運命の人とはジャッジしない
恋は、運命の人とすべきものであって、運命の人とは、心を見てくれる人であって、心以外でジャッジする人ではない。
だから、運命の人と恋をするには、心以外でジャッジするのではなく、心を見たほうがいい。
そのように、心にこそ価値や実体を見る人達は、自分自身もまた心で定義していて、本物の自我がある。
逆に言うと、ほとんどの人達には、本当は自我がない。
人が人と出会うとき、無意識にジャッジする。
外見の等級、経済力の等級。
履歴書を見れば、学んできた学校の等級、担ってきた職務の等級。
何らかの枠組みで、何らかの常識で人を測り、多くの人は満足している。
そしてそのジャッジは、この世界で生きていくために合理的だ。
人間の社会には秩序があり、秩序は力関係によって形成されている。
秩序に背けば排除され淘汰されるから、与えられた価値観で他者を測ることは合理的だ。
しかしそれは、保身で派閥を選ぶことと変わらないし、だから人間はみな、無意識な権威主義者だ。
人間は、権威主義という常識によって画一的に整頓されていく。
したがって、権威主義は利己主義であり、与えられた価値観で生きる人達には自我がない。
川辺に小石が転がっているように、肉体はあっても肉体の中には自我はない。
自我のない人達は、他者を本当には愛していないし、自分自身を本当には愛していない。
ただ、肉体への苦痛や本能への不満を避ける存在であって、主観的な感覚を客観的な常識の下に置いている。
逆に言うと、自我のある人達は、客観的な常識の下に主観的な感覚を置くことをしない。
料理をブランドではなく自分の舌で味わうように、恋する他者を主観的に体験している。
人の内面を正しく測るには?
その人が実践する行動を確認したり、あるいは言動に欺瞞を嗅ぎ取ったりして、推測することもできる。
しかし、目を覗き込んで、直接、心を見ることもできる。
目には心の、莫大な情報量があって、感度の良い人達ほど、見つめ合うことで莫大な情報交換を行えている。
目の中にある情報量に比べれば、目の外にある肉体や世界なんて、実体のない夢のようなものだ。
異星人は実在していて、人間の子供達に少数だが混ざって生まれてくる。
異星人達は、周囲の大人達の思考のロジックに、知的限界を感じている。
学校で勉強をしたほうが偉くなれると言われても、異星人達にはジョークにしかならない。
資産を形成して周囲から尊重される人生が幸福だと言われても、異星人達にはジョークにしかならない。
なぜなら、常識と正義とはあまりにも乖離しているから。
人間の社会で地位を得るのは、有能というよりも俗物だから。
俗物つまり派閥と保身で生きる者でなければ、人間の社会で高い地位を得られない。
異星人が高い経歴や財産を形成することもあるが、本人はそれに価値を感じない。
異星人は自身の目が賢いから、ブランドで他者をジャッジする必要が初めからない。
異星人は、ジャッジしない。
自我のある者にとってほど、社会における権威の階級や、常識的に定義される暗黙の貴賤が意味をなさない。
地位や経歴の悪い有能がいても、地位や経歴の高い無能がいても、異星人は少しも驚かない。
与えられた価値観でジャッジしない者達は、そのように、常識の外側で生きている。
ジャッジしない者達にとって、ジャッジする人々にとっての唯一無二の現実世界は、何の価値もない夢にすぎない。
そして、異星人達は、異星人であることを自覚している。
異星人であることによって資産や命、家族や幸福を奪われても、異星人であることを譲ろうとはしない。
異星人は、常識の外側で見つめ合う。
美しい他者が結果的に異性であったり、美貌や資産を備えていることがあるかもしれない。
しかし、美貌や資産、性によって他者を選び、その結果として相手が美しいということはありえない。
それが絶対にありえないと知っている異星人達にとっては、物質世界は夢にすぎない。
異星人は見つめ合い、主観的に体験される情報としての他者とともに生きている。
互いの自我によって、互いを深く愛している。
そのように運命の相手との恋を楽しみ、自我よりも価値のあるものは他にないと考えている。
自らの舌で味わってこそ、世界は彩りに満ちているからだ。
このように、運命の人とする恋ほど、すばらしいものはない。
だから、恋は、運命の人とするのがいい。