12.不安に駆られてもお産
気がつくのが遅かった為に短い妊娠期間があっという間に過ぎ、秋になった。
普通よりお腹の出ない私は、反対に内側で大きくなり内臓を圧迫していた。そのせいで妊娠後期になって体調不良に悩まされていた。
食事は少ししか取れず、一日に何度も軽食を取った。正直それすら食べるのが辛くはあったが、お腹の子の為に栄養は摂らねばと吐かない程度に食べた。
トイレの回数も多かった。膀胱を圧迫するからか溜められず直ぐに行きたくなるのだ。お陰であまり外出が出来なくなってしまった。何とも不便だ。
寝ていても常にお腹を圧迫され苦しくて寝られない。一番楽なのはソファに座って寝ることだった。だから夜はベッドでなかなか寝られないので、昼間にソファでしょっちゅう昼寝をしていた。
そんなことで常にぐったりとしている状態の私の代わりに、ヴェルナー様が社交を頑張ってくれた。
軍関係の催しにはヴェルナー様が出席してくれたし、断れない夜会等にはヴェルナー様がお一人で参加してくれた。
「相当辛そうね」
心配そうに声を掛けてくれるグレーテ。
「そうね……妊娠って大変なのね」
全然症状の無かったあの頃が懐かしく思うくらい、最近は体調不良で疲弊していた。
「まあ、デリアのは特殊な感じだけれどね」
「やっぱり?」
「確かに妊娠後期は苦しかったりトイレが近かったりしたけれど、デリア程じゃなかったわ」
グレーテは春に無事に出産を終えた先輩母だ。とっても可愛らしい女の子だった。ご主人も大佐もその可愛さにデレデレなんだとか。
「まあ、あと少しだし、頑張る」
「そうね。でも出産も育児も大変だから、無理はしないで」
今日グレーテはその娘を母に預けて気分転換に私を訪ねて来てくれたのだ。
「ありがとう、先輩」
「どういたしまして」
こうして相談出来たり、話を聞いて貰える存在が居ることに有り難みを感じる。それも経験者なので理解もして貰える。
勿論私は恵まれていて、ヴェルナー様にも侯爵にも使用人達にも至れり尽くせり状態ではあるのだけれど、心の内の不安はどうしても吐露できないのだ。ヴェルナー様や侯爵は男性というのもある。話は聞いてくれるが、共感は得られないのだ。
「ねえ、そう言えば"社交界の妖精"の話、聞いた?」
「"社交界の妖精"?」
初耳だ。何のことだかさっぱりで、想像すらつかない。
私は妊娠後期に入り社交場に出なくなったのでそういう情報に疎くなっていた。さすがにヴェルナー様はご婦人方の噂話まで仕入れてきてはくれないので。
「今年デビューしたご令嬢の二つ名よ」
「デビューしたばかりでもう二つ名がついているの?凄い注目度ね。妖精って位だから可愛らしい方なの?」
「それはもう凄く!私もこの間夜会で見掛けたんだけど、人形みたいだったわ。髪はフワフワのブロンドで顔が小さくて目は大きくて。微笑まれた殿方は夢中になって追い掛けていたわよ」
「どこの家のご令嬢なの?」
「シュッセル伯爵家よ。ルイーザ嬢の妹なんですって。姉は“女神”で妹は“妖精”だなんて、凄い姉妹よね」
ルイーザ嬢の、妹……?
そう言えば妹がいるようなことをどこかで耳にしていたような……。どこだったか……。
「ヴェルナー様からは聞いてない?昔の縁でなのか、夜会で親しげに話していたけれど」
"親しげに"……?
「聞いてない、かな」
何だか落ち着かない感覚だ。胸がざわざわとする。いつもの胸が苦しいような、胃がムカムカする感じとはどこか違う。
「ああっ!ごめんね!不安にさせるつもりで言ったんじゃないの!親しげではあったけど、ヴェルナー様は他の殿方みたいに追い掛けたりはしてなかったから!」
私の様子が一変したのを感じ取って、グレーテがフォローしてくれる。けれど、どうしてだか胸のざわざわは落ち着きそうにない。
「余計なこと言ってごめん!今はお産も近いし、気にせず出産に集中して!」
グレーテに凄く心配を掛けてしまっている。申し訳無くて精一杯の作り笑顔で「ありがとう」と言った。
グレーテには「気にせず」なんて言われたけれど、意識して気にしないなんて器用なことは出来ない私は、気にしてしまっていた。
どこでルイーザ嬢に妹がいると聞いたのか、記憶を探った。それで思い出した。ルイーザ嬢の葬儀の日、浜辺でヴェルナー様が言っていた。ルイーザ嬢が他の令嬢から嫌がらせを受けていたこと、それがヴェルナー様が原因であることをルイーザ嬢の妹から聞いたと。
でもそれ以降その妹君の話は聞いたことがない。
何故ヴェルナー様は私に言わなかったのだろうか?
言う必要が無いと判断したから?
