もしもこの人物が大河ドラマになったら 1
もしも本当に大河ドラマ『田中角栄~KAKUEI~』が制作されたら、という仮の話。
名前
田中角栄
よみかた
たなかかくえい
職業
内閣総理大臣【第64・65代】
備考
ロッキード事件で東京地検特捜部に逮捕され、後に有罪判決を受けている人物
生没年
1918年【大正7年】~1993年【平成5年】
2018年は、田中角栄の生誕100年の年だが、正直な話、新潟以外ではどのように受け取られているのだろうか。
大きく挙げるとすれば、何しろロッキード事件で元総理大臣として逮捕されている人物だということ。
それに、娘であるあの人物の了解をとらなければ、なまじっか変な形ではできないだろう。
大河ドラマはもとより、テレビドラマとして制作できる時が来るのかどうか…。
1918年【大正7年】、新潟県刈羽郡二田村【現・柏崎市】に生まれる。
もしも大河ドラマや歴史ドラマとして放送されることが、いつかあるとしたら、生い立ちや幼少期のエピソードも交えることになると考える。
昭和6年に満州事変が起きたのは、角栄が13歳の時。
その後、日本は国際連盟を脱退し、血盟団事件や、5・15事件が起こるなど、戦争の足音が響き渡る時代。
昭和8年。当時は高等小学校といった二田小学校を卒業する。
昭和9年に理化学研究所の大河内正敏の誘いを受け上京するが、実際に政治の道を志すのはまだまだ先の話。
その後いろいろと苦労して、建築士の道を志す。
その間、猛勉強をして、様々なスキルを習得した。この時に身につけたスキルが、政治家になってからも、何かと役に立ってきたという。
当初は中曽根康弘元総理らと同じ海軍志望だったが、母の病気によって断念したという。
昭和12年に日中戦争が始まった時は角栄は19歳だった。
昭和13年、角栄はこの時、20歳。陸軍騎兵第24連隊に入隊する。
昭和15年には陸軍騎兵上等兵となった。
しかし11月にクルップ性肺炎を発症し、兵役、軍人としての道はここで断念せざるをえなかった。
当時は男なら兵隊となり軍人を目指し、お国のために戦うのが常とされていた。
それが叶わなかったことは、無念の極み。
除隊になった後は、田中建築事務所を設立し、後に法人改組で田中土建工業と改める。
昭和17年3月、事務所の家主の娘、坂本はなと結婚し、事務所の事業を引き継ぐ。
その後、朝鮮半島に渡り、朝鮮で事業を行う。
その間に長男が生まれていたが、その後わずか4歳で病死してしまうという悲劇に見舞われる。
昭和19年、娘の真紀子が生まれる。
やがて終戦を迎え、朝鮮半島の事業所を引き払い、引き揚げ者として帰国する。
日本は敗戦により、主な都市は焼け野原になっていた。
農村も、男がみんな兵隊にとられて、田畑も荒れ果てていた。
これからの日本を自分たちが何とかしなければ…。
このような経緯があって、本格的に政治家としての道を志すのは、終戦後になってからのことだった。
敗戦で何もかも失った日本を何とかしたい、そのためには政治家になること、国政進出を果たすこと。
そんな角栄の前に、後の人生を決める一人の人物が声をかける。
その人物は、進歩党代議士の大麻唯男といい、戦時中から田中土建工業の顧問を勤める人物だった。
戦後初めて行われた第22回衆議院議員選挙で進歩党公認で出馬し、見事に当選を果たしたことから、角栄は政治家としての第一歩を踏み出したのだった…。
とまあ、こんな感じで制作されることになるだろう。もし仮に実現した場合は、このようになるという妄想をいだいている。
続いて、この人物。
もしも本当に大河ドラマ『新藤兼人』が制作されたら、という仮の話。
実現性はほとんど無いが、それでもあえて書いてみた。
名前
新藤兼人
よみかた
しんどうかねと
職業
映画監督、脚本家
生没年
1912年【明治45/大正元年】~2012年【平成24年】
備考
享年100歳
日本映画史に残る名監督、名脚本家の一人。それに100歳まで長生きした人物としても評価できる。
亡くなったのは最近で、しかも最晩年まで精力的に活躍していた人物。
しかしその映画監督、脚本家としてのキャリアはというと、昭和9年に新興キネマに入り、そこから映画人としての第一歩を歩み始め、最晩年に至るまでの78年という長きにわたり映画制作に携わる。
広島出身であり、広島への原爆投下の報も聞いた。
そして、終戦直後に帰郷した際、原爆投下直後の広島に入市。
直接その時の広島の惨状を目の当たりにする。
これが後に『原爆の子』という代表作を制作するきっかけとなった。
制作当初は物議をかもした。
人々が敗戦のショックから立ち直り、戦後復興へと、明るい方へ向かい始めているというこの時期に、あの惨状を思い出させるようなものを、あえて制作するのか、と言われた。
しかしそれでも周囲の反対を押しきり、制作にあたったという。
戦時中は海軍に召集されたが、海軍兵時代は年下の上等兵にこき使われるなど、苦痛、屈辱以外の何物でもなかった。
同期入隊は100人ほどいたが、そのうちの94人が戦死した。生き残ったのは新藤ら6人ほどだったという。
だから、戦死した者たちの分まで自分たちが長生きして、何かやっていこうという気概が、新藤に限らず、戦中派の世代の人たちにはあった。
だから、兵隊帰りの戦中派の人たちは長生きしたんだということ。
映画監督の生涯を大河ドラマにすることは可能なのか否か。
映画監督、新藤兼人にとっては、ひたすら映画を作り続ける、そして常にヒット作を世に送り出し続けるということが、まさに戦いだった。
映画制作における苦労や葛藤なども描かれる。
とまあ、こんな感じで制作されることになるだろう。もし仮に実現した場合は、このようになるという妄想をいだいている。
次の人物は『日野原重明』です。
なお、新藤兼人は、2011年3月11日の東日本大震災の起こったその次の年に、日本がいよいよ衰亡史へと向かっていくのを、この世では見届けないまま、2012年に100歳で他界している。
その後異世界に転生したら、どんな映画を作るのだろう。