4「本当の敗者は倒れたものではなく立たない者ですわ!」
悪役令嬢と呼ばれた娘が拳で成り上がる話です。(全6章)
次の日。
「あででででで!」
ここ最近はエーデルワイスに起こしてもらっていたが、まさかお嬢様のこんなはしたない声で目が覚めるとは思わなかった。
「どうした?」
「たぶん筋肉痛というやつですわ! 次の日に酷くなるというのは本当でしたのね」
「元の世界でなったことないのか?」
「一度だけ領民に頼まれて畑を手伝った時になりましたわ。あの時は主役令嬢の魔女に呪いをかけられたと思っていましたが、あれも筋肉痛でしたのね」
「その主役令嬢ってなんだ?」
「ピノノワール・ノル・シャトーのことですわ。七大貴族であるシャトー家のひとり娘で、わたくしの幼馴染でもありますの」
「ふーん。そのピノノワールさんが主役令嬢なら君はなんだ? 商業令嬢とかか?」
「いえ、その話は、あでででで!」
「あーあ、痛そうだな。昔を思い出すよ」
「ちょっと、なんとかなりませんの? 湿布薬というものがこの世界にはあるのでしょう?」
「そうだな。いまリビングから持って来てやるから、ちょっと寝てろ」
「頼みますわ」
まさか「学校までおぶって行け」なんて言わないよなと思いながら、リビングに降りて救急箱を探した。
救急箱から湿布の箱を取り出していると、制服姿の涼香に声をかけられる。
「どうかしたの?」
「いや、あのお嬢様がな」
「え、ケガ! ちょっとそれたいへんじゃない!」
「いやいや、昨日ちょっとボクシングの体験に行ってさ。軽い運動だったんだが、お嬢様には重労働だったらしい」
「そっかー。エーデルワイスさん、運動できなさそうだもんね。でも良かったの? ボクシングってことは川村ジムに行ってきたんでしょ? お兄ちゃん大丈夫?」
この妹は本当によくできた妹だなとしみじみ思う。
「大丈夫だ。それより、そうだな。僕が持っていくより涼香が持って行ってくれないか。ボクシングは背中の筋肉をよく使うんだ。ひとりでは貼れないだろう。持って行くついでに手伝ってやってくれ」
「お兄ちゃんが貼ってあげればいいじゃん。たぶんエーデルワイスさん喜ぶよ」
「背中に貼るってことは、服を脱ぐってことだろう」
「あ、そっか。それじゃあエッチだもんね。じゃあ行ってくる」
よくよく考えれば同じ部屋で生活させている方がよっぽどエッチなのではないかと思うのだが、世界均衡の理さんは何を考えているんでしょうね。
「あぁー! すっきり完全大復活ですわ!」
涼香と共に階段から降りてきたエーデルワイスの顔は晴れやかだった。
「まさかこんな良薬があるだなんて、この世界はすばらしいですわ!」
「いや、そんなにすぐ効きはしないだろう」
「もう痛みなんてありませんわ! 涼香、感謝いたしますわ!」
そう言って涼香を思い切り抱きしめるお嬢様。
「えへへ、嬉しいな。湿布臭いけど」
「良薬、口に苦し。良薬、鼻に臭しですわ!」
「そんな格言は聞いたことがない」
「それにしても涼香は本当にいい娘ですわ! 常に労わって湿布薬を貼ってくれましたの。わたくし、ひとり娘でしたから妹が欲しいと思っておりました。涼香、わたくしの妹になりませんこと?」
「エーデルワイスさんの? なるなる!」
「まぁ、かわいらしいですわ!」
こんな優秀な妹を取られてはたまったものではないが、まぁ、別にいいか。
「ところで涼香、いつも不思議に思っていたのだけれど、朝食前になにをしてらしたの? 机に本やノートが散乱しておりますわね」
リビングのテーブルには大小様々な本が散らばっており、走り書きしたノートが置いてある。毎朝の光景だ。
「うん、資格の勉強。私、資格マニアなの。これまで甲種危険物取扱者、第一種電気工事士、登録販売者、FP技能士二級、簿記一級、総合旅行業務取扱管理者、応用情報技術者、マンション管理士、第二種冷凍機械責任者、ついこの前に行政書士に合格したんだけど、これから受けようと思っている電気主任技術者が難しくて勉強してたんだ」
「涼香、あなた中学生にしては優秀過ぎやしませんこと?」
「えー、えへへ。そうかな?」
両親も兄である僕も資格を取ることについて褒めたことがあっても、それがどれくらいすごいことなのかはよくわかっていなかった。
「そんなにすごいのか?」
「貴方はこれらの資格がどれほど難しいかおわかりになっていないのね。正直言って、涼香は怪物ですわよ。社会に出たらどこでも働けるでしょう。中学生でこの調子なら将来どうなるかわかりませんわ」
「へー」
「あ、貴方まだわかっていらっしゃらなさそうね」
「エーデルワイスさんも資格に詳しいんだね! 電気主任技術者のこともわかる?」
「えぇ、わかりますわ。どれ、教えて差し上げてもよろしいですわよ」
「いいの? やった! ゼーベック効果の内、荷電粒子の拡散とフォノン・ドラッグの理解が足りないの。お兄ちゃん、頭悪いから教えてくれなくて」
「あなたの兄が劣っているのではなく、あなたが優秀すぎるだけですわ」
普段そんなことを思っていたのか。兄の威厳丸つぶれだな。まぁ、いいか。さり気なくエーデルワイスがフォローしてくれているし。
インスタントのコーヒーを飲みながら、ゲートの知識をフル活用して涼香に勉強を教えるエーデルワイスを見て、こういう光景もいいなと思った。
登校中。
「疲れましたわ……」
エーデルワイスはげっそりしていた。
「どうしたんだ? ゲートの知識はあるんだろう?」
「知識はありますし理解もできています。涼香に教えることも苦労がありませんでしたわ」
「ならどうして」
「知らないはずなのに知っている、ということが精神的に疲労するとは思いませんでしたわ。今までは特に気にしておりませんでしたが、あのように元の世界ではまだ解明されていない高度な理論体系を考え出すと、それがより顕著に表れますの。それなりに教養を修めてきたわたくしですが、元の世界ではおそらく五百年くらい後に生まれる最新の知見を扱うのは骨が折れますわ」
「あぁ、なんとなくわかるよ」
「たぶん、わかっておいでではないのでしょうね」
適当に相槌を打ったのがバレたか。
「この頭脳を持って元の世界に帰ることができたならば、文明水準が三段階くらい引き上がるでしょうね」
「あぁ、それこそ『俺つえー』っていう異世界転生モノだな」
「わたくしの場合は異世界転移ですが、実際に異世界へ来ないとわからない苦労があるということを作者は知っておられるのでしょうか」
「いや知る訳ないだろう」
こういう会話をしていると、ずいぶんエーデルワイスもこの世界に馴染んできたなと思う。だが同時に、この世界にひとり転移してきた彼女のことを思うとほのぼのしてはいられない。今は交換留学生としてここに存在しているが、ずっとそうしている訳にはいかないだろう。彼女はこの先どうしていくのか。元の世界に帰れないのだからこの世界で生きて行くしかないのだが、どうやって。
