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6.私が覚悟した結婚

「ああ、でも安心して欲しい。無事だからね」


私の表情を読んだヘッセン侯爵は、私を安心させるように話を続ける。


安心してと言うが些細な傷なら怪我の話を持ち出さなかった筈だ。訓練で負う位の打撲や擦り傷や掠り傷なら軍人であれば日常茶飯事。そんな軽傷では無いから話題に出したのではないだろうか。


「偵察に向かった時に野盗の襲撃に遭い、上官を庇って捌ききれずに傷を負ったらしい。深手では無いから直ぐに任務に戻り仕事をこなしていたようだよ。今では殆ど治っているんじゃないかな」


今回の派遣は戦場への出征に比べれば危険度は低く、軍人に死者が出たとの報告は聞いていない。けれど、必ずしも安全という訳ではないのだ。怪我人は勿論ヴェルナー様以外にも大勢いるのだろう。

それにヴェルナー様が参謀付きだから野盗の討伐には自ら行かないであろうと勝手に思っていた。けれど私は軍の役割をよくよく理解は出来ていなかった様だ。軍人である以上、怪我をしない保証など何処にも無いのだ。


毎回出征から当たり前のように帰ってくる父。その父だって毎回無傷だった訳では無い筈だ。子どもの私には知らされなかっただけ。


私はもしかしたら軍人の妻になる覚悟がしっかりと持てていなかったのかもしれない。

母は兄の初出征に涙した。それはきっと覚悟を持てていたからこそ涙が出たのではないだろうか。

絶対に無事に戻ってくるのだと信じることは、覚悟ではない。覚悟が出来たから不安になるし心配になる。


私からヴェルナー様に結婚を申し込んでおきながら本当の覚悟が出来ていなかったことに気がついてしまい、私はまだ子どもなのだと痛感してその後何も話せなくなってしまった。




ヴェルナー様が怪我をしたとヘッセン侯爵が私に教えてくれたのは、直に妻になる予定の婚約者として知っておく必要があり、さらに受け止められる様になれと伝えたかったからではないのだろうかと、一人考えながら思った。


ずっと頭では分かっていた。軍人の夫が戦死すれば妻が家のことや領地のことを管理し、そして後継者を育て家名を途絶えさせないようしなければならない。そして全てを背負わなければならないと。夫や家族が戦死したからと悲しんで臥せっていては役割をこなせないのだ。


私はヴェルナー様を亡くしても立っていられるだろうか。リートベルク伯爵家よりも家格が上で抱える領地も広いヘッセン侯爵家を、一人で守っていけるのだろうか。




それから一ヶ月が過ぎ、派遣されていた軍が戻ってきた。父や兄は早くに帰宅が許され、目立った怪我も無く元気な姿を見せてくれた。


ヴェルナー様は後処理が忙しいらしく、軍舎に泊まり込みでなかなか会えなかった。

それでも数日するとヘッセン侯爵家から使いが来て、ヴェルナー様の帰宅の知らせに大急ぎで邸に向かった。


邸に着くと応接間に通された。ドキドキしながら待ったが、直ぐに部屋へとやって来てくれ、思わず立ち上がって挨拶も忘れて一歩二歩と近づいて、変わらぬ姿を見て胸を撫で下ろした。


「……おかえりなさい」


震えてしまいそうな手を両手でぎゅっと強く握ると、ヴェルナー様の五体満足の立ち居姿に安心してしまったのか、父や兄に言うような言葉を言ってしまった。


ヴェルナー様はそんな私に驚いたのか目を見張ったが、直ぐに表情を戻して「ただいま」と言った。


ヴェルナー様に促され、契約結婚の申し出をした時と同じ様に対面に座った。あの日からもうじき一年になるし、ルイーザ嬢が亡くなってから一年が過ぎた。あの時と同じ濃紺の軍服姿だけれど、もう士官学生でないヴェルナー様は青色のネクタイをしていない。


