私には甘すぎる
「あぁ〜ん、マリトッツォ様ぁ、またチェリ様がこっち睨んでますぅ〜、ボンバ怖ぁ〜い!」
むっちりとした肉感的な身体をくねらせ、豊満な胸を私の婚約者である男に押し付けながら女が喚き声をあげている。
器用なことに涙まで浮かべ、しかしこちらを見る目には明らかな優越感が滲む。悔しがって欲しいのだろうか。はたまたここで激昂し、決定的な決裂の言葉が欲しいのか。
申し訳ないけれど、今こちらはそれどころではないのだ。頭が割れそうに痛い。押し寄せてくる前世の記憶が膨大な情報量でもって脳細胞を刺激する。
日本、家族、仕事、恋人、会社の近くの定食屋、タイマー予約した洗濯機、お気に入りのカフェ、飼っていた猫、約束していた旅行、読みかけの小説、まだ洗っていない汚れた皿…………。
わずかな間目を閉じて、ひとつふたつと深呼吸をする。何故、このタイミングで。
分からない、分からないけれどひとつだけ今言いたいことといえば。
──マリトッツォって……。
少し前に流行った、あの。ブリオッシュをパクッと開いて、間にもったりクリームを挟んだ、あの。小洒落たカフェやら、お高めのパン屋にも並んだ、あの。
意識してみれば、豊満な女にまとわりつかれて満更でもなさそうな顔をしている男のサラサラストレートなマッシュルームヘアがあれっぽいし。
口が大きめで下品に笑った時の横顔とかも、あれっぽい。
なんなら鼻の頭のそばかすだって、オシャレにトッピングされた何かしらのあれっぽいじゃないの!!
私たちは領地が隣同士で、親たちが仲良く爵位も近かったからちょうど良いだろうと結ばれた婚約者同士であった。年齢も同じで、幼い頃から兄妹のように育ってきたのだ。
別に男女の愛はなかったけれど、家族としてならそれなりに親しみを感じてもいた。優秀ではないが、勤勉ではあったはずなのだ。この……マリトッツォは。
マリトッツォ……名を呼ぶだけで急に押し寄せるスイーツ感。なんだろう、もう……ふふ……ふふふ。慌てて頬の内側を噛んでも、もうどうしたって堪えきれない。急にニヤつき出した私に、女が喚き声を大きくする。
「もうっ! チェリ様、なんで笑ってらっしゃるの?! また私の爵位が下だからって馬鹿にしてるんでしょう! そうやっていつも意地悪してぇ! ねっ、マリトッツォ様ぁ、ボンバ悲しいですぅ〜!」
「よしよし、可愛いボンバ。私のボンボローネ。泣かないでおくれ、君には明るい笑顔が似合う」
チュッチュとしている。目の前で、マリトッツォと、ボンボローネが。
ボンボローネ・アンコーナ男爵令嬢。私の婚約者の浮気相手だ。
ボンボローネって……ボンボローネって、私、それも知っているわ。あれよね、マリトッツォの次に来るのは?! ネクストブレイクスイーツ特集みたいなあれで見たわ。揚げパンみたいなのの中に、クリームとかジャムとかが詰まってるのよ。砂糖がまぶさってて、とても甘そう。でもそんなに流行らなかったのよね。たしかにマリトッツォのような見た目のインパクトもないし。日本人にはちょっと重めなのよね、きっと。
「ボンバ、ボンバ、あぁ……君の唇はなんて甘いんだ。可愛いボンボローネ……チュッチュ……」
チュッチュとしておるわ。
そもそも愛称がボンバってどうなん? なんか強そう。やっぱ砂糖まぶされてるから甘いんか? 肉感的なのは揚げ物だからか?
