5「わたくしが一度やると決めたことですわ!」
悪役令嬢と呼ばれた娘が拳で成り上がる話です。(全6章)
帰り際、駅近くの百貨店で紅茶の茶葉を買った。種類がよくわからないから聞きなじみのある種類の少し高級なものにしたが、彼女に趣味が合うかはわからない。
家に帰ると玄関に涼香の靴しかなかった。今日は休日だから父はたぶん釣りに、母は趣味の絵画教室にでも行っているんだろう。休日にも家で資格の勉強をする涼香は我が妹ながらなんと優秀なのだろう。
エーデルワイスは、まだパフェを食べ続けているのだろうか。
「ただいまぁ」
靴を脱いで上がると、奥から「おかえりー」という涼香の声と「おかえりなさいませ」という野太い声が響いた。一瞬、涼香に彼氏でもできてこっそり家に上げたのかとも思ったが、声色が明らかに成人男性だったので思い直して急いでリビングの扉を開けた。
「涼香! 大丈夫か!」
「え? そんなに慌ててどうしたのお兄ちゃん」
見ると涼香は床に、謎の声の主はソファに座ってくつろいでいた。その姿はまるでRPGゲームに出て来る魔術師のようなフードをすっぽりかぶった、中年のおっさんだった。
「はじめまして。こんにちは」
「こ、こんにちは」
律儀に挨拶してくるので困惑しながらも応える。
「あれ? このおじさんお兄ちゃんの知り合いじゃないの?」
「いや、知らん。知らんおっさんだ」
「えー! お兄ちゃんの知り合いだからって家に上げたのに知らない人なの!」
「だから慌てて来たんだよ! 涼香、変なことされてないか? お前かわいいからな、変態のおっさんがより変態になってもおかしくないかもしれん!」
「えー! 私お兄ちゃんにかわいいって思われたの! 嬉しい!」
「いや、そうじゃない」
「はっはっは、待たれよ。はっはっは」
そう言って知らないおっさんは涼香に出されただろうコーヒーをゆっくりと啜ってから言った。
「確かに君から見たら私は知らんおっさんかも知れませんが、名前だけは聞いたことがあるでしょう。我が名はバーレイ。ピルスナー商会専属の魔術師です」
「バーレイ?」
その名は、聞き覚えがあった。
「確か転移魔法を使って……」
「そう、そのバーレイです。お嬢はちゃんと話していたのですね」
と言ってまたコーヒーを啜った。
「あいつは命からがら転移魔法でこの世界にやってきたと聞いた。それなのに元の世界の人間がやってくるってことは、何かあったのか?」
「あります。とんでもないことが起きる」
「起きる? 起きたではなく?」
「えぇ、お嬢は決闘で確実に死ぬ運命だった。だから私も同意して転移魔法でこの世界に送りましたが、そのせいでこちらの世界の世界均衡の理が乱れてしまったようです。ピノノワール嬢が主役令嬢としてピルスナー商会を乗っ取るだけで済んだはずの未来が変わり、このままでは覇王令嬢と変貌し何万人も処刑することで世界を統治するようになってしまう」
「ちょっと待て、色々な言葉が出てきて混乱する。その、ピノノワールとかいう人のこともほんの少ししか聞いていないんだ」
「よろしい、それでは順を追って説明しますが……。妹君はよろしいのですか? なにやらポカンとしておいでだが、この話はおそらく導き手の君にしか理解できまい」
言われて涼香を見るとボーっとした表情をしていた。まずい、涼香に異世界の話を聞かれてしまった。理解できているとは思わないが、ここは何かおっさんとテレビゲームの話をしていたとか言い訳でもしてやりすごそうか。
「あぁー、そう言うことだったんだぁ」
涼香は天井を見ながらそう言った。
「な、なにがそういうことだったって?」
「え? エーデルワイスさんが別の世界から来た異世界人ってことでしょ?」
