序章5話
この世界には魔法があり、リーナは魔法使いであった。その力は怪我人であれば治癒をし、健常な相手だと腐らせてしまう表裏一体の力だという。
「魔法があるってことは分かったんですけど、なんでその力を俺が使えるんですか? 俺、昨日までは普通の人間でしたよ?」
「分からぬ。少なくとも俺の部下が倒れているお前を見つけて運んできたときは、そのようなことは無かった。もし、お前がリーナと同じ力を持つ魔法使いなら、運んできた兵士は今頃両手が腐っているはずだ」
アルバートはさらっと恐ろしいことを言う。どうやら香月は最初に倒れていた時は物を腐らせる力を持っていなかったようだ。となると、この力はアルバート達の前で目覚めてから発現したという事になる。
「思い当たる節があるとしたら、先ほどリーナがお前を治療した時だろう」
「そういえば、怪我を治してくれたって言ってましたもんね……」
香月は自分の手足を見つめる。最初に目覚めた時は動けないほどの激痛だったにもかかわらず、今はぴんぴんしている。これもリーナの魔法の力のお陰のようだ。
「だが、こんなことは初めてだ。リーナは過去に何人もの怪我人を治療しているが、魔法の力が移ったなんて話は聞いたことがない」
アルバートの話にリーナも頷く。いったい何がどうなっているのか分からないが、この現象は香月特有の物らしい。
「悪魔憑きだから……ですかね?」
「それについては調べてみないと分からんな……。ついでだ、少し実験するか」
アルバートはそう言うと、おもむろに腰に帯びていた剣を右手で抜いた。
「実験って……いったい何するつもりですか!」
香月は、アルバートが突然剣を抜きだしたのを見て後ずさりをした。実験と言って剣を抜くなんて、碌でもない事をするに違いないと思ったからだ。
だが、アルバートは抜いた剣を香月に向けることなく、そのまま自分の左手の甲に当てて切りつけた。
「ちょ、何やってるんですか!!」
アルバートの突然の自傷行為に香月は驚きの声を上げる。だが、アルバートはそれを無視して、香月に対し切りつけた左手を差し出してきた。傷は手の甲を横断するようにざっくりと切られている。
「触れてみろ」
「もしかして、治癒の力を俺が使えるのか調べるために、態々自分の手を切ったんですか?」
「そうだが? ……いいから早く触れてみろ」
アルバートは香月に移った魔法の力で怪我が治せるのか調べるために自分の手を切ったようだ。騎士という職務柄、怪我をすることが多いので、この程度の切り傷には慣れているのだろうが、それでも躊躇なく自分の手を切っている姿を見て香月は引いた。
「無茶苦茶な……」
血がじわじわと出ているのを放置するわけにもいかないので、香月はそう言いながらも差し出されたアルバートの左手にそっと触れた。そしてそのまま傷が治るまで待ち続ける。しかし、
「……あの、治癒の力って治すのに時間がかかったりするものなんですか?」
香月が触れてしばらく待っても、アルバートの傷が治る気配がなかった。
「そんなことは無い。リーナが触れればこの程度の傷は一瞬で治る」
「え? じゃあ俺には治癒の力は移ってないってことですか?」
一向に治りそうにない傷を見て香月は、
(まさか、腐らせる力だけ移されたのだろうか)
と、訝しんだ。
「いや、そもそも物を腐らせる力は治癒魔法が暴走した結果だ。物を腐らせることが出来るなら、傷を癒すことも出来なければおかしい」
アルバートは一向に傷が治らない自分の手を見て不可解な顔をする。どうやらこの結果はアルバートの望んでいたものではないようだ。アルバートは少し考えるような仕草を見せ、やがて何かを思いついたのか口を開く。
「さっき少しだけ腐らせた果物をもう一度持ってみろ」
アルバートは、香月が触れて黒く変色させた二個目の果物を香月に渡す。変色して異臭を放っているが、香月が最初に食べようとしたり、リーナが触れたものとは違い、完全には腐りきっておらずまだ形を保っているものだった。
「え、なんですか急に?」
「いいからやれ」
「はあ……」
香月はアルバートから果物を受け取ると、恐る恐る片手で持った。
(今更追加で果物を腐らせて何が分かるんだ?)
