1 雨の中の来訪者①
雨の音が、一瞬だけ不規則になった。
丘の上にある、小さな教会のリビングにて。ランプの明かりの下で本を読んでいたリザは、小さな違和感に気づいて窓の外を見やった。
もうすぐ深夜を迎えようとしている時刻だからか、窓の外の世界は黒に近い濃紺に染まっており、夕方から降り続く銀色の雨が流れている。
リザが耳を澄ますと、玄関の方でかすかな音がした。ぴた、ぱしゃ、と響く音は、雨の中やってきた誰かの足音だ。
(……こんな雨の夜中に、誰かが来た?)
シェリダン王国の辺境の町である、ファウルズ。緩やかな丘陵地帯に広がる町の外れにあるこの教会で働くのは神官になって四年目の若い女性であるリザのみだ。
武器を持った盗賊などが来てはたまったものではないが、路頭に迷う旅人であれば救いの手を差し伸べなければならない。
リザは念のためにランプに覆いを被せて部屋の明かりを落とし、そっと椅子から立ち上がった。そして玄関に向かう途中の廊下で、壁に立てかけていた金属製の棒を手に取る。
神官は剣を持つことができないが、戦ってはならないわけではない。最低限の護身術も習っているので、教会と自分の身を守るためにも、この錫杖で無頼者を殴るくらいの覚悟はできている。
薄暗い玄関にたどり着いたリザだが、はたしてドアの向こうから聞こえてきたのは小さなすすり泣きの声だった。どう考えても、夜中の教会に押し入ろうとする盗賊の声ではない。
「……正教会ファウルズ支部へ、ようこそ。どなた様でしょうか」
ドア越しにリザが誰何すると、はっと息を呑む音が聞こえた。
「……神官か!? ここを開けてくれ! 助けてほしい人がいるんだ!」
ひっくり返った声で叫んでドンドンとドアを叩くのは、幼い子どもの声だ。
その言葉に、ドアを開けようかどうしようか迷っていたリザはためらうことなく、頑丈な鍵を外してドアを開けた。
夜の色に染まる丘陵地帯を背景に立つのは、ぐっしょり濡れた子どもだった。傘代わりの上着を頭から被っているが、もうそんなものを被るのは逆効果なのではと思われるほど湿っており、足下が水たまりになっていた。
子どもはリザを見ると、頭から被っていた上着を下ろした。夜の色と水濡れで分かりにくいが、銀色の髪と暗い色の目を持っている。年齢は、十歳くらいだろうか。
周囲に誰もいないのを確認してから、リザは軽く腰を曲げて子どもの目をまっすぐ見た。
「私はこの教会を管理している、リザといいます。あなたの名前と……それから、助けてほしい人というのは?」
「おれの名前は、カイルだ。助けてほしいのは、おれの……」
カイルと名乗った少年はそこで言いよどみ、「ああもう!」と髪をぐしゃぐしゃかきむしった。細かい雨粒が、リザの頬に飛んでくる。
「とにかく、ひでぇ怪我をしているやつがいるんだ! そいつを助けてくれ!」
「怪我をされているのですね。どのような怪我ですか」
「腹をぐしゃっとやられたんだ。体力馬鹿なのが取り柄なんだけどそれでも、血がドバドバ出ててどうしようもなくって……」
言いながら、少年は唇を震わせている。
(……この言い方からして、助けてほしい相手は親ではないようね)
正直怪しいところもあるが、「助けを求める者に救済を」が教えの一つである正教会の神官として、見捨てることはできない。
「分かりました。医療道具の準備をして、すぐに行きます」
カイルに言ってからリザは物資倉庫に向かい、リュックサックに治療道具や簡易毛布、念のための非常食などを詰め込んだ。
そして洗面所に行き、部屋着から作業用の神官服に着替える。神官服にも数種類あり、この厚手の服は泥や血の汚れが付いてもいいような洗いやすい素材でできている。今日は雨なので、その上にさらに防水コートも羽織った。
就寝前なので下ろしていたチャコールグレーの髪を紐でくくって、鏡の前で確認する。
鏡に映る自分は茶色の目をきりっとさせており、治療に臨む神官らしい表情をしている。それを確認してからリザはリビングに戻ってランプを手にし、リュックサックを担いで玄関に戻った。
カイルはそこにおり、玄関の内側で上着を絞ったのか床のあちこちに水たまりができていた。今日せっかく掃除をしたばかりなのに、明日また床を洗う必要がありそうだ。
「お待たせしました。では、案内してください」
「ああ。こっちだ!」
リザから防水機能のついたランプを受け取ったカイルは、すぐさま教会から飛び出した。
雨で視界が煙るし足下もぬかるむし重い荷物も持っているしでリザはひいひい言うが、カイルはリザの鈍足を気にせずにさっさと走っていくので、ちらちら揺れるランプの明かりを追うので精一杯だった。