ゲートの知識があるから生きて行くのは困らないと思う。世界中のどこへ行っても話が通じるし、大学に行こうと思えばそれも可能だ。独立するのも就職するのも思いのまま。ほぼ全知の知識があれば人生の成功は容易いだろう。
そう思えば楽な人生に思えるが、彼女のことを本当に理解している者はこの世界に誰もいない。僕だって、彼女が異世界人であることを知っているだけだ。心の底から彼女のことを理解している訳ではない。
エーデルワイスには生きる手段があっても、生きる目的がない。僕の部屋で余生を過ごすなんて最初は言っていたが、もしかするとあながち本気かも知れない。
彼女は僕のことを導き手と呼んでいた。僕と共に栄光を掴むのだと。だがその栄光はどこにある。なにを持って栄光と呼ぶ。エーデルワイスと共に人生を歩めばそれが見つかるのだろうか。だとすれば、僕は彼女と結婚でもするのだろうか。そんな人生も楽しいだろうなと思うが、彼女はきっと望んでいない。
エーデルワイスは何をしたいのか。どう、生きたいのか。
一番不安なのは本人だろうし、どうせいますぐ答えなんて出ない。だが、考えるくらいならいいと思う。
「あら、珍しく何か考えてらっしゃるの?」
「珍しいってなんだよ。僕だって考え事くらいするさ」
「ふふ、たまにはそういう顔も素敵ですわよ」
「そうかい」
打って変わって妙にご機嫌なお嬢様だった。
教室に入ると拳姫が飛んでやってきた。
「エーデルワイスちゃん! ケガしてなかった?」
「えぇ、ヒメ様。わたくしはこうして健康そのものですわ」
「良かったー。あの後、硬膜下出血で死んでないか眠れなかったの」
さらりと怖いことを言うな。
「で、ボクシングはどうだった? 楽しかった? 楽しくなかったかも知れないけど、でもこれから楽しくなるかも知れないしね!」
なにを言っているんだコイツは。あそこまでされて楽しい訳ないだろう。楽しいどころか、恐怖しか残っていないはずだ。他の女子が誘われているのを見てもなんとも思わず、寧ろ拳姫に申し訳ない気持ちがあったが、エーデルワイスをこうやって扱うのは腹が立つ。どうしてかわからないが、彼女を守らなくてはならないと思う。
「あー、拳姫。もう諦めろ。彼女はもうボクシングなんてやらない」
「えぇ、今日の練習にも参加させていただきますわ」
「え」
「え」
エーデルワイスと顔を見合わせる。
「君は何を言っているんだ?」
「貴方こそ、何をおっしゃっているの? わたくしは、ボクシングを続けていこうと思っていますわ」
「あんなことされてか!」
「あれはわたくしが弱かっただけですわ! これから強くなりますもの!」
「僕がやめろと言ったらやめるんだろ!」
「それをやめますわ! わたくし、この世界に来て自分の意志でやろうと思ったもの、ボクシングがはじめてですの!」
「うっ、ぐっ……」
「わたくしはボクシングを続けますわ!」
そう言われてはもう何も言い返せず、僕は無言で自分の席に座った。エーデルワイスも席に座る。お互いにお互いの顔を見ないように視線は一定を保った。
「やっぱりボクシングって楽しいよねー!」
明るく拳姫が言う。女性を殴りたいと思ったのは初めてだった。
休み時間も昼休みもお互いに口を利かず、ずっと黙っていた。さすがの拳姫もその空気を察したのか普段のようには絡んでこなかった。放課後になって拳姫となにやら話して、さっと教室を出て行ってしまった。出ていく間際にじっと見られていた気もするが、知らない。
僕はひとりで家に帰った。
「ただいま」
「あれ、お兄ちゃんひとり? エーデルワイスさんは?」
「友達とカラオケにでも行ったんだろう」
「そっかー。また教えてもらおうと思ったんだけど、今度にしよっと。あのね、エーデルワイスさんすごいんだよ! テキストよりもわかりやすいし、ネットにも載ってない知識があるの! きっとイギリスでたくさん勉強してきたんだろうなぁ!」
「そうか。僕は寝るから部屋に入ってくるなよ」
「はーい」
涼香は元気よく答えて、自分の部屋に戻っていった。
自分の部屋に入る。最近はエーデルワイスがずっといたから、妙に広く感じる。部屋の気温がほんの少し低いようにも思えた。
涼香に言ったのは嘘でもなんでもなく、本当に寝るつもりだ。寝ると嫌な考えや気持ちがリセットされる。現役時代もそうやって試合前の不安や練習後の自己嫌悪を解消していた。久しぶりに自分のベッドに寝られる。
制服がシワになるのも構わず布団に潜り込んだ。
数秒。
「これちょっとアカンわ」
妙な関西弁になってしまうのも仕方なかった。
ベッドから、いい匂いがする!
いい匂いというか、なんと表現すれば良いかわからない。とにかく、ずっと嗅いでいたくなる。鼻に入れたい、肺を満たしたい。ずっと浸っていたい。これはどう考えたってエーデルワイスの匂いだ。そう考えると生々しく、肉感が押し寄せてくるようだった。ダメだ。これじゃあ変態だ。僕にそんな趣味はない。
本当はずっと毛布をかぶっていたかったが変態にはなりたくないため、急いで避難した。机の前の椅子に座って深呼吸する。
「ダメだ。すごい、興奮する」
下半身が意識される。
急いでパソコンを起動させる。これは聖なる儀式で処理するよりなかった。
考えても見れば健康な男子高校生が一週間以上も我慢していたのだ。せっかく彼女がいない今しか機会はない。
クラスの友達に教えてもらったエッチなサイトを開き、好みの女性を探す。探す時間も惜しい。あの匂いが、興奮が、早くしろと騒いでいる。
目についたサムネイルをクリックし展開させる。画面いっぱいに裸の女性が表示された。
「……あれ?」
途端、僕の僕が全く反応しなくなった。
「どうしたんだろう」
どうしようもないので、じっとしてみる。しかしどうともならない。画面上の女性を見続けても何も起こらない。起こらないというより、なんとも思わない。
「僕は、ついに境地へたどりついだろうか」
自分で言って何を言っているんだと思った。健康な男子高校生が女性の裸を見てなんとも思わないのは異常だ。悟りを開くのはまだ早い。
「仕方ない、寝るか」
あの興奮はどこへ行ったのか。妙にすっきりしてしまった僕は、やはり一旦寝ることにした。横になった方がいいと感じる。
ベッドへ入る。
数秒。
「これちょっとアカンわ」
その魅惑的な匂いにまた興奮してしまい、僕はもう変態でしかないと思った。
結局、その興奮を抑えるのには床で寝ることが一番だと悟り、いつもの通り固い床で寝た。悶々としたが、それで聖なる儀式をするのは彼女にとてつもなく失礼だと思った。なんだかエーデルワイスを汚してしまいそうでダメだった。
眠れないと思ったが、いつの間にか寝ていたらしい。
一階からエーデルワイスの声が聞こえる。とても嬉しそうだ。家族と何か話して、きっと涼香から勉強を教えてもらう催促でもされて、笑いながら階段を昇ってくる。
ドアが開く。僕は無言で毛布にくるまっていた。
入ってきた彼女も無言だ。