香月はそう思って最初の実と同じように、果物が自分の手の中で腐り果てて崩れ落ちるのを待ち続けた。
「……ん? あれ? 腐らない?」
しかし、果物は香月の手に触れていながら、手渡された時以上に腐敗が進行することなく、形を保ったままであった。
「既にお前の手からは治癒の力が失われているようだな」
「え?」
「つまり、リーナの治癒の力はお前に移ったが、ずっと使えるというわけではないという事だ」
「なるほど……」
香月はアルバートの説明を聞いて安堵と落胆の混じった気持ちになる。触れただけで物を腐らせる力なんて不便でしょうがないが、自分に特別な力が宿っている事に対する高揚もあったのだ。
「リーナ。手袋をせずにカヅキに触れてみろ」
「了解」
香月が複雑な心境に浸っていると、アルバートがとんでもないことをリーナに命令していた。リーナもそれに二つ返事で了承する。
「え?」
香月はアルバートの言葉を聞いて耳を疑った。リーナの手は生き物を腐敗させる力がある。さきほど目の前で見せてもらったばかりだ。それなのに、その手で香月に触れろと命じるのは意味が分からない。香月は自分が殺されるのではないかと思って、その場から逃げ出そうとした。
「逃げようとするな。リーナ、さっさとこいつに触れろ」
しかし、6歳児になった香月の足では、騎士であるアルバートから逃げることは出来ず、着ていた服の首根っこを、怪我をしていない右手で掴まれて宙に吊るされてしまう。
「ちょ、リーナの手って怪我してない人に触れたら腐らせちゃうんでしょ? そんなのに触られたら、俺死んじゃうじゃないですか!」
「……」
香月の言い分はもっともである。しかし、リーナはそれを無表情で受け流し、アルバートに吊るされ暴れている香月の右手を掴んだ。
「やめてぇ!」
香月はリーナに掴まれて、自分の手が腐り落ちる未来を想像し、よりいっそう暴れようとするが、年上二人に拘束されてはなすすべもなく、そのままリーナに腕を掴まれ続けた。そしてリーナに腕を掴まれてから数秒が経過し、
「……あれ?」
香月はリーナに掴まれているはずの右手に、何も異常がないことに気が付く。先ほどの果物の腐敗速度を考えれば、数秒もすれば自分の手にも何らかの異常が発生しているものだと思っていた。しかし、触れられてから十秒以上が経過しても、香月の右手には一切の変化がなかった。
「リーナ、もういいぞ」
アルバートはそう言って掴んでいた香月の服から手を放し、香月を地面に降ろす。リーナもそれに合わせて香月から手を離した。
香月は地面に足を付けると恨めがましそうにアルバートを睨んだ。
「実験するのはいいんですが、せめてどういう結果になると思っての事なのか事前に説明してください! 殺されるのかと思ったじゃないですか!」
「すまんな。以後は気を付けよう」
香月が抗議の声を上げると、アルバートは素直に謝った。どうやら説明をせずに物事を進めすぎた自覚はあったようだ。
「それじゃあ次が最後だ。もう一度俺の左手に触れてみろ。おそらく傷が治る筈だ」
「まだ実験するんですね……」
どうやらアルバートの中では、香月の持つ力についてある程度の理解ができたらしい、最後だと言って香月に先ほど切りつけた左腕を差し出す。
「これで何か変わったりするんですか?」
香月は、訝しみながらもアルバートの手を握る。香月が触れて少し待つと、アルバートの傷は少しずつ塞がっていった。特に光ったり音が鳴ったりはしない。自然治癒の早送り映像のような光景でゆっくりと傷が塞がり、出て来る血の量も減っていった。
「うわ……」
「ほう、やはり治癒の力もあるようだな。しかし……」
香月が驚嘆の声を上げるその横で、アルバートはその様子を見てなんだか納得のいかない顔をする。
「何か問題でもあるんですか?」
香月にとって、目に見える早さで傷が塞がっていくなんていうのは、映画や漫画の世界でしかありえない事である。そんなすごい光景を見ているのに不満があるようなアルバートの発言が気になった。
「リーナの治癒と比べるとはるかに効果が弱い。それにだんだんと治る速度も遅くなっている」
