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ゴーストライター  作者: 佐田読子


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04【鏡の瞳】


一行は、店裏に停めてあった軽バンへ乗り込んだ。

白い車体の側面には《灯亡書房》の店名が貼られていて、いかにも仕事用の車両だ。

まさか、その中に呪物回収へ向かう連中が乗っているとは、誰も思うまい。


運転席に収まった相生が、慣れた手つきでナビに住所を入力する。画面に表示された到着予想時刻は、下道で一時間半。

助手席に腰を下ろした綴は、すぐさま振り返って後部座席を見渡した。


「酔い止め、大丈夫? 道中けっこうクネクネするからね」


言いながら、ポケットから銀色の薬シートを取り出す。

後部座席は多少のゆとりはあるものの、常一は清遠と瓢に両脇を固められて座り、硬い表情を浮かべていた。

気楽な顔の二人とは対照的に、すでに顔色が悪い。


「……もらっとくわ」


そう言って綴の差し出す錠剤を受け取り、水もなしにごくりと呑み込む。

渇いた喉に引っかかりながらも、どうにか飲み下した。


エンジンの低い唸りとともに、軽バンがなめらかに走り出す。

相生がウインカーを切り替え、車体を幹線道路へと滑り込ませた。


「念の為、改めて詳しい内容を説明しておくね」


そのタイミングで、清遠がスマホを片手に口を開いた。


「映御の会が解体されたのは十年前。当時、信者は七十六人。そのうち施設に居住していたのは三十二人だ。

元信者の津村志織という女性が、夫の異変を不審に思って週刊誌にリークした。それが発端となって、会の内情が露呈。問題視されるようになった。」


志織自身は、夫に強く勧められて渋々入会したと見られている。

信仰心は薄く、むしろ日ごとに増していく夫の異様な執着に嫌悪を募らせていたのだろう。


清遠はそこで小さく息を継ぎ、声を低くした。


「警察の調査で、施設から男性信者の遺体が三体発見された。霊安室代わりのキンキンに冷やした部屋に保管されていたらしい。しかも三体とも両目が失く、目玉は行方不明。それ以前にも、失踪や心身の衰弱で病院へ搬送される信者も何人か確認されている。」


外を走る車のクラクションが遠くで鳴ったが、気にするべくもない。

清遠の説明は続いた。


「取り調べを受けた信者達は、一様にこう言った。『瞳は愛の証です。祝福の品として献上された』ってね。目玉の行方は分からなかったが、遺体の傷口の状態から、いずれも自ら抉り取ったと判断された。他殺の可能性は、きわめて低いとされている。」


相生は無言のまま、バックミラー越しに後部座席をちらりと見た。

その目には、言いようのない不快感が滲んでいる。


「結果として、会は解体。教祖の日照雨(そばえ)鏡志郎は裁判の途中、留置所で自死している。方法は、両目を自ら抉るというものだった。」


不可解なことに、教祖の両目玉もまた行方不明のまま。

未だ発見されていない。

その姿を想像した瞬間、常一の目の奥がツキンと疼いた。

鈍い痛みが頭蓋にまで走って、眉間を揉む。


「人形は、二階の“照覧の間”と呼ばれていた部屋に今も置かれたままだ。これまでも市の職員や業者が内見に入ったけど、二階へ上がろうとする段階で異常が起きる。だから施設の解体作業も進められず、そのまま放置状態だ。」