「派遣前、お手紙をくださりありがとうございました」


「いや。令嬢から嫌がらせを受けたそうだね。父から聞いたよ」


既に話が伝わっていたのか。

この親子は報告・連絡がしっかりしている様だ。親子仲が良い証拠だろうか。お互いにきっちりした性格だからかもしれない。


心配をかけるだけなのでヴェルナー様には伝えなくても良かったのに、とちょっと思ってしまった。


「侯爵家の名に助けていただきましたし、その後は何もされておりませんのでご心配はいりません」


「そうか……」


ヴェルナー様の様子が少し変だった。


雰囲気も変わった気がする。精悍さが増した様だ。未だに笑顔は無く基本的に表情に大きな変化は無いのだけれど、少し伸びた髪と鋭くなった目つきに大人の男を感じた。派遣の間にいろいろなことを経験したのだろうか。


「お怪我の具合をお聞きしても良いでしょうか?」


「問題ない。日常生活に支障は無いし、剣も振れる」


ヴェルナー様は右手をぐっと握って見せてくれた。

その様子にホッとした。


ヴェルナー様は手を下ろして膝の上に戻すと、少し目を閉じて小さく息を吐いた。

さっきも様子が変だと思ったけれど、やっぱり変だ。


疲れているのだろうか?

それならば私と居ても休まらないのだから失礼するべきだろう。愛する婚約者ならば再会を喜び、愛の言葉でも交わせばそれが癒しになったことだろうけれど。


帰ると伝えようと口を開くのより少し早く、ヴェルナー様が言う。


「もうじき結婚式だ。結婚してしまっては後戻り出来ない。デリアは本当に良いのか?後悔しないか?」


閉じていた目を開けたヴェルナー様はいつになく真剣な表情だった。


「……その質問の真意をお聞きしても?」


「父から君が嫌がらせを受けたと聞いてから考えていた。想像するのより実際にされるのとでは違うだろう?私はまた誰かを傷つけたくは無いんだ」


確かにヴェルナー様の言う通り、いくら覚悟をしていたと言っても実際に経験してみなければ苦しみや辛さは分からない。今回初めて嫌がらせを受けて私は精神的にダメージを受けたと思った。


嫌がらせのことだけではなく、結婚するということもだ。夫を亡くしてしまうかもしれない覚悟、そうしたら家を背負う覚悟。


「……私はヴェルナー様が怪我をしたと聞いた時、大変動揺し、そして覚悟をしきれていなかったのではと自身の幼さに情けなくもなりました。嫌がらせをされたことなんてすっかり忘れて」


そう、私はヴェルナー様が怪我をしたと聞いてから一ヶ月、嫌がらせを受けたこと自体忘れていた。そんなことより結婚の覚悟についてずっと考えてしまっていたから。


「迷いはありません。覚悟も出来ています。私はこの家に嫁ぎ、精一杯役目を果たしたいと思います」


ヴェルナー様を亡くしたら悲しむだろう。立ち上がるのも辛いだろう。ヴェルナー様もルイーザ嬢を亡くして今にも崩れてしまいそうだったんだ。過去形じゃなく、今ももしかしたら悲しみを抑え込んでいる。だからきっと笑顔が戻らない。


ではヴェルナー様以外の人と結婚したらどうだろうと考えた。全く悲しまないことは無いだろうし、背負うものも一緒。でも、もう他の人なんて考えられない。他家の為に必死に立ち上がれる自信は無い。私は愛する人の為、ヘッセン侯爵家の為に誠心誠意努めたいのだ。


私はこの人の笑顔を取り戻したい。この人の子を生したい。

訪れるかもしれない悲しみに怯えているより、希望を持っていたい。


それら全てが結婚に対する私の覚悟だ。


「……分かった」


ヴェルナー様は一年前にここで結婚に頷いた時と同じ表情をしていた。


呆れた?諦めた?

本当は私に「止めたい」と言って欲しかった?


私はヴェルナー様に「後悔しませんか?」と聞き返さなかった。怖かったのだ。私が覚悟した結婚を白紙にされてしまう気がして。


私は狡く、臆病な女なんだ。





春、私とヴェルナー様の結婚式が行われた。


暖かい春の陽気と柔らかな日差しの中、多くの花びらが撒かれ、式を彩った。


晴れの日でも相変わらず新郎に笑顔は無い。けれど美しさは健在で、会場の誰よりも、華やかで煌びやかな素敵なドレスを纏った新婦の私よりも目立っていた。


愛の無い契約結婚。

愛を囁き合ったことの無い私達は、結婚式での誓いのキスが初めてのキスだった。

緊張し過ぎてよく覚えていない。


式の前まで、するのか、フリだけなのか、どうするのか、一人アワアワしていた。ヴェルナー様に確認すべきかどうかも分からなくて、もしかしたら向こうから確認してきてくれるんじゃないかと期待もしていたけれど、結局無かった。

