怒髪天のボタン
「──ンンンッ!」
真っ暗な視界の中から、唇を結んだまま叫んだようなルルの悲鳴が聞こえた。
脳に映し出される最悪の未来予想図……それを幻視し、完全に血の気が失せたナワテは、恐る恐るまぶたを持ち上げた。
……ぼやけた視界の中に自力で立つルルの姿が現れた。いや、兵に腕をつかまれているから自動的にそう見えるだけなのかもしれない。だが……幸いにも、彼女の足元に赤い血は滲んでいなかった。代わりに、黒い布きれが足元にひらりひらりと舞い落ちている。
どうやら怪我はない。ドリスコルが放った透明の針の攻撃は、ルルのスカートを切り裂くまでに留めたようだ。
「フゴゴッ!」
極端に短くなったスカートの丈に、再度、王のブタ鼻が鳴る。
このとき、ナワテは気付いていた。ドリスコルという老魔術師が、二種類以上の戦闘用魔法を使う『雑詠術者』だということを。
やはり王都の魔法のレベルは一段階違う。それをまざまざと見せつけられたナワテは、凄まじい大戦の渦中に、この国が滅びなかった本当の理由が分かった気がした。
だがドリスコルは安堵する暇など与えてはくれない。
再び、最悪の一言を放ってナワテの身を凍えさせた。
「次は、右脚を落とす」
「なッ」
どうやら、ドリスコルが吐かせたいのはスレタの居どころだけではない。ナワテがこの国に潜入した経緯、デリスランド側の目的から手段まで、あらいざらいだ。
「本当だ。ぼくは貨物馬車に乗り、この身一つで潜入したんだ……」
数人の兵に押さえつけられながら、ナワテの震えた声が玉座の間にぽつねんと響く。
「いいだろう。では質問を変える。我が国には現在、貴様のような鼠が何匹潜んでおる?」
……分からない。いや、居るはずだがナワテは知らされてない、というのが正確だろう。
ナワテだって潜伏者同士で連携が取れるならそれにことに越したことはない。当初はそのことについて不思議に思っていたが、たった今腑に落ちた。
── こういう事態に備えて、アカネ大臣が予防線を張ったんだ。
しかし、この頭の字面を読んだとて、ドリスコルの満足を得る答えにはならないだろう。
そうなれば……ルルが……
ナワテは答えられない。血しぶきを撒く未来予想図に完全に怯えきっている。
その時だった。
春風のような柔らかい声が耳から入り、ナワテの脳を振動させた。
「ナワテ、わたしに構わないで」
顔を持ち上げ声がした方角を追う。するとそこには、こちらを眺めるルルがいた。
「あなたは悪人じゃない。それだけは分かるから」
それは、自らの身に危険が及んでいる者が浮かべようもない、あまりにもたおやかな笑顔。さりながら、そのまなじりには今にも落ちてしまいそうな大きな水玉が光っていた。
「流石は名女優。泣かせるセリフではないか。そなたが演じるは、ユダを信じる健気なイエスといったところか」
遠回しに裏切り者と揶揄されたナワテ。
しかし、そのことに反論はできない……
ルルは信じてくれているのに。助けたいのに。無力すぎてなにもしてやれない……
相手への怒り、ルルの優しさ、自分への失望がとどめとなり、ナワテの心は今にも壊れてしまいそうだ。彼はいま、目の前のこぶしを力いっぱい握りしめて感情を表に出している。
ナワテの弱りきった姿を眺め見たドリスコルは、心底満足そうなしたり笑いを浮かべていた。
そして、更にナワテの感情をささくれ立たせる行動をとった。
「王よ。そろそろ嫁がほしい時期でしょう?」
「べ、べべべ、べつに。なんだよいきなり」
ドリスコルの唐突な質問に、王はいかにも童貞っぽいリアクションで返した。
その瞬間、ナワテの全身に震えが迸った。あからさまに嫌な予感がしたからだ。
その答え合わせをするように、ドリスコルの手が持ち上がる。
「このおなごなどいかがでしょうか」
「フゴッ!」
ドリスコルの手が指し示す先。そこには、胸元をはだけさせながら短くなったスカートの丈を庇うルルがいた。
見えそうで見えないを繰り返された王は、もう興奮状態の向こう側。ドリスコルに背中を押された彼は、玉座を転ばせながら立ち上がった。
「部屋にっ、ぼくちんの部屋にっ!」
王が両手で「運べ」と合図しながらそう繰り返す。必死の形相でルルの身体を舐め回すように見るその姿は、
──血に飢えた醜い猛獣。
「い、いや!」
手足を押さえられながらなみだ声で抵抗するルル。
その細い声がナワテの鼓膜を震わせる。
「こ、この野郎……」
一旦血の気が引いていたナワテの頭に、再び熱いマグマが回り始めた。
「はっはっは。どうした小僧よ。恨むなら自らの無力さを恨むがいい。女一人守る力もないくせにスパイ行為を働いた罰じゃよ」
存分に嫌味を言い放ったドリスコルは、持ち上げたその手にビュンと風を纏わせた。
王は両手で股間を押さえ、前かがみになりながら歩いている。小股で近づくその先には、動きを縛られながらも必死に肌を隠そうと藻掻くルルがいる。
「王よ、美しい果実も皮を剥かねば召し上がりにくいでしょう。ほら、このドリスコルが最後のひと皮を剥いて差し上げましょう」
ドリスコルの手の周りを舞う風が、刃の形に変形した。裂傷の対象は艶めかしい肌ではなく、それを覆い隠す黒い生地。
この大衆の前でルルを裸にするつもりだ。
ルルの視界には、瞳孔を開き息を荒げながら近づいてくる男と、風の刃で最後の一枚を脱がそうと目論む老魔術師、という地獄絵図が映し出されている。
この状況、どうやっても免れられない。
現在、ルルの脳を支配するのは……
絶望、の二文字。
「た……助けて……神様ぁ…………」
そんな彼女の最後の願いは言霊となり、湾曲になった壁に反響した。
その時だった。
バチバチッ──! と、ナワテの全身が火花を散らすように輝きを放った。
ここまでお時間を頂いた方々、誠にありがとうございます! 感謝感激です!
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