僕をまたいでベッドに座る気配がする。そうか、制服を着替えなくちゃならないよな。僕が部屋にいたらできないだろう。黙って部屋を出よう。そう思った矢先「あの、その」と彼女は声をかけてきた。
「どうした?」
いつまでも不機嫌でいるのも子どもだろう。僕は不満が声色に現れてしまったが、表面上はとりつくろって返事をした。
「学校でのことは謝りますわ。やはり貴方の言う通りにした方がよいかと思って。導き手である貴方が反対することをやるのは、良くないのでしょうし」
「急にどうした」
「その、わたくし貴方しか頼りになる方がいないのです。貴方がいなくてはわたくしはこの世界にただ一人なのです。貴方の言う通りに、望み通りにいたします。だから、わたくしを嫌わないで。明日、ジムにはお別れをいたします」
今にも泣きだしそうなエーデルワイスに、僕は自分を恥じた。彼女はこの世界にひとりだ。その彼女が僕しか頼れないと言うなら、それに応えなくてはならない。それなのに自分の過去をぐちぐちと振り返ってばかりで、彼女のことを考えてやれていない。導き手というものになにをどうして選ばれたかは知らないが、選ばれたのなら、彼女と共にあるべきだろう。
「本来、僕が決める事じゃなかった。君がこの世界にきてはじめてやりたいと思ったことなんだろう? それを僕が否定することはできない。よくわからないけど導き手なんだろう、僕は。だったら、君と共にあるべきだ」
なんだ、これが僕の本音か。睡眠は脳にいい。自分の過去と、彼女の未来をきちんと分けて考えることができた。
「本当に、いいんですの?」
「僕が決める事じゃない。君が決めることだ。ただ、条件がある」
「なんですの? わたくし、貴方のためならどんなに恥ずかしいことでもいたしますわ」
「君は僕をなんだと思っているんだ。条件というのは、ジムへはひとりで行かないこと。必ず僕も着いて行く。この前みたいなことがあってはいけない。ボクシングに危険な側面があることは、事実だからね」
「はい。必ずそういたしますわ」
「もうひとつある」
「わかりましたわ。ベッドはお譲りいたします」
「違う違う、そうじゃない」
もちろんベッドでは寝たいが、いま寝たらたいへんなことになる。たぶん朝まで起きている自信がある。
「僕からも言うから、母さんにジャージでも買ってもらってくれ。ちゃんと長袖長ズボンのやつ」
「でもヒメ様の貸してくれる運動着は動きやすいですわよ」
「いや、その、ダメなんだ」
「ダメって、なにがでしょう」
「他の男が君の肌を見るのは」
「……うふっ」
「なんだよ」
「なにって、うふっ、うふふ、おーっほっほっほ!」
「結局そうやって笑うのか」
ピルスナー家の代々続く甲高い笑い声を聞きながら、恥ずかしいこと言ったなぁと自分でも後悔したのだった。
今後の事を考え、改めてふたりで両親にお願いしておく。ボクシングはコンタクトスポーツの中でも激しいものだ。どうしたってケガが付きまとう。スポーツ保険に入るべきだし、拳姫はああ言っているが、会費もきちんと払った方がいい。後々、他の練習生とトラブルになっても困る。
母は。
「もちろんいいわよ! あんたも復帰する?」
と言うし。
父は。
「エーデルワイスさんが美人ボクサーとして取り上げられたら参っちゃうな!」
と、終始気持ち悪かった。
お嬢様は快諾してくれた両親に改めてお礼を言い、運動着やジムバックを買ってもらえることに喜んでいた。
しかし部屋に戻ってきた途端、彼女はため息をついた。
「どうした。何か嫌な事でもあったのか?」
「いえ、嬉しいことだらけですわ。しかし、その、グローブもおねだりしたかったのですが、あれ、高いですわね」
「あぁ」
ボクシンググローブは安価で高品質な製品もネットで販売されているが、本革製のハンドメイド品はなかなかの値段がする。安いものでも十分なのだが、長く続けるつもりならきちんとしたものを買った方がいい。川村ジムのような本格的なところなら公式試合で使われるような製品しか認めない。
そのためにジムではグローブをレンタルしているところも多いが、手入れが行き届いていないところもある。川村ジムなんてまさにそれで、レンタルグローブなど手にはめたら、一日中、手が汗臭くなる。
エーデルワイスはそう言うことを言っているんだろう。
「新品じゃなくてもいいなら」
「メルメリで中古を探すのですの?」
「いいや、僕のお古だ」
僕はベッドの下から段ボール箱を取り出した。
「わたくしの知識では男子高校生はベッドの下にポルノ雑誌を隠しておくのがセオリーだと思いましたけど」
「ゲートってたまにゲスなところあるよな」
段ボール箱の中には僕が使っていたプロ公式試合用の八オンスボクシンググローブが入っていた。それをエーデルワイスに渡す。
「これを使っていい。ジムから帰ってくるたびに中を拭いて乾燥させていたから、汗臭くはないと思う」
「どれどれですわ」
彼女は紐をほどいてズボっと鼻を突っ込みながら嗅ぐ。
「本人の前で確認するなよ」
「うん、貴方の匂いがいたしますわ」
「え、臭かったか?」
「いいえ。わたくし、これをいただきます。大切に、大切に使いますわ」
「なら良かった」
その後、グローブをはめて寝ると言い出したエーデルワイスを説得するのに時間がかかった。
土日の休みが明け、学校へ行った。
拳姫は喜んだ。それはもう喜んだ。学校中の女子を勧誘し続けて初めて「ボクシングを続ける」と言ってくれたエーデルワイスの手を握り、泣き出し、教室の窓を開けて「うおおおおおおおおおおお!」と吠えた。うるさいと思っただろうし、露骨に嫌な顔をする生徒もいたがみんな黙っていた。殴られるから。
「嬉しいよ、私! エーデルワイスちゃんがボクシングの楽しさをわかってくれたなんて、嬉しいよ!」
「ボクシングはわたくしに必要なことですのよ」
「うわーん!」
また大声で泣き出し、今度は廊下を走り回っていた。
「そう言えば君はどうしてボクシングをやりたくなったんだ? その理由は聞いていなかったな」
「それは、わたくしが弱かったからですわ」
「別に空手でも柔道でも良かっただろうに。部活もあるから」
「いえ、ボクシングでなければなりません」
「なんで?」
「それは、わたくしが強くなったらお話いたしますわ」
「強くなったらって、どのくらいが基準だ?」
「それはわたくしがそう思ったらですが、そうですわね。ヒメ様に一発入れられるくらいになったらでしょうか」
「あぁ、それなら十分に強いだろうな」
「へぇ、エーデルワイスちゃん、そんなこと思っていたんだ」
いつの間にかエーデルワイスの背後に目が座った拳姫が立っていた。
「拳姫、相手なら僕がする」
「やだ、殴る訳じゃないよ。ただ、舐めたこと言ったなぁと思っただけ」
「それほど、舐めたことですの?」
今度はエーデルワイスの目が座る。こういう時の女性は怖い。
「エーデルワイスちゃん。あなたの肉体の適性は認める。天才だと思う。だけど他は凡人かそれ以下。運動神経がいいとは思えない」