式が始まって神父に「誓いのキスを」と言われて、まともにヴェルナー様の顔も見れずに固まっていたら、何か触れたと思った瞬間に終わっていた。何かって、勿論唇なんだろうけれど、流れるような動作でじっくり見ることも無かったのだから、訳が分からなくても仕方がない、と思う。


初めてのキスに喜び胸をときめかせる暇も無く式は進行し、大勢の参列者に祝われながら二人で歩いた。初めてのキスをこんなにも大勢の、しかも親きょうだい親族にまで見られるなんて、よくよく考えたら恥ずかしい出来事の様に感じる。


ヴェルナー様はきっとキス位初めてでは無いのだろう。義務で出来ちゃうんだろう。あんな風にさらっと……。


でも私は初めてだったんだぞと、ちょっと今日夫になったヴェルナー様に小言を言いたくなった。




その夜は勿論ちゃんと初夜がある訳で。


対外的にはヘッセン侯爵が望んだ結婚で恋愛結婚では無い。だけど契約結婚だと外部に知られる訳にはいかない。私を守る為にヘッセン侯爵が図ってくれたのだ。それにいくら恋愛結婚では無いと言っても、夫婦仲が良くないと思われるのも隙を与えることになってしまう。

だからこの結婚が契約結婚であると知っている人は少ない。当人以外はヘッセン侯爵と私の両親と兄、そして従姉妹のグレーテとヘッセン侯爵家の執事のみ。どこから情報が漏れてしまうか分からないから、邸の他の使用人達へは話していない。


なのでちゃんと初夜を行わなければ私に付いている侍女にはきっとおかしいと勘づかれてしまう。そこから噂が立ち、邸の外にまで漏れてしまっては一大事。


「…………」


そう自分に言い聞かせても、緊張するものはするのだ。結婚式の誓いのキスも緊張したけれど、こっちの方が緊張する。


どうせ受け身だ。性交とはどんなものぞやと教えられ、後は殿方にお任せしなさいと言われた。生娘らしく恥じらいながら求められるがままに、初めてなのだからけっして娼婦の様にはなるなと。

娼婦の様って、どんなだ。


ぐるぐる考えていたらヴェルナー様が寝室にやって来て「大丈夫か?」って。もう心臓はバクバクで破裂しそうな勢いで、きっとそれはヴェルナー様にも伝わっていたことだろう。


「き、緊張してますけど、覚悟は、出来てます」


緊張しているのは覚悟が出来ていないからでは無い。初めてのことに緊張するのは仕方がない。しかも未知の体験なのだ。恥ずかしさもある。


それでも契約結婚の目的の一つである子を成すには、これをしなければ叶わないのだ。


ヴェルナー様は私をベッドに横たわせると、私の横に両手をついて覆い被さるように上から私を見る。


「ごめんな」


そう言って私の夜着を脱がしていき、体にキスを落としていく。私はいっぱいいっぱいの状態でもそのまま行為は進んでいき、私達は無事に夫婦として結ばれた。


でもその行為の中で唇へのキスは一度も無かった。



◇◇◇



結婚をして一ヶ月が経った。季節は春真っ盛り。町には色とりどりの花が咲き、陽気な気候に合わせて音楽家が即興の音楽を奏でれば、多くの町民がステップを踏んで踊り出す。祭りでも無いのに王都の中央広場は今日も賑わっていた。

マーケットには様々な野菜や果物が並び、買い求める客と店員の軽快な会話が耳に届く。


「で、どうだった?」


穏やかな昼間の平和な風景に、これを守ってくれているのは夫であるヴェルナー様や軍人の方達なんだと、中央広場に面したカフェのオープンテラスで誇らしげに且つ感謝しながら眺めていたら、グレーテにずいっと顔を覗かれて尋ねられた。