「な、え、ちょっと……。涼香、お前の頭がいいのはわかっているが、いくらなんでも理解が早すぎないか?」
「私も完全には理解していないんだけど、あの時、エーデルワイスさんに妹として認められた時から何かおかしいなって。それまで交換留学生だと思ってたエーデルワイスさんがこの世界の人だと到底思えなくなって、疑ってたんだよね」
「ほほう、興味深いですな」
バーレイが無精ひげを擦りながら涼香を見る。
「この世界ではどうかわかりませんが、こちらの世界で家族というものはそれだけで力を持つものです。力ある家族はみな等しく個々人も力がある。その働きがこの世界にも及んだということですかな?」
「まさか、涼香は笑い声を伝授されただけだぞ」
「なにをもって家族と認めるかなんて、この世界でもさして重要なことではないでしょう?」
「そう、だな」
「お兄ちゃん、私もバーレイさんのお話を聞いていい? 詳しい話はこれから聞くとしても、このままエーデルワイスさんが元の世界に帰ったらきっと死んじゃうんだよね? そんなの嫌だよ」
「わかった。涼香も一緒に聞こう」
「それではこのバーレイが語り部となりましょう」
そうして僕と涼香はエーデルワイスの世界について聞くことになった。
我が世界のビアー国ではその成り立ちから農業や牧畜などの生産業が尊ばれます。最初に農業を取り仕切った貴族はシャトー家であり、はじまりの貴族とも呼ばれております。対して後に発展した商業を取り仕切ったのはピルスナー家。七大貴族の中で一番若いのでおわりの貴族とも呼ばれております。
どちらも国の発展にはかかせないものですが、国民の意識として農業は神聖視されているので、シャトー家は貴族の中でも国民から絶大な支持を集めており、それに比べて金に卑しく世俗的だと思われているピルスナー家はあまり人気がありません。領民以外からは嫌われているくらいです。
そんなところに転機が訪れます。シャトー家とピルスナー家の両家に同じ日同じ時間に世継ぎが誕生したのです。
シャトー家令嬢、ピノノワール・ノル・シャトー。
ピルスナー家令嬢、エーデルワイス・ルイ・ピルスナー。
二人はこう名付けられ、このように期待されました。
「同じ日、同じ時間に生まれたことを運命と定め、両家における確執を払う懸け橋になってほしい」
どうしてもシャトー家至上主義というのがありましたから、商業がなかなか発展しませんでした。そこで国王一派の官僚たちはこの二人の令嬢を利用し、農業と商業の結束を強固なものにしよう、としたのです。
この考えは両家の当主にも伝えられ、お互いに了承されました。
そして二人が成長し、社交界にお披露目される日が来ました。
ピノノワール嬢は純白のドレスに身を包み、エーデルワイス嬢は漆黒のドレスを身にまといました。その対比はとても美しく、他の貴族たちからそれぞれ「白色令嬢」と「黒色令嬢」と呼ばれることになりました。
二人は出会ったその日から仲睦まじく、幼いながらにもお互いの立場を理解して積極的に将来のことを話し合ったと言います。
国民もそれを受け入れ、次第に商業に対して卑しい考えを持つ者は減っていきました。
しかしそれは、ピノノワール嬢のしたたかな作戦のはじまりでした。
十五歳で成人した二人はそれぞれある程度の仕事を任されるようになります。
最初は上手くいっていましたが、突然シャトー家が声明を出します。
「ピルスナー家は不当な税を強いている」と言うのです。
ビアー国では農業生産物は非課税です。しかしピルスナー家がそれを破って国民にはわからないように税を加算して流通させていると言い出したのです。つまりそれは税ではなく不当利益です。ビアー国では重罪に当たります。すぐに国王直属の騎士団が調査しましたが、そんな事実はありません。
