五月興行②
十郎兵衛は屋敷に帰ると、早速、画帳を元に、版下絵を描き始めた。
舞台を観て味わった興奮をしずめて、できるだけ大胆に筆を振るう。
大首絵の肝は、とにかく表情である。ただ、写しとるだけではない。
例えば、この役者は何者なのか? 何を表現しようとしているのか?
怒り? 悲しみ? 戸惑い? それとも、一切合切を混ぜこんだ感情なのか?
さらに、役者の内面をいかに切り取るか、その部分に十郎兵衛は心を砕いた。
三代目沢村宗十郎、三代目坂田半五郎、二代目坂東三津五郎……。
描いているうちに、ふと気がついた。どうも、内面をとらえた手ごたえがない。書き上げた版下絵は、体裁を整えただけの代物に思えた。要は、中身が空っぽなのだ。
これは一体なぜなのか?
だが、突き放して考えてみると、ああ、そうか、これは演技なのだ、と思い至る。舞台上で展開しているのは、演目に合わせてつくりあげた感情。言ってみれば、作り物である。それは役者当人の感情ではありえない。
やはり、役者の本質をとらえるのは、無理なのか。それに気づいた時、十郎兵衛の筆は止まった。
翌日、桐座に一人で出向いた時も、その想いにとらわれていた。
桐座の演目は狂言『敵討乗合話』と常磐津『花菖蒲思便簪』。
松本米三郎、四代目松本幸四郎、尾上松助は描きうつすだけにとどめたが、脇役の中島和田衛門、中村此蔵はなぜか描きやすく感じた。その勢いを借りて描いた中山富三郎の宮城野には手ごたえがあった。
それは富三郎の内面を描いたというより、富三郎の中に十郎兵衛自身を投影したという方が近い。これなら描けそうだ。十郎兵衛の中で、獣のようなものが目覚めようとしていた。
獣が完全に覚醒したのは、河原崎座に出向いた時である。
河原崎座の演目は、狂言『恋女房染分手綱』と狂言『義経千本桜』だった。
市川蝦蔵の表情にも触発されたが、何と言っても、三代目大谷鬼二と市川男女蔵だった。二人の演じる奴江戸兵衛と奴一平が対峙する場面では、なぜか強い衝撃を受けた。彼らは脇役にすぎないのに。
まるで、雷に打たれたように、その一瞬の情景が十郎兵衛の脳裏に焼き付いたのだ。右手の筆が電光のごとく閃く。ためらいなく、一気に描き切った。その一瞬を見事につかまえて画帳の中に閉じ込めることを成し遂げたのだ。
自分だけの役者絵が描けたと思った。十郎兵衛は会心の笑みを浮かべていた。このまま、行けるところまで行ってやる。
内なる獣が今、咆哮を上げて、天に駆け上がっていく。




