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3「左を制する者はわたくしが褒めて差し上げますわ!」

悪役令嬢と呼ばれた娘が拳で成り上がる話です。(全6章)

放課後。

 僕は拳姫とエーデルワイスと共に地下鉄に乗ってジムへ向かっていた。

 その間ふたりは並んで座り、ずっとボクシングについて話していた。主に拳姫がその魅力について語り、エーデルワイスが相槌を打ちながら話を促すような感じだ。エーデルワイスは拳姫の語るボクシングの歴史や試合についてゲートによる知識で頭に入っているはずだが、心の底から熱心に聞いていた。

 知っているのとやってみるのは違うように、実際の知識と他人から語られる話では、拳姫の場合は自分の意見も入っているし、違うのだろう。こういうところはまじめというか、真摯というか、エーデルワイスのいい所だなと素直に思う。

 しかしなぜこのお嬢様はボクシングなんかに興味を抱いたのか。

 知識はあるが体験してみたい、というのはわからなくもない。しかしそういうものは他にたくさんある。空手だって柔道だっていい。いま流行っているブラジリアン柔術ならケガのリスクも低い。元の世界にないだろうテニスやバスケットボールみたいな球技なら健康にもいい。それなのに、よりにもよってボクシング。

「なんでボクシングなんか……」

 思わず口に出してしまう。

「あ? ボクシング、なんか?」

 熱心に話していたはずの拳姫がすぐに察知して反応する。

「い、いや。なんでもない」

「口には気をつけなさいよ、あんた」

「全くですわ。ヒメ様の拳の垢を煎じて飲ませたいですわ」

「エーデルワイスちゃん、いいねー!」

 なにをどうしたのやら、ふたりはいつの間にか仲良くなっていた。仲良くなっていると言うより、共通の敵、つまり僕を標的にして盛り上がっているような気もするが、まぁ、今後どうなるかわからないが拳姫に友達ができるならそれはそれで喜んでやれる。本当ならその役目は僕なんだろうが、それはできなかった。

 僕が弱いからだ。

 あの時、いや今だって、僕が強かったら拳姫をひとりにはさせなかったかも知れない。拳姫もこんな風にならなかったかも知れない。

 だったら、かも知れないばかりで嫌になってくる。

 僕はなにがしたいんだろう。そう自己嫌悪に陥っても、ジムのある駅に着くのは時間の問題だった。


 川村ボクシングジム。

拳姫の父である元環太平洋ミドル級チャンピオン川村拳児を会長としたボクシングジムだ。ボクササイズやフィットネス気分で通う練習生はお断りで、基本的にプロか学生アマチュアを養成することに力を注いで時代に逆行している。女性の練習生はごく少数だが彼女らも大なり小なりプロを目指している。拳姫はそんなところに興味を持ってくれただけの女子を放り込んでいたのだから、嫌われるのは当たり前だろう。

ジムのドアを開けるとむわっと汗臭い蒸気が体中にまとわりつくようだった。清潔感は感じられない。こういうところが現代の感覚と反しており練習生が離れていく要因なのだが変わろうとしない。しかし、変えようとしないところに好感を持つ人間もいて、それがいま目の前で必死に汗をかいている練習生たちだった。

「おーっす! ただいま!」

 乳児の頃からこのジムで育った拳姫は勝手知ったり、というか実家なので、気軽にはしゃぐ。「うっす!」「ヒメ、おかえりなさい!」「お疲れッス!」と返答する猛々しい男どもの声は練習中より少し和らいでいる。拳姫はこのジムにおいて本当に姫だ。会長のひとり娘だからということもあるが、拳姫には華もある。彼女は美人だ。その上、ボクサーとしてプロ水準の実力も持っているのだから練習生に好かれないはずがない。

 厳しい練習の中で彼女の姿を見て心を癒し、さらに追い込む、なんて話はよく聞いた。まぁ、僕もその内のひとりだったのだけれど。

「おう。おかえり」

 黒いジャージにサングラス。竹刀を片手に持った会長は見た目に反してとても柔らかい声で言った。こんなジムでこんな外見の会長だが、練習生にはとても優しい。厳しいのは練習だけで、指導内容だけで言えば理想的だ。

