った。

これほど禍々しい存在も、他にあるまいと。


綴は常一の手を引き、祭壇の前に据えられた椅子まで導いた。

緊張で強ばったその手を名残惜しげに離すと、物音を立てぬよう、暗がりへと身を滑らせる。

その間に、相生は祭壇脇のカーテンの裏へ入り、息を潜めた。

最後に瓢が入室すると、外に残った清遠が恭しく扉を閉めた。

今回、彼は外で待機する役目である。


廊下からの光が閉ざされ、部屋は一層影を濃くする。

その中で、瓢がゆらりと動き始めた。

黒の被衣を頭に被ると、手にした線香の灰で床にさらさらと半円を描いていく。

常一との間にも一線を引き、やがて祭壇を囲むように円を閉じた。

そしてその場で一礼すると、小さなおりんを一度だけ鳴らした。


リーン──と澄んだ音が、照覧の間に響き渡る。


「……これより、映瞳礼拝を始めます。御覧ください。御覧になられています。」


瓢は口上を述べると、すっと気配を絶った。

常一は、ひとり祈りを捧げる信者のように、鏡の瞳に身を晒す。


沈黙がどれほど続いただろうか。

秒か、あるいは永遠か。


ガラスの箱が、きぃ……と音を立てて、ひとりでに開いた。

中の人形は、動いてはいない。

ただ、その足元から滲み出すように、薄い影が伸びた。


ずず……ずず……。


それは祭壇を這い下り、常一の元へとにじり寄る。

まるで彼の目隠しを剝ぎ取ろうと、手を伸ばすように。


「──急急如律令」

瓢の声が、静寂に切り込んだ。


次の瞬間、青白い光に灰が舞い上がる。

結界が発動し、忍び寄っていた影が、見えない壁に叩きつけられるように動きを止めた。


好機。

相生は結界の中へ飛び込み、ガラスケースごと人形に拳を叩き込んだ。

鋭い破砕音。ガラスが爆ぜ、人形が宙へと弾け飛ぶ。

結界にぶつかった人形は、鈍い音を残して跳ね返り、床に転がった。


「……なんっ、ぅ、わっ!」


一連の衝撃音に、常一は飛び上がって椅子ごと転げ落ちる。

目隠しがほどけ、焦りを覚える間もなく、綴の手が彼の腕をぐいと掴んだ。

そのまま引きずられるようにして、部屋の影へと押し込まれる。

綴が振り返り、唇に人差し指を当てて「しぃ」と囁くように静止を促した。

常一は、叫びそうになるのを耐えて何度も頷き、息を殺す。


その間にも、人形へ追撃の一手を放とうと、相生は腕を振りかぶった。


「──っ!?」


その刹那、人形から異様な気配がほとばしる。

床に散ったガラスの破片が集まり、反射と屈折を繰り返して──まるで光の波のように、女の姿が立ち上がる。

頭も、指先も、胸も脚も、全てが無数の鏡の破片で構成され、動くたびにかすかにシャラシャラと音を立てた。

鏡呼の名に相応しい、美しく鋭い狂気。

それは相生など眼中に無いとばかりに、周囲を見渡した。


そして、ある一点でヒタリと止まる。

その視線は結界の外。常一の気配を正確に捉えていた。


鏡呼には、目も口もない。

けれど、その鏡の皮膚の下で薄らと笑った気がした。

彼女は、躊躇うことなく、薄い膜のような境界にゆっくりと掌を押し当てた。


「……っさせるかよ!」


相生はすぐさま床を蹴り、身体をひねって回し蹴りを放った。

蹴りが鏡呼の胴をとらえる。

硬質な音とともに、鏡の破片が花弁のように散った。

けれど、ダメージらしいものはない。

鏡呼の体表はゆるやかに波打ち、落ちた破片が再び吸い寄せられるように戻っていく。


「流転、下がれ!」


瓢が鋭く言い放つと同時に、その掌から一羽の紙のツバメが飛び立った。

紙とは思えぬ速度で空を裂き、結界内へ侵入する。

ツバメは意志を持つかのように鏡呼の周囲を旋回し、尾羽で朱の光線を描きながら絡みついた。

光の糸に縛られたように、鏡呼の動きがわずかに鈍る。

結界から、手が離れた。


「受け取れ、瓢!」


その隙を逃さず、相生が低く構えて人形に蹴りを放つ。

床に落ちたままだった人形の体が跳ね上がり、結界の縁を突き抜けて外へと転がり出た。

瓢はその身を抱きとめ、顔面を手で覆う。

圧を込めると、目の周囲にパキパキと亀裂が走り、細かな破片がこぼれ落ちていく。


「キキギギギギィ……!!!」


鏡呼が異変に気づき、喉の奥で金属を擦るような唸りを上げた。

怒りに駆られたその身が結界を裂くようにうねり、全身から鏡の破片を撒き散らす。

衝撃の中、ツバメが紙片となって舞い散った。

瓢は即座に構える。

が、瞬時に判断を変え、身体を反転させて常一の元へ走った。

目を見開き、凍り付いた常一の顔が、鏡呼の肢体に映り込む。


「───ッ!!」


咄嗟に綴が前へ踏み出し、万年筆のペン先を鏡呼の額へ突き立てた。


パキン、と鏡にヒビの走る音が響く。


鏡面は砕けながら液体のように溶け出し、溶鉱炉の鉛のごとく奔流となって万年筆の軸へと吸い込まれていく。

