役者絵①
十郎兵衛は蔦屋と出会ってから、ひたすら絵を描いていた。それまでは歌麿の美人画ばかり引き写していたのだが、今では役者絵に専念していた。もちろん、蔦屋の指示によるものである。
実は寛政六年〔1794〕は、芝居好きの江戸っ子たちにとって、待ちに待った年だった。
「寛政の改革」や天災、不景気によって、芝居どころではない時期が長く続いていたのだが、江戸三座がそろって正月恒例の『曽我狂言』を上演し、再び芝居が注目を集めようとしていたのだ。
それを商機ととらえたのが、他ならぬ蔦屋重三郎だった。迷わず歌麿に声をかけて役者絵を描かせようとしたのだが、けんもほろろに断られたのは前述した通りである。
そこで白羽の矢が立ったのが、素人絵師の十郎兵衛。まだ確信はなかったが、彼の粗削りの絵には何かしら光るものがあった。海のものとも山のものともわからぬが、蔦屋はとりあえず、十郎兵衛に賭けてみることにした。
蔦屋が十郎兵衛に命じたことは、三つある。
一つ、役者絵を描いてほしいこと。
一つ、あっと驚くような絵であること。
一つ、十兵衛にしか描けない絵であること。
(また名前を間違えられたわけだが、もはや十郎兵衛は訂正しなかった)
こうして、十郎兵衛は描き続けていた。蔦屋から渡された役者絵の模写に始まり、様々な構図の研究、今までにない切り口を模索していた。
蔦屋につれられて、復活した江戸三座にも足を運んだ。堺町の都座、葺屋町の桐座、木挽町の河原崎座。それぞれの芝居小屋に通っては、画帳に筆を走らせた。あふれでる意欲と充実感は、手なぐさみで描いていた頃には感じたことのないものだった。
「それにしても、この私が役者絵を描くことになるとは……」
十郎兵衛は、蔦屋と出会った夜のやりとりに想いをはせる。話が落ち着いたころを見計らって、又座衛門がさりげない口調で言ったのだ。
「蔦屋さん、この斎藤さんは実は、能役者なんだ。阿波藩蜂須賀様のお抱えで、ずっと江戸住まいをしている。江戸三座の役者とちがって、江戸城の〈雅の役者〉というわけさ」
当時、能役者は歌舞伎役者とは明らかに違っていた。〈下賤の者〉と見なされた歌舞伎役者とは別格の扱いだったのだ。
能楽は室町時代に観阿弥、世阿弥によって大成され、豊臣秀吉や徳川家康から愛された芸能である。その後の歴代将軍も能楽を大切にし、式学として幕府管轄においてきた。
ただ、能役者といっても、十郎兵衛は主役ではなかった。ワキツレという脇役にすぎない。セリフがほとんどないばかりか、存在感を消すことさえ求められる。
そんな十郎兵衛が役者絵を描くというのだ。蔦屋から言われた時には、思わず身震いがしたものである。
一方、蔦屋は気が急いていた。できることなら、江戸三座の正月興業から役者絵を手掛けたかったのだが、十郎兵衛を起用するにはあまりにも時間がなさすぎたのだ。
二月、三月興業も見送り、勝負は五月興業からという心づもりだった。能役者としての十郎兵衛の非番が、ちょうど五月からの一年だったこともある。その長期休暇を絵師としての創作期間にあててもらったのだ。
だが、絵師としての十郎兵衛は、依然、海のものとも山のものとも知れない。
蔦屋は足しげく十郎兵衛の屋敷に通い、彼の描いた役者絵を見ては、
「何だい、このたどたどしい線は。筆が酔っぱらっているんじゃねぇかい」
「この呆けた表情は何だよ。本当にそう見えるなら、眼がどうかしてるな」
「なっちゃいないねぇ。こんな出来じゃ、歌麿の奴に鼻で笑われちまうぜ」
蔦屋は「たどたどしい線」と言ったが、絵師の描線について補足しておくことが一つある。浮世絵の線は、絵師の描いた線ではない。あれは彫師の線なのだ。