1話
「いつもながら本当にお見事で」
短い詠唱だけで自らの容姿をあっという間に変化させていく目の前の人物に向かい、黒いローブの男は少し茶化すようにそう言った。
王家の証である金色に輝く髪は落ち着いたダークブラウンの長髪に、どこまでも鮮やかな空色の瞳はあらゆる感情を秘めた漆黒へ。
そして、スラリとした長身を二十センチほど縮め、個性のないありふれた生成りのブラウスと地味なスカートに履き古した靴を纏えば、トレンティナ王国王太子、マーセル・ヴァン・トレンティナは街中でよく見かけるようなごく普通の女性になりすました。
「確かにこれなら誰も貴方だとは気付きませんが、性別まで変える必要が?」
「市井で一番の情報通は女性達だ。伴侶や恋人を通じ得た政治や経済の情報に働き先の貴族の内情、そしてそれらの情報を交換し合うネットワーク。どれをとっても重要なことこの上ない」
「なるほど……井戸端会議がそんな崇高なものとは知りませんでしたよ」
「なら、自分の無知を恥じるんだな」
そう言って小さく笑ったマーセルにローブの男も口元を緩めた。
「あまり時間がない、行くぞ」
「お一人で向かわれるのでは?」
「断ってもどうせついてくるんだろう。ならこちらに気取られるようなヘマをしなければいい」
「仰せのままに」
そう言って恭しく頭を下げた男はその場から跡形もなく姿を消し、黙ってそれを見ていたマーセルも自らが呼び出した転移陣にその身を預けた。
——トレンティナ王国サバル領。
土地柄、大きな一次産業に恵まれなかったこの領は長らく苦しい経営を迫られ、領民達もまた厳しい暮らしを続けていた。それでもこの領に人々が留まり続けたのは何より領主一族の人柄によるものだ。
困っている人がいれば率先して力を貸し、有事の際は先頭に立ち指揮をとる。領主としてあるべきその姿に多くの民が心を動かされ、貧しい生活の中でも笑顔のたえない暮らしをしていた。
そんなサバル領がさらに良い方向へと大きく変化を遂げたのは、先々代の時だ。
厳しい現状と将来を憂いた当時の領主は一念発起し私財のほとんどを投げ打って領地の中心に国内最大規模のバザールを建設。
それに加えて、少し距離はあるものの小さな港まで直接繋がる大きな道路も整備して船から荷上げした荷物を容易に売り込める新たな販路を開拓した。
領主の目論見通り、新設したバザールは新たな経済の中心となっていった。国内のみならず近隣諸国からもありとあらゆる物が集まるようになり、今では『探し物ならサバルにいけ』と言われるまでのマーケットに急成長した。
だが、それがもたらすのは何も良いことばかりではなかった。
金の集まるところには人が集まる、そして集まる人を選ぶことはできない。犯罪とはほぼ無縁だったサバルの治安が徐々に悪くなっていくのはもはや必然だった。
だが、そこで決して見ないふりをしないのが領主であるサバル家。領内から腕の立つ者を募り自警団を設立、リーダーには国王陛下の護衛騎士をしていた領主の弟ダグラスが据えられた。
語るまでもなく自警団の影響は圧倒的だった。明らかな犯罪行為だけでなく小さないざこざにも彼らが面倒くさがらず介入したおかげでサバルの治安は一気に安定し、それは現在も領主の息子であるジョナサンへと受け継がれている。
「お嬢ちゃん、その髪飾りが気に入ったのかい?」
「えぇ! でもちょっと悩んでて……」
バザールに着いたマーセルはとある雑貨屋の前にいた。
「それ、今すごく人気があるんだよ。なんせうちの姫様が買ってくれたんだからね」
「姫様って、カタリーナ様?」
「そうさ、うちの自慢の姫様だよ」
領主の娘、カタリーナ・サバル。
マーセルにとっては夜会で挨拶をするくらいの間柄でしかなかったが、王家と良縁を繋ぎたいという魂胆が見え隠れする他の令嬢とは違い、彼女は必要以上に彼に執着することはなかった。
加えて、サバル領のお嬢様というだけで周りの興味を引いてしまう立場でありながらも我関せずとした落ち着いた振る舞いは彼の記憶にも残っていた。