綴がエアコンの風速を下げた。冷風が弱まり、沈黙が下りる。


「結局、建物全体が立入禁止に指定された。公式には“老朽化による危険”とされてるけど、実際には……人形が要因だろうね。」


相生がハンドルを軽く切り、前方のカーブへ入った。

景色は徐々に、見慣れぬ郊外へと変わっていく。


「……今日は、人形の位置と周囲の状態を確認するだけに留めよう。本格的な回収は、数日準備を整えてから行う方が良いだろう。」


道沿いの木々が流れていくのを横目に、瓢が端然と提案した。

車内の重々しい雰囲気に、常一はようやく自らの行動が軽率であると思い知った。

これから足を踏み入れるのは、想像よりずっと凄惨で危うい場所なのだ。


──ひらりんの言うこと聞いとくべきやった。


そんな後悔が胸の中で渦巻くが、すでに後の祭りだ。

六人を乗せた軽バンは、目的地へとますますスピードを上げた。





「めっちゃ長閑やん……」


車を降りた常一の口から、ぽろりと言葉がこぼれた。


目の前には、刈り取りを終えた田んぼが一面に広がり、土の香りがほのかに漂っている。

遠くで百舌鳥が甲高く鳴き、風に乗って乾いた稲藁のにおいが鼻をくすぐった。

ぽつぽつと建つ家々の軒先には吊るされた玉ねぎや大根、干した豆を入れたザルが並び、まるで水彩画の絵葉書の中を歩いている気分になる。

常一とて都会暮らしというわけではないが、ここはまさに「ザ・田舎」だ。

こんな小さな集落に、世にも禍々しい宗教施設があるなんて想像できない。


「この先の……ほら、あの奥に施設があるらしい。」


清遠が指で示す先、鬱蒼と広がる雑木林に一部ぽっかりと口を開けたような所があった。

昼間だというのに木々の影は深く、境目から先は、急に別世界にでも連れて行かれそうな雰囲気だ。

常一は小型カメラを手に、村の風景を撮りながら一行の後ろについて歩いた。

車中では、後悔と恐怖が綯い交ぜになって胃の奥で渦を巻いていたはずなのに、この穏やかすぎる空気の中にいると、不思議とそのざわめきは鎮まっていく。

いや、むしろ落ち着きすぎて怖いくらいだ。


「お兄ちゃんら、どこ行くの?」


買い物袋を提げたおばちゃんが、すれ違いざまに声をかけてきた。

こんな山間の集落で、若い男が五人もぞろぞろ歩いていれば、嫌でも目につく。


「僕ら、あそこの宗教施設に用があるんです」


清遠が嘘くさい笑みを貼り付けて人懐っこく答えると、おばちゃんの顔色がすっと変わった。


「あぁ……あそこ」


雑木林の方へと意識は寄せるが、決して見はしない。


「肝試しなら、やめときなさいよ。あそこにはもう神さまが棲みついちゃってんだからさ。こっちじゃ禁足地って言われてんの。行ったら最後、戻ってこられないよ。……もし睨まれたら、目ん玉くり抜かれちまうんだ」


