8 人間関係は難しい③
しばらくして戻ってきたカイリーはちゃんと廊下の掃除をしたようで、「隅まで掃いてきたぞ」とむくれた顔で言った。やけに帰りが遅いと思ったら、つばで汚した廊下だけでなく昼間にさぼった掃除もきちんとやってきたようだ。
そんなカイリーにアーチボルドは、「よくできたな」と褒め、リザも彼女に礼を言ってから温め直したシチューをたんまりと盛ってやった。
いつもより大盛のシチューを見たカイリーは「こんなに食えねぇよ」と言いながらもぺろりと平らげ、最後には「おいしかった……わ」と不器用ながら女の子らしい言葉遣いの練習もしていたので、リザはアーチボルドと顔を見合わせてほんの少し笑みをこぼしたのだった。
カイリーは風呂に入った後、ロスが既に寝ている寝室に上がっていった。彼女はロスのことは本当に大切なようで、「明日、ロスにも今日のことを話しておくよ……わ」と言っていた。
「……やはりあいつに女の子の言葉遣いをさせることで、苦しい思いをさせているだろうか」
カイリーを見送ったアーチボルドがつぶやくので、リザは肩をすくめた。
「慣れ親しんだものを捨てる際には、やはり多少なりと苦痛を伴うものでしょう。……ですが、そうしなければならないとカイリーも分かっているはずです」
「ああ。あいつは俺に対して妄信的なところはあるが、馬鹿ではない。だからこそ、これから生きていく上で必要な協調性を身につけさせたいし、社会に馴染むことの大切さも教えたい。……まあ、反社会的な生き方をしてきた俺が言えたことではないがな」
「あら、そうでしょうか? あなただからこそ、社会の中で生きていくことがどれほど重要なのか教えられると思うのですが」
リザは静かに微笑み、アーチボルドを見つめた。
「さっきの話でもあったように、私は世間一般の基準からするとお嬢様の生まれでしょう。だから私の言葉はいつもどこか、上っ面だけの薄いものになってしまいます。いつも食べ物に不自由しなかった私から食べ物のありがたさを説かれても、響かないですもの」
「いや、衣食住に不満のない生活をしてきたおまえだからこそ、そのありがたみや知識を分け与えられるのではないか」
「では、私たちはおあいこですね。私だけ、アーティだけでは不足でも、生まれ育った環境が違うからこそ『知らない』ところを補い、あの子たちに教えていけるのですから」
驚いた様子のアーチボルドに笑いかけ、リザは「だから」と言葉を続ける。
「あなたたちがここにいる間に、私にできる限りの知識と教養、常識をあの子たちに教えたいです。ここを離れてあなたと一緒に暮らすようになった末に、カイリーがどのような生き方を選択してもいいように」
「……そうだな。それが大切なことだ」
アーチボルドも納得の顔になり、つと姿勢を正した。彼は大柄なので、背筋を伸ばすと向かいに座るリザでは喉を反らさなければ彼の目を見ることはできなかった。
「もし今日のようなことがまた起これば、遠慮なくあいつを叱ってくれ。おまえの言葉は俺の言葉と同義だと、俺もあいつに教えておく」
「そ、そこまでしなくてもいいですよ。父親代わりのようなあなたと違い、私はただの同居人ですから」
「だがこの教会の主は、おまえだ。ならばカイリーもロスも……ましてや俺も、おまえに従うべきだ」
「やめてください、背中がかゆくなります」
「俺が掻いたら痴漢行為になりそうだから、明日にでもカイリーにさせるか」
「ものすごく強い力で引っかかれそうなので、遠慮しておきます」
リザはふふっと笑い、ジョークが通じたと分かったようでアーチボルドも小さな笑みをこぼした。
……その笑顔は人を殺し賞金首になった男とは思えないほど穏やかで、カイリーが彼に傾倒する気持ちもなんとなく分かるようだった。
奇妙な四人生活が始まって、もうすぐ一ヶ月になる。
これまではリザが一人で暮らしていたこの小さな教会に子ども二人と成人男性一人が同居しているというのは、ファウルズの町の人々にとっても有名な話になっていた。
そのおかげか、「リザさん、大変そうね」とか「子どもがいれば、何かと入り用でしょう」などと気を遣ってくれた町民が食べ物やお古の衣類を譲ってくれたので、リザは大変助かっていた。
またカイリーはともかく、リザにくっついて礼拝客の相手をするロスは人なつっこいのもあり、彼のために子ども用の椅子を作ってくれる木工職人がいたりお菓子をくれたりした。
そんな人々にロスは「ありがとうございます!」と天使の笑顔で礼を言うので、彼はすっかり礼拝客の癒やし担当になっていた。
「リザちゃんが楽しそうで、何よりよ」
「ありがとうございます、奥様。私も……何だかんだ言って、楽しい日々を過ごせています」
礼拝客の常連である中年女性に言われたので、リザは笑顔で言った。
彼女の早くに病気で亡くなった娘が生きていればリザが同い年らしく、ファウルズに赴任した四年前から何かと気を遣ってくれていた。
二人が眺める教会の庭にはちょうど、カイリーとロスがいた。未だにリザに対して反抗的になりがちなカイリーではあるが、礼拝客や町民の前ではそれなりにおとなしくしている。今も、中年女性と視線が合うと軽く頭を下げ、まだ履き慣れない様子のスカートの裾を翻してロスと一緒に歩き去った。
「子どもたちはいいけれど……ギルドに新しく加わった男の人もここで暮らしているそうね」
「はい。カイリーとロスの親代わりのような人なので、一緒にここに泊めています」
「そう? 夫が言うに、寡黙だけど悪い人じゃなさそうとのことだけど……リザちゃんの方は、大丈夫なの?」
夫がギルドの職員だという彼女が心配そうに尋ねてきたので、その質問の意味にすぐぴんときたリザは笑顔でうなずいた。
「はい。アーチボルドはカイリーたちのよい保護者ですし、重労働を手伝ってくれたりと私に対しても親切です。確かにそこまで口数が多い方ではないのですが、だからこそ誠実な感じがするので同居人として十分な人だと思います」
「そう、よね。誠実なのがいいわよね」
そこで中年女性は一呼吸置き、「ねえ」とリザに呼びかけた。
「リザちゃんは……もう、『あのこと』は大丈夫なのね?」
「……ええ。もう二年近く前のことですし、毎日が充実しているのでいい感じに忘れられています」
リザが含みを込めた笑顔で言うと、中年女性は「それならよかったわ」と胸をなで下ろした。
「でも、何かあればいつでも相談してね。私たち、リザちゃんのおかげで安心して暮らせているのだから」
「滅相もございません。こちらこそ、いつもありがとうございます」
リザは中年女性を見送り、彼女が「三人でおやつに食べなさい!」と言って持ってきてくれた果物入りの籠を手に、食堂に向かった。
そうして思い出すのは、中年女性が口にした「あのこと」について。
「……大丈夫。私は、ここにいることを選んだのだから」
その言葉は自分に言い聞かせるつもりだったが、同時に……いつか誰かに聞いてほしいという、願望の表れでもあったのかもしれない。