しかしこれを聞いた国民たちは激怒しました。ピルスナー家は国民から絶大な支持を集めています。これが事実でなくとも関係ありませんでした。神聖な農業生産物を利用したというのも怒りに触れた要因でしょう。
ピルスナー家が名誉を挽回するためにはシャトー家に従う他ありませんでした。これ以降、ピルスナー家はたとえどんな不利な取引でさえシャトー家には従うことになります。
その中で心労がたたりエーデルワイス嬢の母君は行方知れずとなり、当時の当主であった父君は病死してしまいます。お嬢は十五歳で当主となられたのです。
それから二年、エーデルワイス嬢は耐えました。その間にピノノワール嬢は他の七大貴族を懐柔し、ピルスナー家を追いつめていきます。
時には商業に不当な扱いを受ける自分を演じ、時には裏で不利な取引をピルスナー家に課す。国民からは農業を商業から守る英雄のように見えたのでしょう。
ピノノワール嬢は「主役令嬢」
エーデルワイス嬢は「悪役令嬢」
そう呼ばれるようになりました。
そして両名とも十七歳になる日にシャトー家当主であったピノノワール嬢の父君が亡くなります。毒殺が疑われましたが、真実はうやむやです。
そこで当主となったピノノワール嬢はエーデルワイス嬢に決闘を申し込みます。
ズズッと音を立てて「ふぅ」とため息をつくバーレイは真剣な面持ちで言った。
「ところでスズカ嬢。この飲み物は何という名前ですか? もしよければいくつかビアー国に持ち帰りたいのですが」
「それはコーヒーと言います。コーヒーの木の実を焙煎して抽出したものです」
「なるほど、木の実を焙煎ですか。ビアー国のショウズという木の実でもできますかね」
「それはわからないですけど」
二人のやり取りを聞いて強烈な違和感を覚えた。
「なぁ、バーレイさん。あんたこの世界にやってきたってことはゲートを通ってきたんだろう? だったらコーヒーのことなんて知っているんじゃないのか?」
「あぁ、そこまでお嬢に聞きましたか」
名残惜しそうに最後までコーヒーを飲み切ったバーレイが答える。
「世界均衡の理はゲート自身にも適応されます。術者本人がそれを通った場合、その世界の知識は付与されません。なぜなら、高度な文明を持つ世界を何度か往復するだけで元の世界では全知全能の神になれてしまいます。それでは世界のバランスが崩れてしまう」
「なるほどねぇ。じゃあ、どうしてあんたは日本語を話せるんだ?」
「あぁ、これは魔術です。『ホンヤク・コンヤク』という魔術を元の世界であらかじめ自身にかけてきました。私はバクガ語を話しているつもりですがお二人には日本語に聞こえるようになっています」
「魔術はこの世界でも通用するのか」
「えぇ。魔術はどの世界でも普遍です。ただ、高度に発達した文明ほどなぜか魔術が発展していない。この世界は私が見てきた中でも最高水準の文明ですが、魔術だけは他の世界より格段に劣っている」
「へぇ」
だからエーデルワイスの髪型にも魔術が働いて毎朝元に戻っていたのか。世界ってよくできてるんだな。ファンタジーって怖い。
「もうお兄ちゃん。そんな話ばっかりしてないで続きを聞こうよ。ピノノワールさんが決闘を申し込んだんだよ。話の中心ってそれじゃないの?」
「あ、あぁ。そうだった。バーレイ、続きを話してくれ」
「それでは」
ピノノワール嬢はお嬢に決闘を申し込みました。
その内容は「お互いの取り仕切る全ての権利を賭ける」ものです。
ビアー国は平和な国でしてね。軍や騎士団は持っていますが幸いにもこれまで他国に攻め込まれた歴史がありません。犯罪も少ないです。ですからこの国における決闘とは最も平和的に解決する手段として、裁判よりも上位の法的裁定として定められています。