おばちゃんは声をひそめて、袋をぎゅっと胸に抱き直した。

そして、逃げるみたいに足早に去っていった。


「……いきはよいよい、帰りはこわい……」


綴が口ずさんだわらべ唄が、冗談のはずなのにひやりと耳に残る。

常一は一気に恐ろしくなって、雑木林へ向けていたカメラを下ろした。



雑木林の入口は昼日中にも関わらず薄暗く、余所者の侵入を拒むように木々がざわめいていた。

地元で禁足地と囁かれるのも無理はない……そう思わせる不気味さだった。


だが、一歩足を踏み入れると、そこには拍子抜けするほど整った小径が延びていた。

雑草一本生えておらず、砕石は踏みしめるたびにざくざくと乾いた音を立てる。

およそ十年も放置された廃墟へ続く道とは思えない。まるで「いまも誰かが通っている」ようで、常一は思わず前を行く綴に身を寄せた。


「……気分はどう?」


綴が横目でちらりと常一を見て、淡々と問いかけた。


「なんか……恐怖と好奇心が、一歩ごとに入れ替わる感じ。……落ち着かんわ」


そわそわと胃のあたりを撫でながら小声でこぼす常一。

小心者の自分が、何故わざわざこんな場所に来ているのか。

何故、雑木林に入る前に車に戻ると言わなかったのか。

それは、本人にも分からない。


「……そう」

綴は短く答えると、それ以上は言葉を続けなかった。


五分ほど歩いただけで、映御の会の建物は視界に現れた。

二階建ての洋館。

白く塗られた木壁はまだ痛みを見せず、窓も規則正しく並んでいる。

落書きも放置ゴミもない。

玄関脇には小さなプレートがあり、そこに『御用の方はインターフォンを鳴らしてください』と丁寧な文字が記されていた。

宗教施設というより、持ち主のいない別荘のようだ。


だが、玄関へと続くアプローチの階段には、色褪せたロープが渡され、無造作に立てかけられた金属看板が「立入禁止」「警告」と赤く主張している。

何より異様なのは、辺りの静けさだ。鳥の鳴き声も、虫の羽音すら聞こえてこない。


「待ってましたって感じだね」


瓢がふっと口元を緩め、洋館を見据えた。

窓に人影が揺れるわけでも、耳に得体の知れない声が届くわけでもない。

何も起きていないはずなのに、瓢の言葉に全員揃って頷いた。


「ま、歓迎されてるってことで」


そう言って、清遠がためらいもなくロープを跨ぐ。

玄関のドアノブを握ると、拍子抜けするほどあっさり回った。

鍵が、かかっていない。

行政が立入禁止にしたはずなのに、あまりにも不自然だ。

けれど、不自然なことが起きて当然の場所でもある。

常一は息を詰め、もう一度カメラを構え直した。


「お先にどうぞ」


清遠が軽く手を差し出す。

相生を先頭に、一人ずつ洋館の中へと足を踏み入れた。最後に清遠が続き、静かに扉を閉める。


──バタン。

思っていた以上に大きな音が、がらんどうの建物に反響した。


玄関ホールは予想外に広く開放的だ。

壁には淡いベージュの壁紙が貼られ、床はまだ艶を保ったフローリング。

埃が積もっているかと思えばそうでもなく、今朝も誰かが掃除したかのような清潔さがあった。


だが、空気はひんやりとしていた。

冷房のような人工的な冷気ではなく、長い間閉ざされていた建物に特有の、湿り気を帯びた冷たさだ。

棚の上の花瓶には乾ききった花が差してあり、壁に掛けられた時計は針を止めたまま。


やはり、この洋館は不自然を孕んでいる。


「──来た」


低く鋭い相生の一言に、場の空気がぴんと張り詰めた。

廊下の一番奥の扉が、ぎい……ぎい……と不気味に軋みながら、勝手に開閉を繰り返している。


