11.結婚生活に訪れた変化
冬が過ぎ、春を穏やかに過ごした。
ヴェルナー様に「時間をくれないか」と言われた為、これまで通りの距離を保って生活をした。
寝室は別だけど、使用人の前では仲の良い夫婦でいたし、社交場でも同じように振る舞った。
実際共寝をしていないだけで夫婦仲は良いと思っている。お互いを尊重して労り合い、信頼し合ってもいる。日頃から私に感謝の言葉を掛けてくれるし、穏やかな表情を見せてくれるようになった。
あの冬の浜辺での交わりの翌日、二人揃って体調を崩した。体を冷やしてしまったからだろう。ヴェルナー様は咳や鼻水が出る位で済んだが、私はしっかり熱を出して寝込んでしまった。侯爵や使用人達にかなり心配を掛けてしまったが、二人して何をしていたかなんて言える筈も無く、謝るだけ謝って誤魔化した。
ヴェルナー様は見舞ってくれる時、責任を感じてか心配は凄いし謝罪の言葉を絶え間無く伝えてきて私が気が重くなってしまう為、全力で治した。三日目にはいつも通りの元気で健康な様子に戻った。寧ろヴェルナー様の方が咳が長引いていた。多分、精神的なものが影響していた気がする……。
以前は休日に何処かに出掛けてしまい帰りが遅いことが多かったけれど、最近は邸に居ることが増えた。穏やかに本を読んだり、庭で剣を振っていたりしていた。私はそれを少し離れたところから眺めた。銀髪が美しい旦那様は何をしていても絵になるのだ。
春の結婚記念日には花束とアクセサリーをプレゼントされた。「好きなものを買って」ではなく、ヴェルナー様が選んで購入して準備してくれた花束とアクセサリーなんだと思うと、嬉しくて泣いてしまいそうで、でも必死に涙は堪えた。
アクセサリーは着けて失くしてしまうのが怖くて着けられなかったし、花束は枯れてしまう前に綺麗なものを選んで押し花にして毎日眺めた。
今更付き合いたての恋人の様なことをして浮かれていることに自身で呆れてしまう気持ちもあるけれど、そんな時期が無かったのだから今浮かれていても良いのかな、とも思った。
何故抱いてくれないのかと、分からずに不安でいた少し前と比べると気持ちが楽だったし、楽しさすら感じていた。
だから私はとても大事なことになかなか気がつけずにいたのだ。
「デリア様、もしかして妊娠なさいましたか?」
「え!?」
突然考えてもいなかったことを侍女に言われて吃驚してしまった。
妊娠って……私、全然抱かれていませんよ?
「月のもの、ここ数ヶ月来ていませんよね?」
そう言われてみれば……前来たのはいつだったか。
いや、でも、ホント!侍女の貴女には言えないけれど、ここ暫く共寝していませんよ!?
勿論他の男性と浮気なんてものもしていませんし!それは断じて!!
ちょっと遅れているだけじゃないのかな?ちょっとにしては長い期間かもしれないけれど。
そもそも、だって、前抱かれたのは……
……ん?
「前回の月のものは……いつだったかしら……?」
「冬を最後に来ていないかと」
記憶が正しければ、あの浜辺での交わり……正直交尾と言った方がしっくりとくるが──あれが三ヶ月前。冬の終わり頃だ。
……あれ?
一致……してる?
「でも、私……元気よね?普通妊娠すると初期は悪阻が酷くて体調が悪いって……」
そうなのだ。グレーテもそう言っていた。安定期になるまで体調が悪かった様だったし。
「体質は人それぞれの様ですから、産むまで悪阻が続く人も居れば、悪阻が軽い人、全く悪阻が無い人も居るそうですよ」
もしかして私はその全く悪阻が無いというタイプなのかもしれないと……?