「お父さん、今日は新しい練習生を連れてきたんだ!」

「おう! ヒメはスカウトの帝王だな! この可愛らしいお嬢さんがそうか?」

「うん! さ、エーデルワイスちゃん。自己紹介をお願い」

 拳姫がそう言うとエーデルワイスはまたあのピンと線を引いたように立った。

「お初にお目にかかります。エーデルワイス・ルイ・ピルスナーと申します。以前よりボクシングには興味があった折り、ヒメ様にお声をかけていただきましたの。よろしくお願い申しあげますわ」

「ほう、礼儀の正しいお嬢さんだ。あんた、外国人かハーフかい?」

「あ、エーデルワイスちゃんはイギリスからの交換留学生だよ」

「イギリス! ボクシングの本場だ! 世界チャンピオンも多いからな!」

 あっはっは、とエーデルワイスとはまた違う豪快な笑い声がジム内に響く。

「そうだな。今日は俺が稽古つけてやるのは後にして、ヒメ、最初はお前が色々世話してやんなさい」

「うん。じゃあエーデルワイスちゃん。運動着に着替えようか。レンタルに下ろそうと思っていた新品があるから安心してね。サイズが合うといいんだけど」

「ご厚意ありがとうございます」

 そうして拳姫とエーデルワイスは奥の女子更衣室に行った。

 それから会長の方を見るとくいっと顎を向けたので着いて行った。リングの裏の、練習生から見えにくいスペースに促される。ここは話しにくいことを相談する時によく使われていた。

 丸椅子がふたつ。それぞれに座る。

「なぁ、坊主」

「なんだよ、おっさん」

「元気にしてたか」

「まぁ」

「なら良かった」

 短い沈黙が流れる。

「協会から完治したら競技に復帰していいって通達あったの、知ってるか?」

「知ってるよ」

「治ったんだろ? 帰ってくる気はないのか?」

「ケガの問題じゃないよ。あれは僕が弱かったからで、弱い奴がボクシングなんてやってちゃいけないだろ」

「うちもよ、練習生が減ってきたからな。経営陣がいま流行ってるボクササイズだのフィットネスだの取り入れたジムにしろってうるさくてな。ジムの改装案まで出てる。そしたらよ、人手が足らねぇんだわ」

「つまり?」

「坊主。コーチとしての道だってあるんだぞ」

「プロを経験してないボクサーがコーチなんかになれるかよ」

「そんなの、昔の話だ」

「おっさん! どうしたんだよ! おっさんらしくないよ!」

 会長は腕組みして、それから「あー」と言いながら天井を仰いだ。

「ヒメな。坊主が辞めてからプロ目指すの辞めたんだ」

「え、聞いてない」

「そりゃ言わんだろうな。奥ゆかしい娘だからな。『プロをひとり作るより、ボクシングを楽しめる人を十人作りたい』だとよ。俺もよ、歳なのかな。あぁー、それもいいなって思っちまってな」

「違う! そんなのボクシングじゃない! プロにもなれないやつが馴れ合ってるだけだ!」

「坊主、そんなにボクシングって懐が狭いか?」

「いや、でも……」

 僕が返答に困って言い淀んでいると、突然リングの向こうから「うおー!」と男の歓声が上がった。どんなに苦しい時でもうめき声のひとつも上げずサンドバッグを叩き続けるあいつらに何が起きたのか。

 会長も血相を変えて、一緒に飛び出した。


「うおー!」

「最高っす! 最高っす!」

「美の女神!」

 肉肉しい男どもの歓声の中心には、エーデルワイスが立っていた。

「むくつけし殿方たちですこと」

「こらー! みんな! 練習に戻りなさい!」

 みんなのヒメが怒号を発しても男どもはエーデルワイスに夢中だった。

 なぜか。

 彼女のスタイルがお嬢様過ぎたのだった。

 おそらく、ライトな女性層を狙っていた拳姫は彼女たちにレンタルするための「いまどきの」運動着を用意していたのだろう。いまどきと言ってもそのスタイルは女性によるが、総合格闘技の流行からか肌の露出が多く、密着する服が人気のようだ。具体的に言うとスポーツブラにごく短いファイトショーツ。心の目で見れば下着姿に見えなくもないそれは男どもを興奮させるには十分だった。