「おいおい、入会が決まったらってボロクソに言うなよ。ボクシングを楽しむというのはどこに行った?」
「ミットやサンドバッグを楽しんでいる内はボクササイズやフィットネスと変わらないよ。ボクシングはリングに入ればどちらかが勝ってどちらかが負ける競技なの。真剣勝負。こういうのも含めて楽しめるのが本当にボクシングを楽しむってこと」
「言いますわね。よろしい。わたくし、一か月以内でヒメ様に一発入れて差し上げますわ!」
「お、言ったなー。その挑戦、受けて立つ」
「あー、無理無理。普通に無理だから、やめといた方がいいぞ」
「貴方はお黙りなさい。これは淑女の戯れではありません。乙女の存在を賭けた決闘ですわ」
「どこに乙女要素あるんだ?」
「相手はあのヒメ様ですわ」
「いや、だからこそなんだが」
「まぁ、貴方。気づいていらっしゃらないのね」
「なにが?」
「そこまで言うのは野暮というものですわ」
「まぁ、別にいいんだが」
本当はなんとなく心当たりがあったが、エーデルワイスのいう野暮なのでそれを考えるのはやめておいた。
それよりも問題は彼女が一か月で拳姫に一発入れられるかどうかだ。正直、無理だと思う。だが導き手の僕がそれを可能にする役割を負っているのだろう。全力を尽くすしかない。エーデルワイスのために。
放課後は早々に三人でジムへ行く。地下鉄の中でふたりは無言。女性の無言ほど恐ろしい物はない。僕はなんとかふたりの仲を取り持つように話しかけてみたが「あっそ」「へー、ですわ」と言われて終わった。がんばった僕を誰か褒めて欲しい。
ジムに着いたらすぐに更衣室へ行き、ふたり同時に着替えて帰ってくる。
休日に買ってもらったジャージを着たエーデルワイスに男どもはため息を吐いたが、会長はほっと胸をなでおろしていた。
「じゃあ今日から私たちはライバルな訳だけど、私は女子の指導をする立場でもあるからエーデルワイスちゃんのことはちゃんと指導するよ」
「えぇ、よろしくてよ」
「あー、拳姫。いいぞ、僕がやるから」
「え? あんたが?」
「なぁ、おっさん。いいよな?」
「もちろん、いいぞ」
会長はにやりと笑った。
「ちょっと私の仕事取らないでよ」
「一か月で拳姫に一発入れるってのは、ちょっと無謀だ。だったらこっちはこっちで秘密の特訓とか必殺技の練習とかするからさ、それでいいじゃない」
「必殺技なんてあるんですの!」
エーデルワイスの目がキラキラしていた。
そんなものはない。ないが、そう言っておいた方が拳姫の説得につながる。
「ふーん、そういうことならいいよ。私は私で追い込んでおくから。私の練習時間を削らなかったこと、後悔するといいよ」
そう言い捨てて拳姫はサンドバッグの方へ行った。単純なやつだ。
「そう考えたら、ヒメ様の練習時間をわたくしに当ててもらった方がよかったのではないでしょうか」
「いや、それぐらいのことじゃ実力差は埋まらない。拳姫は天才の上に努力家だ。文句なしに強い。それだったら君が少しでも強くなることの方が重要だ」
「わかりましたわ。貴方の判断なら正しいのでしょうね。信じております」
「それは言い過ぎだよ。僕も誰かを指導するのは初めてだから、何か無理があったら遠慮なく言ってくれ」
「無理を通せば道理は引っ込みますが、今回は道理ではなく乙女の闘いです。無理を通してまいりましょう」
「そうか。一度決めたんだ、音を上げてくれるなよ」
こうして僕とエーデルワイスの特訓がはじまった。
鏡の前でふたり並んで立つ。
「一番大切なことも勉強しなくちゃならない」
「ステップですわね! 蝶のように舞うわたくしですわ! それともアッパー?」
「いや、ディフェンスだ」
「一発殴られたら二発殴り返しますわ!」
「昭和でも前半の方のボクサーだぞ、それは。プロとアマチュアの差は身体能力でもパンチ力でもない。ディフェンス技術だ。相手は拳姫だからな。このままだと一発入れる前に一発もらえば前のようになる。ディフェンスは日常の動作では習得できないから、徹底的に身体に覚え込ませる必要があるんだ」
「しかし守ってばかりじゃ攻撃できませんことよ」
「それも込み、なんだ。攻撃即防御、防御即攻撃。この切り替えが早いボクサーは強い。ボクシングは殴り合いと言われるが、同時に殴り合うことはほとんどない。実際は攻撃と防御の応酬だ」
「理解しましたわ。貴方を信じて身を任せますわ」
「それじゃあ、練習を始めよう」
その日は一時間ほど、ずっと鏡を見て左右を打ち込ませた。
ジムからの帰り。
「エーデルワイスちゃん! バイバイ!」
「ヒメ様、また明日お会いいたしましょう」
と普通にあいさつしていたところを見て本気で嫌い合っている訳ではないのだとほっとした。拳姫からしたらプロレスなのかも知れない。それでエーデルワイスの上達を見込んでいたらちょっとすごい指導者だが、たぶん何も考えていないだろう。拳姫だから。
帰り道、ポツリとエーデルワイスが言う。
「なんだか、あまり疲れておりませんわ。練習になったのでしょうか」
いくら動かず左右を打ち込んでいただけとはいえ、一時間の運動量は相当なものだ。運動経験者だってそれなりの疲労を覚える。お嬢様は脳のリミッターでもお外しになられているのだろうか。
「なぁ、君ってもしかして身体が柔らかい方か?」
「あら、乙女はすべからく柔肌と申しますわよ」
「そうじゃなくて、柔軟性があるかということなんだけど」
「そうですわね。よっと」
足をグイっと上げるエーデルワイス。その足はみるみる腰の高さを越え、胸を越え、脛が頭にぴったりとくっついてしまった。柔軟性の指標としてY字バランスという姿勢があるが、身体に片足が密着するこれはY字どころかI字バランスだ。新体操の選手並みに柔軟性が高い。
「おーほっほっほ! 幼少の頃から身体は柔らかいと自負しておりますの!」
「これが疲労に強い要因かもなぁ」
関節や筋肉が柔らかいと血行が良くなり、疲労物質である乳酸が流れて疲れがたまりにくいと聞いたことがある。その関係性はまだはっきりと解明されている訳ではないが、エーデルワイスを見るに、信憑性はあるかも知れない。
ただ、筋肉痛が治る速度はたぶん異世界人要素のせいだ。あれはファンタジーだろう。きっとそう。
彼女の柔軟性に感心していると、不意に強い風が吹いた。
頭上まで上げられた足にひっぱられたスカートがはためく。
「あ」
「あ、ですわ」
……ばっちり見てしまった。
ゆっくりと足を下ろしたエーデルワイスは何も言わず、すたすた先を歩いて行ってしまった。これはあれだ。うん。見られたことがわかったということだ。平手打ちでもしない当たり貴族のお嬢様にしては優しいんだなと思ったが、この気まずい空気をどうしようかと、ローライズの黒いレースの下着は僕の趣味が過ぎるなと、そればかり考えた。
帰宅し、夕食後。
両親はまたくっついて映画鑑賞。涼香はダイニングでエーデルワイスに教えてもらいながら勉強していた。普段は眉間にしわを寄せて勉強している涼香だったが、彼女に教えてもらっている間は明るく自然に笑顔を寄せていた。