それとも言いたく無かった?
意図的に言わなかった?
これではまるで浮気を疑っている妻だ。
妻の妊娠中は夫が浮気や不倫をしやすいと言う。
でも、ヴェルナー様は愛する人以外の人を抱いて罪悪感を持つ様な人だ。そんな人が浮気や不倫をするとは思えない。
しかし相手はあのルイーザ嬢の妹君だ。愛する人に姿を重ねていてもおかしくはない。手に入れられなくなった愛する人が、今度は手に入れられるかもしれないと思ったら……?
ヴェルナー様に新しい愛する人が現れたら私はどうなるのだろう。離縁して欲しいと言われるだろうか。そうしたらお腹の子は?子どもだけ侯爵家で引き取り私だけ出されるのだろうか?それとも子どもも一緒に追い出されてしまうのだろうか?
その日から目に見えない不安に駆られ、食欲は無くなり寝ることも出来なくなった。
それから一週間程が経ったある日の夜、眠れずに窓から月を眺めていた。
食欲が無くなり寝られなくなったせいで、顔は酷くなっていた。目の下にクマが出来てしまい、顔色も悪かった。侍女がせっせと手入れをしてくれる髪も、最近は抜け毛に悩まされていた。
月を眺めているのにふと窓に映る自身の姿に愕然とする。
(こんな酷い姿……)
お腹が出ているのは妊娠中なのだから仕方がないにしても、それ以外は何の言い訳も出来ない程に荒れている。
(一方は妖精で……比べるまでもない)
誰からも美しいと言われ、"社交界の妖精"と二つ名がつくご令嬢。あの美しく女神の様なルイーザ嬢の妹君だ。それは美しいことだろう。
(浮気されても仕方がないわ)
妹君がヴェルナー様を慕っているかは分からないけれど、ヴェルナー様が夢中になっている可能性はある。
もともと私が傷ついたヴェルナー様に無理に結婚を迫ったのだ。愛のある結婚では無かった。浮気も何も、本命は一目瞭然で私はお邪魔虫でしかないだろう。
その時、扉をノックされ、返事をする前にヴェルナー様が入ってきた。
「まだ起きていたのか?」
窓辺にいる私を見つけて驚いて言う。寝ていると思ったのだろうか。
「そんな窓辺にいたら体を冷やす」
何も答えられなくて、ただ以前にも似た会話をしたな、と思った。
私に近寄ると私を立たせてベッドに連れていく。手を取り肩を抱いて。
人一人分の距離を置いて立ち、手だけを引いてくれていた以前と比べると、かなり距離は縮まった様に思うし、少なからず愛情を持ってくれているのも感じる。
けれどこれは子どもがいるからなのでは?と、どうしても思ってしまう。
だって、こんな酷い姿の女を好いて貰えるとは思えないのだ。
私をベッドに寝かして寝具を掛けてくれる。
「今日も食べられなかったのか?」
私の頭を優しく撫でながら聞いてくる。使用人から聞いたのだろう。
「……すみません」
「謝らなくていい。責めている訳ではない」
優しさが、辛い。こんなに優しくしてくれているのに浮気をしているのだとしたら、私は何も信じられなくなるだろう。
この優しい人を疑いたくないのに、自分に自信が無い為に信じきれないのだ。
「何かあったのか?」
「……苦しいだけです」
「前までは苦しくても少しは食べられていただろう?」
「……不安に、なって。……お産が」
ルイーザ嬢の妹君の存在が、とは言えなかった。
「私では何も力になれないのだろうか」
「…………」
言える筈無い。
妹君とは何でも無いと、君だけを愛していると言って貰えたらどんなに安心するだろう。
ここ半年程穏やかに過ごし幸せを感じていたから余計に甘えてしまっている。そんなこと、言って貰える訳がないのに。
涙が出てきそうになって、慌てて反対を向いた。そして寝具を頭まで被った。
「……すみません。ちょっと……」
続きは言えなかった。言い訳が何も思いつかなかった。
涙を見られただろうか。涙を見られたくなくて隠れてしまったけれど、急にこんな拒絶するような態度を取ってしまい呆れられたかもしれない。都合の良い嘘なんて簡単に思いつかない。
どうしたら良いのか分からなくなり寝具の中で縮こまっていたら、寝具の上からポンポンと優しく叩かれた。
「妊娠中は気持ちが不安定になるのだろう?不安になって当然だ」
特に怒ったり呆れたりといった雰囲気の声では無かった。寧ろ優しい。そんな優しさに胸が締めつけられる。
私は信じきれずに勝手に不安になっているのに、この方はとにかく優しいのだ。
「私が力になれることは殆ど無いかもしれないが……暖房にならなれる、かな」
…………暖房?