決闘は平和的な暴力でなければならないので、原則として素手で殴り合うことになっています。蹴ることはルール違反ではありませんが、恥ずべき行為として認識されているので単純な殴り合いになります。
そしてここからが重要なのですが決闘には「親族であれば代理人を立てることが可能」なのです。
シャトー家ははじまりの貴族、ビアー国で最も古い系譜です。そのため最古の家系図をひっぱりだしてほとんど他人と呼ぶべき親族の男性を味方につけました。その方は偶然にも王国騎士団長ロマネコン・ティー。王国で最も強い男です。彼を婿として迎え入れたピノノワール嬢は決闘者をロマネコンに定めました。
一方でお嬢は父君も母君もおらず孤独の身。決闘者がロマネコンと聞きすぐに婿を探しましたが、かろうじて慕ってくれる領民からも立候補者は出ませんでした。そのため決闘日までに婿が見つからない場合、自動的にエーデルワイス嬢が決闘に出なければなりません。
決闘は「動けなくなった者」が負けです。実質、敗者は死ぬことになります。王国最強のロマネコン相手では十中八九命を落とすでしょう。それすらピノノワール嬢は織り込み済みなのです。
決闘日前日、お嬢は私の魔術工房にお忍びでやってきました。
「死にたくない。全てを投げ捨てても誰も知らない世界へ行きたい」
そうおっしゃったので私は異世界転移の魔法を勧めました。
その時に占った結果、あなたがお嬢を導く光だと確信したので、あなたの部屋の前にエーデルワイス嬢を転移させたのです。
「エーデルワイスさん……。辛かっただろうね」
「あんたは、なんでそこまでになる前に助けてやらなかったんだ。ピルスナー家専属の魔術師なんだろ?」
「助けること自体は可能でした。ですが私が大きな魔術を使って、もしそれが露見すれば、追求されるのはお嬢の方です。『悪役令嬢は魔術を使って不正を働いた』とでも吹聴されるでしょう」
「そうか。胸糞悪いがそうなったのはあんた達の国の法律で、悪用はされてしまったが、きちんとそれに則って動いた結果、なんだろう?」
「そうです。だからお嬢は異世界転移でこちらの世界に逃げるしかなかった。ご理解いただけますよね」
「それは理解する。だけど、そのせいでそっちの世界が大変になるんだろ?」
「その、ピノノワールさんって人が覇王になって何万人も処刑するんだっけ?」
「そうです、スズカ嬢はよく覚えていましたね。私の占いは確定占術と言って確定した未来しか見ることができません。反対に言えば、それは確実に起こることです。今日はその詳しい話をお嬢にするためにこの世界を飛んできたのですが、ところでお嬢はいまどちらにいらっしゃるでしょう」
「そうだな……」
そのピノノワールとかいう女が何万人も処刑して統治する世界。それは悲惨だ。バーレイはそれを何としても避けたいだろう。ひとりの犠牲でそれを回避できるなら、もし僕が魔術師だったとしてもそうするかも知れない。
そんなことはどうでもいい。
エーデルワイスが死ぬ事実を突きつけられて、彼女を元の世界に返す訳がない。
だがきっとバーレイの話を聞けばエーデルワイスは元の世界に帰ろうとするだろう。そういう女性だ。付き合いは短いがそれぐらいはわかる。
どうすればいいか。
まだエーデルワイスは戻らないと言えば、戻るまで待つというだろう。
僕が彼女を戻さないと言っても、この話を彼女が耳にすれば彼女は戻るだろう。
何か理由をつけて一旦バーレイを元の世界に返して、というのも、ただ問題を先延ばしにするだけだ。根本的な解決になっていない。
どうすればいいか、なんて……。
ダメだ! 全く思いつかない! 彼女の死を回避する方法がわからない!