 デカい。見れば見るほど胸がデカく歩くたびに揺れている。

 細い。コルセットでも巻かれたように腰が細く胸を強調させる。

 丸い。突き出たお尻はパンツラインを浮かせるほど膨張していた。

 長い。日本人離れした長い脚はそれらを全て引き立たせていた。

 全体的にムチムチしているのに細い所は細い。メリハリが効いた身体だ。僕は女性に対してこう表現するのは失礼だと思っているが。うん、エロい。普段はドレスか僕のブカブカのスウェット姿しか見ていないから気づかなかったが、こうして身体のラインが浮き出る格好をされるとお嬢様がお嬢様過ぎて困る。

 髪型を異質に思っている僕から見てもこう思うのだから、世界均衡の理のせいでそれを自然と受け入れている一般の男性にとって、いくらストイックなボクサーだろうが、美の女神と認識してしまっても仕方ないかも知れない。

 それぐらい、お嬢様には破壊力があった。

「ちょっと! みんな! どうしちゃったの!」

「うおー!」

 姫様がお嬢様に負けている。これも仕方ないだろう。お嬢様はボクサーとしては類を見ない体型なのだ。地元アイドルVS世界モデルみたいなものだ。どっちが良いとか悪いとかじゃなくて、見慣れないものに興奮しているだけ。

「喝ッー!」

 ジムの中に怒号が鳴り響く。

「お前ら、ぶったるんどるぞ! 女性の身体を見て練習に手がつかないなんて恥を知れ! まだ騒ぐ奴は俺が直々に相手してやる! 素手でかかってこい!」

 同時に竹刀で床をバシバシ叩く会長に気圧され、ハッと気づいたように男どもは散って練習に戻っていった。

「すまねぇ、エーデルワイスさん。うちの男どもが失礼した」

「構いませんわ。殿方に魅入られるのも淑女の嗜みですわ!」

「そう言ってもらって助かる。おいヒメ、もっとこう肌を隠すやつねぇのか!」

「あるけど、こういうの流行ってるんだもん。エーデルワイスちゃんに似合うかと思って」

「もっとなぁ、年頃の女の子に気を遣ってくれ」

 親子喧嘩とまでは言わないが、ここまで言い合うふたりは珍しいなと思いながらいると、エーデルワイスがこちらに寄ってきた。

「どうです?」

「どうって、なにが?」

「あら、いけず。この服のことですわ。殿方の前でこんなに肌をさらしたのは生まれて初めてですわ。せっかくなら貴方に最初に見ていただきたかったですのに」

「まぁ、その、いい、んじゃないかな。でも、もうちょっと肌は隠した方がいいかも、な」

「ふふ、ありがたくいただきますわ。ヒメ様、ちょっとよろしくて?」

 こうしてエーデルワイスは拳姫のジャージを借りることになったのだが、なぜか上着しか着なかった。それはそれでちょっとエッチなのだが、そのことについては誰もなにも言わなかった。


 壁一面に張ってある大きな鏡の前で拳姫とエーデルワイスが並んで立つ。

「エーデルワイスちゃん、右利き?」

「えぇ、そうですわ」

「じゃあ右足後ろにして、左足前で」

「こうですの?」

「そうそう、いいじゃない。それで左足を前に出して左手を前に出す。で、戻す。これが左ジャブ。ボクシングの基本にして究極のパンチだよ」

「これがジャブですのね」

 ゲートの知識で知ってはいるだろうジャブ。しかし知っているのとやってみるのとでは大違いだろう。どんなボクシングジムでも入門初日に習うこのパンチの技術は現代ボクシングの集大成だ。

パンチは基本、当たらない。たとえば目の前に手を大きく振りかぶった男が立ったとして、格闘技経験のない男性はもちろん、女性や子どもだって身構える。そうなるとよっぽど腕力の差がない限りは有効打にはならず、当たらないのと同義だ。それがボクサー同士の闘いになるとどうなるか想像は着くだろう。

しかしジャブは当たる。断言してもいい、人類史上最速のパンチだ。わかっていても当たる。反射神経が追い付かない。

だが同時に最も非力なパンチでもある。体重を乗せない、力をこめない、腰を回さない、ただ突くだけのジャブは破壊力がない。そのため、ジャブを多用することは卑怯者の戦法と言われる時代があった。