今までどうして自分の部屋で勉強していなかったのか不思議に思っていたが、涼香はもっと自分を認めてもらいたかったのかも知れない。エーデルワイスに認めてもらったのが嬉しかったのだろう。そう思うと、これまで妹の優秀さを知らず大して褒めもしてこなかったのは兄として恥ずべきことだと思った。まさか異世界人のエーデルワイスにそれを教えてもらうとは思いもしなかった。
これからはもっと涼香を褒めるべきではないか。両親にもそう伝えたい。勉強している傍らで呑気に映画鑑賞なんて、ちょっと無遠慮すぎる。
リモコンでテレビの電源を消す。
「あ、ちょっと! 今いい所だったのに」
「そうだぞー、母さんが今にも抱き着いてくるところだったんだ」
父、母。文句たらたら。
「なぁ、ふたりとも。よく考えたらおかしいと思わないか? ダイニングで涼香が勉強しているのに映画鑑賞なんて、勉強の妨げになるだろう」
「お兄ちゃん!」
涼香が声をあげる。両親に遠慮しているんだろう。
「いいんだ涼香。僕がバカだった。お前をもっと褒めるべきで、うちの家族はそれをしてこなかった。これから僕がアホ両親に訥々と説教を垂れるから、お前は静かな環境で勉強するんだ」
「違うの、お兄ちゃん」
「なにが違うんだ」
「私、いつも映画観ながら勉強してるの」
「え」
「これからすごくいい所だったのに、どうして消すの?」
「えー」
両親をかばうわけでもなく、単純に映画の続きが気になるようだった。涼香のことを案じていた僕は一体なんだったんだろう。
「涼香、落ち着きなさい」
エーデルワイスが低い声で涼香に話しかける。
「ちょっとエーデルワイスさんもお兄ちゃんに何か言ってあげてよ」
「いいえ、こればかりはわたくしからも言うべきことがあります」
「なに?」
「あなたの勉強を見ていて、時折注意が散漫になることに気づきましたわ。映画に気を取られているのだろうとは思っておりましたが、ご両親の手前、わたくしからは何も言えませんでしたわ。しかし、自分からそれを望んでいるのでしたら話は違います。涼香、あなたが今一歩のところで勉強の理解が足らないのは片手間にやっているからですわ」
「そう、なの?」
エーデルワイスはどこか遠い場所を眺めるように言った。
「なにが一番大切なのかを見極めることですわ。楽しみながら勉強したいというならそれでもよいのでしょう。ですが、資格を取得することが目標ならそれに集中するべきですわ。何かを成すのに寄り道している暇はありませんことよ」
「エーデルワイスさんもそうだったの?」
「そうでしたし、まさに今、そうですわ」
「そっかー」
涼香は腕組みをして一瞬、何かを考えたようだったが、すぐに答えは出た。
「お姉ちゃんがそういうなら、そうする」
「お、お姉ちゃん?」
目を白黒させながらエーデルワイスが驚いている。
「前に言ってくれたじゃない。妹にならないかって。もし私にお姉ちゃんがいたら、たぶんエーデルワイスさんと同じこと言うと思う。だから、エーデルワイスさんはお姉ちゃん」
「あなたは本当にいい子ですのね。よろしい。血のつながりはなくとも、涼香はわたくしのかわいい妹ですわ。正式にピルスナー家の一員になるための儀式をいたします。厳しいですわよ」
「うん!」
「わー、異文化交流ねー!」
「ピルスナー・カンパニーの親類になるなんて、やったな涼香!」
ここまでうちの両親はアホだったのかと落胆したが、エーデルワイスの啖呵には恐れ入った。何かを成すのに寄り道している暇はない。たぶん自分にも言い聞かせる言葉だったんだろうが、あれは良かった。僕も見習いたい。
しかし気になるのはピルスナー家の一員になるための儀式だ。何をするんだろう。エーデルワイスが持っていた指輪を授けるとかそんなものだったらいいが、血の契約とか魔術の行使とか、涼香にファンタジックなものは持ち出さないで欲しい。
「さぁ、儀式を始めますわ。ここでは邪魔になりますから、涼香の部屋に行きましょう」
「はーい!」
二階へ昇っていくふたり。
ダメだ。すごく気になる。
こっそりふたりの後をついていき、部屋に入ったのを見計らってドアにぴったりと耳をつけた。中でふたりが何か話しているのが聞こえる。
「こう? お姉ちゃん」
「違いますわ! 何度言ったらわかりますの!」
「こうかしら!お姉さま!」
「そうですわ! そして手の甲を頬につけて……」
「頬につけて……」
「おーっほっほっほ!」
「おーっほっほっほ!」
「もっと甲高く! そう! 宝石がひび割れるがごとくですわ! これで涼香もピルスナー家の淑女! ここぞという時にそうやって笑うのですわ!」
「おーっほっほっほ!」
「よろしい! よろしくてよ、涼香!」
なるほどわからん。
笑い声ひとつで貴族になれるんなら僕も笑わないでもないが、あれは真似できない。涼香、えらいぞ。お兄ちゃんは涼香を誇りに思う。
なんて一ミリも思わず、真顔で自分の部屋に戻った。
しかしこの気の抜けるような儀式が後にとんでもない事態を巻き起こすことになり、僕の人生も大きく変わるのだった。
部屋に戻った僕は風呂に行こうとするエーデルワイスを引き留めた。
「なんですの? 湯浴みは最高の娯楽ですのに」
「風呂に入る前に一汗かいてもらう」
「え」
と、エーデルワイスは明らかに動揺した。
「あの、その……」
「あぁ、大丈夫。この部屋の中でもできる」
「その、だからこそ湯浴みさせてくださいまし」
「そんなに運動量は多くないけど汗はかくと思うぞ」
「ですから、その、貴方が待ちきれないとおっしゃるのでしたら従いますが、やはりその前に体を清めたいと思うのが乙女の心情というものですわ」
「んー、何を言っているのかよくわからんが、ディフェンスの練習だぞ。すごく重要なことなんだ」
「え」
「え」
「な、なんだそんなことでしたの! おーほっほっほ!」
「急に笑い出しやがって、なんだってんだ」
気を取り直してエーデルワイスにファイティングポーズを取ってもらう。僕は机の一番大きな引き出しから箱を取り出した。
「コイツを使う」
「これって、ピンポン玉ですの?」
「そうだ。これを顔に投げるから好きに避けてみてくれ」
「えぇ、構いませんが、そんなに簡単なことでよろしいですの?」
「まぁやってみてくれ」
僕は先ず一球、エーデルワイスの顔に向かって投げた。エーデルワイスは体を大きく横に動かし丸まるようにしてなんなくそれを避けた。
「簡単ですわ。どんどん来ていただいて結構ですわよ」
「そうかそうか、それじゃあどんどん行かせてもらおうか」
僕はタンスの上に置いてあった機械を机の上に置いた。
「それは、卓球マシンというものではありませんこと?」
「うん。ピンポン玉を自動で射出できるやつだ。今度は手じゃなくてこれで打ち出すから、避けられるもんなら避けてみろ」
「言いますわね。よろしいですわ」
僕は射出速度を最大に、そして射出間隔を最小にして機械を始動した。
シュバババババ!