何が導き手だ! なにがこの世界で唯一頼れる人間だ! なにが……。
これがわたくしの運命なら受け入れるだけですわ。
ふと、そう言うエーデルワイスが想像できた。
僕はもう何がなんだかわからなくなって、バーレイの前に膝をついた。
「バーレイさん! なんとかならないか! 彼女を死なせる訳にはいかない! 死なせたくないんだ! 僕がなんでもする! 生贄の魔術でもなんでも使えばいい! 魔術師のあんたなら何かできるだろうよ!」
バーレイが僕をどう思ったのかはわからないが、その目は変わらなかった。ひどく無表情でこう言った。
「無理です。君を生贄にしたところで行使できる魔術は限られているし、それぐらいで世界は改変しません。お嬢にお目通しを願います」
「でも!」
「どうにもならないのです。お嬢がビアー国に戻り、決闘し、それで世界は丸く収まる。こうなったのは不可抗力ですが、せめてお嬢の記憶を消し去る魔術はかけて差し上げます」
「そんなんじゃ、どうにもならないんだよ。あんな子がさ、一生懸命がんばってさ、今日、格上の相手に一発入れられそうだったんだ。その努力も全部、その思い出も全部消し去ってしまうって言うのか!」
バーレイは目を閉じる。もう何も言えないという意思表示だ。
「そうだ涼香! 涼香もなんとか言ってくれ! お前だって『お姉ちゃん』が死ぬのは嫌に決まってるよな!」
「え?」
涼香は卓上に置かれた菓子置きからせんべいをひっぱりだしてボリボリ食べていた。
「おい妹よ。それはなんでものんき過ぎやしないか?」
「えー、だってエーデルワイスさんも死なない、あっちの世界でピノノワールさんも覇王にならない、そんな解決策なんてあるじゃん」
「はああああ?」
「なんと!」
涼香のなんとなしの言葉に僕もバーレイも驚く。
「要するに、エーデルワイスさんがその決闘に勝ってしまえば何の問題もないんだよね?」
「いや、それはそうだが彼女には味方してくれる領民ですら手を引いたんだぞ。いくらエーデルワイスが多少ボクシングを覚えたって、その王国最強の人間には、つまり男には勝てっこない」
「はぁ? だれが『お姉ちゃん』が戦うって言ったのさ。『お兄ちゃん』が戦えばいいんじゃない!」
「……ん?」
涼香の言葉の意味がわからず、硬直してしまう。
「バーレイさん。決闘者って『親族であれば代理人になれる』んですよね?」
「えぇ、そうです」
「私はエーデルワイスさんの妹として正式にピルスナー家に加わりました。その私の兄が決闘者になるというのは、可能ですよね?」
「……可能、ですね」
「ほらぁ」
「いや、ほらぁ、じゃないんだよ。どうしてそうなるんだよ」
「論理的かつ最適に問題を解決できるじゃない。それともあれ? お兄ちゃんはお姉ちゃんの『婿』として参加したかった? バーレイさん、この場合は?」
「婿は国民から選ばなくてはならないため難しいかも知れません。ただまぁ、妹の兄となれば認められる可能性は高いです。あなた方がビアー国に来ればゲートを通ることになりますから世界均衡の理も働くでしょうし」
「だってさ」
「おま、お前なぁ……。賢い妹を持って僕は嬉しいよ」
「やったに」
無表情でVサインを作る涼香。
「ですがそうなるとスズカ嬢はお嬢の妹として吟味される必要があるので、お兄さんだけではなくあなたもこちらの世界へ来ていただくことになりますよ?」
「こっちの世界には戻れるんですよね?」
「えぇ、それは私の魔術で保証します」
「だったらいいですよ」