「どう……とは?」


「もうっ、何しらばっくれてんのよ!」


もともと言いたいことは言うタイプのグレーテだけれど、町に出ると貴族の娘から町娘の様にちょっと自由な雰囲気へと変わるのだ。特に言葉遣い。


結婚したから娘では無く夫人だけど。


「ちゃんと初夜は乗り越えられたの?」


こんな他にも客が居るカフェで堂々とそんな話を持ち出してくるので、恥ずかしくなって顔が火照るのが分かった。


「……うん」


緊張した私を気遣う様にヴェルナー様は優しく接してくれたし、初めては痛いと聞いていた通りに痛みはあったけれど、それよりもずっと想いを寄せていた人に純潔を捧げられ、さらに抱いて貰えることが嬉しくて、痛みなんて大したこと無く我慢することが出来た。


「良かったわね。それなら子どもも出来そうかしらね」


グレーテの言葉にびくっとした。


「どうしたの?何かあった?」


私の反応を敏感に察し、怪訝そうな顔で聞いてくる。


さすがに大っぴらに言えないと思ってグレーテに顔を近づけて手を添え小声で伝えることにした。


─初夜での一度しか、してない……


「……え?」


あんぐりと口をはしたなく開けて、信じられないといった表情で私を見つめるグレーテ。


「……何で?」


「忙しくて帰りが遅かったり、それこそ帰れなくて軍舎に泊まったり。あと、月の物がきたり……」


─忙しいって、結婚休暇期間は?休みだったでしょ?


─そうだったんだけど、初夜の負担を考えてか『無理しなくていい』って言われちゃって。休暇後半は軍から呼び出しがあって休暇返上だったの。


「はあああ!?」


─声抑えてっ!


─あり得ない!新婚でしょ!?普通もっとがっつくもんでしょ!?


小声なのにこの迫力。そして貴族のご婦人らしからぬ言葉遣い。がっつくって……きっとグレーテは旦那様ががっついてきたのだろうな……。


─そもそも同じベッドで寝たのは結婚当初の三日間だけなの。


─何で!?一ヶ月間で!?


─私……初夜で何かしちゃったのかな?


─でもちゃんと出来たんでしょ?最後までヤったんでしょ?


ヤったって……。この言葉遣い、荒々しくて男っぽいな。旦那様のが移ったんだろうか……。


─うん、多分。……やっぱり、愛が無いから私のこと抱けないのかな。


「…………」


私が悲しそうな顔をしたからか、グレーテも言葉に詰まってしまった。


性欲さえ高まれば抱いて貰えると思っていた。でもそれは甘かったのかもしれない。


結婚式で交わしたキス以外、一度もしていない私達。初夜の最中だって一度も無かった。私とはキスをしたくないということだろう。


初夜を無事に乗り越えられたのはヴェルナー様が頑張ってくれたのだ。使用人に勘づかれない為に。

義務では何度も何度も抱けないのだろう。


仕事で遅く帰ってきた日は私に気を遣って、私が寝ているベッドを訪れること無く自室のベッドで寝ている。それだけ聞くと優しい夫かもしれない。

でも、実際は私と同じベッドで眠りたくなくてわざと遅く帰ってきているのでは無いかと疑ってしまう。


─でも……三年で子どもが出来なければ、離縁なんでしょ?


─……うん。


早速私との結婚を後悔している?

私との子どもを望んでいない?

子どもさえ出来なければ契約通り三年後には離縁だ。

ヴェルナー様はそれを望んでいるのだろうか?


一人で夜を過ごしていると、眠れないベッドの上でそんなマイナスなことばかり考えてしまう。


─じゃあ誘惑するしかないわ!


「は?」


思いもよらない単語に思わず小声で話すのを忘れてしまった。


─色気で落とすのよ!大丈夫、デリアはそこそこ胸あるし出来るわよ!


何が大丈夫なんだ?そして私の胸はそこそこなの?


─ちょ……娼婦の様にはなるなって教えられたんだけど!?


─それは初夜だけよ!夫婦生活には時々スパイスが必要なんだから!


まだ結婚して一年未満の夫婦の発言とは思えない。

ついでに言えば私達はまだ結婚して一ヶ月の夫婦なのにもうスパイスが必要なのでしょうか。

それと、スパイスって、何……?


その後町のランジェリーの店に無理矢理連れていかれ、かなり恥ずかしいものを結婚祝いだとか言って買ってくれた。町民達はこんなのを身につけて殿方を誘惑しているのかと驚きつつ、でも私は侍女に見られるのも恥ずかしくて、邸に戻るなり鍵の掛かる引き出しに押し込んだのだった。



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