「……あそこは、遺体を保管してた部屋だ」


清遠が声を潜める。常一はカメラを構えたまま、喉に張りつく唾を必死に飲み下した。


「見てくる」


相生は一言だけ残すと、周りが止める間もなく扉へ向かった。

破壊する勢いで扉を開け放ち、そのまま真っ直ぐ闇の中へ踏み込んだ。


つかの間、しん……と沈黙が落ちる。


「え、大丈夫なん?」


心配になった常一が、声を上ずらせた直後だった。

相生が、中から何かを蹴り出した。

ドッ、と鈍い音を立てて廊下に転がり出てきたそれは、ハエが群がる黒い渦のような塊だ。

それがアメーバのように、ずるりと形を変え、うねうねと三つに分かれていく。


「っ……キメェんだよ!」


二体が相生に襲いかかるが、彼は迷いなく拳を振り抜いた。

粘度の高い泥を叩くような、ビタンッという衝撃音とともに怪異は吹き飛ばされる。


残りの一体は、ずるずると廊下を這いながら常一たちの方へ向かってきた。


「相変わらず元気なやり方だなァ」


瓢が相生の戦いぶりに感心したように笑う。


「お陰様で」


綴が軽く返すが、その呑気な声をかき消すように、


「いやいやいや!! 来てる来てる来てる!!」


常一が半泣きで絶叫した。

怪異はブンブンとハエの羽音ごと足先まで迫っていた。

その時、清遠がどこからかスプレーボトルを取り出した。


「……悪霊退散!」


ひと吹き。シュッ、と空気を裂く音。

漂ったのは、どこか爽やかなせっけんの香りだ。

怪異が断末魔のような声を上げ、ぐねぐねと悶絶した。


「やっぱ消臭スプレーって頼りになるね」


清遠はウンウンと頷きながら、ついでとばかりにもう一吹き。

白い霧がふわりと拡散し、怪異の動きがさらに弱まった。


「嘘やろ!?」


半狂乱で突っ込む常一をよそに、綴はさっとしゃがみ込んだ。

そして、倒れた怪異に迷いなく万年筆を突き立てる。

ペン先へ吸い込まれるように黒い靄が立ち上り、怪異は音もなくその中へと吸い込まれていった。


「……こっちも片付いた」


相生がパンパンと手を払い、こちらを振り返る。

彼の足元には二体の怪異が転がり、ねっとりとした黒い染みを床に残していた。

数匹の小バエが所在なげに飛び回っているだけで、怪異が動く気配はない。


「一件落着……ってこと?」


常一が呆然とつぶやいた、その刹那。


壁の中を骨が折れるような音が走り、パキパキと家鳴りが響きわたった。

窓ガラスが震え、薄い板戸ががたがたと震動する。

耳鳴りのようなざわめき、厭な予感が皮膚にまとわりついてくる。


「なにっ!? ポルターガイスト!?」

「……やっぱり、ここは“溜まり場”だな」

「た、溜まり場!?」


落ち着き払った瓢の声とは対照的に、常一の声は情けなく裏返る。


「そう。強い呪物は、よその霊を引き寄せてしまうんだ。ここも例外じゃない」


その言葉を裏づけるように、部屋の奥からぞろぞろと姿が現れる。

透けた腕。歪んだ顔。歯や白目だけが浮かび上がる影──人の形を模した「何か」が、押し合いへし合いながらこちらへとにじり出てくる。


常一は、ひゅっと息を呑んだ。


こんな数の霊を一度に見るのは初めてだ。

いや、そもそも肉眼でハッキリ見たのは、数か月前のあのバス停以来じゃなかったか。

霊にモテる体質ならもっと頻繁に遭遇してもいいはずなのに、なぜかそうはならない。

先日、その疑問を室に電話でぶつけてみたところ、返ってきたのは「照れてんじゃないの?」の一言だけ。


──てか、今はそんなんどうでもええねん!


