試行錯誤①
旧暦の七月。しばらく雨が降らなかったため、江戸は熱気の中にあった。
浅草の外れにある林の中は比較的涼しかったが、木々の間を風が通らなければ暑さがこもってしまう。古びた小屋の中は蒸し風呂のようだった。周囲の木々から降ってくる蝉時雨が、より一層、暑さを掻き立てる。
その小屋は蔦屋が知人から借りたものであり、今は十郎兵衛の仕事場となっている。士分の身で浮世絵を手掛けるのは御法度であり、屋敷で役者絵を描き続けるのは危険、と蔦屋が懸念したためである。
「とにかく、役者たちがそっぽを向いちまったんだ。江戸三座からは出入りを禁じられちまったし、どうしようもねぇや」
そう言って、蔦屋は麦湯をすする。麦湯とは麦茶のことであり、当時、庶民の飲み物だった。
「私たちは今後、芝居見物ができない、ということですか?」と、十郎兵衛が作業に手を止める。「それは困りましたね」
「いや、誰も写楽の正体を知らねぇんだ。俺が一緒でなければ、誰もあんたが写楽だとはわかるめぇ。何の問題はねぇさ」
蔦屋は頭をかいて、苦笑を浮かべながら、
「ただ、大首絵は二度と出せねぇな。ああいう絵は金輪際出せねぇ」
もちろん、役者の顔の特徴を誇張する絵という意味である。
「しかし、私の大首絵で、世間をあっと言わせたことは確かですよ」
「ああ、それは認める。けどよ、いくら、あっと言わせても、売れ行きがさっぱりなんだ。借金までして大量にこさえたのに、これじゃおまんまの食い上げだよ」
十郎兵衛は筆を止めて、蔦屋の方に向き直る。
「私の役者絵がまずかったということですか? しかし、蔦屋さんは褒めてくれたではないですか。これならいける、と言ってくれた。私はよく覚えていますよ」
「ああ、確かにそうだ。その通りだよ」蔦屋は麦湯を一口すすり、「認めたくはねぇが、俺の見込み違いだったさ。けどよ、売れなきゃ仕様がねぇじゃねぇか」
「……」
部屋の中を沈黙が支配した。十郎兵衛は平然としていたが、蔦屋は居心地が悪そうに見える。蝉時雨の中で、二人の沈黙は続いた。
先に口を開いたのは、蔦屋だった。
「斎藤殿、大首絵はやめよう。大判も少なくして細判でいこうと思う」
大判と細版とは、紙の大きさのことである。大首絵はすべて大判(約39㎝×26cm)だったのだが、一回り小さい細判(約33㎝×15cm)にしようというのだ。
「紙の大きさはともかく、大首絵をやめるということは、役者の全身を描いてほしい、ということですか?」
「ふむ、そういうことになるかな」
「しかし、それでは、他の絵師と同じに見えませんか?」十郎兵衛は蔦屋に、射貫くような視線を向けた。「蔦屋殿は、世間をあっと言わせたいのですね。私だけの絵にしてほしい、とも言われた。大首絵をやめると、どちらも難しくなってしまう」
「確かにそうかもしれないが……」蔦屋は麦湯を飲み干して、「そいつを何とかするのが絵師の腕の見せ所じゃねぇかな。斎藤殿なら期待に応えてくれると踏んでいるんだが、どんなもんだかねぇ」
十郎兵衛は腕組みをして、しばらく考えこんでいたが、
「……わかりました。私なりに考えてみましょう」と、絞り出すように言った。