「いや……でも……早とちりだったら恥ずかしいから、もう一ヶ月様子を見てみる?」
「何を仰っているのですか!?もし万が一子を成していたら放置して良い訳ありません!侯爵家の大事な世継ぎなのですよ!?デリア様のお体にも何かあってはなりませんっ!」
侍女に初めて叱られている。しかも、かなりの迫力で。
「でも実感が……」
「駄目です!直ぐにでも医者を呼びます!」
侍女のこれまで見たことの無い剣幕に気圧されて、「はい……」と答えてしまった。
夜になりヴェルナー様が帰宅され、私の寝室に飛び込んできた。
「今日医者を呼んだって!?どこか体調が悪いのか!?」
侍女に暑いくらいに寝具をしっかりと被せられて体を温められ、冬じゃ無いんだからと突っ込みたいのに本人はもう部屋を出ていってしまい、この過保護っぷりをどうしたら良いのだろうかと考えていたところにヴェルナー様がやって来た。
慌てた様子だけれど言葉から詳しくは聞かされていないのだと分かり、取り敢えず体を起こして座った。
「起き上がって大丈夫なのか?」
何も病状を伝えた訳でもないのにこの心配様。いつかのデジャブの様で気まずさを感じてしまう。
「おかえりなさい、ヴェルナー様。私はとても元気です」
「そうなのか?使用人にはデリアから話を聞いて欲しいと言われたんだが……重篤な病が見つかったとかではないのか?」
どんな感じで伝えたんだろうか、使用人達よ……。
ヴェルナー様は近寄ってベッドの端に腰掛け、心配そうに顔を覗き込んできた。心配を掛けてしまい申し訳無くなる。
「重篤な病ではありませんが……驚くとは思います」
私、驚いたので。
「驚く様な病なのか!?」
病から離れてください……。
心配を掛け過ぎてしまうので、言わなきゃなと覚悟を決める。
「妊娠したようです」
…………
暫く間があった。
それは私の体感の問題なのか分からないが結構長かった。
「……え?」
ま、そうですよね。いきなりは飲み込めませんよね。
「なん……妊、娠……え……ええっ」
目が点って、こういう表情なんだ。口は半開き。ヴェルナー様のこんな顔初めて見た。格好良い人でも間抜け顔は間抜けなのだと知った。
「ちょっ……と、待って……いつ……?」
ですよね。私も前回を遡りましたから。
「心当たりは一つしかないですね」
「…………」
間抜け顔から今度は顔を青くした。この人、こんなに表情豊かだったかしら。
どうやら一瞬で理解したようだ。あの日だと……。
「結構前の出来事なのに、どうやら私は妊娠初期症状とやらがあまり出ない体質のようでして、全く気がつきませんでした」
「……そう、だな。結構、前……だよな……」
おそらくまだ理解が追いついていないのでしょう。
それに比べ私は昼間に充分時間があり、ある程度は事態を飲み込むことが出来た。そして開き直っている。女は強い生き物なのだろう。
「正直予想だにしていなかった妊娠ですが、これも運命と思って私は神に感謝しております。貴方に大切な存在を与えることが出来るのですから」
「神に……」
「あんな形で成されたことではありますが、私はとても嬉しいのです。貴方が困惑されるのは分かります。けれどけっしてご自身は責めないでください。たとえ貴方に望まれていなくとも、私はこの子を──」
言い途中だったけれど、体がふわりと包み込まれる。
「望まれていなくなんか無いさ。驚いてまだ実感も湧かないし自分の感情もめちゃくちゃではあるけれど……大切な命があるのだろう?私も神に感謝する」
抱き締められていることにも驚くけれど、「望まれていなくなんか無い」という言葉に安堵し、"大切な命"だと思ってくれたことに喜びを感じた。
「ありがとう、デリア」
謝罪の言葉では無く感謝の言葉が出てきたことに胸がいっぱいになり、涙が出てきてしまった。
私も開き直ったとはいえ、ヴェルナー様に受け入れて貰えなかったらと不安はあった。只でさえいきなりの妊娠だったのだ。予兆も無ければ自覚も全く無かったのだし。
ヴェルナー様に抱き締められながら優しく背を撫でられて、ヴェルナー様の肩を濡らしてしまった。
私が落ち着いてから抱き締める腕を解くと、横になるよう促され侍女と同じ様に寝具をしっかりと被せられた。そして優しく頭を撫でてくれた。
「いつ頃生まれる予定なんだ?」
「秋です」
「そうか。秋が楽しみだな」
楽しみだと言ってくれるのが嬉しかった。優しげな表情を向けてくれるのも嬉しかった。
そして私の額にキスを落とした。
(────!?)
