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蔦屋と写楽  作者: 坂本光陽


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9/17

五月興行③


 蔦屋の耕書堂(こうしょどう)は日本橋通油町(とおりあぶらちょう)にあり、洒落本や浮世絵などを手掛ける有力な地本問屋(じほんどんや)として知られていた。


 誰よりも早く目を覚まし、静かな通りを散歩するのが、蔦屋重三郎の密かな健康法になっている。四〇を超えた頃から身体のあちこちが痛むが、今日も多くの仕事をこなさねばならない。


 耕書堂の前に戻ってくると、薄汚れた男が顔を伏せてうずくまっていた。

 酔っぱらいか? 立ち退かせようと歩み寄っていくと、そいつが顔を上げた。

「蔦屋殿、できましたよ。版下絵、二八枚だ」

 

 十郎兵衛だった。頬がこけて無精ひげを伸ばしているが、その眼は爛々(らんらん)と光り輝いていた。しばらく見ない間に、こんな表情をするようになったのか。蔦屋の驚きは、それだけにとどまらなかった。


 大広間の畳の上に広げられた二八枚の版下絵を前にして、蔦屋は腕組みをしたまま、茫然としていた。もちろん、版下絵の迫力に圧倒されていたのだ。


 こんな役者絵は見たことがなかった。たどたどしさが残る線は相変わらずだが、大胆に誇張された役者たちの個性は、他の絵師にはなかったものだ。この場合の「個性」は「毒」と言い換えてもいい。


 人気女形の「ぐにゃ富」こと中山富三郎の表情は不気味だったし、三代目大谷鬼二と市川男女蔵の感情もむきだしである。舞台上で見せた演技そのままの臨場感だった。

(この素人絵師に賭けた俺の眼に狂いはなかった)

 目の前の二八枚は間違いなく、十郎兵衛にしか描けない役者絵である。


「蔦屋殿、いかがですか?」

 十郎兵衛から声をかけられて、蔦屋は我に返った。

「……いける。これなら、いけるぜ」

 喉の奥から絞り出すようにそう言うと、十郎兵衛に向き直った。


「間違いなく、今まで見たことのない役者絵だ。よくぞ、描いてくれた。俺は一目で惚れこんじまったぜ。こういう絵が欲しかったんだ」

 蔦屋は十郎兵衛に向かって、両手をついた。

「斎藤十郎兵衛殿、まさに型破りの役者絵だ。これなら江戸じゅうをあっと驚かせることができる」


 この時、蔦屋は初めて「十郎兵衛」と正しい名前を口にした。しばらくして、そのことに十郎兵衛は気づいた。ようやく絵師をして認められたということだろう。それは同時に、東洲斎写楽誕生の瞬間でもあった。


「ん、どうしたい、斎藤殿」

 蔦屋が怪訝(けげん)な顔で訊ねたのは、十郎兵衛の眼に涙が浮かんでいたからだ。

「いや、何でもありません」そう言って、指先で目元をぬぐった。「蔦屋殿、次は何を描けばいいですか?」

「そう急かさんでくれ。まずは、この版下絵から版木をつくる。彫師を待たせてあるんだが、この絵を見たら度肝を抜くだろうな」


 浮世絵版画は分業によって作られる。彫師は版下絵をもとに版木を作り上げ、摺師が版木を使って版画を摺り上げるのだ。絵師が担当するのは、版下絵の作成と色の選定だった。


「斎藤殿、この二八枚には耕書堂の命運がかかっているんだ。ドカンと勝負をかけてやるぜ。背景はすべて、雲母摺(きらずり)でいこう」


 雲母摺とは、ニカワ液に雲母粉(きらこ)貝の粉末を溶かしたものを刷毛で塗り付けること。豪華な雰囲気を出すために考案された手法である。


「その他の色に関しては、斎藤殿の受け持ちだ。想を練っておいてくれ」

「承知しました。早速とりかかりましょう」

 そう言った時、十郎兵衛の腹が鳴った。

朝餉(あさげ)をつきあってくれ。どうせ何も食ってねぇんだろ?」


 蔦屋が大きな笑い声をあげたので、十郎兵衛もつられて笑った。

 二人の仕掛ける浮世絵は、はたして、世間をあっと言わせることができるのだろうか?



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