「ねぇ、聞いた? 隣の領のお貴族様のこと」
いつの間にか話に加わっていた隣の店の女将がため息混じりにそんなことをぼやく。
「あぁ、あの態度最悪のバカ?」
「そう! そのバカ、またうちの姫様にちょっかい出してるんだって」
「えっ、また?」
「本当迷惑だよ。しかも最近やたらと金遣い粗くて何か悪いことしてるってもっぱらの噂だし」
「どんだけ私財溜め込むつもりなんだが……もしかしてその悪事も国王陛下は見てみないフリ?」
「それはどうだかねぇ。でも、サバル様が王様になってくれた方がこの国は安泰なのは確かだよ」
「そりゃそうだ!」
庶民達の王室批判めいた言葉も笑みで受け流すマーセルの正体を疑う者は誰一人いなかった。時折、興味深く店先のものを手にとり店主と話しながら買い物する姿にもなんの違和感すら感じない。
だが、別の意味において彼はいささかの人々の注目を集めているようだ。
髪型や服装を変え性別すら変えたとて、元々容姿の良さと幼い頃から身につけたその佇まいは自然と人の目を引く。
マーセルが店主に微笑めばそれだけで感嘆のため息が漏れ、道ですれ違う男性は当たり前のように首が痛くなるほど捻ってその後ろ姿を見送る。ただ厄介なのは視線を送るだけで済ませることができない者の存在だ。
買い物を済ませバザールから住宅街へ足を進めるマーセルの後をニヤニヤといやらしい笑みで顔を歪めた男達が気配を消し追っている。
彼らの存在に気付いていないのか、マーセルは一度も振り返ることなく歩き続けどんどんと人の少ない裏路地を進んでいく。
ある角を曲がり少しするとそこは行き止まりになっており、立ち止まった彼は一度ため息をつきゆっくりと振り返った。
「どうしたお嬢ちゃん、もしかして迷子ですかぁ?」
「そりゃ困った! 案内してあげようか?」
「じゃ、親切にしてあげたお礼は俺達との熱〜い一夜ってことでどう?」
バカにしたような笑い声を交えながら男達はマーセルを見下ろしジリジリと距離を詰める。だが、彼が表情を変えることはなかった。
「……ったく。諦めれば許してやったものを」
短絡的に女性を襲う浅はかな男達がわざと人目につかない場所へと誘い込まれたことに気付くはずもない。
下卑た笑いで余裕を見せながらさらにマーセルに近付く男達に向け、彼が何か唱えようとしたその時だった。
「危ないから下がって!」
とっさに声がした方を見上げたマーセルの視界に飛び込んできたのは、古びた建物の屋根から躊躇なく飛び降りてくる黒いブーツの底。
一歩後ずさったマーセルの前に綺麗に着地したその人はすぐさま剣を抜くと、目の前のガタイの良い男の喉元にその先を突きつけた。
「どう見ても迷子の案内ってわけじゃなさそうだね?」
自分より遥かに体の大きな相手に対し一切怯む様子もなく、その人は不敵に笑う。
「やばいっすよ! そいつ自警団のジョナサン・サバルです」
男達の一人がそう叫ぶと明らかにその場の空気が変わった。
サバル領自警団団長ジョナサン・サバル。王太子であるマーセルの耳にも届くその名を知らない者は恐らくこの領にはいない。
明らかに戦意を喪失し後退りする男達の中で剣を突きつけられた男だけが悪あがきなのか、威勢よく大きな声をあげる。
「ハッ! そんなひょろい体で何ができるってんだ。俺様が本気になりゃっ、うがぁあ!」
それはまさに瞬きほどの時間だった。
男の意気揚々とした自分語りを待つことなく、団長ジョナサンは素早く剣を持ち替えるとサバル家の紋章が入った柄で男の顎を横から強打。
脳を揺らした男の体が崩れるように地面に横たわると、残った男達は慌てて踵を返した。
「もう遅いよ」
その言葉通り男達の背後にはすでにジョナサンと同じ制服を着た自警団員達が彼らの退路を塞いでおり、捕まるしか残された道がなくなった男達は大人しく彼らに従った。
剣を鞘に収め『ジョナサン』と呼ばれるその人はゆっくりと振り返る。
結んだ長い髪を揺らしマーセルを見つめ優しく微笑んだその顔を、彼は一生忘れることはなかった。
「大丈夫? 怪我はなかった?」