現代ボクシングではその意識は一新され、ジャブを起点としてコンビネーションを組み立てる事が理想とされている。そうして初めて攻撃的なパンチを当てに行くことができる。ジャブは当てるために当てるパンチで、どんなに腕力を鍛えても当たらなければ意味がないボクシングという競技において、最も非力で最も速く、そして最も重要な技術だ。

「すごい! エーデルワイスちゃんって天才かも! もうできてる!」

「お褒めに預かり光栄ですわ!」

 これも入門初日によく目にする初心者への褒め殺し。叱って伸ばすなんてもう古い。初心者には褒めて褒めて褒めまくる。筋力や技術なんて後からついてくる。初めに植え付けなくてはならないのはボクシングを続けるためのモチベーション。最初から人を殴ることに慣れている人間はいない。初めての行為を褒められるなんて「自分は才能があるかも知れない」と勘違いする。それでいい。

 勘違いから始まったっていい。大切なことは何よりも先ず、始めて続けることだ。

「うーん、エーデルワイスちゃんにはもう教える事はないかなぁ」

「そうですの? わたくし、まだジャブしか教わっておりませんわ!」

「今日はひとつ覚えればいいじゃない。だからね、エーデルワイスちゃん。そのジャブ、千回やってから帰ろうか」

「え」

「大丈夫、たった千回だよ。千回やったら帰っていいよ。あ、ちゃんと数えてあげるから回数は気にしなくていいからね!」

「わ、わかりましたわ」

 練習に関して拳姫は鬼畜姫になる。千回。うん、運動経験なんて絶対にないエーデルワイスお嬢様にとって未知の回数だろう。それなりに運動してきた人間でも二百から三百で身体がガタガタになる。いくらジャブがシンプルな動作だとしても、慣れない運動は疲弊する。

エーデルワイスなら、たぶん五十回もやれば音を上げるんじゃないだろうか。たぶん拳姫もそれを見越している。しかし褒められた手前投げ出すのはプライドが許さないからやり切るだろう。手も足もガクガクに振るえるエーデルワイスを背負って帰る姿が想像でき、ため息が出た。


 ぼうっと、ジムの練習風景を見ながら複雑な心境でいると拳姫の声が響いた。

「九百! いいよ、そのまま!」

 もう九百もやったのか。どれだけ僕は呆けていたんだと姿勢を正していたら、こっそりと拳姫がやってきて耳打ちしてきた。

「ねぇ、エーデルワイスちゃんってなにかのアスリートだった?」

「アスリート? いや、そんな話は聞いたことないぞ」

「さっきは初心者用に天才って言ったけどさ、本物の天才かも知れない」

 なにをバカな、とエーデルワイスの方を振り返ってみると、なるほど天才だった。

 エーデルワイスは数え始めの一回目から九百回目まで姿勢が全く同じだった。普通は疲れて右や左に寄るか、顔が下がるか、手が下がるかするが、ほとんど軸がブレず、重心もズレず、理想とされる姿勢のままジャブを繰り出していた。

 さすがに汗は酷い。髪のカールも崩れている。それでも表情は変わらず、目はずっと対戦相手を見据えるように打ち込んでいる。本当にその先に誰かがいるようだ。きっとなにか、恨めしい何者かが。

「残り百! ラストスパートだよ!」

「はい、ですわ!」

 ついに残りをやりきって、エーデルワイスは一度も音を上げず、一度も休憩を取らず千回のジャブを繰り返すことができた。すごい。すごいが、これは尋常じゃない。まさかゲートを通った時に身体能力も向上したとか。いや、だったら日常の動作だって機敏のはずだ。それは違う。何か秘密がある。何かが。

 そうして拳姫の持ってきたタオルで顔を拭いているエーデルワイスを頭の先からつま先まで観察していたら、なんだ当然、ということに行き当たった。

「拳姫。ちょっと靴下脱いでもらえるか?」

「え、なに、ちょっと。私、はじめてはベッドの上がいいんだけど」

「なにを言っているかわからないが、脱ぐだけでいい」

「急になにさ」

 文句を言いながらも靴下を脱ぐ拳姫の膝から下が露わになる。

「うん。なるほどな」

「ちょっと乙女の脚をまじまじ眺めてなにひとりで納得してんのよ」

「見てわからないか? ふくらはぎだ」

「ふくらはぎ?」

 拳姫は自分のふくらはぎを見て、それから僕の視線に誘導されエーデルワイスの脚を見た。

「あー! エーデルワイスちゃん、それ!」

「なんですの?」

「すごい筋肉じゃない! 腓腹筋もヒラメ筋も両方とも発達してる!」

「そう、なのですか?」

「うん。君のふくらはぎはすごい」

 長年ボクシングをやってきた、いわばアスリートと言っても差し支えのない拳姫のふくらはぎを一回りくらい凌駕している。この筋肉の発達だけ見れば一般男性にそん色ないどころか女性ボディビルダーにも匹敵するだろう。