「いやァァア!!ファン殺到状態やん!!」


霊たちの視線が一斉に常一へと注がれ、悲鳴を上げる。

人気アイドルの出待ちよろしく、霊たちが我先にと自分めがけて押し寄せてきた。


「ひ、ひぃっ……!」


常一はたまらず、隣にいた綴へしがみつく。

その綴を守るように、相生は周囲を飛び回りながら、霊の群れに拳を構えた。


「キリねぇぞ!」


拳が閃くたび、影の一つが弾けて壁にめり込む。しかし、すぐに別の霊が這い出してくる。


「くっそ……! 数が多すぎる!」


清遠は消臭スプレーを、シューッと容赦なく振りまいた。

キツいせっけんの香りと共に、まとわりつく影が一瞬、苦悶したように身をよじらせた。


だが、壁から床から次々と新手は這い出してくる。

廊下全体が、まるで怪異の見本市のようなざわめきだ。


「みんな、俺の後ろへ!」


有無を言わせぬ低い声が轟いた。

瓢が一歩、床板を軋ませて前に出る。

同時に、懐から古びた折り本を取り出した。

手垢で黄ばんだ和紙は端がほつれ、ところどころ墨がかすれている。

それでもただならぬ気配を放ち、ぱらぱらと蛇腹を広げる音がやけに澄んで耳に届いた。


──その瞬間。


折り本は瓢の掌を離れ、ばらばらばらっと勝手に広がる。

それは、まるで意思を持つかのように空中に留まり、瓢らを囲い込んだ。


「……っ!」


常一は息をするのも忘れて見入った。

瓢が何事かを呟く。

言葉は古めかしく、意味は分からない。

だが、それが呪の類いであることだけは直感的に理解できた。


キン……!と高い音が、寺の鐘の余韻のように響き渡る。

光の輪が折り本から放たれ、波紋のように広がっていく。


霊たちは一斉に悲鳴を上げたように揺らぎ、光に触れるや否や──ジュワッ、と音を立てて煙のように消え失せた。


冷たい気配が一気に引いていく。


窓の隙間から柔らかな陽光が流れ込み、舞い上がった埃をきらきらと照らした。

さっきまでの淀みが嘘のように、空気が清らかに静まり返る。


「……とりあえず、煩わしいものは全て片付けたよ」


折り本を静かに閉じながら、瓢がフーっと息を吐いた。


「えっ……まじ……そんなんできんの……?」


常一は口をぽかんと開けて、放心した。

相生の豪腕による物理攻撃も、綴の万年筆を使った除霊も十分に常識外れだ。

だが、瓢の祓除はそれらとはまるで質が違う。

例えるなら、これは神事に近いのかもしれない。


「凰さんの術って、派手でいいよねぇ」


清遠がウェーイとグータッチを突き出してくる。

つられて拳を合わせた常一だが、すぐにグワッと顔をしかめた。


「いや、玄関入る前にやってぇや!」

「まぁまぁ。こうなるなんて知らなかったんだから、仕方ないでしょ」


一途が苦笑混じりに宥めると、瓢も「ふふ、ごめんね」と眉を下げる。

しかし、その眼差しは既に別の一点に注がれていた。


「何にせよ……鏡呼様には、かすり傷ひとつ付けられなかったみたいだしね」


低く吐き出した声とともに、瓢の視線が鋭く細められる。


二階へと続く階段からは、物音も気配も、なにひとつ届いては来ない。

しかしその静寂は、まるで獲物を狙う猛獣が息を殺して潜んでいるようにも思えた。


「準備運動は済んだ。行くぞ」


相生が短く告げ、力強く一段を踏みしめる。

その背に続きながら、常一は手中のカメラを確認した。

案の定、肝心な場面はほとんどブレていて、途中からは床ばかり映している。

四葩が見たらせせら笑うだろうが、仕方ない。

あの状況で冷静に撮影する方がおかしい。


「……よし、オッケー」


常一は再びカメラを構えた。

階段は古びているはずなのに、不思議と軋む音ひとつしない。

しかも一段上がるごとに、冷え切っていた空気が少しずつあたたかさを帯びていくようだ。

瓢の祓除が家全体に影響しているのだろうか。

覗いたレンズの中にも、不穏な気配は何もない。

ただ心地よい静謐だけが漂っている。

この先に呪物が安置されているなんて、到底信じられないほどだ。


「二階は教祖と幹部連中の部屋。一番奥の部屋が照覧の間になってる。人形は──」


踊り場で一旦立ち止まり、清遠が間取りを確認する。

綴ら三人が真剣に耳を傾けるその背をよそに、常一はひとり、吸い寄せられるように階段を上がっていった。


二階の廊下にはドアが四つ。

だが、迷うことはなかった。

突き当たりのドアが、最初から自分を待っていたかのように見える。


胸がそわそわと波打つ。

まるで懐かしい初恋の人がその先で待っているかのように。

高揚と緊張。そして甘酸っぱい期待がないまぜになって広がっていく。


気が付けば、そのドアの前に立っていた。


ノブへと伸ばした指先に、ぞくりとした熱が走る。

この先にあるのは、この上なく素晴らしい出来事なのだと顔が勝手に綻んだ。

── その時。


「常一、いけないよ」


ぱしり、と手を掴まれる。

三白眼を鋭く光らせた綴の視線が突き刺さり、常一はぱちんと弾けるように我へ返った。

心臓が大きく一度跳ね、汗がじわりと背を伝う。


「え、え……?」


言葉にならないうわ言を繰り返す常一の手を、綴が慎重にドアノブから外した。

途端、二日酔いみたいな頭痛と吐き気が常一を襲う。

ぐらぐら揺れる視界の奥で、綴の手が額にそっと触れる。息苦しさが引いて瞼が重くなる感覚に、このまま身を委ねてしまいたい……


──スパァン!


相生の豪快な手のひらが背中に炸裂し、同時にシュッと清遠の消臭スプレーが顔に降りかかった。


「痛ァ!!冷たァ!!」


叫んだ瞬間、頭が一気に冴える。

重石みたいにのしかかっていた靄が吹き飛び、常一は完全に正気を取り戻していた。


「……ふぅ」

綴が安堵の息を漏らす。

だが次の瞬間には、清遠を睨みつけて「やっぱりこうなった。四志磨のせいだよ」と咎め始めた。


「ごめんって。いや、でも、綴ちゃんだってさ──」


急に痴話喧嘩のような言い合いを始める二人。

常一は何一つ状況が理解できず、ハテナを浮かべるしかない。

ただひとつ分かるのは、さっきまで胸を満たしていた高揚感が跡形もなく消え失せていることだ。

自分を取り囲む空気は冷たく、重く澱んでいる。全身を怖気が走った。


── え、なんで俺、こんなとこにおんの?