キス!?
「ゆっくり休んで。おやすみ」
「おやすみ、なさい……」
よく返事が出来たと思う。吃驚して体が固まり、次第に理解が進むと心臓が激しく鳴り始めた。今度は私の目が点になっていると思う。
そんな私に気がつくことなくヴェルナー様は照明を落とすと寝室を出て行った。
(キス……された……おでこに……)
あの人は誰だろうかと思ってしまう。
ヴェルナー様と体を重ねるとき、唇は勿論、額も頬にもキスをされたことは無い。一度もだ。結婚式で誓いのキスをしたっきり、何も無かった。
つまり、初めてだった。
きっと愛する人へ、というよりも、家族にする様なものなのだろう。父や母には幼い頃よく頬や額にキスして貰っていたし。そういう類いなのだろうと思う。感情の高ぶりにより衝動的にしてしまったのかもしれない。
それでも胸の高鳴りは収まらなかった。家族愛でも愛情を向けてくれたことが嬉しくて堪らない。もしかしたら私に向けてでは無く、お腹の子に向けての可能性もあるけれど、それでも子を喜んで受け入れてくれているのだと思うと嬉しかった。
(私は……この子を産んで良いんだ……)
心臓が煩いくらいに動いている。
こんなにもドクドクと音を激しく鳴らしてお腹の子に何も影響は無いのだろうか?大丈夫なのだろうか?
妊娠に関する知識が全然無いことを思い知る。
(明日からちゃんと知識をつけよう)
そう決意してもう寝ようと思うのに、その日はいろいろありすぎて考え事ばかりしてしまい、なかなか寝つけなかった。
妊娠を侯爵に報告すると、大喜びしてくれた。「デリアを養女に迎えなくて済んだ」「ヴェルナーを追い出さなくて済んだ」と、大袈裟に安堵しながらもずっと嬉しそうな笑顔だった。
そして今年もヘッセン侯爵領へ訪れる予定だったのを取り止めにしてしまった。私はとても元気だったので手伝いに行きたかったのに、侯爵にもヴェルナー様にも使用人達にまで反対されてしまったのだ。
私には全く自覚症状が無い為、普通に過ごし過ぎて心配されているのだ。
何しろ妊娠発覚前まで普通に馬に乗っていたし、夜会に出る日はコルセットをギュウギュウに締めてヒールの靴を履き、ダンスも誘われれば全て踊っていた。それに仕事に夢中になって食事を疎かにしてしまう日もあったのだ。
それを妊娠発覚してからも同じ様にして過ごそうとしているのだから、周りは必死になり止めてきた。最早邸の全員が過保護になっていた。
しかし妊娠を知ったヘッセン侯爵領の前侯爵には反対に「自然豊かな侯爵領でゆったりと過ごした方が母子共に良いのでは」と勧められた。
が、それに反対したのが侯爵だ。「これからお腹が大きくなっていくのに、侯爵領に行くのはまだ良いが王都に戻ってくる時は体への負担が大きくなるだろう」と。確かに暑い夏を侯爵領でゆっくり過ごすのも良い。けれど、侯爵領が寒くなり王都に戻る頃には臨月だ。その状態での移動はさすがの私も無茶な気がする。
そうしたら前侯爵から「侯爵領で出産すれば良い」と返ってきた。
その文を見た侯爵が、「父上が一番に曾孫を抱っこしたいだけだろうが!」と声を荒げていた。
その様子を一緒に見ていたヴェルナー様が、「そういう父上が一番に孫を抱っこしたいだけだろうな」と突っ込んでいた。
……容姿端麗三世代は、なかなか面白い面を持っているらしい。
しかしこれで終わらない孫騒動。
今度は報告を受けた私の生家であるリートベルク伯爵家の当主である実父が、「女性が側に居た方が安心だろうから実母のいる実家で出産したらどうか?」との文が届いたのだ。
「実母のいる実家」という言葉に侯爵も怯んだようだが、「伯爵も一番に初孫を抱っこしたいだけだろう!」と悔しそうに言っていた。
軍部で二人が顔を合わせればどっちの家で出産するかの言い合いをしているらしい。昔からとても仲が良かった印象だったのに、孫で喧嘩しないで欲しい。