「マリトッツォ様……ン……ァ……ちゅっ……」
あまりにも夜の香り漂う二人の様子に、とうとう周囲の人たちも気付きだす。そりゃそうだろう、ここは学園のカフェテリアだ。
違う意味で頭が痛くなる。
私たちの婚約は、今週末にでも解消される予定だ。マリトッツォがせっせと実績を作ってくれたおかげで、やっと父も分かってくれたらしい。
「男の甲斐性が……」
「いっときの遊びで……」
口を開きかけた瞬間に、見えない速さで飛んできた母のコークスクリュー・ブロー。確実に仕留めにいこうとするその姿勢がとても素敵。あの技は是非、結婚して家を出る前にご教授願いたいものだわ。結婚できるか分からないけれど。
鼻血を出して倒れた父が二時間後に起き上がり、すぐさま仕上げてくれた書類は完璧だった。
私、甘いものはそんなに好きじゃなかったのよね。
「あの、ちょっと宜しいですか?」
いい加減胸焼けがするから。
「ん……チュッ……ンマッ……うるさいな……君は僕たちの邪魔しか出来ないのか……?」
「ハァ……マリトッツォ様……ボンバちょっと暑くなっちゃった……」
こらそこの男子生徒たち、何を前屈みになっとるんじゃ。横にいる婚約者の令嬢たちがウォームアップを始めているぞ。
「お言葉ですが私はお二人の仲を邪魔するつもりは一切ございません。したがってボンボローネ様を睨むこともしませんし、爵位を下に見て意地悪を言うようなこともいたしません」
「えぇ〜っ、そんなの嘘ですぅ〜! だってチェリ様はマリトッツォ様の婚約者じゃないですかぁ!」
分かっていてチュッチュチュッチュしているんだから豪気なものだ。
「そうだぞ、婚約者だから嫉妬しているんだろう!」
……婚約したら無条件に好かれるだなんて、考えが甘すぎるんだよマリトッツォ。
「マリトッツォ様はお父上からまだ何も聞いておられないのですか?」
「父上から……? いや、最近タウンハウスには帰っていないから」
「うふふ〜! そうですよぉ、だって毎日ボンバと一緒に過ごしているのだものっ」
「ああボンバ、愛しいボンボローネ。一度君の味を知ればもう手放せないのさ」
砂糖依存症かもしれんな。
家同士の付き合いもあるし、初めは穏便に婚約解消出来るならばそれでいいと思っていた。けれどここまで話が大きくなったら(なにせここは学園のカフェテリアなのだ。多くの貴族子女たちが興味津々でこちらをみている!)いっそしっかりマリトッツォ有責で慰謝料を貰った方が良いのかもしれない。
どちら有責であっても、いちど婚約を解消した傷物と呼ばれるのは確定しているのだから。お金は裏切らない。マネーイズパワーだ。
「……週末には両家での話し合いが行われます。最後になりますので、そこには是非ご出席を」
「えぇ〜っ? 週末はボンバとデートの予定があるのにぃ〜」
「ああそうだ。評判のカフェへカンノーロを食べに行く約束なんだ」
カンノーロというと、あれよね。円筒状に巻いたパイ生地の中にクリームを詰めたやつ。なんなのかしら。こいつら、中にクリームを詰めなきゃ気が済まない生き物なのかしら。頭の中もクリームが詰まっているのかも。
「さしてお時間は取らせないかと。終わってからデートを楽しまれては?」
「まあ、お前がどうしてもと頼むならばそうしても良いがな! もっとボンバのように可愛らしく頼めば良いものを!」
「ヤダァ、マリトッツォ様ったらぁ! ボンバ可愛い? ボンバが一番可愛い〜?」
勘のいい者たちは既に私たちの婚約がどうなるか察したことだろう。こうなった以上次の婚約を急ぐこともないが、まあ念のために周囲に良い印象を与えておくのも役に立つだろう。こんなのの婚約者だった私、結構可哀想ですよね。
「皆様お騒がせして申し訳ありませんでした。どうぞ残りの休憩時間はごゆっくりお過ごし下さいませ」
全然手をつけられなかったランチのサンドイッチを包んでもらい、席を後にする。口の中がジャリジャリしそうなほど甘くなってしまった。せっかくだから爽やかな風を感じられる中庭で食べよう。今日はマスタードたっぷりのチキンサンドだから、楽しみにしていたのだ。
「……ん……うまっ、辛っ」