「わかりました。素晴らしい妙案です。ただ、この青年が王国最強のロマネコンに勝てるかというのが最大の懸念ですが」
「あぁ、大丈夫です。私のお兄ちゃん、殴り合いだったら全国で一番強いんで」
「……スズカ嬢。あなたの頭の回転、おそらく魔術の才がある。どうです? こちらの世界で生きるのをやめて、ビアー国で私と魔術の研究をしませんか?」
「おいおいおい、人のかわいい妹を勝手にスカウトするな。涼香には資格マニアというこの世界でしかできないことが好きなんだ。それは兄から断る」
「うふ、お兄ちゃんこういう時はかっこいい」
「そうですか。えぇ、わかりましたよ。私も腹をくくりました。その案で行きましょう」
三人でそう決めた直後、玄関からいつもの声が響いた。
「ただいまですわー」
リビングに入ってきたエーデルワイスはバーレイを見て一瞬たじろいたが、すぐに何かを受け入れる目になっていた。
時間をかけてもう一度バーレイが占いについて話す。エーデルワイスはその占いの意味を、確定占術の信憑性をよく理解していてただうんうんと頷いていた。
それから僕と涼香でそれを覆せる可能性を語った。妹の涼香の兄である僕が決闘者として出場することで決闘に勝つ。これで何も問題はない。エーデルワイスが死ぬことはなくなる。
そう話した途端。
「それは受け入れられません。私はひとりでビアー国に戻ります。バーレイ、今晩また迎えに来ていただけませんこと? そのゲートで私は戻ります」
と言った。
涼香は目をきょとんとしていたし、僕も狼狽した。
しかしそれを尻目に「さすがに名残惜しいですから、少しくらいこちらのベッドで寝させていただきますわ」とだけ言って、エーデルワイスは二階へ行ってしまった。
「え、なんで? お姉ちゃんどうしちゃったの?」
「いやわからん。わからんが、わからん」
「お嬢が決めたことなので、私は一度帰ります。みなさんは最後の時間お過ごしください」
「なんでだよ、バーレイ!」
「お嬢がお決めになったことに、一介の魔術師が口をはさむことはできません。残念ですが、お嬢の意志は固いですよ」
そう言ってバーレイはフードの中に隠していた杖を持ちリビングの窓に向けた。途端、窓は七色の光を発する。
「それでは、また今晩」
「ちょ、ちょっと待ってくれよバーレイ!」
しかしバーレイが窓を開けて出ていくと、そこには何もなかった。
「エーデルワイス……」
「なんだろう、何がいけなかったんだろう。お兄ちゃん、聞いてきてよ」
「あぁ、もちろんそうするさ。あいつが死んでいいはずがないんだ」
僕は自室へ向かった。
エーデルワイスは毛布にくるまって横になっていた。ぼうっと天井を見上げている。彼女は僕に気づいているだろうがゆっくり近づいて、ベッドの端に座った。
「なぁ、本当にひとりで帰るつもりか」
そういう僕に静かに彼女は答える。
「えぇ。わたくしが一度決めたことですわ。この世界とはきれいさっぱりおさらば。束の間の夢だと思って帰りますわ」
「その、ロマネコンだったか。王国最強がどれほどなのかわからないが、勝てる訳ないだろう」
「そうでしょうね」
「そこらの一般男性と殴り合ったって死ぬかも知れない」
「ボクシングをやって、それはよく理解できましたわ」
「なら、どうして僕を連れて行かない。僕ならその王国最強の男に勝てるかも知れない。いや、きっと勝つ。このままじゃ君は死ぬだけだ。僕を連れて行けば君は……」
バサッ、と毛布に包まれる。
「うふふ、少しお話に付き合っていただけませんこと?」
僕は背中から彼女に抱き留められ、ベッドの中に引っ張られた。
