汚れた世界で輝くものは①
生意気お嬢さんの番外編です
彼女にとって、世界は汚い場所、人間は醜いもの、神は依怙贔屓ばかりする偏愛主義者だった。
彼女が生まれたのは、劣悪な環境で知られるマレー共和国の一角にある、争いの絶えない地域だった。
物心ついた頃からスラム街で暮らしており、生き延びるために誰かを騙し、傷つけ、裏切り、盗みをしてきた。
それが悪いことだと、思うこともできなかった。
やがて彼女は、自分が「彼女」であるのは都合が悪い、ということに気づいた。
彼女と身を寄せ合って生きていた女の子たちは皆、性別がばれると大人たちに連れて行かれてしまったからだ。
だから生き延びるために「彼女」を捨てて、「彼」になった。
そんな彼が八年も生きられたのは、奇跡に近いことだっただろう。
だが他人の命を奪い誰かを騙しながらも生き延びたその悪運も、ある厳しい寒さの冬の日に尽きようとしていた。
せっかく手に入れた小銭とパンを破落戸に奪われ、命からがら逃げたした彼がたどり着いたのは、炭化した家屋が並ぶ農村だった。
ここで何が起きたのかなんて知るよしもないが、家が焼けてまださほど時間が経っていないのだろう。
雪は滅多に降らないものの風が吹きすさび骨の髄まで凍えるような寒さの中、地面にほんのりと残った温もりが、彼を静かに招いていた。
彼はふらふらの足取りで地面に膝を突き、少しでも温もりを得ようと顔をこすりつけた。
煤と、泥と――かすかな死の臭いが漂う。
ここに誰かの炭化した骸があるのかもしれないが、死人に詫びる必要なんてない。生き延びるためには、暖を取らなければならなかった。
――ざ、と音がした。
風の音でも獣の足音でもない、これはブーツが砂利を踏みしめる音だ。
彼は、空腹と眠気で今にも閉じようとするまぶたを開き、顔を起こした。
黒い瓦礫の奥に、動くものの姿がある。それらは焼け落ちた家屋を超えるほどの身長を持っており、ざ、ざ、と砂利や瓦礫を踏みしめながら彼のいる方に近づいてくる。
……そして、何かの残骸をまたいで現れたその人と、視線がぶつかった。
――驚くほど青い目が、非常に印象的だった。
ハニーブロンドの硬質な髪は伸び放題で、口の周りに髭が生えている。
一見すると山賊のような見た目の男だが、それにしては着ている鎧には最低限の手入れが行き届いているし、近くに来てもあの饐えたような悪臭がすることもない。
そして何より、男のこの目。
その眼差しに、彼は心が震えた。
この世の絶望を煮詰めたかのような場所だというのに、男の周囲だけ静かな空気が漂っているかのように思われるほど、まっすぐな眼差しだった。
決して弱々しいわけではなくてむしろどちらかというと鋭い目つきであるが――彼と視線を合わせた瞬間に、思った。
この人に縋りたい、と。
「……生存者がいたのか」
男が、ぽつりとこぼす。
低くて唸るような声だが、これまで自分を傷つけてきた人たちとは全く違う、落ち着いた声音だった。
……彼は、枯れかけていた苦いつばを飲み込んだ。
そして、今この機会を逃してはならない、と天啓を受けたかのような衝撃を受けて――口走っていた。
「おっさん、おれを拾ってくれ!」と。
返事は、容赦ない拳骨だった。
しかも、二発である。
青い目の大男は、アーチボルドと名乗った。
彼に問答無用で殴られたので文句を言ってやろうと思ったが、「俺はまだ、おっさんと呼ばれるような年じゃない」と怖い顔で迫られた。聞けば、彼は髭のせいかやや老け気味だったが二十三歳だそうだ。
そうは見えない、三十はいっているだろう、と言うと、また拳骨を落とされた。
とんでもない暴力男だが、このアーチボルドという男に何かの運命を感じたため、自分を拾ってほしい、と必死に頼み込んだ。
アーチボルドは面倒くさそうな顔をしつつも、火を熾して携帯食の乾燥肉を湯で戻して柔らかくしたものや飲み水を、分けてくれた。
そして二人で肉を食べ終える頃、アーチボルドは「……分かった」と半ば諦めたように言った。
「ついてきたければ、勝手にすればいい。だが……おまえは、女だったんだな」
「おう、生まれたときからブツはついてねぇぞ」
「もう少し言い方というものを考えろ。……とはいえ、男として生きてきたというのは正解だな。この世の中――特にこのマレー自治区は、八歳程度の女のガキが生きていける環境ではない。むしろよくもこの年まで生きてこられたものだと、褒めてやりたい」
「すげぇだろ、褒めろ褒めろ」
「……俺は傭兵だ。邪魔だと思ったら、置いていく。いつでも離れてくれていい」
「そうはいくかよ! こうなったらおまえがどこに行こうと、地の果てまで追いかけてやるからな!」
ついていくことを許可してくれた喜びに身を震わせながらそう言うと、アーチボルドはやれやれとばかりに肩を落とした。
「……それで? おまえの名前は?」
「カイル」
「それは偽名だろう。……本名は何だ」
「いや、おれはずっとカイルだ」
親に付けられたわけではなく、なんとなく名乗るようになっていた名前。
そういえばずっと前に、飢えて倒れていた自分にパンを分けてくれた男の名前が、カイルだった気がする。きっと、彼の名前をもらったのだろう。
「……そうか」
アーチボルドはしばし黙って小さな日を見つめていたが、やがて立ち上がった。
「……ではおまえの名前は、カイリーにしよう」
「やだよ、そんな女みてぇな名前」
「実際おまえは女なのだから、みたいもクソもないだろう。……普段は、カイルと名乗ればいい。だが、いつまでも男のふりができるとは思えない。いつか女として生きていけるようにするために、カイリーという名前を心の中に入れておけ」
アーチボルドはそう言うと火を消して荷袋を担ぎ、「……獣の気配がする。移動するぞ」と言って背を向けた。
早速置いていかれまいと、急いで立ち上がった。
アーチボルドが分けてくれた肉や水のおかげか、ふらつかずに立てた。先ほど地面の温もりを求めて倒れ伏したのが嘘のように、体が軽い。
……生きたい。死にたくない。
カイル――カイリーはふんっと鼻を鳴らし、大股でさっさと歩くアーチボルドの後を追いかけたのだった。