「ふくらはぎが発達しているとボクシングにどんな影響が?」

「ふくらはぎは立っている時の姿勢や踏み込む力強さに関わる筋肉なんだ。それが発達していると言うことは、立って踏み込んで殴るボクシングに適しているということなんだよ」

「そうですの。なんだかわかりませんが、わたくし才能があるということですわね! おーほっほっほっほ!」

「えぇ、最初は褒め殺しのために褒めただけだったけど、それだけ見れば天才だと思う」

「ヒメ様に褒められるなんて恐悦至極ですわ!」

 まんざらでもないようなエーデルワイスだったが、ひとつ疑問が残る。

 エーデルワイスのあの筋肉はどうやって培ったのか。

 元の世界は交通手段が少ないだろうから現代の人間より運動はしていただろう。しかし貴族のお嬢様がここまで鍛え抜かれるほど歩いたとは考えにくい。

「なぁ、ビアー国で何か鍛えたりしていたのか?」

「鍛える? ビアー国では鍛えるという概念はありませんでしたわ」

「え、なになに? ビアー国ってなに?」

「あぁ、すまん。こっちの話だ。拳姫は気にしないでくれ」

 つまり自然な状態で鍛えられたということか。

 思い返してみれば、確かにエーデルワイスはことあるごとにピンと一本線を引いたように立っていることが多い。常日頃から姿勢に気を付けて生活していた証拠だ。見栄やマナーが重要視される貴族ならそれも頷ける。

 ただ、それだけじゃないような……。

「あー!」

「なによ、急に大声出して」

「騒がしい殿方は嫌われますわよ」

 甲高い声で笑う自分は棚に置いてか、というのも置いといて。

「なぁ、いつからあのピンヒール履いてるんだ? まさか幼い頃からか?」

「ピンヒール? あぁ、いつも履いている靴のことですわね。わたくしの家系では代々女性は生まれてから立ち上がると同時に履くことになっていますわ。それで一生を過ごしますの」

「それだ! 君は天才じゃない。天才になるよう育てられたんだ!」

「話が見えてきませんが、とにかくあの靴がわたくしの役に立ったと?」

「そうだ。君はボクシングに適した体だ!」

「それはつまり、わたくしはボクシングを続けていいと?」

「え?」

「いえ、貴方はわたくしがボクシングをするのを嫌がっているように見受けられましたわ。貴方の意見次第で諦めようかとも思っていたのですが、続けてもよいのですね?」

「いや、それ、は。その、なんというか……」

 柄にもなく興奮してしまっていた。ボクシングは危険な競技だ。エーデルワイスにやらせたくなんかない。だけど明らかに彼女はボクシングに向いているし、あの目。何者かを見据えてジャブを放っていた姿は本物だった。やらせたくない。向いている。エーデルワイスは何か心に秘めている。そういった感情がごちゃごちゃと混ざって咄嗟に返答できない。

「どうですの? わたくしはボクシングを続けてよいのですの?」

「こんな危険なスポーツを君には、いや、適性はある……」

その時。

「お嬢さん、スパーリングやってみないか?」

会長がやってきた。

「お父さん、いくらなんでも初心者にスパーリングは無理じゃない? 当てないマススパーなら話はわかるけど」

 拳姫が食ってかかる。

「いや、さっきのジャブを見ていたらわかる。エーデルワイスさんはボクシングの申し子だ。最初からギアを上げていった方がいい」

「でも!」

「いや、おっさんの言う通りかもしれない」

 僕はふたりに割って入った。これは好機だ。

「え、あんたまでなに言ってんの」

「相手をするのは拳姫だろう。お前ならちゃんと加減ができる。初心者だからこそボクシングのなにが楽しいか、なにが危険なのか、拳姫ならスパーリングで教えられる」

「おう、俺が言いてぇのは坊主と同じよ。本当なら初心者にスパーリングなんかってところだが、ボクシングはおべんちゃらつけても結局は相手と殴り合う競技だ。そこに楽しさを見つけられなきゃ、続けてはいけねぇだろう」