エーデルワイスと向き合って横になる。彼女から、毛布から、ベッドから、あのどうしようもならない香りが立ち上ってきてクラクラするが、いまは興奮している場合じゃない。
「こんなことしている暇は」
「あるんですのよ。睡眠はより正確な判断をする助けになりますわ」
「正確な判断もなにも」
「まずはお聞きになって」
彼女のその大きな目に引き留められる。日本人にはなじみのない碧眼が僕を吸い込むようだった。
「わたくしは死にに行くのではありません。ただ元の場所に戻るだけですわ」
「そこに死が待ち受けていてもか」
「えぇ。あの時は、決闘の前日は色々なことが頭を駆け巡りました。いなくなったお母様、お亡くなりになったお父様、慕ってくれる数少ない領民たち。仲が良かったはずのピノノワール。サッと頭の中が回っている内に怖くなって、怖くて、怖くて、怖くて。もうどうでもいい。誰も知らない世界へ行きたいと願いました」
「それでここに来た」
「そうです。バーレイがなぜここを選んだのかはわかりませんが、来てわかりましたわ。ボクシングがありました。決闘は拳で殴り合う。つまり、わたくしが新しい世界へ来たとしてもそこから目をそらしてはならないと、あの魔術師はそう言いたいのだと思いましたわ」
彼女の目を見つめ続けられなくなり、視線を下に移す。縦に筋が通ったキレイな鼻と、小さく主張する唇が僕の目をくぎ付けにさせた。
「拳姫が言っていたよ。『まるで私を殺すつもりの目をしていた』って。つまりそれは、君にとってボクシングは決闘の焼き直しで、罪滅ぼしみたいな気持ちでやっていたということか」
「そうですわ。この世界でただ余生を過ごすだけでなく、決闘のことを決して忘れない。だからボクシングを一生の糧として修めようと思いましたの」
「そうとも知らず、悪いことも言った」
「いいんですのよ。それに、ボクシングよりもっと大切なものを見つけましたから」
「それはなんだ?」
「最後までいけずですのね。よろしい。それでこそ貴方ですわ」
エーデルワイスは僕の頭に腕を回して抱き留めた。彼女自身もこちらに身を寄せて密着させる。その時気づいたが、エーデルワイスは全裸だった。しかしなぜか不思議といやらしい気持ちにはならず、僕も彼女を抱きしめ返した。
「わたくし、元の世界で魔術はからっきしでしたが、ひとつだけバーレイにも褒められた魔術がありますわ」
「なんだい?」
「『ハハ・ノウタ』という魔術ですの」
そう言うとエーデルワイスは小声で歌いだした。おそらくバクガ語で、僕は何を言っているのかわからなかったが、彼女はとても澄んだきれいな声をしているのがわかった。カラオケに行ったら楽しいだろうなと思っていると、意識がぼんやりしてくる。それが睡魔だと理解するのに時間がかかるほど僕は急に眠たくなってきた。
「君、これは」
「眠りの魔術ですわ。本来は赤子を眠りに誘う母の魔術ですが、わたくしはこれしかできませんでしたの」
「そう、じゃなくて、いま、僕が、寝たら……」
「えぇ」
「君を、助け、られ……」
「おやすみなさい、愛しき人よ」
「……」
僕は意識が途切れた。歌は、まだ聞こえている気がした。
目が覚めるとエーデルワイスはいなかった。
急いで起き上がり、階段を下りる。その途中で叫び声が聞こえた。
「行かないでお姉ちゃん!」
「涼香、回り道をしないで自分の道を歩むのですよ」
「死ぬ前みたいなこと言わないで!」
「もう、子どもみたいなこと言わないでくださいまし」
「私まだ中学生だもん!」
まだエーデルワイスは元の世界に戻っていない!