アルバートの傷は最初のうちは目に見えて塞がっていったが、こうして話をしている間に傷の治りがだんだんと遅くなっていた。それでも、手の甲を横断していた傷の殆どが塞がり、血が出ているのはわずかといった所だ。
「確かに、これ以上は治らないみたいですね」
香月はそのままアルバートの手を握り続けているが、数センチ程度の傷を残して、これ以上は治らなかった。
「リーナの魔法が移るのは確かだが、リーナの様に無尽蔵に治すことは出来ないという訳か」
「リーナさんなら、最後まで治せるんですか?」
「ああ。リーナ、やってみろ」
「了解」
香月がアルバートの手を放して、そのままリーナが引き継ぐ形で傷を軽く撫でる。すると、少しだけ残っていた傷は一瞬で塞がってしまった。
「すごい……」
果物を一瞬で腐らせたリーナの力ならば、治りかけの切り傷程度なら一瞬触れるだけで治せてしまうようだ。アルバートの言う、リーナと比べると効果が弱いという意味を香月は理解した。
「これで確認したいことは一通り終わりだ。面白いものが見れた」
アルバートは懐から手拭いを出して、血で汚れていた左手を拭きながら言った。アルバートの中では香月の力について、ある程度の結論が出たようだ。
「えっと……結局自分は何なんですかね?」
「知らん」
香月の疑問をアルバートはバッサリと切り捨てる。
「え? 分からないんですか?」
「触れた魔法の力を少しだけ真似できる悪魔憑き……としか形容できん。だが、この短時間でこれだけのことが分かっただけでも偉大な進歩だ。何しろ、魔法についても悪魔憑きについても、まだ分からぬことの方が多い。研究者ならば狂喜乱舞しているぞ」
「狂喜乱舞って……」
香月が目を覚ましてからここまで時間にして二十分程度である。この世界についてまだ何も知らないが、確かに研究という意味では破格の進捗速度なのかもしれないと香月は思った。
「……リーナさんが俺に触れても大丈夫な理由って何なんですか? 分かってたから素手で触るように命令したんでしょう?」
香月は、先ほどリーナが自分に触れても大丈夫だった理由について問う。
「リーナは、自分で自分の体に触れても何の問題もないからな。治癒の力を使えるお前なら、リーナが触れても大丈夫なんじゃないかと思っただけだ」
「え、じゃあ何か確信があったわけじゃなかったんですか? 下手したら死んでたってことですよね?」
もしかしたら死んでいたかもしれないという事実を知り、香月は抗議の声を上げる。
「手が腐っても、すぐに腐った部分を切り落として、リーナの治癒を使えば元通り生えて来る。何も問題はない」
「大ありだよ! こっちの世界来て早々、地獄みたいな体験をするところだったじゃないか!」
香月は敬語を使うのも忘れてアルバートに抗議の声を上げる。人形感覚で手を切られたり生やされたりするのはたまったものではない。
(この世界の倫理観はバグってるんじゃないか? それともアルバートが特別なのか?)
香月が遺憾の意をアルバートに表明していると、不意に背中から柔らかい物を感じる。リーナが後ろから抱き着いてきたのである。
「え、ちょ!?」
リーナの突然の行動に、香月は冷や水を浴びたように怒りが収まり困惑する。
「怒っちゃダメ。問題なかったんだから、それで良し」
どうやらリーナなりに香月を宥めているようだった。
「なんでいきなり抱き着くんですか!」
「触っても、問題ないから?」
「問題あります!」
香月は何とかしてリーナの拘束から逃れようと暴れるが、今の小さな体ではリーナに全く敵わなかった
「あの、こう見えて自分二十歳なので、できればそういうのはやめてもらえると――」
「二十歳……。でも今は小さな子供にしか見えないから大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
香月の抗議の声もむなしく、リーナは香月を後ろから抱えるようにして頭を撫で始める。リーナの心情が理解できず、香月はただ困惑するのみであった。