「……楽しさを見つける、か。うん、わかった」

 よし、拳姫が乗り気になってきた。これで勝てる。

「あの、スパーリングってあれですわよね。決闘とは違うのでしょうが、全力で叩き合う試合形式ですわよね。わたくし、いくらなんでも勝てませんわ」

「勝たなくていいんだよ。スパーリングは格上の相手とすることでテクニックを磨く練習のひとつなんだ。勝利が目的じゃない」

「でしたら、わたくしにもできますわね」

 エーデルワイスも了承した。きっとこれで諦めてくれるだろう。

「よし、それじゃあ防具をしっかりつけてリングに上がってくれ」

 会長がそう言ってからふたりは準備を始めた。


 エーデルワイスには安全のためフルフェイスタイプのヘッドギアの他に女性用のチェストガードとローブローガードまでつけた。ここまですれば体格の違う男性相手でも危険な事にはならない。

 対して拳姫は十六オンスのグローブのみ。ヘッドギアをつけないのは舐めているようにも見えるが、実力差を考えれば当然でもある。

「スパーリングは二分一ラウンド。それじゃあいまからはじめるぞ、カーン!」

 口でゴングを鳴らす会長の合図にふたりはにじり寄る。

 エーデルワイスは、やはり知識があるのだろう。拳姫を中心にリングを回りだした。サークリングというやつだ。足取りはたどたどしく、ステップなど教えていないのだから当たり前で、当然できていないが、棒立ちでいるよりはよく考えられていた。

 拳姫は常にエーデルワイスを捉えている。ボクシングに限らず格闘技というものは、格上を中心に格下が回ると言われている。まさにその格言に沿った試合運びだった。

「や! ですわ!」

 エーデルワイスが飛び込むように左ジャブを放つ。知識はあってもこれしか教わっていない。これで戦うしかないとでもいうように愚直なパンチだった。

 ジャブは、当たらなかった。そして当たらなかったのではなく、届かなかった。

 初心者なのだから仕方ない。自分のパンチがどの距離までなら届くのかということがわかっていない。距離感の把握は長い年月をかけて習得しなくてはならない。エーデルワイスにも、いまの一撃でわかっただろう。

 しかしその一撃で拳姫の意識を変えた。壊さぬよう壊れぬよう、隙を見てちょんと小突いては離れ、たまに何発かわざと食らい、ボクシングは楽しいだろうと言いたかったはずの拳姫だが、それは叶わなかった。

 拳姫は小学校高学年の頃からすでにジム内で適う女子練習生がいなかった。だからずっと階級の小さい男性とばかりスパーリングをしていた。しかしいくら同じくらいの体重だろうと男女差はある。拳姫は全力でスパーリングをしていた。

 つまり何が言いたいかと言うと、拳姫は手加減なんかできないのである。これは会長も気づいていない。たぶんジムで僕だけが知っていることだ。

 エーデルワイスのかすりもしないジャブが、拳姫の全力を引き出す。

 動かなかった拳姫が無言で詰め寄る。もう一度顔にめがけてエーデルワイスがジャブを出す。拳姫は右手でパリィ、要は弾いて、そのまま右ストレートをエーデルワイスの顔面に叩き込んだ。

「あっ! やば!」

 さすがに拳姫もマズいと思ったのかバックステップで距離を取る。

 エーデルワイスは立っていた。

 あのピンと一本線を引いたかのような美しい姿勢を保ったままだ。

 フルフェイスのヘッドギアをしているのだから大きなダメージはないと思うが、かなり衝撃を受けたと思う。おそらく生まれて初めて受けたボクサーの打撃はきっと腰を抜かすほど……。