だが話の内容から戻る直前らしい。
僕がリビングに行くと、エーデルワイスは硬直した。
「あら、貴方もう起きたのですか!」
「あぁ」
見ると、窓が七色に発光して隣にはバーレイが立っていた。エーデルワイスも家に来た当初のドレスで着飾っている。本当に直前だったようだ。
「別れの時が苦しいので、朝まで寝ていただこうと思っていましたのに」
「涼香がギャーギャーうるさいから起きちまったのかもな」
「だってお兄ちゃーん」
久しぶりに見る妹の号泣に心を痛ませながらも、エーデルワイスの表情を見て全てを納得してしまった。彼女が元の世界に帰る決意は固い。ここで涼香や僕が何を言っても、どうしても、彼女は戻る。そう理解させる顔をしていた。
「なぁ、バーレイさん。そのゲートってどれくらい持つんだ?」
「別れの挨拶ですか? そうですね。三十分くらいなら持ちますよ」
「そうか。わかった。ありがとう」
僕はリビングの机に置きっぱなしにしていた紅茶の茶葉を手に持って言った。
「エーデルワイス。紅茶を飲もう」
「……はい」
小さなお茶会を開くことにした。
戸棚にあったティーポットを出し、茶葉を入れる。説明書を読んでお湯を入れたが、もっと上手な淹れ方を動画サイトでも見ておけば良かったと後悔しながら時間を測る。
気を使ってくれたのかバーレイと涼香はダイニングで、僕とエーデルワイスはリビングで紅茶を飲むことになった。
「淹れ方も下手だしお菓子もないが、せめて紅茶でも飲んで帰ってくれ。最初に来た日に、紅茶を淹れてやるのをすっかり忘れていたからな」
「そうでしたわね。後で紅茶を淹れる、なんて言っておきながら」
「まぁ、これで許してくれよ」
エーデルワイスはカップに口をつけ、音を立てずに飲んだ。
「本当に、下手ですわね。でも温かいですわ」
「ビアー国に紅茶なんてあるのか?」
「ごく近い飲み物がありますわ。赤茶と申しまして、味わいも紅茶とほとんど同じですの。赤茶を美味しく淹れるのは貴族の嗜みでしてよ」
「そりゃあ厳しい訳だ」
僕はマナーもなにも知らないのでズゾッと啜ったが、なんだか彼女の前だと恥ずかしくなってきた。
「ところで」
「なんだ?」
「先ほど、初めて名前を呼んでくださいましたわね」
「そうか、そうだったかな」
特に意識していた訳ではなかったが、思い返せば「お嬢様」とか「君」とか、名前で呼んだ覚えがない。失礼なことをしていただろうか。
「ビアー国では、未婚の乙女の名を呼ぶ時には必ず敬称をつけますわ。もしそのまま呼ぶことがあれば、それはプロポーズと受け止められますの」
「……そう受け取ってもらっても構わない」
「うふふ。わたくし、それだけで生きていけますわ」
その後はふたりで黙ってしまった。何か話してしまえば心の奥が全てあふれてしまいそうで怖かった。きっとエーデルワイスもそんな気持ちだったと思いたい。
カップの底が見えた頃、バーレイが声をかけた。
「そろそろです」
エーデルワイスは返事をせずに立ち上がり、後ろを向いた。ハイヒールの音を響かせて窓に向かう。
「それでは、涼香。さようなら」
「お姉ちゃん……」
涙はもう涸れ果てたのか、本当に小さな声で涼香が答える。
「そしてさようなら、信一」
「あぁ、さようならだ。エーデルワイス」
「ところで」
エーデルワイスが後ろを向いたまま何かに気づいたとでもいうように呟く。
「ビアー国では、乙女がプロポーズに答える時、相手の名前を呼び返しますわ」
そう言えばエーデルワイスも僕の名前を呼ぶのは初めてだったなと思いながら、ふたりで同じでことをやっていたことに内心笑ってしまう。
「あぁ、それだけで僕は生きていけるよ」
「それでは」
エーデルワイスはゲートに足を踏み入れる。
右足が沈んでいき、次に右腕、半身がどんどんと「向こうの世界」へと転移していく。そうしていよいよ顔がゲートに入る間際になって、彼女は止まった。
両肩を震わせ、そして振り返って言った。
「信一! わたくし、死にたくない!」
その瞳に涙を確認した時、僕は全身に力がみなぎるのを感じた。
「その言葉を、待っていた!」
僕はエーデルワイスの左腕を掴んで手を伸ばした。
「涼香! 来い!」
「わかった!」
僕の手を涼香が取り、そして、僕たち三人はゲートの中に吸い込まれていった。
5/6章 終了
この話は6章で完結しますが、続きが書けるようにも設定しています。
もしご感想やご意見がいただければ続きを書くつもりです。