ものすごいスピードで連続して射出されるピンポン玉に「ちょ、あたたた、待ってください、まし、あたたた」とエーデルワイスは圧倒されていた。
急いで機械を止める。
「痛かったか?」
「痛くはありませんが、無理ですわ! これを避けるなんて生物の範疇を越えていますわ!」
「その範疇を越えているのがプロボクサーで、そして拳姫はその領域にいる」
「うっ」
彼女は言葉を飲んだ。
「それと、いまのピンポン玉はそのまま拳姫のパンチだと思ってもいい。拳姫が本気になったらあれぐらいの速さで連続して拳が飛んでくる。これを避けられるようになる、避けられなくとも有効打にならないようにする練習がこれだ」
「しかし、そんなこと言ってもわたくしにはとても」
「だからディフェンスの技術があるんだ。効率的な動き方がある。ダッキングとかスウェーとか、これから僕が教えるから、君はその技術を使ってピンポン玉を避けよう」
「本当にできるんですの?」
「半年とか一年かけて習得するものだけど、やるしかない。それに、僕はこれしかやりかたを知らない」
「そうおっしゃるなら、やるしかないようですわね」
その後、僕はディフェンスの動きを彼女に教えた。ジャブやストレートに比べてぎこちないものだったが、下半身のブレなさはさすがだった。これなら上達も早いだろう。
もちろん今日が初めての練習だからエーデルワイスは散々だった。ぽこぽこ当たるし、たまに目に入るのか何度か手が止まったりもしたが、それでも黙々と練習に励んだ。練習が終わって床やベッドに散乱するピンポン玉を片付ける時だけ、ほんの少しエーデルワイスはぼやいていた。
学校帰りにジムへ行って左右の確認。家に帰ってから卓球マシンを使ってディフェンスの練習。それだけに一週間を費やした。
時折エーデルワイスは不安げな顔を見せたが、僕を信じているようで弱音は吐かなかった。ありがたいが、ちょっとは不信に感じてもいいように思う。どこか盲目のようにも見えるそれは、なんだろう。彼女の純粋さなのか何か思いつめているのか。
わからないが、一週間経って動きに慣れてきた頃、ようやくスタートラインが見えてきた。
「それじゃあ今日から実際にサンドバッグを叩いてみようか」
「待ってましたわ!」
ジャブ、ストレート、フック、アッパーの基本的なパンチの反復とディフェンスの練習を一週間して、まだ早いとも思ったが、サンドバッグを叩く練習を取り入れることにした。
ボクシングを知らない人から見ればサンドバッグはただひたすら叩くだけの練習に思えるかも知れないが、実際はそこにディフェンスを取り入れたり、距離感を掴んだり、上下を打ち分けたり、様々な練習をすることができる。
拳姫とのスパーリングでもパンチが当たらなかったので、エーデルワイスが何かに拳を当てるというのは初めてだ。女性だから八オンスのグローブでも手を傷めることは無いと思うが、いくら非力な人間でも本気の本気で何かを殴ったら手に感じる衝撃はかなりのもので、きっと驚くに違いない。
「サンドバッグはどうやって打ったらいいんですの?」
「色々とあるが、まずは思い切り殴ってほしい」
「わかりましたわ。それでは、左フックを打ちますわ」
エーデルワイスは半身に構え、ジャブとストレートを触れる程度に打ってからコンビネーションとしての左フックを思い切り打ち込んだ。
ズン!
「おっ!」
「衝撃がすごいですわ! サンドバッグって重いんですのね」
「なぁ、お嬢様」
「なんですの?」
「体重何キロ?」
「な! ななな! 乙女にそれを聞きますの?」
「ボクシングが階級制だって知ってるだろう。体重は重要だ」
「うぅ、言いたくはありませんが、58kgですわ」
「なるほどねぇ」
エーデルワイスの身長は女性の平均より高い。それに華奢な体格ではないどころか、胸もお尻も素敵サイズなのでそれなりの体重だとは思っていた。思っていたが、目測よりも少し重かった。おそらく下半身の筋肉量だろう。これは勝機が見えてきたかも知れない。
「エーデルワイス、いい重さだ」
「わたくしを豚とおっしゃりたいの?」
「なにを言っている? 君の体格ならそれくらいが適正体重だし、むしろ好都合だ」
「なにが好都合ですの?」
「拳姫の体重はな、変わってなかったら50kgぐらいだ」
「それはつまり?」
「あぁ、階級で言えばフライ級とフェザー級の戦いだ」
実際のボクシングでの階級は体脂肪をギリギリまで削った場合の体重なので、単純な筋肉量での比較はできないが、それでもエーデルワイスは腰が細く、女性としては無駄な脂肪がついていない方だと言える。フェザー級だと考えても良いだろう。対して拳姫は、腹筋がうっすら割れて見えるほどなので筋肉を占める割合は多いだろうが、それでもやはりフライ級の体重だ。
一般的に、よほど技術の差がない限り三階級も離れれば階級が上の方が勝つとと言われている。パンチ力だけではなく、リーチ差や耐久力なども別次元となる。もちろんこれはお互いがプロボクサーの場合の話だが、拳姫のフライ級とエーデルワイスのフェザー級は四階級も離れている。つまり、エーデルワイスが拳姫にノックアウトされたのは、彼女が初心者であると同時に拳姫の技量がそれほどまでに高かったということだ。
この一カ月でエーデルワイスに基礎を叩き込められたらどうなるか。
技術やスピードでは絶対に敵わない。しかし、かなり不格好だが腕力でゴリ押しすることはできるかも知れない。先ほど見た左フック、あれはかなりの威力だった。拳姫の事だからモロに食らう訳はないが、ガードの上からでもかなり響かせることはできるだろう。もしかしたら続いて一発を入れられるかも知れない。
「作戦を変える」
「何か妙案が思いつきましたの?」
「あぁ。かなり高度な技術だがピーカブーガードを採用しよう」
「アイアン・マイケルですわね」
「ゲートの知識ってなんでもアリだな」
それから残りの三週間はこの技術を軸に、エーデルワイスのボクシングスタイルを確立させていった。
決戦当日。
その日は川村ボクシングジムの休業日だったが、会長が特別に開けてくれた。拳姫から聞いていたらしい。はじめのスパーリングで拳姫のことを察したのか、大人がついていなくては危険だと考えて会長も観戦することになった。
「拳姫は乙女の戦いつってたけどな、こういうのはちゃんと大人が見守っておかなきゃあるめぇよな」
とのことだった。
休業日だからジムの中には僕とエーデルワイス、拳姫と会長しかいない。広いジムではないがいつもの喧騒から比べると落ち着かなかった。
ジムについた時から拳姫はすでに準備を終えていた。あいつのお気に入りのハーフパンツとタンクトップ。試合用ではないが格闘技アパレルを扱うブランドのものだ。僕も好きだったが少し高価だから数着しか持っていない。気合が入っているのがわかる。
両腕に十六オンスのボクシンググローブをはめ、小刻みに体を動かしている。時折体をねじったり、つま先だけ俊敏に動く。傍から見れば奇妙に見えるが、あれは立派にボクシングだ。あの動きに腕を加えるとパンチになる。僕もたまに部屋でやることがある。
一方で拳姫の目は普段通りだった。何を考えているかわからない、まぁだいたいはボクシングのことを考えているが、厳しくも優しくもない視線だった。返ってそれが怖いようにも思う。感情の上下が激しい拳姫は冷静さを欠いていたり情緒不安定だったりするが、ニュートラルだと手に負えないくらい強い。
女子更衣室で着替えを終えたエーデルワイスにバンテージを巻き、ヘッドガードをつけ、グローブをはめてやる。
エーデルワイスはエーデルワイスで普段通りだった。こういう時は無駄に話したりしない。じっと視線を下にして、そうかと言って何かを睨んだり目が泳いでいたりもせず、淡々とした感じだった。作戦や方針は事前に伝えてあるから今更どうこう言うつもりはなかったが、緊張や不安が見えたら声をかけようとは思っていた。それがない。まるで世界戦に挑むようなボクサーの態度に見えて息をのんだ。一発入れたら勝ちという最早ゲームのような試合だが、彼女にとってこれは大きな意味を持つのが伝わる。
「乙女の戦いですわ」
という意味。
僕にだってわかっている。拳姫が僕をどう思っていたのか、ずっと知っていた。それから逃げていたのも自覚している。過去が怖かった。僕が弱かったのがいけなかったのだと悔い続けてきた。拳姫を受け入れてあげられなかった。
でも、そうじゃない。そんなものはただの過去だったと、そう思わせてくれたエーデルワイスがいた。彼女がいなければ僕は過去の妄執にとらわれ続けていたんだろうか。そのうち大人になって振り返えられる日が来たとしても、彼女がいなければきっともっとずっと先だったかも知れない。
エーデルワイスが勝ったら拳姫には打ち明けたいことがある。
「スパーリングは二分一ラウンド、全部で三ラウンド。エーデルワイスさんが一発入れたらそこで終了。安全を考慮してエーデルワイスさんがダウンしてもそこで終了だ。何をもって一発とするかは有効打だと俺が認識した時に判定する。それでいいな」
「うん」
「はい、ですわ」
会長の言葉に頷く両名。
「それじゃあゴングいくぞ。カーン!」
決着は一ラウンドでついた。
拳姫は教科書のようなオーソドックスな構えで前進していった。微細に頭を揺らしてリズムを取っている。
対してエーデルワイスは教えた通り、両方の拳を顎につけて向かった。
リーチは身長の高いエーデルワイスの方が長いが、まだ初心者の範疇の彼女にリーチ通りのパンチを放てというのは無理がある。お互いの防空圏を破って先制したのは拳姫だった。
パッ、パンッ!
