長すぎる あとがき
東洲斎写楽。
誰もが知っている有名な浮世絵師ですが、彼の活動した時期は、寛政六年五月から寛政七年二月までの一〇カ月(閏月含む)にすぎません。このような浮世絵師は、写楽だけです。写楽以外に一人もいません。
浮世絵師の来歴を記した『浮世絵類考』の中に、写楽についての一文があります。
「是また歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに真を画かんとして、あらぬさまに書なせしかば、長く世に行れず一両年にて止ム」
役者の醜い部分まで描いてしまったので、役者はもとより、贔屓筋の江戸っ子にもそっぽを向かれてしまった、と考えられます。
寛政六年五月に出版された写楽の大首絵は、おそらく売れなかったのでしょう。蔦屋の思惑は外れてしまい、まったく商売にならなかった。そのため、写楽も画風を変えざるを得なかった。
大首絵は影を潜め、その後、画風の変遷を見せたのは、買い手のニーズに合わせるため。次第に紙の質を落としていったのは、大首絵で赤字を出した蔦屋が版元として採算をとるため、と考えられます。
写楽の活動時期が一〇ヵ月というのも、そのあたりが影響しているのでしょう。
こうして、事実らしきものをつないでいくと、写楽は素人絵師にすぎなかった、という考えに落ち着きます。
この時点では、どこにもミステリーはなかった。このまま写楽が無名の存在であったなら、どこにもミステリーが入り込む余地はなかったのです。
しかし、後年、写楽の大首絵が海外で高く評価され、日本に逆輸入されたことにより、写楽に対する興味と関心が高まります。最も有名な浮世絵師になってしまい、ここにミステリーが産まれる土壌が生まれたのです。
写楽は一体、何者なのか?
写楽の正体は歌麿だ。いや、豊国だよ。いえいえ、蔦屋重三郎だと思うぜ。あげくのはてに外国人だ、という説までありました。
もし、写楽が無名の存在であったなら、こんなに仮説が生まれることはなかったでしょう。忘れてはならないのは、得意げに語られる仮説、物語が常に、写楽の評価を高まってからの後付け、ということです。
皮肉なことに、最も古い仮説は、斎藤十郎兵衛説でした。『浮世絵類考』の中に、写楽は阿波藩お抱えの能役者、斎藤十郎兵衛である、と書き記されていたからです。
ただ、喜多川歌麿や歌川豊国、蔦屋重三郎であった方は面白いし、何よりもインパクトがあってキャッチーです。なぜ、その人物は写楽と名乗ったのか? そこに謎が生まれて、物語として面白くなる。
それに対して、十郎兵衛なんか誰も知らないし、はっきり言って地味な存在です。能役者風情に、あのような素晴らしい絵を描けるわけがない。そういった先入観、既成概念によって、斎藤十郎兵衛説は潰されてしまったのでしょう。
もし、十郎兵衛が数多くの「写楽××説」を知ったとしたら、どう思うことでしょう。きっと、茫然としたに違いありません。また、死後に評価されるより、寛政六年の江戸で評価されたかったことでしょう。
しかし、そうした一切合切を含めて、東洲斎写楽こと斎藤十郎兵衛という人物には、何かしら創造力を掻き立てられるものがあります。だからこそ、本作を書き上げることができました。
あなたは十郎兵衛の一〇ヵ月間を、どのように感じたでしょうか?
おそらく、身につまされた方もおられたのではないか、と思います。
素人の方もプロの方も、創作に関する悩みは絶えないことでしょう。作品が世の中に出るためには、多くの人たちが関わるため、そこには葛藤と対立が生まれます。
その中には、「豊国を描いてくれ」といったパクリを容認するような言動など、版元からの無理難題に戸惑うことも少なくないでしょう。
十郎兵衛は絵師としての本分を投げ出さなかった。そのことが後の海外の評価につながり、今では最も有名な浮世絵師となったのですから、見ている人は必ずどこかにいるということです。
もしかしたら、それは今、写楽を見ている僕たちのように、二〇〇年後の人間かもしれません。
もっとも、誰だって存命中に作品を評価してもらいたいはずです。十郎兵衛のように死後、評価された作り手は、決して少なくありません。
『ひまわり』のゴッホしかり。『白鳥の湖』のチャイコフスキーしかり。『銀河鉄道の夜』の宮沢賢治しかり。彼らの不幸や不運、巡りあわせの残酷さには、想像を絶するものがあります。
そして、星の数ほどいるであろう、まだ世に出ていない十郎兵衛たちに、幸多かれと願わずにはいられません。
だからこそ、僕はこの作品を描き上げました。『蔦屋と写楽』が創作に関わる皆さんを励まし、勇気づけられれば幸いです。
了




