汚れた世界で輝くものは③
神官の女――リザの提案を受けて、カイリーはアーチボルドやロスと一緒に、三人で住む家が見つかるまでの間、教会の厄介になることが決まった。
アーチボルドは「リザの言うことをよく聞いて、いい子でいるように」とカイリーに言って、ギルドでの仕事に行った。彼はこの町で生きていくために、金を稼ぐだけでなく町の人々からの信頼も得る必要があるのだ。
アーチボルドは、カイリーとロスのために動いてくれる。
だから、彼の指示なら何でも受け入れるべきだと分かっているのだが。
「カイリー、待ちなさい! 掃除が終わっていないでしょう!?」
「はん、やっただろ!」
「いいえ、隅まで掃けていません。やりなおし!」
「ちっ……うっせーなぁ!」
「言葉遣い!」
今日もカイリーは、リザに追いかけ回されていた。それも、たかが掃除を真面目にしないからという理由で。
初対面のときからリザのことが気に食わなかったカイリーは、そんな彼女が自分にあれこれ指図するのが非常に腹立たしかった。
きれいな手を持ちきれいな言葉遣いをするこの女はきっと、生まれてこの方一度も苦労なんてしなかったのだろう。
カイリーのように泥水を飲んで喉の渇きを癒やすことも、ぼろきれ同然の服を着ることも、何日も髪や体を洗わないため自分の体臭にえずきそうになったことも、ないのだろう。
そんな彼女に偉そうに命令されるだけでも気に食わないのに……アーチボルドがそんな彼女のことを信頼している様子なのが、ますますカイリーの神経を逆なでした。
アーチボルドは、リザの言うこととカイリーの言うことが違っていたら真っ先に、カイリーを疑う。
そういう場合は確かにカイリーが嘘をついているのだが、それでも自分の命の恩人である父親のように慕ってきた男に信じてもらえないというのがショックで、ますますリザのことが嫌いになった。
ただ一度、アーチボルドを助けただけの女が、二年も彼と一緒にいる自分よりもずっと、信頼を得ている。
それはカイリーの自尊心を傷つけたし……自分と違ってリザは大人なのだという事実もを突きつけられるようで、惨めな気持ちになった。
初潮を迎えたときも、カイリーは「大人になれて嬉しい」ではなくて、「やはり自分は男になれなくて、悲しい」と思った。
リザが穏やかな口調で告げる女性の体の仕組みも、カイリーからするとおぞましいばかりだった。
……だが、一人きりになってから気づいた。
カイリーが女であるのは、二年前にアーチボルドが言っていたようにどうしようもない事実だ。
ならば、それを利用してもいいのではないか、と。
カイリーは、アーチボルドに教会に置いていかれそうになったあの日から、彼と離ればなれになる未来を非常に恐れていた。
そして、生まれたときから男であるロスと違い、女の自分では少しずつアーチボルドが離れていくのだろうということを予想していた。
それはどうしようもないことなのだと思うと辛くて涙が出そうだったが……そう、自分は女だった。
女なら、成人の十六歳を迎えれば結婚できる。
アーチボルドと結婚すれば、ずっと彼と一緒にいられるのだ。
そうと分かったカイリーはこれまでとは考えを反転させ、女らしくなる努力をした。
癪ではあるがリザにスカートをねだったり彼女の化粧道具をくすねようとしたりして、自分のことを「あたし」と名乗るにした。
慣れないワンピースを着てアーチボルドの前に立ったとき、彼に「よく似合っている」と言われて、本当に嬉しかった。ワンピースを着ようとしなかったこれまでの人生が全て無駄だったと思えるほど、嬉しかった。
だからカイリーはリザのご機嫌も取りつつ、アーチボルドにアピールをした。
自分のことをもっと魅力的に思ってくれ、女として見てくれ、という念波を送りながら。
それなのに、狩猟祭の翌日、プランターの植え替え作業を終えて教会に戻ったカイリーは、絶望した。
室内には、アーチボルドとリザがいた。
世界で一番好きな人と世界で一番嫌いな人が一緒にいるだけでも複雑な気持ちになるというのに、アーチボルドは金色の髪飾りを手にしており、それを手にリザの背後に立ってその墨色の髪に触れていたのだ。
カイリーには、あんなことをしないのに。
カイリーには、あんなものを贈ってくれないのに。
カイリーには……あんな愛情深い眼差しを、向けてくれないのに。
なぜ、あの女だけに与えられるのか。
そして……あらゆるものを与えられた結果、あの女はカイリーからアーチボルドを奪っていくのではないか。
――また、自分は捨てられるのではないか。
沸騰した水のように頭の中がぐつぐつ煮えたぎり、カイリーはリザを突き飛ばすに留まらず、アーチボルドの手から奪った髪飾りを床に叩きつけて壊してしまった。
ざまあみろ、と思ったのは一瞬のこと。まずカイリーは、床に座り込むリザの目が驚愕に見開かれその茶色の目いっぱいに悲しみの色が広がったために息を呑んだ。
そして彼女の腰を支えるアーチボルドに叱られたため、胃の奥がきゅっと冷えるような感覚に襲われた。
叱られて逃げだしたカイリーを、アーチボルドとリザが追ってきた。どうせそうだろうとは思っていたので、カイリーも半ば諦めていた。
カイリーは、アーチボルドと結婚してずっと一緒にいたいと思っていた、と告げた。
驚いたのはアーチボルドのみで、リザの方は悲しそうな目だけを向けてきたのが、心の奥を見透かされていたかのようで腹立たしかった。苦労したことのないリザだからこそ、憎かった。
……だが、違った。
彼女は確かにいいところのお嬢様育ちかもしれないが、彼女にも悩むことや辛いことはあった。
ハリソンとかいう男に捨てられたという過去は、リザの心の傷の一つだろうし……傷を抱えるからこそ、いつも背筋を伸ばしてまっすぐ前を見つめられるのかもしれない、とカイリーは思った。
アーチボルドは、カイリーと結婚することはできないとはっきりと言った。
そんな気はしていたもののはっきり拒絶されるとショックだったし、彼はカイリーがなんと言おうと「それはしてはならない」ときっぱり言い切った。
だが、それはアーチボルドがカイリーを愛していないからではない。
むしろカイリーは十分愛されているし……そんな彼との縁が簡単に切れたりはしないのだと、リザが教えてくれた。
「あなたやロスがアーティと絆を作っているのは、私が見てもよく分かるわ。……あなたたちが仲のいい家族であるというのは、変わらないことなのよ」
その言葉に、ぽ、とカイリーの心のろうそくに火が灯った。
どうにかして火を付けようと躍起になっていたカイリーの心に、リザは決して消えることのない灯してくれた――否、ずっと前から火は灯っていたのだと教えてくれた。
アーチボルドも、「俺たちは家族だ」と言い切ってくれた。
アーチボルドとカイリーとロスは、家族だ。だから勝手に離れたりしないし、ずっと見守ってくれる、と。
ぽぽ、とろうそくの火が強さと輝きを増す。
ああ、なんだ。最初からこの明かりは自分の胸元で灯っていたのだ、とカイリーは気づかされた。
二年前の冬にアーチボルドと出会い、二発の拳骨の後に彼の後をついていくことを許された日から、この火は自分の心を温め、生きる指標となってくれていたのだと分かった。
もう、虚勢を張る必要はない。
らしくない振る舞いをする必要もない。
そんなことをしなくてもアーチボルドは側にいてくれる……カイリーのたった一人の、「パパ」なのだから。