 と思って見ていたら、その美しい姿勢のまま後ろに倒れた。

「あぁー、脳震盪かな」

「おい、ヒメ! なんだありゃあ! 初心者になにしてやがる!」

「だってー!」

 喧々諤々とするふたりを尻目に、僕はエーデルワイスの元に駆け寄った。


「あれ? なぜわたくしは寝ているのでしょうか?」

 ボクシングのようなコンタクトスポーツで脳震盪は「よくある」ことだ。倒れた人間がすぐに意識を取り戻し、なんでもないことも多い。

「拳姫のパンチ、覚えていないか?」

「えっと、ヒメ様がわたくしのジャブをいなして、そうしたら急に地面が立ち上がってきて」

「そうそう、そのパンチで倒れたの」

「そうでしたの。では、続けますわ」

「あぁー、ダメだ。今日はすぐに帰って病院に行くぞ」

「わたくしは大丈夫ですわよ?」

「それでも、ダメだ」

 しかし脳震盪は外見だけでは脳震盪だと判断できない。脳内で出血している可能性もある。そうなった場合、症状は遅れてやってくるので軽い脳震盪や「よくある」ことだと軽視せずに病院で早めの検査を受けるべきだ。

 こうしてふたりで話している内も川村親子はなにか言い合っていた。

「おいおいヒメよ、楽しいボクシングにするんじゃなかったのか?」

「違うの、お父さん聞いて? あのね、エーデルワイスちゃんの目がすごかったんだよ。なんていうか、私のこと殺そうとしているような感じだったの!」

「そりゃ言い訳にならねぇよ。初心者は殺しにかかるくらいでやっとボクサーと対等だ。ヒメも一から練習しなおせ」

「もー!」

 会長がエーデルワイスの元に来る。

「大丈夫か、エーデルワイスさん」

「えぇ、大丈夫ですわ。さぁ、二ラウンド目に行きましょう」

「そりゃダメだ。今日は帰って病院へ行った方がいい」

「もう、同じことをおっしゃるのですね」

「昔はやらせてたが今はそんな時代じゃねぇ。そのまま休んで立てるようになったら着替えてすぐに病院へ行ってくれ」

「仕方ありませんわ」

 エーデルワイスはすごく残念そうに言った。

「うわああん! ごめんね、エーデルワイスちゃん!」

 泣きそうになりながら拳姫が駆け寄ってくる。

「構いませんわ。わたくしが弱いからこうなっただけですの」

「そうなんだけど、そうじゃないっていうかー!」

 そこは否定しないんだな。

「エーデルワイスちゃんの目、すごく怖かった。私を殺しに来た熊みたいな、そんな目をしてたの。手加減しようと思ってたけど、私も殺らなきゃ殺られると思って咄嗟に手がでちゃった!」

「そうですの。えぇ、それには覚えがありましてよ。少し、元の世界で遺恨がありましたので」

「えーん! 元の世界ってなにー?」

 脳震盪でエーデルワイスはまだ混乱しているかも知れない。これ以上ペラペラ話されたらマズいと思い、拳姫とエーデルワイスの間に身体をねじ込む。

「さてお嬢様。リングで寝ているのは敗者と決まっております。せめて向こうのベンチで横になりましょう」

「あら、貴方も素敵な紳士になりましたわね」

 ケガ人を運んでいるだけだ。恥ずかしくない。そう思い込んでエーデルワイスを抱きかかえ、お姫様抱っこになるわけだが、向こうのベンチに運んだ。


 十分も経つとエーデルワイスはしっかりしてきて、起き上がることができた。話していてもフワフワしたところはなかったので着替えて来てもらい、帰ることにした。帰りに僕も世話になったことがある脳神経外科の病院に寄ることにしたが、保険はどうなるだろうと思っていたところ。