ジャブを二発放つ。
女子軽量級らしい速さで僕の目でも追うのがギリギリだった。エーデルワイスが反応して回避行動をとれるとは到底思えない。
ので、彼女は僕が教えた通りのことをやっていた。
拳姫はバックステップで二歩くらい後ろに引いた。
「ふーん」とでも言いたげな顔をしている。
エーデルワイスは僕の教えた通り両腕を頭のこめかみまで上げていた。
これがピーカブーガード。
エーデルワイスの技術が未熟で、しかしパンチの破壊力はあって対戦相手との体重差があるからこそ、この技術を教えた。
本来はピーカブースタイルという技術の中のひとつであり、そして超高度な防御テクニックなのだが、初心者がやってもこの形を取るだけで顔のほとんどを防御でき、かつ、体重の軽い相手に強いプレッシャーをかけることもできる。
反面、ストレート系のパンチは使いにくい。手が高い状態で真っすぐ打つことは体の構造上難しい。
一方でフックとボディブローが打ちやすいという長所もある。打撃に慣れて体重を乗せられるようになればストレート系のパンチの方が威力はあるが、慣れない初心者の内はフックの方が力をこめやすい。特に下半身が安定しているエーデルワイスがこのガードからフックをつなげれば、想像以上の脅威になる。
これを一瞬で感じ取ったから拳姫は後ろに下がった。
エーデルワイスは後ろに下がった拳姫を追いつめるようににじり寄る。
その応酬で、今度は拳姫がエーデルワイスの周りを回るという状況に陥った。格下が格上の周りを回るという格闘技の格言を逆転させた。
しかし拳姫のセンスはやはり高く、エーデルワイスのリーチ外から当ててすぐに距離を取る戦法を取ってきた。ピーカブーガードは堅牢だが鈍重だ。エリア外からスピードで崩していくのは理にかなっている。それに対抗するためガードはパンチが来る直前に上げるべきなのだが、それがこのガードを高度な技術にする所以で、そんな器用なことはまだエーデルワイスにはできない。拳姫もそれをわかっている。
拳姫がエーデルワイスの圏外からパンチを放ってすぐ離れる。
これを三ラウンド続ければ拳姫は勝つが、あいつはそんな勝ち方を望んでいる訳がない。ガードの上からでも打撃を与え続け、一瞬でもガードが下がればすぐ懐に飛び込み頭部を狙うだろう。
もちろん、そんなことは織り込み済みだ。
エーデルワイスは何度か拳姫の打撃を受けて、そして、ガードを崩した。
好機と見たか拳姫は恐ろしいステップで詰め寄り、彼女を捉える。
ガッ!
攻撃を受けたのは拳姫だった。
ガードを崩せば必ず飛び込んでくると予想し、エーデルワイスにはピンポン玉を左フックでとらえる練習をさせていた。練習通りに拳姫は飛んできて、そして練習通りにエーデルワイスは彼女を打ち抜いた。
さすが拳姫で、かろうじて右手でガードして防いでいた。しかし体は大きく横に傾き、しかしエーデルワイスの左フックの威力に困惑した表情を見せた。
拳姫は強い。今すぐプロボクサーになれる逸材だ。だからこそエーデルワイスの左フックは必ず防がれると想定していた。彼女の反射神経なら絶対にエーデルワイスの拳を捉えるとわかっていた。
だから拳姫の肝臓がガラ空きなのは必然だった。
「いけ!」
僕は思わずそう叫んだ。
エーデルワイスは左フックを打った手をすぐに戻し、ボディブローを打つための体勢を整えた。一瞬、本当に一瞬。この連携を一瞬にするために僕らはずっと練習してきた。同じ腕で上を打って下を打つ。これが初心者にどれほど難しいか想像がつきにくいだろう。彼女は文句のひとつも言わず淡々とこなした。その努力がいま、ここに、瞬きの間につく。
バスッ!
しかし倒れたのはエーデルワイスの方だった。
拳姫は傾いた体勢を利用して同じように、ガードが上がって肝臓がガラ空きのエーデルワイスに、ボディブローを叩き込んだ。
エーデルワイスは打たれた直後、硬直し、頭からリングに丸まった後、必死に立ち上がろうとしたが無理だった。人生ではじめて肝臓への打撃を味わった。しかもそれが拳姫の鋭い一撃。ボディの耐性は覚悟の違いだと言われるが、拳姫のボディブローはエーデルワイスに覚悟を与える間をくれなかった。
僕はリングに上がって、つまり試合放棄の意味なのだが、彼女の背中に大きなバスタオルをかけた。きっと誰にも見られたくない顔をしたいだろう。そう思ったのだ。エーデルワイスはか細い声で「感謝します」とだけ言った。
一ラウンド一分二十八秒。エーデルワイス・ルイ・ピルスナーのダウンにより川村拳姫のKO勝ち。
エーデルワイスがダメージから回復し、十分に休息をとる間、全員が黙っていた。僕はエーデルワイスを椅子に座らせてグローブやバンテージを取っていったが、彼女は一言も話さなかった。拳姫は拳姫で会長にグローブを外してもらい、そして二人とも女子更衣室へ行った。
「エーデルワイスさんはよくがんばったが、土台無理な勝負だった」
会長がそう静かに言う。
「うん。それはわかってた。絶対に勝てないってのはよくわかってた。相手は拳姫だからな。仮にお嬢様が一年練習したって一発は無理だったかも知れない」
「でもお嬢さんをあそこまで持って行ったのは良くやった。もしかしたら、なんて俺も一瞬思ったぞ。坊主、やっぱりお前はジムトレーナーになれ」
「僕の教え方が良かった訳じゃない。彼女の努力があの一瞬を産んだんだ」
「それはよくわかるが、坊主は坊主で自信を持ってもいいじゃねぇか」
「どうかな……」
エーデルワイスは本当によくやった。あの一瞬を作り出せただけで、拳姫相手なら勝ったと言っても良いかも知れない。全く見ず知らずの土地に来て、慣れない運動を嫌と言うほどやり、勝ち目のない戦いに挑んだ。彼女の努力と勇気こそ称えられるべきで、僕のやったことなんて意味があったのかすらわからない。
彼女に何か贈ってやりたい気分だが欲しがるものを知らない。たぶんボクシングは続けるつもりだろうから、僕のお古ではない新しいグローブを買ってやりたいが高価すぎて手が届かない。
紅茶を淹れてやるというのはどうだろう。彼女がこの世界に来た最初の日にお願いされたが、結局その後のグダグダで忘れていた。きっとティーバッグじゃ満足しないだろうから、いい茶葉を買ってティーポットで淹れてやるか。それくらいの小遣いならある。動画サイトで美味しい淹れ方でも見ておこう。
そう考えていたら拳姫とエーデルワイスが更衣室から出てきた。楽しそうにおしゃべりしながら二人とも笑顔だったから、なんとなくわかっていたが、安心した。
「あんな体験はじめてでしたわ!」
とエーデルワイスが楽しそうに叫んだ。
「肝臓を打たれると呼吸が止まって苦しくて、痛くもあり、体中に力が入らず、ただ打ちひしがれてしまう。普通に生きていればまず味わえませんわ!」
「まぁ、味わう必要はないんだがな」
「いけずですわ! 非日常体験は必要でしてよ!」
「それを味わえるボクシングはやっぱり最高だよねー」
ここ一年ずっと見なかった笑顔で拳姫が答えた。