疑問に思っていたら寝具を捲ってヴェルナー様が目の前に入ってきた。
そして優しく包み込むように抱き締められる。
「横向きなら苦しくないか?」
「……はい」
「嫌だったら嫌って、言っていいからな?」
「……嫌じゃ、ない、です」
嫌な訳がない。ずっと共寝していなかったのだ。妊娠前は勿論、妊娠発覚後も別々に寝ていた。
「あったかい……」
この温もりは一年振りだ。あまりの温かさに目がとろりとしてくる。瞼の重さに負けて目を閉じると、涙が目尻を伝ってヴェルナー様の服を濡らしたのが分かった。
意識を手放す直前、額にキスを落とされた様な感覚がした。そしてぼんやりと「おやすみ」と聞こえた気がした。
それから一週間後のある日、突然の痛みに襲われ、私は膝を折り床にしゃがみ込んでしまった。
どうやらこの痛みが陣痛らしい。
気持ちの良い秋の日の昼だった。
使用人達は事前打ち合わせをしていた様で、私の異変に気がつくとテキパキと動き出した。
繰り返しやってくる痛みと痛みの間に私をお産の準備がされている部屋へ移動させ、少しでも楽な姿勢を探りながらあっちにもそっちにもクッションを挟んでくれた。
そして痛みの間隔を計り、産婆や医者へ連絡をしてくれた。
仕事で出掛けているヴェルナー様と侯爵に伝えるべく軍本部へと連絡を送り、さらにリートベルク伯爵家にも使いを送ってくれたらしい。
私はただ痛みに堪え忍んでいるだけで何も指示を出していないのに、使用人達は素晴らしい連携を見せてくれた。
続々と邸に人が集まり、お産が始まった。でも余裕の無くなった私は誰がいつ来て、誰が何をしていたかなんてさっぱり分からない。長い時間を同じ痛みの繰り返しに耐えながら、ただ必死に産むことだけを考えていた。
約半日掛かって子どもが産まれてきた。窓の外は真っ暗で夜中だったらしい。産まれたばかりの子どもの泣き声を聞き、さらに姿を見せて貰って、「元気な女の子ですよ」と聞いて安心したのか眠気に襲われ、口に当てられた飲み物を飲み込んで直ぐに寝てしまった。疲れ果ててしまったらしい。だから結局誰が一番に抱っこしたのか分からなかった。後日聞いた話では、母が「子の父親が一番に決まっているでしょう!」と喝を入れたので、ヴェルナー様が一番に抱っこしたらしい。
産後の回復は比較的良好だった。侯爵夫人は産後に体調を崩されたので、同じようにならないようにと侯爵がかなり気を遣ってくれ、私に栄養価の高いものをどんどん取らせようとした。お腹から子どもが出ていって内臓の圧迫が無くなり苦しく無くなるだろうと思っていたが、出産して暫くは違和感が取れずにさほど食べられなかった。
けれど生まれた子が乳母の乳を勢いよく飲みとても旺盛だった為、それを見ていると不思議なことにお腹が空いてきて食べられるようになった。
なかなか泣き止まなかったり熱を出したりした時は大変ではあったが、私は子どもを見ていると元気が貰えた。
それは私だけでは無い様で、ヴェルナー様に良く似た銀髪の娘を抱くヴェルナー様は、とても優しげに微笑むようになった。この笑顔が見たかったんだ。ずっと失われていた笑顔だ。
そしてグランパトリオも当然のことながら溺愛してくれた。
実父は頻繁に侯爵邸を訪れ孫を抱きたがったし、何かしらプレゼントを持ってきていた。軍では強く厳しい中佐も、孫の前では目尻を下げて締まりの無い顔をしていた。そして侯爵と取り合いが始まるのだ。
前侯爵夫妻も誕生の一報を聞いて直ぐに王都にやって来た。
こんなにも皆から愛される子を産めてとても嬉しかった。
生まれた子の名前はクリスティーネに決まった。グランパトリオから沢山届いた候補名の中、驚くことに三人ともこの名前を候補の一つに挙げていたのだ。他の候補名は被っていなかったというのに、唯一被っていたということで、この名が運命なのだろうとヴェルナー様と話し合い決定した。グランパトリオの誰かの名を選ぶと後々争いに……いや、面倒なことになるかもしれないので、丸く収めることが出来る最良だとも思った。
子どもを産んでから幸せだった。
ヴェルナー様が笑ってくれるようになったのが一番嬉しかった。この為に契約結婚を提案したのだ。報われたような気分だった。
こんなにもクリスティーネを可愛がってくれているのだ。もう死のうなんて決して思わないことだろう。
それに、この子を侯爵家から追い出すことも無いだろうと思った。
出産前のあの不安、ヴェルナー様に新しい愛する人が出来たらどうなるか。少なくとも娘は手離さないだろう。私とは離縁して追い出される可能性はあるけれど、でも、クリスティーネだけでも手元に置いて大事にして貰えるなら、それでも良いなと最近思っていた。
前はあんなに不安になっていたのに、今はどこか吹っ切れていた。妊娠中で精神的に不安定だったせいかもしれない。もしくは出産を経験して母になり、強くなったのかもしれない。