カイルが行く先は、ファウルズの町から離れた場所にある丘だった。
ここには確か、町の子どもがかくれんぼのときに使う小さな洞穴があったはず……と思っていると、カイルはそこに向かった。
急いで洞穴に入ったリザはまず、むわっと立ち上る血の臭いに思わず口元を手で押さえた。
「これは……」
「ロス、ちゃんといい子で待っていたんだな。ありがとう」
リザをよそに、洞穴の奥に行ったカイルは優しい声でそう言った。……よく見ると、奥には二人の人間がいた。
一人は、まだ六つにもならないだろう年齢の子どもだった。ぼろをまとったその子はカイルにぎゅっと抱きつき、わあわあ泣き始めた。
そしてその奥には、大きな布の塊――のような大柄な男が仰向けに寝ていた。間違いなく、この血の臭いの出所はあの男だ。
カイルが地面にランプを置いたため、リザはリュックサックを抱えてそちらに向かい、男の前に跪いた。
年齢は、三十歳くらいだろうか。硬質な髪と口周りの髭は、淡い金色をしている。
傭兵風の革鎧を着ているがその腹部はざっくりと裂けており、カイルがとりあえずあてがったらしい布が雑に巻かれていた。
男は固く目をつむっており、口ひげで隠れているが口元は痛みを堪えるかのように真横に引き結ばれている。ほどよく日に焼けた肌を脂汗が伝い、肩で大きく息をしていた。
(これは……刃物による傷ね)
ちら、とカイルの方を見ると、彼はロスと呼んだ少年を抱きしめてこちらをじっと見つめていた。
「……助けてくれるんだろう?」
「……ええ、もちろん」
正教会の神官は、助けを求める者を拒まない。
リザはカイルにも指示を出し、男の服を脱がせた。二十二歳の女性であるリザと十歳そこそこのカイルではなかなかの重労働だったが、なんとか大柄な男の革鎧と上着を脱がし、上半身をはだけさせることに成功した。
あらわになった上半身は頑強で、肩にも腹部にもしなやかな筋肉がしっかりついていた。腰回りも太く、リザが抱きついたとしても両腕で一周することはできないかもしれない。
その体のあちこちに刻まれた薄い筋のような痕を見て、リザは目を細めた。
(こんなに、古い傷跡が……。この人は、傭兵なのかしら)
腕っ節一つで商売をする傭兵ならば、太刀傷を受けていてもおかしくはない。
平和とは言いがたいこのご時世なのだから、任務に失敗したか誰かに襲われたか……傭兵の負傷理由をいちいち考えるのも、無駄なことだ。
(……それにしては、この組み合わせは奇妙ね)
これまでにも負傷者の手当てはしたことがあるため、ざっくり裂かれた傷口を消毒液で洗い清潔な布で拭き取りながら、リザは考える。
傭兵には団体で活動する者たちも少なくないが、子連れ――しかも二人も――なんて聞いたことがない。カイルの方はまだしも、ロスという少年なんて長旅に連れて出るのもはばかられるような年齢に見える。
(カイルはともかく、ロスの方はこの人の子ども? 年齢的にもあり得そうだけど……)
とにかく、この男を治療しなければ経緯を知ることもできそうにない。
ふと、リザは自分の隣でリュックサックから新しい包帯を出すカイルを見た。
「……朝になれば町の医院が開きますが、そこに行きますか?」
「それはだめだ!」
カイルは即答してから、はっとしたようにうつむいた。
「その……アーティにはいろいろ事情があるんだ。とにかく、医者はだめなんだ!」
「最善は尽くしますが、私は神官であり医者ではないので、絶対にこの方を救えるとは限りません」
「っ……分かってる。だからその、できる限りやってくれ!」
「分かりました」
(……訳ありということね)
素直に返事をして男の傷口に付着していたごみをピンセットで取り除きながら、リザは考える。
シェリダン王国では、王国民であるということが証明できるのならば良心的な価格で医院での治療を受けられるし、外国人でも金に糸目さえつけないのなら同等の扱いをしてもらえる。
だが何か後ろめたいことがある者は、医院を敬遠しがちだ。教会と違って医院は、患者を選ぶ権利があるのだから。
(カイルやロス、アーティというのは、マレー自治区でよく聞く名前ね)
ということはこの三人はシェリダン王国の東にあるマレー自治区出身で、高額な医療費を払えないか……金はあっても人の多い場所に行けないかの、どちらかだろう。
いずれにせよ、ひどい負傷をした傭兵風の男と子ども二人という時点で、訳ありである。
(まずは、この人の傷をなんとかしないと!)
それほど信心深いわけではないが、リザは神学校を卒業した神官だ。
訳ありだろうと何だろうと、迷える者には手を差し伸べなければならない。