「エーデルワイスちゃん、これで終わりって訳じゃないでしょ? ボクシングはまだ続けるよね? まさか一度負けたからって辞めないよね?」
急に心配そうな顔になった拳姫だったが、答えはその場の全員がわかっていた。
「えぇ、辞めませんわ。ボクシングは私の人生に加えさせていただきます」
「それは良かった」
また拳姫は柔和な顔つきに戻った。
「では」
急にそう言ってエーデルワイスは鞄を持って出口に向かった。
「お? 帰るのか? ちょっと待ってくれよ」
そういう僕に彼女は神妙な顔つきで答えた。
「貴方はここに残ってください」
「なんで?」
「今日は乙女の戦いでしたわ。この意味、わからないほど野暮ではありませんことね?」
「……あぁ」
「では、敗者は潔く去りますわ」
そこでなんとなく雰囲気を察した会長が途端に挙動不審になる。
「お、おい坊主。お前、なんかしてくれちゃってくれるのか!」
「おっさん、僕は何もしないよ。それよりいいのか? 一人娘がめちゃくちゃ父親を睨んでるぞ?」
拳姫が試合でも見たこと無いような目つきをして会長を睨んでいた。
「あ、そうだ、俺も用事があったから帰らなきゃならねぇ。ヒメ、戸締りだけはちゃんとやってくれな」
そう言ってエーデルワイスと一緒に出口へ向かった。
「会長様、突然ですがわたくしファミリーレストランでパフェを鬼のように口にぶちこみたい気分なんですが、ご一緒してくださりませんか?」
「いいぞ。俺もなにか甘いもんが食いたい気分だ。ご馳走してやろう」
「ふふ、これがパパ活というものですわね」
「違う! 違うからな! それだけは違うからな! おいヒメ睨むな!」
ギャーギャー言うだけ言って、二人は去った。
さて、どうしたものか。どうなるものか。
「あのさ」
「うん」
拳姫から話しかけられて答えたはいいが二人で黙り込む。
「乙女の戦いって勝手にエーデルワイスちゃんが言い出したことだけど、それを特に否定もしなかった私の気持ちもわかるよね?」
「あぁ」
「じゃあ、つまりその、エーデルワイスちゃんの気持ちもわかってるってことだよね?」
「え?」
「え?」
妙な間が空く。
「エーデルワイスちゃんが言い出したことなんだからそうに決まってるじゃん」
「いや、それはなんというか、うん」
導き手として、同居人として、この世界でただひとり頼れる人間として好意を持たれていることはわかってはいたが、そういうことだとは思っていなかった。
「ずっとあんたのこと見てきたけど、そういう所はやっぱりバカだね」
「自分でもそう思うよ」
「で、勝負に勝ったから私はこの機会を優先的に与えられた訳だけど、勝って当たり前の勝負だったからさ、なんかフェアじゃないなぁって思って、先にエーデルワイスちゃんのこと伝えとく」
「うん」
「あの子ね、前やった時もそうだったけど目がすごかったよ。私を殺すつもりなんじゃないかって、そう思うくらい。それだけあんたのこと想ってるってことなんだろうね」
「そうかな」
「そうだよ」
また黙り込んでしまう。
「じゃあ次こそ私の番ね。私ね、あんたと小学生の頃からボクシングやってきて、弟みたいだなって思ってた。兄弟いないからさ、私」
「僕は妹みたいだと思ってたけどな」
「同じこと考えてたんだ。でもさ、あの時、全国中学生大会の時に私が勝った相手の兄貴が出てきたじゃん。大学生の。腹いせに私を殴ろうとしてさ、あんたがすぐにかばってくれて、それであんた左眼を網膜剥離してボクシング辞めちゃったけど、私もすごく自分を責めたけど、それで、それでさ」
「うん」
「好きになってた。違う。ずっと好きだったって気づいた。弟みたいに思ってたのはずっと自分を騙すためで、本当はずっと好きだった。だから高校生になってあんたをボクシングに復帰させたくて色々やったけど、私バカだからさ、わかんなくって、友達もみんないなくなって、それでもあんただけは私を気にしてくれて、それも全部私のせいなのかなって、でも好きで」
拳姫の双眸からるいるいと涙があふれ出て来る。
「私のせいでボクシングを辞めざるを得なくなったあんたに言えることじゃないんだけど、改めて言わせて。あなたが好き。大好き。ずっと好き。厚かましい願いだけど、エーデワイスちゃんじゃなくて私を選んで。ずっと一緒だった、ずっとあなたを好きだった私を好きになって」
僕が思っていたより拳姫の想いは強かった。こんなに思ってくれる女性から逃げ続けてきたのは卑怯と言うより、男として恥ずべきことだった。だからこそきちんと伝えよう、僕も今まで抱えてきた彼女への想いを。
「僕も、拳姫が好きだった」
「え?」
「妹みたいだと思っていたのは嘘だ。出会った時から好きだった。練習中、なんど君の方を見ていたかわからない。リングに立つ姿はいつも美しかった。さっきだってそうだ」
拳姫の顔がどんどん赤くなっていく。
「それに君は僕がボクシングを辞めたのは自分のせいだと思っているかも知れないが、そうじゃない。僕のせいだ。僕はあの時、自分が弱かったから守れなかったと悔いた。ずっとだ。拳姫のせいだと思ったことはただの一度もない。だからこそ、君の想いに薄々気づいてはいたが、応えられないでいた」
「それって……」
「でも変わった。自分が弱かったからボクシングを辞めた。それは今でも変わらず思う。でもそれは過去だって、乗り越えて明日を生きるしかないんだって、そう思わせてくれるやつがいた」
「……エーデルワイスちゃんね」
「そうだ」
拳姫は流した涙をタオルで力強くぬぐい、両手をずいっと上げて伸びてから大きなため息をついた。
「はぁ。あんたのファイトスタイルって昔から、相手を優位に立たせてからカウンターで仕留めるってやり方だもんね。変わらないわ」
「ん? それがどうかしたか?」
「一瞬付き合えると思っちゃったじゃない! あんたがあんなこというからますます好きになっちゃってどうしようかって思ってたのに、他の女の話が出るから、なんか情けなくなっちゃってどうでもよくなっちゃった。あーあ」
「なんかごめん」
「謝ってすまないから。あと、あきらめないから」
「僕とエーデルワイスがどうこうなるとも思えないけど」
「どうこうなるよ。絶対に。どう見ても両想いだもん」
「そう、ならいいけど」
「くっそー、ムカつく! 試合には勝ったのに勝負に負けたわ。まぁ、いいわ。そのうちエーデルワイスちゃんにフラれるでしょ。その時に私のところに来ればいいよ」
「拳姫はそれでいいのか?」
「いいよ。うん。ずっと好きだから」
「改めて言われると照れるな」
「照れるんだったいますぐ私と付き合え!」
思い切り殴られたが肩だったので痛いだけで済んだ。
その後、拳姫はひとりになりたいと言うので僕だけジムを出た。呼出音を切っていたスマホを見たら会長から「助けてくれ! 俺の小遣いが無くなる!」とメールが入っていたが、見ないふりをして家に帰った。
4/6章 終了
この話は6章で完結しますが、続きが書けるようにも設定しています。
もしご感想やご意見がいただければ続きを書くつもりです。