31 屈さぬ心①
粗末な荷台に寝かされて馬車に揺られること、しばらく。
「ここだな。リザ、下りるぞ」
ようやく馬車の動きが止まり、幌が開けられた。暗闇に慣れていたリザはまぶしさにかすかに目を細めるが、それも長い時間ではなかった。
馬車が停まったのは、うっそうとした広葉樹林帯だった。ハリスンに引っ張られて荷台から下ろされたリザが慌てて辺りを見回したところ、木々の遥か向こうに見慣れた家屋の街並みが見えた。
(あれは、ファウルズの町……?)
ということは、ここはファウルズからあまり離れていない場所のようだ。どこまで連れていかれるかと思いきや、想像以上の近場だった。
「逃げられると思うなよ? やるべきことがあるから一旦馬車を停めたが、ここは僕がファウルズにいた頃から無人だった家屋だ。誰も近くに来やしないさ」
ハリソンはリザの考えていることを読み取ったように言って薄く笑うと、「早く入れ」とリザの背中を押した。
林の中にぽつんと建つ一軒家は、なるほどハリソンの言うように長らく無人だったようで壁には蔦が這い、屋根なども一部壊れている。そして周りは視界の悪い広葉樹林帯なので、リザがここにいる間に町の人が偶然付近を通る可能性は絶望的だろう。
ハリソンは御者らしき男をその場に残し、リザを伴って家屋に入った。
中はがらんとしていたが、古びたテーブルだけは部屋の中央にあった。テーブルの上には、何かが置かれている。
「……よし。それじゃあリザ、これを書け」
そう言ってハリソンが示すのは、テーブルにある一式。ペンとインクと、紙――それもよく見かけるうっすらと色の付いたざらつきのある紙などではない。
リザもこれまで何度も見たことのある、永遠の愛を誓う男女が教会に提出する用紙――結婚宣誓書だった。
「これを道中の教会で提出するから、すぐに書け。もう君の名前以外の箇所は全て埋めている」
ハリスンの言うように、【妻】以外の欄は全て書かれていた。ご丁寧に、立会人のサインまである。あの御者か誰かに書かせたのだろうか。
(だからハリスンは、遠くに逃げる前にこれを書かせたいのね)
【夫】の欄に書かれているハリスンの名前をにらみつけながら、リザは唇を噛む。
ハリスンは、何が何でもリザと結婚したいようだ。そのためには、リザの名前が書かれた結婚宣誓書が必要だ。
これさえ書かせればたとえリザが逃げたとしても、自分たちは夫婦だと言い張れる。そうすれば、「妻を探したい」と言ってリザを合法的に捜索させることが可能だからだろう。
当然おとなしくサインするつもりなんてないのでリザがだんまりを決め込んでいると、ハリスンはいらいらしたようにペンを手に取って無理矢理リザの左手に握らせた。
「時間稼ぎのつもりかもしれないが、得策とは言えない。もうすぐ、夜だ。君は助けを求めているのだろうが、夜はますます人気が少なくなる。この寒い時期にこんなぼろ屋で夜を越すのは、難しいだろう? だが今すぐにサインすれば、君を凍えさせることなくすぐに僕の腕の中に迎え入れてあげるよ」
それくらいなら凍え死んだ方がましかもしれない。それに、リザは右利きだ。
寒さを逃れるためだからといって、いつまでも他の女とリザの違いが分からないような男の妻になるなんて御免だ。
「……早く書け!」
しびれを切らした様子のハリスンが無理矢理ペン先をインクに浸そうとしたので、その瞬間リザは左手をぐっと引き、手の甲をインク瓶に叩きつけた。
インク瓶が傾き、中の黒い液体がびしゃりとテーブルに散る。
「ちっ! お転婆もいい加減にしろ!」
ハリソンは面倒な抵抗をしたリザの頬を空いている方の手で叩くと、インク瓶を起こした。だが瓶の中身はほとんどなくなっており、わずかなインクでペン先を浸すことはできそうになかった。
リザの必死の抵抗がよほど頭にきたようで、ハリソンは顔に怒気をみなぎらせるとリザの後頭部を掴み、額をテーブルの角にぶつけた。
ガッ、と頭蓋骨を貫通して脳に響くような音と痛みが走り、リザはうめき声を漏らす。
「……時間稼ぎのつもりか知らないが、よくもここまで僕を怒らせたものだ。そんなに、僕と一緒になるのが嫌か? 腹を痛めて産んだあのガキのことが、大切か!?」
「……ロスは、私の子どもじゃない……」
痛みで涙が零れ、目を開くこともできそうにない。
それでもリザは顔を起こし、じんじん痛む額の訴えを聞きながらも目を開き、憤怒の形相で自分を見下ろすハリソンをにらみ上げた。
「でも、あの子は私が守るべき子ども。それに……私はあなたなんかと一緒にならない。なりたくない!」
「子どもじゃない……?」
「ええ、そうよ! それでも、私はあの子を守りたいと思っている! あの子を守るのもあなたを拒絶するのも全て、私が選んだこと。……私のことなんて、気持ちなんて、何も分かっていないし知ろうともしないあなたなんかに、屈しはしない!」
ハリソンは、リザのことを軽んじていた。
ゲルド王国の商家出身で、神学校を卒業した箱入り娘。
学生時代から男に触れることなく、若い身空でたった一人でやってきた世間知らずな娘なんて簡単に落とせるだろうと、手を出したのかもしれない。
だがリザはハリソンが思うほどやわでも、流されやすい体質でもない。
ハリソンの求婚を断ったのも、アーチボルドたちを迎え入れたのも全て、リザが選んだことだ。
そして……リザは自分勝手なハリソンではなくて、神官という職に就くリザのことを理解し、同じ場所で暮らす者として支え合おうとしてくれるアーチボルドたちのことが……大好きだった。
リザは非力で、こうして成人男性の暴力の前では抵抗できなくなる。
だがそれでも、大好きな人たちのために最後まで戦いたかった。
ハリソンの眉が、ぴくっとつり上がる。
もしここにいるのがアーチボルドであれば「リザは勇敢で芯が強いな」と言ってくれるかもしれないが、ハリソンからするとリザの抵抗はただの「生意気」なのだろう。
「……君がこんなあばずれだとは思わなかったよ、リザ。できるならここで結婚誓約書を書かせたかったが……そうもいかないか。しばらく眠ってもらおうか」
そう言うなり伸ばしてきたハリソンの右手を、リザはとっさに払いのけた。
だがその拍子に体のバランスを崩して床に倒れ込んでしまい、二度目の魔手をかわすことはできず、ワンピースの襟部分をぐっと掴み上げられた。
 