綴の腕に細かな破片が降りかかり、つうっと手の甲を血が伝った。

痛みに顔を歪めながらも、綴は万年筆を離さなかった。


常一は、その背中を見つめ、唇を噛みしめる。

この場に来る前に決めた事──己の安全を第一に確保し、決して手出しや助力はしない。


けれど、それでも。


「鏡呼──ッ!!」


気付けば、常一は叫んでいた。


「何、よそ見しとんねん! 俺だけ見とかんかい!!」


その怒号に、鏡呼の動きが一瞬止まる。

歓喜。鏡の肢体が光を湛えて震え、常一の姿を映した。


その隙を捉えて、綴がさらに万年筆を押し込む。

鏡呼の肢体が溶け、銀の泥となってゴポ、ゴポ……と万年筆に吸い上げられていく。

綴の手は震え、床にポタポタと血が滴った。


「一途!気張れよ!」


相生が駆け出し、人形の顔面を床へ叩きつけた。

硬質な音とともに、亀裂の入った目の周りが砕け散る。

割れ目の奥から、光を宿した鏡の瞳が、ころりと転がり出た。


「でかした!流転!」


瓢が即座に箱を開き、呪符の刻まれた布とともに瞳を包み込んだ。


「緘」

息を止め、箱の蓋を閉じる。


抵抗を続けていた鏡呼の身体が、胎児のように身を丸め、ぎゅうっと収縮し──弾けた。

それは無数の鏡片となって散り、きらめく雨のように空中を漂う。

常一はふらつく綴を支え、その光の中で立ち尽くす。

頬にひとひら、鏡の欠片が冷たく触れた。



「…………おわった」



誰からともなく、かすれた声がこぼれた。

服に付いたほこりを払いながら、瓢が厚いカーテンを一枚だけ引く。

差し込んだ光が、長く閉ざされていた空気を優しく揺らした。

鏡呼様を失った照覧の間は、十年の歳月を思い出したかのように、ただの古びた洋室へと姿を変えた。

祭壇にも細い蜘蛛の巣が張り、装飾や塗装もところどころ剥げて朽ちている。


「大丈夫そう?」


外で待機していた清遠が、そろそろとドアを開けた。

顔を覗かせた瞬間、綴の手元を見て目を見開く。


「うわ、あちゃー……おてて、酷いじゃない」


慌てて中へ駆け込み、背中のデリバリーバッグを下ろす。

マジックテープをバリッと開けると、中から出てきたのは呪物……ではなく、救急箱だった。


「道具屋って、そんなもんまで持ってんねや」


常一は感心したように呟き、そっと綴を床に座らせた。


「当然でしょ。こういう仕事、怪我なんて日常茶飯事だから」


清遠が答えながら、消毒液のキャップを外す。

ツンとしたアルコールの匂いが、じわりと血の匂いを上書きしていった。


「……で、人形はどうする?」


あちこちに小さな傷を負った相生が、床を指差す。

そこには、瞳を失い、顔の砕けた人形が無機質に横たわっていた。

豪奢だった打掛も今はくすみ、先ほどまでのゾッとするような美しさは失われている。


清遠は綴の傷を確かめながら、「んー、そっちは依頼外なんだよね」と小さく唸った。


「ならば、うちで引き取ろう」


瓢が何食わぬ顔で手を挙げた。


「瞳が本体とはいえ、影響が皆無とも限らないからな」


そう言って人形へ歩み寄った瓢は、被衣を広げてそっと壊れた人形を包み込む。

念のため布越しに様子を探ったが、今のところは何の気配も感じられなかった。


「……一途、大丈夫か?」


相生が前屈みになって、心配気に綴の顔をのぞき込む。

清遠に手際よく包帯を巻かれた綴は、小さく笑って頷いた。


「うん、ちょっと切れただけ。ほら、ちゃんと動く」


指先をぐっぱと動かしてみせると、相生は短く「ん」と返し、綴の腕を取って立ち上がらせた。


「じゃあ、暗くなる前に帰りましょっか」


清遠が救急箱と、瓢から瞳を封じた箱、人形を受け取り、手際よくデリバリーバッグへ収める。

この中は一体どうなっているのか。

常一の好奇心が一瞬うずいたが、その深淵を覗く気力までは残っておらず、そっと目を逸らした。





「もう、すっかり廃墟だね」


ほこりの積もる玄関ホールを抜け、ひんやりとした緑の匂いを吸い込む。

見上げた洋館は、雨垂れやコケに汚れて、窓枠や格子の錆びも目立つ。

辺りは雑草に覆われ、あの異様なほど整えられていた小径も、虫ひとつ鳴かぬ静寂も、全てが夢だったかのように朽ち果てていた。


常一はふと思い立って、スマホを構えた。

小さくシャッター音が鳴る。


画面には、洋館と、立ち入り禁止のロープを結び直す相生の姿。

そして、光の靄。オーブが二つ、三つ、淡く浮かんでいた。


「……元通り、か」


心霊写真が撮れて安堵するなんて、後にも先にも今日だけだろう。

常一は妙な気分で踵を返した。


どこからともなく、幽かな声が通り抜けた気がした。




2025.11.25

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