できることなら今すぐ帰りたい。

そう思って相生を見やると、仏頂面のまま舌打ちが返ってきた。

こっちも別の意味で怖い。


「よし、今日はここまでだ。撤収しよう」


常一のカメラを手にした瓢が、ドアの前で振り返った。

どうやら、無意識のうちに常一が手放したそれを拾っていたらしい。


瓢はそのカメラを構え、ドアに取り付けられた小さな正方形の窓越しに〈照覧の間〉の内部を撮影した。

室内の配置も、鏡呼人形の位置も、これで十分に把握できるはずだ。

目的を果たした以上、ここに留まる理由はもうない。


「はいっ! 帰ろ帰ろ!」


誰よりも早く常一が踵を返し、来た道を駆け足で戻り始めた。

綴と清遠も、まだやいやい言い合いながらその背を追う。


── ピシッ。

乾いた亀裂音が背後で鳴った。


全員揃って振り向けば、ドアの小窓にヒビが入っている。

五人は互いに顔を見合わせた。言葉はいらない。

次の瞬間には一斉に廊下を駆け出し、洋館を飛び出していた。





集落を駆け抜け、一行は息を切らしながら軽バンになだれ込んだ。

まだ全員がドアを閉めきる前に、相生がアクセルを踏み込む。

車体が大きく揺れ、砂利を跳ね飛ばして走り出した。


「ほんっま最悪!!最後のあれ何なん!? 絶対怒ってたやん!!」


常一は声を裏返し、両隣にいた瓢と清遠の腕をがっちり抱きしめた。

夕陽に染まるリアウィンドウを振り返り、追っ手の影がないか血走った目で必死に確かめる。


「……常一を正気に戻したのが、鏡呼様の気に障ったんだろうね」


助手席の綴がシートベルトを締めながら、ため息まじりに言った。


「は? どういうこと!?」

「君は呼ばれてたんだよ、鏡呼様に。新しいお気に入り候補として」


瓢が答える。

ついでに常一の手から腕を抜き取り、シワになった袖を指先で整えた。


「会ったこともないのに!?」


いつ、どこで。あの呪物に見初められたというのか。

今日だって、直接その人形を見る事はなかった。


「常一、うちの店で人形の写真を見たでしょ?」


綴がそう言うと、常一は混乱したままハテナと首を傾げた。


「写真?……あっ」


脳裏に、数日前の灯亡書房での光景が蘇る。

清遠が綴と相生に依頼内容を説明している横から、こっそり覗き見したあの一枚。


自分を見返す、美しい瞳の人形の写真。


「ゔ、その……盗み見したんはごめん! でも、ほんまに! ほんまにちょこっとチラ見しただけやで!?」


指でほんの1ミリほどの隙間を示し、常一は必死に弁解する。

あの時は本当に、ほんの一瞬、垣間見ただけのはずだった。


「……あの写真も呪物なんだよ。ねぇ、四志磨?」


綴が咎めるように後部座席を振り返ると、清遠は肩をすくめて「まぁね」と苦笑した。


「でもさ、常一くんが覗き見したのは誤算だよ。それに、普通ならそこまで影響は出ない。あれは、残穢みたいなもんだから」


残穢。呪いの残りカス。

そのだけのものに、ここまで引き摺られたのか。

常一の背筋に、本日何度目か分からない怖気が走った。


「なんせ、怪異にモテモテだからな、こいつ。鏡呼様も大喜びで食いついたろ」


ハンドルを切りながら、相生がぼそりと挟んだ。


「どこで本領発揮しとんねん……」


常一は泣きべそをかいて項垂れた。

だったら普段の動画撮影の時にも、その引きの強さを発揮してほしいものだ。

思わず「収益にもならんのに」と、四葩みたいな台詞まで口走ってしまう。


「常一が同行したいって言った時、ちょっと変だとは思ったんだよ。妙にハイになってる感じだったから」


「普段なら『嫌すぎる』って一輪と一緒に逃げるのに、あの時は妙に食い下がってたしな」


言われてみれば確かにそうだと、常一自身も思う。

あの時の自分は、どう考えても“らしくなかった”。

冷静に考えれば、全て四葩の言う通りだった。

これは、綴や瓢が揃っても一筋縄じゃいかない案件だ。

それに、たった十年前の事件で、警察や行政も関わっている。

撮影しても、とても配信できる内容じゃない。


「でも、じゃあ、なんで俺を連れてったん?」


涙目の常一に、瓢は気まずそうに目を逸らした。


「……すまない。君を連れて行けば、相手がどう反応するか試せると考えたんだ」

「ごめんね、常一。危ない役回りをさせちゃった」


綴も申し訳なさそうに頭を下げる。

つまり彼らは、意図せず常一が鏡呼様に魅入られているのを分かっていて、何か有益な情報が得られるかもと同行を許した訳だ。

薄情と言えば、薄情である。

常一は鼻をずびっとすすりながら、シートに背を押しつけた。


「……いや、俺が勝手に盗み見したんも原因やし。それに、もう影響ないんやんな?」


一番の問題はそこだ。

常一が念を押すように確認すると、綴が当然だと頷いた。


「大丈夫。流転の張り手が吹き飛ばしてくれたよ」

「……あ〜……よかったぁ……」


常一はやっと肩の力を抜き、漬物石のように重くのしかかっていた不安から解放された。


大げさに伸びをした拍子に天井に手をぶつけ、「イテッ」と小さく呻くも、すぐに決意を込めて、「ほな、俺はここまでな!おしまい!もう二度と行かんから!」などと宣言する。


動作も情緒も忙しない常一の姿に、誰からともなくクスクスと笑いが漏れた。

つられて、常一も肩を揺らして笑い、ほっとした表情で窓の外を見やる。


軽バンは砂利道を跳ねながら夕闇を抜け、やがて街の明かりへと滑り込んでいった。





2025.11.25

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