そんな孫騒動を収めたのは女性陣である。
前侯爵夫人から「侯爵領への移動は体に負担が掛かります。王都の邸で過ごし、出産することを勧めます。夫は私が諫めておきました。生まれたら頃合いを見て曾孫に会いに行きます」と。
さらに実母から「侯爵家の大事な世継ぎです。侯爵家で出産しなさい。幸い伯爵邸は近いので不安な時は駆けつけます。手伝えることがあれば遠慮無く連絡してください。貴女の父上は私が諫めておきます」と。
二人とも諫められたらしい。
「結局我が家での出産に落ち着いたんだ」
「はい」
何処で産むか騒動が一ヶ月程掛かってやっと落ち着き、その間に私のお腹が少し膨らんできた。
夏は少しずつ始まっていたけれど、風の通る部屋でヴェルナー様とのんびり過ごすのが最近の楽しみだった。
「グランパトリオの戦いはなかなかだったな」
まあ、それだけ楽しみにしてくれているということで嬉しいは嬉しいけれど。
「私としては父親になるヴェルナー様に一番に抱っこして貰いたかったので良かったです」
「そうだな。おそらく出産時は伯爵も駆けつけるだろうから、父にも伯爵にも負けないように一番の座を勝ち取ろう」
くすりと笑ってしまう。
こんな他愛も無い会話が出来ることが嬉しい。
お腹の子がくれたプレゼントだろうか。
「出産場所は決着がつきましたが、今度は命名騒動が起きそうです」
「え、もう?」
「グランパトリオの戦い再びです」
「この決着は生まれるまでつかないんじゃないか?」
「お祖母様からは無視して良いってお手紙で言われました。嬉しくて仕方がないのだろうから好きにやらせておきなさいって。貴女にはその権限があるとも言われました」
「確かに女性が仕切ってくれた方が良いだろう」
「誰が考えたかはさておき、きっと沢山出されるであろう候補の中から一番良いのを一緒に選びましょう」
「ああ、それが良いな」
グランパトリオを多少軽んじながら楽しく会話した。
夏が来て体が重いなぁと感じ始めた。
それでも私のお腹は標準よりずっと小さいらしく、食事が足りてないんじゃないかと、とても心配をされた。食べろ食べろと言われるけれど、私は結構食べているつもりだったし、食べ過ぎたら勿論苦しくて辛くなるだけだったので、妊婦に推奨される量の食事で留めていた。
お医者様からは子の着き場所が奥なのだろうと言われた。お腹はやたらと出っ張る人も居るし、私みたいにあまり出ない人も居るのだとか。
悪阻といい、着き方といい、とことん標準とは違う体質らしい。
その体質は母子で似るとも言われているらしく、実家に顔を出しに行った時に母に聞いてみたが、母は特にそんなことは無かったらしい。普通に悪阻はあったし、普通にお腹は大きかったと。それでも兄アヒムを妊娠した時と私を妊娠した時では多少の違いはあったらしい。私を妊娠した時の方がお腹は大きかったし、悪阻は軽かったそうだ。同じ人間でも違うのだから、母子で違って当然と言われた。
母とのそんなひとときを終え、実父が帰宅する前に侯爵邸に戻った。本当に申し訳無いけれど実父に会うといろいろと面倒なのだ。こんなに娘を溺愛する父だったかと首を捻りたくなる位、「体はどうだ?」「無理はしてないか?」「夕食を一緒に取ろう」「ゆっくりしていけ」「泊まっていけ」「俺が送っていく」……そんな感じで止まらないのだ。
そんな伯爵家にはさらに喜ばしい出来事が。兄が婚約したのだ。
兄の様に粗野な軍人の元へ嫁いでくれるなんて、なんて懐の深い人なのだろうと思う。私より一歳年上の子爵令嬢だ。何でも兄に一目惚れして猛アタックをしたのだとか……。あの兄のどこに一目惚れしたのかさっぱり分からないが……。
母は私の出産と兄の結婚を控え、嬉しい慌ただしさを喜んでいた。