「あら、ご両親が留学生用の国民健康保険に加入してくださいましたわ」

 と保険証を見せてきたので安心した。

「本当にごめんね、エーデルワイスちゃん」

「ヒメ様、お気になさらず。わたくしは、わたくしの弱さを再確認しましたわ」

「それならいいんだけど」

「今日の事でボクシングが楽しいとは思えなかっただろうが、ボクシングは本当に楽しいんだ。もし、ほんの少しでもそう思ってくれたらまたうちに来てくれ」

「ありがとうございますわ」

 拳姫と会長に玄関でそう言われて見送られたが、さすがにそうはならないだろう。僕の予想通りだった。

 手加減できない拳姫に恐怖を覚え、ボクシングを自分から諦めてもらう。

 そういう運びになったと思う。

「それではみなさま、またいずれ」

 こうしてジムを後にした僕らだったが、帰り道を歩いていると急にエーデルワイスが立ち止まった。

「あら? あらあら?」

「どうした! 手足が痺れるとか足が動かないとか?」

「違いますわ、その……」

「小さいことでもいい、後から重症になることもある!」

「その、体中がバキバキに痛いんですわ!」

「は」

「緊張が解けたら急にどっと疲れが出ましたわ! 体中が痛くて一歩も動けませんわ!」

「それは筋肉痛って言うんだが、っていうか筋肉痛ってすぐ出るものなんだな」

「一歩も動けませんわ!」

「はいはい、じゃあ行くぞ」

「ですから、動けないんですの!」

 エーデルワイスを見ると、こちらをじっと上目遣いで見てきた。その表情から緊急性の高いケガがあるとは思えなかった。ただ駄々をこねているような、そんなわがままなお嬢様のような、あぁ、まさにお嬢様か、印象を受けた。

「一歩も動けないならどうするんだよ。タクシー呼ぶか?」

「さきほど貴方が抱いてくれたようにしていただければいいのですわ」

「さきほどって」

 お姫様抱っこ。

「いや、いやいやいや。それはない。それはできない」

「それじゃあわたくし、一歩も動けませんわ!」

「はぁー、またそこに戻るか」

 結局、なんやかんや言い合ったが僕が彼女を背負うことで決着がついた。


「ふふ、うふふふ」

「どうした」

「楽しいですわ」

「良かったな」

「背負ってもらうなんて、幼い頃、お父様におぶってもらって以来ですわ」

「へぇー、貴族でもそういう親子の交流ってあるのか。もっと堅苦しいものだと思っていたな」

「いいえ、お父様が特別なだけですわ。この世界の中世でもそうだったようですが、ビアー国でも子どもは子どもとして扱われませんのよ。小さな大人、なのです。ですからこの世界のように甘やかすとか、親子のスキンシップなんてありませんのよ。わたくしは、生まれた時から貴族を叩き込まれましたわ」

「そうか。色々違うんだな」

「この世界は子どもに優しいのですわね。ビアー国で成人は十五歳ですが、日本国の成人は二十歳というじゃありませんか。まだわたくしが子ども扱いなんてなんだかおかしいですわ」

「へぇー、成人が十五歳か。じゃあ、もう結婚できたりするの?」

「えぇ、女性はだいたい成人になると共に結婚するのが当たり前ですわ」

「君は十七歳だったはずだけど、それじゃあ」

 結婚していたら嫌だな、となんとなく思った。

「しておりません。わたくしはピルスナー家のひとり娘ですから、婿を取らなくてはなりませんの。なかなか婿になってくれる殿方がおりませんでしたのよ」

「どこの世界でも結婚は大変なんだなぁ」

 本当はあの甲高い笑い声のせいなんじゃないかと思いつつも、なぜエーデルワイスが結婚していなかったことに安堵したのか自分でもわからなかった。

「なぁ、そろそろ病院に着くんだけど、着く前に降りてくれるか? さすがにおぶって病院に入ったんじゃ恰好がつかない」

「あら、淑女を労わる紳士として最高だと思いますけれど」

「あの医者、僕が小さい頃から知ってるんだよ。なに言われるかわからないからさ」

「きぃー! そんな些細なこと! いけずな殿方ですわ!」

 体中が痛いと言っていたはずのエーデルワイスは暴れて降りようとしなかったが、再三の説得で渋々ながらも降りて病院へ入った。

 検査の結果は特に問題なかったが、あのヤブ医者から散々エーデルワイスのことを突かれたので、もうここには来たくなかった。

 それにしても。

 本当はエーデルワイスを背負って病院に入っても良かったのだが、ひとつ問題があった。背中に当たる彼女の胸部が、ちょっと素敵過ぎたのだ。それだけじゃなく、とんでもなくいい匂いがした。あんなに汗をかいていたのに、不潔どころかもっと触れていたいだなんて、卑怯だ。僕の下半身にはぐるぐる血液が巡り、僕の僕が目立つことになるところだった。

 目立っていたら、ヤブ医者に何て言われたことだろう。

 それに。

 エーデルワイスから嫌われるのは嫌だった。

3/6章 終了

この話は6章で完結しますが、続きが書けるようにも設定しています。

もしご感想やご意見がいただければ続きを書くつもりです。

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