モックモックとパンを齧る。やはりマスタードのピリッとしたアクセントが効いていてとても美味しい。
「失礼、チェリ・サーレ伯爵令嬢。これを貴女に」
背後から、低く響く良い声が耳を震わせる。口端についたマスタードを慌てて拭き取り振り返ると、そこには背の高い青年が立っていて。
赤い短髪、キリッとした眉、鋭い瞳は鷹のよう。全体的に細身にも関わらず、制服の肩のあたりが張っていてキツそうだ。さぞスピードの乗った良いパンチを繰り出すことだろう。いや彼はボクサーではなくて、騎士科であったか。
「……これは?」
差し出されたのはポーションの瓶だ。学園の売店でも買えるごく一般的なもの。
「失礼ながら先ほどカフェテリアで姿を拝見したが貴女は頭痛がしていたのではないか? 早めに対処しておくと後が楽だ」
あれほどの騒ぎを起こしたのだから、見られていて何もおかしなことはない。けれど、私の頭痛に気付いていた人がいるとは思わなかった。
記憶の奔流が落ち着くにつれ、先ほどよりは大分楽になってはいたのだけれど。
「お恥ずかしい限りでございます……が、とても、嬉しいです。ありがたく、いただきます」
大きな手からその瓶を受け取ると、少しだけ目を細めて彼はさっさと踵を返し去って行った。
本当にこれを渡すためだけに来てくれたのだ。
「……カーマイン様……」
いただいたポーションは甘かった。
◇
私とマリトッツォの婚約は無事解消された。
両家話し合いの席にまでボンボローネ様を連れてきたのだから、あれでいてなかなか肝が据わっている。そのまま婚約し直すのか、それをマリトッツォの両親が許すのかはしらないけれど。
私も晴れて自由の身である。あの惨状……喜劇? いや悲劇……? を見た生徒たちからは時折気の毒そうな、それでいて面白そうな顔で見られることもあるけれど、まあその程度のこと。
日々母からコークスクリュー・ブローの指導を受けながら、平和な日常を送っている。
前世の記憶は、だいぶん馴染んだ。元通りとはいかないけれど、前の私よりもちょっとだけガサツに、ちょっとだけ強気に、ちょっとだけ前向きに変わったような気がする。
結婚出来なくても死ぬわけでなし。また家のための政略結婚であっても、就職だと思えばまたそれもよし。そのように考えられるようになったから、後ろ指を刺されたってへっちゃらだ。
「チェリ・サーレ伯爵令嬢」
私の耳を、低く響く良い声がくすぐる。
「カーマイン・ドラギ侯爵令息様、ごきげんよう」
あの日ポーションをいただいてから、彼とはたまに会うと少しだけお話しするようになった。
実は前から見た目がドストライクだなとは思っていたのだが、話してみると中身もとても素敵な人であった。
細身で美麗なタイプの男性がモテるこの国において、みるからに戦う肉体を持つドラギ侯爵令息はそんなに人気がないらしい。まあ威圧感はあるし、目付きも悪いので若い令嬢たちから見たら多少怖いのも分からなくはないが。
でも、私は好きだ。
「……良かったら、横で食べても良いだろうか」
「ええ、もちろんですわ。中庭は風通しが良くて気持ちがいいですものね」
コワモテがちょっとモジッとしている姿なんて美味しすぎるじゃないの。
「……もう体調は大丈夫だろうか」
「ええ、ドラギ侯爵令息様にいただいたポーションのおかげですわね」
「……カーマインと」
「よろしいのですか?」
「貴女ならば」
「ふふ、ではカーマイン様。私のことはチェリと」
「…………チェリ」
鷹のような鋭い目に、私なんて片手でプチッと出来てしまいそうなほど大きな手。燃えるような赤い髪と、同じくらい赤くなっている彼の耳。
「……甘いわね……」
「ん?」
「いえ、なんでも。そうだ、私のランチ、少し味見なさいません? ホースラディッシュが効いていて美味しいんですのよ」
「いただこう」
胸焼けするほど甘い恋はきっと、私には似合わない。
でもね、私はこの世の真理を知っているのよ。
「ねえ、カーマイン様。甘いものと辛いものって、交互に食べると永遠にいけちゃうと思いません?」
きっと彼の唇は甘いだろう。私の唇は、どうだろうか?
「試してみます?」